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今伝える67歳女性本棚から出てきた古い回想録のコピーに見覚えがある。母は兄2人と35年ほど前、レイテ島へ慰霊の旅に参加したことがある。福岡にいた母たち8人きょうだいの長男は東京の大学を出て、神戸で耳鼻科医院を開業していたが、軍医として赴き戦死した。遺骨も戻らなかった。母を含めた3人姉妹は兄の遺骨を求めて旅立った。遺骨は見つからなかったが…病院跡地で慰霊祭を行うと突然、赤とんぼの群れが大きな渦を作った。夜中には長姉が部屋で人の気配を感じ、同じ時刻に別の部屋にいた母ともう一人の姉はノ
✨『パラオ慰霊の旅を通して理砂さんが伝えたいことは…⁉』️✨2月25日(日)のゆめのたね放送局🌈🌼ココロ花咲く(ココハナ)🌼アーカイブhttps://yumepod14.xsrv.jp/wp-content/uploads/2024/01/2-4_kokohana_20240124.mp3目に見えないもの・頭の中にあるものを見える化するお手伝いビジュアリゼーションコーディネーターの上島理砂さんがゲストでした💡✨理砂さんはある想いを抱いて第二次世界大戦の激戦地パラオのペリリュ
2024年1月27日(土)と1月28日に、私は5回目となる東日本大震災の被災地慰霊の旅に行ってきた。行き先は福島県双葉町と宮城県石巻市である。1泊2日の旅行の概要と行程は以下の通りになる。〈旅行1日目〉(2024年1月27日)自宅出発→東京駅から常磐線の特急ひたちで双葉駅へ→東日本大震災・原子力災害伝承館を見学→双葉駅から特急ひたちで仙台駅へ→ドーミーイン仙台駅前に宿泊。〈旅行2日目〉(2024年1月28日)仙台駅から仙石東北ラインで石巻駅へ→駅から徒歩で日和山公園へ→震災遺構
皇子のヤマトタケルの死を悼んだ景行天皇はその戦跡を巡行され慰霊の旅をされた。九州不知火海まで歩を運ばれている。熊襲征伐その地である。その折の父景行の悲痛な心情、早世した子を思う親の情は、以後二千年近い時を経た今日でもなお我々の心を強く打つものがある。-つづく-
旅行記の連載が一段落し、我がブログもオフシーズン。そんなワケで、前から書いてみたかった「ブログから生まれた名言集」シリーズを書いていきたいと思いますただし、完全なる自画自賛(?)の記事なので、ウザいと思う方はスルーして頂いても構いませんm(__)mまず、タイトルに出てきた「ダークツーリズム」という言葉ですが、自然災害の被災地や戦争遺跡など、「人類の死や悲しみ」を対象にした観光のことをいいます。日本国内だと広島の原爆ドームや平和記念公園、沖縄のひめゆりの塔、東日本大震災の被災地
菩提寺の研修旅行であの悲惨な津波被災にあった、石巻大川小学校と南三陸町に出かけました。慰霊の旅です。コロナの関係でしばらくできなかった旅行ですが、住職の発案での旅です。初めに読経、大悲心陀羅尼??続いて皆さんで礼拝。津波被害が生々しい校舎。体育館とつながる通路。折れてます。体育館は流されて、、高台から見るとこんな感じ。ここまでみんなが上がれば全員救われた、、、。はず。土砂崩れ防止のテラスが横のライン。その下1mくらいに白の看板、、
先週の金曜日、函館に行ってきました。いつもの慰霊の旅です。今年は4月に職場を移り、時間も長くなり最近人の入れ替え?等で心身共にめちゃくちゃ疲れきっていて、正直転職を考えている状態でコンディションが悪かった💧でも慰霊の筈が逆に自分も癒される一日になりました。いつもの運転手さんが五稜郭、大火慰霊堂と回って、まだ時間があるからと今回も立待岬へ連れて行ってくれました。函館もこの日は30℃ありましたが、立待岬はやっぱり海風が涼しく心地よかった🌊その後碧血碑へ。まだ紫陽花が少し残っていました。
皇室は慰霊の旅をなぜ続けるのか
