ブログ記事44件
最近、よく見かけるのが背中に張りつく意識体。首とか、背中に重しが乗ってる感じで、呼吸が浅くなり疲れがとれなくなる。わたしも、昔はよく張りついていましたよ最近は、ブロックできるので、あまり遭遇しない。どうやって、ブロックするかと聞かれれば、「悟性」を上げるしかない。こういう、どうぶつ系は、人の潜在意識のネガティブ波動に寄ってくる。彼らたちの、唯一のエネルギー補給のために。この世的な波動は、自助努力で切った方がいい飛んできたら除けられない
今日からいよいよ、自然派四柱推命・中級講座のスタートです。またしても、時間に追われる週末が始まります。まあ、好きな仕事に時間を追われているのですから、ありがたいことです!!ここ最近、自分が見た夢の内容とか、ブログがあんまり意味のない方向へと迷走中です(笑)ちなみに、夢を見ている時「これは夢だ」と気づいたら、夢の中で、自分が望むままに夢の世界を意識的に変えてしまうことができます。本当にそんなことができるのか……と思う人もいるかも知れませんが、目が覚める直前の状態
【書名】一冊で哲学の名著を読む【著者】荒木清【発行日】2004年5月15日【出版社等】発行:中経出版【学んだ所】「意志と表象としての世界」ショーペンハウアー・ショーペンハウアーは「意志にとりつかれた哲学者」とよばれ、意志とは何かというテーマに哲学のみならず、科学(植物学、動物学、化学、物理など)の最新データをあつめ、その証明をめざしている。その前段階として、「世界はわたしの表象である」、という。・(概要)この世界を表象としてとらえ、主観と客観の関係、悟性・理性・直観とはというテ
【書名】一冊で哲学の名著を読む【著者】荒木清【発行日】2004年5月15日【出版社等】発行:中経出版【学んだ所】「純粋理性批判」カント・カントは、プラトンやアリストテレスとならんで、西洋哲学のなかでは最も重要な哲学者のひとりである。カントの著作は独創性に富み、広範囲に及んでいる。そのなかでも「純粋理性批判」は論理学、認識論、形而上学だけではなく、宗教哲学や科学も守備範囲として、今日でも一度は通過しなければならない哲学の名著である。・(概要)カントは本書のなかで、形而上学の概略図
いつもお読み頂きましてありがとうございます。先程、何年か振りにアクセス分析というものを開いたのですが日々多くの方にご覧頂いているようでありがとうございます。特にツインレイに関しての記事は人気が高いようですね。ご覧になられている皆さまのジャンルは様々だと思います。セッション等でご縁を頂いた方々におきましてもジャンルは様々ですが
小中学校の校長・教頭先生、そして教育委員会の管理職の勉強会「黒潮会」で、皆さんにお話をする機会をいただきました。私の社会人時代の話から、現在の地域、そして国の直面する課題について、90分間の講話をさせていただきました。どちらかというと概念的な話になってしまいましたが、理性と悟性、物事を突き詰めて考えて答えを出していくこと、人として何が大切か、正しいか、そんな話をさせていただきました。会のあとは、皆さんとも親しく意見交換する場も持っていただき、とても有意義な会になりました。教育現場のさまざ
“声から精神状態を評価”というより、[多重人格性]を観察&記述するには、声を聴くと同時に、当人をholisticに[感性]と[悟性]で[感知]せねば間違えます。https://franoma.info/グノーシスgnosissite:.ptsd.red-Google����franoma.info皆さまも、お大事に。
今回は、「近代哲学」における最大の革命ともいえます、I.カント(1724-1804)による新しい《認識の形式》を考察して参りたいと思います。私自身も、この問題に何度も立ち返ることにより、【新哲学】の構想と構築に邁進させていただけましたらと思っております。カントは、私たちが普通に認識している「現象界」と、そもそも人間の認識力では理解できない「現象界」の元にある「《物自体》の世界」とを、分けて考察しました。●「現象界」の認識の道筋●カントは、人間は2段階で〈
カエルのイラストは目のところを耳だと思うとクマにも見えますね。私が描いたイラストだと何でしょう?クマでもない得体のしれないものが浮かび上がってきますので、カエルから生まれたクマでカクマと名づけました。子どもの相手をしているとこういう作業がしょっちゅう必要になります。子どもはこういう枠外しが上手ですね。先日のシナモロール三兄弟も似たようなことをしたのだろうなぁと思います。カクマ君は顔という点で
https://ameblo.jp›aya-quae›entry...この世に偶然なんてないわ。あるのは必然だけ”|あ~どうしたものか2021/06/02—WirsindnochMenschen,habenunsereWürde.Мыпо-прежнемулюдиисохраниличеловеческоедостоинство.Ichtreffemichhiermit.https://ameblo.jp›aya-quae›e
