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24.04/18thu.12:39-16:44近鉄二上神社口駅から南に二上山ふるさと公園南に新在家、鬼瓦が立派な地蔵堂東に折れて、突き当たり右折慈雲山石光寺本堂阿弥陀如来を祀る左となりに、弥勒堂境内の弥勒菩薩?関西花の寺二十五霊場第10番札所慈雲山石光寺宗派浄土宗鎮西派開基役小角創建飛鳥時代後期本尊阿弥陀如来おんあみりたていせいからうん中将姫伝説の寺、当麻曼荼羅を織成する境内に「染の井」と「糸掛桜」がある南に、當麻小学校を過ぎ
くろごませんべいですこんばんは謎のいろは歌の知り得た解説記録です参考本は光田慶一氏の膨大な厚みのある本ですいろは歌の作者は平安時代には既に空海だと言われてたらしいですね空海説を唱えたのが恵心僧都(平安時代の人物)という事です余談・・・北大路様が空海になりきっても空海のイメージに繋がらないのは何故だろう空海[北大路欣也]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}鎌倉室町時代はこの空海説が支配的だったそうですが村田
前回の続きから。興聖寺を出てから宇治川を北上して行きます。ここで合戦が行われたことがある。今と同じ水量だったのだろうか。少し前に桜祭りが行われていたようです。それが過ぎれば静かさは戻ります。宇治川に注ぎ込む川。反対側にもあり、上流にはダムで堰き止めている。かなりの水量。既に散った桜も散り始めだが、桜の木によっては満開のものもある。(4/10)幸運にも晴天。昨日は雨でした。恵心院「恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)によって再興。源信は、宇治川に入水した源氏物語宇
阿闍梨【外伝】一隅を照らす❖地獄と極楽引用天台宗公式サイト法話集恵心僧都源信「地獄」と「極楽」お盆になると、幼い頃、母方の菩提寺にお参りに行き、「地獄絵図」の掛け軸を見たことを思い出します。母は言います、『よく見なさい。人は死ぬと閻魔大王の前に行き、そこで裁きを受け、善い行いをした人は「極楽」という素晴らしい所に行けるけれども、悪いことをした人は「地獄」に堕とされる。「閻魔さまの鏡」がその人の行いを全部映し出してしまうから、どんな言い訳も通じないんだよ。食べ物を粗末にした
比叡山恵心院比叡山横川の恵心院(恵心堂)は、藤原兼家が慈恵大師良源(元三大師)の協力を得て建立した寺。ここで良源に師事した源信が修行して『往生要集』を著しています。そのため、浄土信仰発祥の地と言われています。源信に帰依した藤原道長は、源信と同じように阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして往生しています。紫式部の『源氏物語』に登場する横川の僧都のモデルは源信なのだとか・・・浮御堂琵琶湖の浮御堂は、源信が衆生済度と琵琶湖の湖上安全を発願して建立したのだと伝えられています。恵心院「
蘆山寺の元三大師堂は、比叡山中興の祖といわれる祖元三大師(慈恵大師良源)を祀る堂。良源は、藤原道長の祖父・藤原師輔の後援を得て比叡山を中興。道長の父・藤原兼家は、師輔にならって横川に恵心堂(恵心院)を建立しています。恵心堂で修行した恵心僧都源信は、紫式部の『源氏物語』に登場する横川の僧都のモデルといわれています。蘆山寺
光厳寺から少し西へ行くと、入り口に「力強い仁王像」が見えました。「清源寺(曹洞宗)」です。くっきりした山門で、見過ごしは出来ません。参拝させて戴くことに。力漲る仁王様です。堂々とした御本堂。創建は鎌倉後期とか。ご本尊は、「木造千手千眼観世音菩薩立像(伝恵心僧都作)」です。寛政の頃の富山藩士山田某が堺で求めたものとのことです。穏やかな富山の一日も、静かに暮れゆきます。
「厭離穢土欣求浄土」は、穢れた世界を厭い離れ、清浄な仏の国土に生まれることを願い求める思想。この語を貴族や庶民にまでも普及させたのが恵心僧都源信の『往生要集』。「厭離穢土欣求浄土」の思想を浄土信仰の基本とした源信は、穢土を地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道とし、浄土には10種の楽のあることして、浄土での十楽を願い、穢土を厭い離れることを勧めた。大樹寺桶狭間の戦い後、窮地に立った徳川家康は、大樹寺の登誉天室に「厭離穢土欣求浄土」の思想を諭され生き抜く決意をした。恵心堂比叡山の横川にあ