あんまり大きく報道されていませんでしたので・・・書いておきます・・・(;一_一)太平洋戦争の激戦地だったフィリピン・・・・日本大使館主催の慰霊祭が15日に毎年開かれています。今年はどうなったのか?太平洋戦争の激戦地となったフィリピンでは、日本人50万人、フィリピン人100万人が死亡したとされています。戦前に沖縄などからフィリピンに渡った人も多く、遺族らが定期的に慰霊の旅を続けているそうですが、高齢化で減っているといいます。1941年から1942年のフィリピンの戦い,比島作戦,日本側作戦名
台風が近畿地方を北上中で、電車の計画運休、デパートやスーパー、コンビニもお休みになっていますね。お盆休みと重なったので、予定を変更された方も多いのではないでしょうか。今年のお盆は、父の初盆なので、お迎えして、送り火も行けたらと思っています。父の残してくれた、手記を整理しつつ、お盆を過ごしています。まめに書き物を残してくれたので、会ったことがない祖父のことを知る手掛かりもありました。10年ほど前に、祖父のことをたどり、亡くなったゆかりのあるところに、両親を連れ立ってみん
前回の記事で、2023年7月8日(土)〜7月9日(日)に宮城県南三陸町に行ってきたということを書いた。南三陸町を選んだ理由は、「ホテル観洋」(南三陸ホテル観洋)に泊まりたかったからである。自身のコロナ快気祝いと早めの誕生日祝いとして、豪華な海の幸とオーシャンビューの温泉を堪能したかった。宿泊先に「ホテル観洋」を選んだ理由はもうひとつある。それは「語り部バス」の存在だ。午前8:45にホテルを出発し、およそ1時間かけて「高野会館」などの震災遺構を巡る。語り部を務めるのは、ホテル観洋のスタッフさ
7/8(土)〜7/9(日)まで、宮城県南三陸町へ4回目の震災慰霊の旅に行ってきました!元々は6/10〜6/12に2泊3日で広島に行く予定だったのですが、自身のコロナ感染でやむなくキャンセル。しかし、ここで自分の楽しみを諦めてしまうのはもったいない…。広島ではありませんが、前から行ってみたいと思っていた「宮城県南三陸町」に行く計画を立てました。自身のコロナ快気祝い、少し早めの誕生日祝い(7/27)、そして4回目の震災慰霊の旅を兼ねて、「ホテル観洋」に泊まることにしました旅行1日目は豪
※震災遺構の写真があります。閲覧の際はご注意下さい。前回の記事はコチラ。『2023石巻・2つの小学校を訪ねる旅1日目(3)〜大川小学校・子ども達が学んでいた教室〜』※震災遺構の写真があります。閲覧の際はご注意下さい。前回までの記事はコチラから。2023石巻・2つの小学校を訪ねる旅|「あずさ」に乗ってどこまでも☆梓エ…ameblo.jp教室を見たあとは、教室と体育館を繋ぐ渡り廊下の部分を見学した。写真中央に映っているのは体育館に隣接していた倉庫と思われる。体育館は写真右側にあった
※震災遺構の写真があります。閲覧の際はご注意下さい。前回までの記事はコチラから。2023石巻・2つの小学校を訪ねる旅|「あずさ」に乗ってどこまでも☆梓エミリーさんのブログテーマ、「2023石巻・2つの小学校を訪ねる旅」の記事一覧ページです。ameblo.jp校舎全体を一通り見たあと、校舎内の様子などを写真に撮っていった。よく目を凝らすと、全体を見ただけでは気付かないこともある。校門の近く、昇降口があったと思われるところには千羽鶴が供えられていた。千羽鶴が
※震災遺構の写真があります。閲覧の際はご注意下さい。前回までの記事はコチラから。2023石巻・2つの小学校を訪ねる旅|「あずさ」に乗ってどこまでも☆梓エミリーさんのブログテーマ、「2023石巻・2つの小学校を訪ねる旅」の記事一覧ページです。ameblo.jp12:25に大川小学校に到着した。川沿いということもあり、とにかく風が強い。タクシーの運転手さんから「風が強いので飛ばされないように気を付けて下さいね〜」と言われたのだが、本当に飛ばされてしまうのではないかと思うくらい風が強かっ