ひっさびさに、クッソ長い文章。「ランジャタイはイリュージョンである」この言葉が、妙に腑が落ちる。そもそも、談志師匠の語る“イリュージョン”という概念は知っていた。しかし、それを正確に言葉に捉え直すのは困難を極める。そもそも、存在しない概念を苦し紛れに一般的な言葉に置き換えた、という側面もあるからだと思う。なので、言葉は先行しても内実は分からぬ、という状況が続いた。その“イリュージョン”という言葉をおそらく談志師匠亡き今、一番正確に捉えていると言えるのは、志らく師匠の他ないと思われ
西川隆光です。西川のところにご相談にみえる方にはすでにこの世的なレベルの高い方、一流のところで働いて、知的レベルの高い話をされる方もいらっしゃいます。そんな方々に霊能者である私がお力になれるのが「悟性」という部分だと思います。知性、理性といったところは皆さん、お勉強されて、理解されているようですが、悟性という部分にはなかなか触れられないことが多いようです。理解をしたら今度は感じることです。目に見えない世界を信じ、感じとる。この部分が感性であり悟性です。
ここで演繹的というのは、なにか目標を立てて、それを実現するために論理的な思考により、順序立てて実行するやり方と指している。未来に対して、なにか目標と仮説を立てて、実行してゆく、それは有意義な人生を送る上で、意味のあることのように捉えられる。確かに、そうやって次々と人生の目標を実現してゆく人は、精神的・肉体的な高みを実現できるかもしれない。ただ、その目標を達成した向こうに何があるのか?、未来は予測できないわけで、計画が思い通りに行かない場合の苦しみはどうするのか?などなかなか悩みどころは多い。特に
A/D変換とはアナログ信号をデジタルに変換することである。例えばCDにしても奏でる楽器や歌声はアナログであってもデジタル録音する。そなわちA/D変換が行われノイズは無くなる。人間の耳では判断できないレベルであるがアナログの周波数はデジタルに近似される。音だけでない画像もデジタルに近似されて5Gであらゆる場所に届けることが可能になった。しかしよく考えてみよう。最終的に我々の体に届くのはデジタルではない。アナログである。デジタルはデジタルであることを気づかないうちにアナログに解釈される。
我々の体は、物理的な細胞の作用や、食べ物や空気、水などの入出力でできている物理的な作用が基本にある。たとえば、ものを見るといっても、水晶体というレンズを使って、網膜というスクリーンに像を写し、神経細胞でそれを把握する。AI(ディープラーニング)においは、その神経細胞の構造を模す(ニューラルネット)ことで、画像認識を実現しているが、それは数理モデルであって、決して自我のような論理的な知識モデル(オンコロジー)で知覚を実現しているわけではない。現に自我とは関係なしに、目か入ってくる映像から、も
◎良心はよく感情の領域に入れられるが、善悪を判断するという点において、私は「理性」の領域の方が近いと思う。しかし、良心の善悪の判断は、思考や推論によって(すなわち「理論理性」によって)為されるものではなく、むしろ直観的に為されるものであるから、より感情に近い理性の作用であるといえよう。◎この種の「直観的判断力」を感性(感情)の領域に入れるか、理性の領域に入れるか、さらには、悟性の領域に入れるのかは、難しい問題である。◎真偽も判断であり、善悪も判断で
わざわざ、遠方から来られたお客さん。何方かの紹介で来られたようだ。ドアを開けた瞬間、その方の頭周辺にヒモのようなモノが観えた。その白いヒモのようなものがなにか、最初は分からなかった。うつ伏せになったら、ヒモのようなものが、不規則にゆっくり揺れるように動きだした。見た目、15センチ位の棒状ではなく太いヒモのようなもの。ヘビの場合は、アルファベットのO(オー)に尻尾が少しでてQ(キュー)になっていることが多いが、ヒモ状の白い物体で所々太くなってる。波長的には竜宮
近頃俳句の行き詰まりに対して自分の短歌は面白くなっている。俳句が写生そのものや外在的であるの対して、短歌は寄物陳思でありながら内心吐露を直接的にも実行できるので、コロナ禍で引篭っている身には向いているのかもしれない。昨年末には庭の菊が次第に枯れていく様を観察したので、その感慨を詠ってみた。結果的には選者の手が入ったので一席にはなりそこなった。色失せし菊に初雪降り続く経帷子を纏はす如くにいろうせしきくにはつゆきふりつづくきょうかたびらをまとはすごとくに庭に
開かずのblackbox?潮目が変わる東京地裁前PTSD解離性スラップ訴訟事情|翠雨PTSD予防&治療研究所bit.lyhttps://franoma.info/アスペ実験動物関連記事:https://ameblo.jp/ponyogranmama/entry-12653405739.html『佐賀市長「お年寄りを支える側に回り切れない子どもたちが増えていく実態をどうするのか心配」』発言も、撤回しない・・ってこの手の恥ずかしいジジさまたちを支えるのは、嫌だ~ってワタシなんかは思うけれ
いわゆる[頭脳労働]は、もし、それが学問という営為を含むのであれば、“《歴史的身体》のsanctity”を感知する[悟性]を伴うものです。“spiritualbeauty”のドラゴンさまに、ネズミの調教=CBTを強要するのは、当人の[感性]をガン無視することだと気づいた研究者がおいでになった模様です。そこに気づいたら、次は、“感官のあるJacobiの図”��nB��Jacobin��-Google����www.google.co.jpを描いて考えましょう。htt
この原理をつうじて、最初の超感覚的なものは顚倒されている。つまり、諸法則の静謐な王国、知覚される世界の直接的な模像がその反対のものへと顚倒されているのである。法則とは一般に、みずからとひとしくありつづけるものであった。これは法則のうちで区別されたものについても同様である。いまやいっぽう定立されているのは、その両者ともかえっておのおのじぶんとは反対のものであることなのだ。みずかとひとしいものが、むしろじぶんからじぶんを排斥し、みずからとひとしくないものが、かえってみずらとひとしいものとして定立され
単純な区別へと絶対的に交替してゆく現象は生成するが、それは現象が内なるものの、つまり悟性の単純なありかたと関係することをつうじてである。内なるものはさしあたりただ、自体的存在する普遍的なものにすぎない。この自体的に単純な普遍的なものは、しかし本質的にいって同様に絶対的なしかたで普遍的な区別である。それは交替そのものの結果であり、いいかえれば交替がその本質であるからだ。いっぽうこの交替が内なるもののうちに定立されると、交替はその真のありかたにおいて定立されることになるが、そのばあい交替は内なるも
こうして事物の真の本質があらわれ、その本質はいまやつぎのように規定されていることになる。すなわち、当の本質は直接に意識に対して存在しているのではなく、意識は内なるものに対して間接的な関係にある、ということである。つまり意識は悟性として、力のたわむれというこの媒語をとおして、事物の真の背後を窺っているのだ。この媒語が、ふたつの極つまり悟性と内なるものを推理的に連結する。この中間項が力の展開された存在であって、当の存在は悟性自身にとってもいまや一箇の消失することにほかならない。この存在はそれゆえ現象
いいかえてみよう。自立的なものとして定立された項は直接にそれらの統一へと移行し、この統一はただちに展開へと移行する。さらにこの展開がふたたび還元へと立ちかえるのである。このような運動こそが、しかし「力」と呼ばれているものにほかならない。この力の一方の契機がすなわち、自立的な物質がその存在にあってひろがっていることであって、その契機が力の「外化」である。たほう、さまざまな物質(力?)が消失しているありかたとしては、その外化からみずからのうちへと押しもどされた力であり、いいかえれば本来の力なのである
個別性と、これに対立する普遍性は抽象であり、それは非本質的なものと結合した本質が抽象であって、非本質的でありながらそれでも同時に必然的なものもまた抽象であるのと同様である。こういった空虚な抽象のさまざまこそ力であり、その力のたわむれをふるうのが知覚する人間悟性、しばしば健全な常識と呼ばれるものなのだ。この悟性は、じぶんでは堅固で実在的な意識であると考えているけれども、その悟性が知覚するにさいしては、これらの抽象のたわむれをふるうものであるにすぎない。悟性が総じてもっとも貧しいものとなるのは、つね
一方では、あらたな世界がはじめてあらわれたときには、それはようやくみずからの単純なありかたのうちで蔽われた全体であり、あるいはその全体に対する一般的な根拠であるにすぎない。その場合意識にとっては、これに対して、先行する現にあるありかたがそなえていた豊かさが、いまなお想起のうちで現前している。そうした意識が、あらたにあらわれつつある形態をまえにすると、そこには内容のひろがりと特殊化が欠けているのを託つしだいとなる。この件にもまして、しかしこの意識が嘆くのは、形式がなおその形成をおえていないことであ
フロー理論を提唱した、チクセントミハイは、フロー状態になる条件として、以下を挙げている。目標の明確さ(何をすべきか、どうやってすべきか理解している)どれくらいうまくいっているかを知ること(ただちにフィードバックが得られる)挑戦と能力の釣り合いを保つこと(活動が易しすぎず、難しすぎない)行為と意識の融合(自分はもっと大きな何かの一部であると感じる)注意の散漫を避ける(活動に深く集中し探求する機会を持つ)自己、時間、周囲の状況を忘れること(日頃の現実から離れたような、忘我を感
今回はフリーメイソン最上層部イルミナティ国際銀行軍事権力が、18世紀のドイツの哲学者カントの「理論理性」の活用により、・民主主義の原理の原型となる普遍的な精神の働きのモデルが形成されたと推測できる理由・その悪用による理性操作の方法について解説する。米国独立革命、フランス革命、日本国憲法の制定を含めて民主主義を作り上げる中心勢力であったフリーメイソンの真の教義は未だに秘密となっている。しかしその基本思想がカントの哲学に依拠している事は以下のように公言されている。↓
悟性が外から自然に押し付けるまがい物の統一をこのように捨ててしまえば、われわれは、自然の内的で生き生きとした真の統一を再び見出すだろう。なぜなら、純粋な悟性を乗り越えるために行う努力によって、われわれはより広い何かに導かれるからだ。われわれの悟性はこのより広い何かにおいて切り取られるもので、そこから切り離されなければならなかった。物質は知性に合わせられており、また、物質と知性の間には明白な一致が存在する以上、一方を生み出すときには、必ず他方を発生させることになっる。同一の過程が、知性と物質を同時