Nutz!「バカめ!」-【琉球新報社説】南洋慰霊の旅再開島しょ戦の教訓、後世へ「丸い卵も、切り様で四角。モノも言い様で、角が立つ。」とは、文字通り「モノの言い方/言い様」の話。同じモノでも、言い様で四角にも丸にもなる、と言う喩え。「心、此処にあらざれば、見るとも見えず。」とは、心の持ち様と「見え方」の関係。コレを更に発展・深化させると、「同じモノでも、心の持ち様で、見え方が異なるどころか、全く見えなくもなり得る。」と、言えそうだ。さて、殆ど生まれながらの右翼と(多分)自他共に認
2022年の「今年の漢字」は「戦」になった。ウクライナとロシアの武力衝突のイメージが大きいものとなったが、サッカーワールドカップでの健闘もあり、多くの人を勇気付けたのも事実である。私にとっての「今年の漢字」は慰霊の「慰」や「伝」になると考えている。「伝」を選んだ理由は、私が見た被災地の「今」をブログで伝え続けたからだ。また、「言わないと伝わらない」と思ったことも理由のひとつに含まれる。気仙沼・陸前高田旅行記が完結したあと、私のブログを読んでいる知人から「いかにして慰霊の旅へと出るに至っ
10/1(土)〜10/3(月)の2泊3日で、宮城県気仙沼市・岩手県陸前高田市を巡る旅をしてきました!どちらも東日本大震災で大きな被害を受けた都市であり、被災地慰霊の旅でもありました。気仙沼では「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」を訪問。かつての「気仙沼向洋高校」の校舎が震災遺構として、当時のまま保存されています。現在の気仙沼向洋高校は内陸部に移転しているようです。その後は気仙沼プラザホテルに宿泊しました。陸前高田では「高田松原津波復興祈念公園」を訪れ、「いわてTSUNAMIメモリアル」
こんにちは、いっせいです今日は沖縄戦後77年の「慰霊の日」ですね。式典のニュースをテレビで見ていて、7年前に父母と行った沖縄「慰霊の旅」を思い出しました✨今日の慰霊の日に寄せてその話しをしますね父の長兄である私の叔父は、父が小さかった頃に、フィリピンで戦死しました。7年前、ちょうど戦後70年の節目に私も職場でリフレッシュ休暇が1週間あったので、父と母を誘って慰霊の旅に行くことにしました。ホントは叔父が亡くなったフィリピンに行きたかったんですが、父が「絶対に行かない!!」と拒否し
こんにちはもっちです😊沖縄県日本復帰から50年未だに苦悩を抱えている画像お借りしました新婚旅行は長崎&沖縄よく考えたら慰霊の旅でした😔自然と平和を守る!改めて強く思います✨☘️☘️☘️何か分からなかった木にさくらんぼ🍒がなりました🎵🌈🥰雨や風暑くなったり寒くなったり鳥や虫にも負けずピンぼけですが💦勝ち組3個収穫して食べました🥰ウォーキング中八朔の花が綺麗なので思わずパシャ☘️平和✨だからこそこの幸福を感じられる感謝💕今日も1日穏やかな日でありま
昨日の備忘録。沖縄本島南部を訪ねる旅最終日の朝一番で行ったのがひめゆり平和祈念資料館だもちろん名前は知ってたし様々な資料は読んだこともあるが平和祈念公園同様私は初めての訪問これが「ひめゆりの塔」天皇陛下が献花されるのをニュースで見た事があったが県の施設である平和祈念公園・資料館とは異なり小さくて、こじんまりとした施設ひめゆり同窓会など個人の努力で建てられ民間の財団法人が管理している入り口の横にはベンガルヤハズカズラの花が美しくも切なげに咲いていた様々な学校
3月11日の前後はマスコミが当時の様子やら現在の状況やら、わあわあ騒いでとにかくうるさいと思ってる。振り返って思い起こしたり復興のために頑張ることは普段から常に大切なこと。この日はただ静かに祈りたい『慰霊の旅〜浪江町〜』本日は、東日本大震災発災より10年の節目にあたり、昨日より禰宜が神道青年全国協議会の事業にて被災地を訪れております。神道青年全国協議会・東北六県神道青年協議会…ameblo.jp
植原ピアノ教室先日鳥取を旅して来た今年初めに亡くなった親友と最後に旅した地ここで彼女のおみくじには『病は治る』と書いてあり喜んでたのになぁとか、、味覚障害でほとんど食べられなくなってたはずなのに名物の牛骨ラーメンを美味しい💕と言って食べたなぁとかいろんな事が思い出される亡くなる1ヶ月ほど前だったので体は相当しんどかったと思うけれどどうしても行くと。私との思い出を一つでも多く遺そうとしてるかのようだった彼女とは高校で出会いそれから40年もの長い付き合
ご訪問ありがとうございますm(__)m今日は終戦記念日です戦没者の方々に心から哀悼の意を表しますもちろん私は戦争経験者ではありません高度成長期の平和な時代に育ちました毎年この時期、終戦特集などの番組が放送されますがなるべく観るようにしています戦争という悲惨な事実をしっかりと受け止めたいのですそこから、現在の平和への感謝が生まれてくるからです私に限った事ではないでしょうが母方の祖父の顔を知りません何でも、サイパン島付近で玉砕され亡くなったそうです母はずっとサイ
昨日は誕生日今日は終戦記念日私の生まれた日からの沢山の犠牲を生んだ戦争が終わった日子供の頃は今よりもっとみんなが終戦記念日に浸っていた気がするテレビ番組も終戦記念日の特集が多く組まれていたこうして人々の記憶から少しずつ薄れていくんだろうなぁ昨年旅行した時の写真より長崎浦上天主堂鹿児島知覧特攻平和会館あの日の朝もこんな空を眺めていたのかなぁ広島原爆ドーム去年の九州への旅は九州旅行のブログ(9記事あります)忌中と言う事で神社仏閣には一切寄らず(後でお寺は大丈夫だっ
2018年11月ヤンゴン国際空港に降り立ち、空港からそのままヤンゴン日本人墓地へと向かいました。個人的には空港から歩いて行けそうな距離感でしたが、あまりにも暑かったので、タクシーを利用しました。タクシーの運転手は、私の行き先を聞いて、えっ?っていうような感じで、行先を理解していないようでした。事前に訪問先へのイメージは、頭の中に地図を叩き込む癖がある為、行ったことが無くても自己解決できます。日本人墓地の場所はヤンゴンのミンガラー長距離バスターミナルから1㎞程裏手に存在しているというイメ
30度くらいでしょうか?完治しない機能性胃腸症の私は、もうバテバテです。os1が、飛んで行くように減る。今日は、ダメか。入院したくない。昨日の沖縄慰霊の日。いつもの年より、寂しい悲しい気持ちが強く、報道を読んだりしては、泣いていました。ぬいぐるみちゃんたちに、いろいろ話して、覚えていてね。と語りました。太平洋戦争は、皆さんそのような傾向がありますが、お年を召して、やっと話せる真実、ということ。ことに沖縄戦は、日本兵が、罪のない同じ日本人を殺害した。あまりに辛
今日はある方の命日です。外はどんより曇り空で肌寒いくらい。今年もあの人を偲んで慰霊に行ってまいります。
【沖縄戦の戦場は勇敢に戦った英霊の聖地‼️】〜英霊の殉難の地は聖地として祀り、鎮魂をするのが世界共通のしきたり‼️〜『聖地巡礼』は世界各国で行われています。外国は殆どが宗教者が聖人とされていますが、国の為に命を捧げた英霊も聖人と讃えても何な間違いではありません。特に沖縄で特攻隊として出撃し散華された英霊は諸外国で言う聖人であります。沖縄には沢山の特攻隊が出撃しました。散華された英霊の殉死された場所は聖地として、多くの人に巡礼をして欲しく思います。明日、5月24日は義烈空挺隊が
【5月24日は義烈空挺隊の沖縄出撃の日‼️】その2〜沖縄に命を捧げた義烈空挺隊の英霊‼️〜義烈空挺隊の真実を知って戴きたいので、ご命日を挟んで、シリーズで書き込みをします。義烈空挺隊は大東亜戦争の終盤、アメリカ軍に奪われた日本の領地に特攻により、アメリカ軍の進攻を食い止める作戦でした。敵飛行場に突入し、敵戦闘機、爆撃機を破壊せしめ、本土への空襲を食い止めるものでした。昭和19年12月に精鋭部隊である落下傘部隊の将兵を編成し、奥山道郎大尉を指揮官とする義烈空挺隊が編成されました。当