松島を出発し今回の旅のきっかけとなりました三古寺さんへと向かいました50年に一度の秘仏御開帳ということでこのタイミングで旅の計画ができたことに感謝です✨古くは天台宗のお寺で「三鈷寺」としましたが寛永2年(1625)石雲寺六世無洲関鐵大和尚により曹洞宗へ改宗開山され現在15世にわたり継承されています。参道の坂道からの景観が素敵でした✨山門山門の大黒さまと布袋さまがとても印象的💕思わず笑顔になってしまう(´艸`*)檀家さんが沢山おら
昨日、嫁さんと行った恵心院…恵信僧都と言えば「往生要集」と日本史で覚えたような気がします(^.^)初めて訪れましたが境内にたくさんの花や南天…柿の木などが植えられていて確かに「花の寺」、他の季節にも訪れたいと思いました(^-^)ただ、京都検定のテキストには載っていないので試験には出ないかもしれませんσ(^_^;)
23.10/08sun.08:00-13:30西林寺から南に…、重信川を渡って約9分(4.4キロ)八坂寺駐車場、コロナ以降で閉店中の店舗から西に少し歩いて、橋の門から境内へ右に本坊御朱印所を過ごし本堂本尊阿弥陀如来に納経左に、大師堂に納経間に、閻魔堂左に地獄の道、右に極楽の道本堂の右に、権現堂熊野大権現が勧請され十二社権現を祀り修験道の道場、熊野山八坂寺本堂を背に、鐘楼堂本坊を後に…昔、当地豪農の衛門三郎托鉢僧を追い払い叩き落とした托鉢八つに
浮御堂は、比叡山横川の源信(恵心僧都)が衆生済度と琵琶湖の湖上安全を発願して建立したのだと伝えられている。源信は『源氏物語』に登場する横川の僧都のモデルとも。晩年を義仲寺で暮らしていた松尾芭蕉は、浮御堂で十六夜の月を愛でたのだという。「鎖あけて月さし入れよ浮御堂」満月寺浮御堂
円融寺えんゆうじ秩父三十四観世音霊場第26番円融寺です青い空に白い雲…円融寺の参道に到着❗今回の秩父34巡礼で秩父が大好きになりました鎌倉もそうなのですが秩父はさらに自然に囲まれていて都会にいてこびりついた悪いもの、良くないものが巡礼するだけで浄化されそう山門です薬医門形式だそうです✨般若心経を唱えて合掌まぶしい光が…境内を散策します由緒書御本尊は恵心僧都源信の作と言われる聖観世音菩薩さま以前は岩井堂(観音堂)に安置されていましたが現在は本堂にうつ
鎌倉巡りの続きです観音様の功徳日四万六千日長谷寺→安養院→覚園寺の次は杉本寺へ覚園寺からは歩いて行きます杉本寺に到着〜四万六千日の立て看板縁起案内板石段を上ります仁王門が見えて来ました仁王様〜苔むした石段は立入禁止🈲横の石段から上がります六地蔵と身代わり地蔵身代わり地蔵が見切れてしまった😱五輪塔群中々インパクトあります鐘楼堂本堂天台宗寺院の杉本寺は、大蔵山杉本寺と号し、鎌倉最古の寺院です天平6年(734年)聖武天皇后光明皇后の御願により、藤原房前行基
今回の宇治訪問では、初めて参拝するお寺がありました。「花の寺」とも呼ばれる恵心院です。宇治川沿いに宇治神社の隣にひっそりとあります。こじんまりした静かなお寺です。坂道を登っていくと、突き当りに弘法大師像が安置されており、右に折れると、山門がありました。「恵心僧都説法の遺場」と彫られた石碑が門の横に建っています。恵心僧都(えしんそうず)は、比叡山横川(よかわ)の僧で、浄土宗の祖と称される凄い人。法然上人、親鸞聖人にも影響を与えました。正式には恵心僧都源
久々に、ガイドブックに出て来る王道の鎌倉。杉本寺の苔の階段の脇から上がると、本堂前へ。この本堂内では、撮影禁止ではあるが、秘仏本尊三尊(行基作・慈覚大師円仁作・恵心僧都源信作)の十一面観音立像(重要文化財)、前立本尊の十一面観音像、地蔵菩薩像、観音三十三変化像(以上、運慶作)、その他、不動明王像や毘沙門天像等、数々の貴重な物を見せて頂ける。本堂脇には、多くの五輪塔が。↓この五輪塔は、南北朝時代に、この裏山全域に存在した杉本城が北畠顕家に攻められ落城した時に討死した将兵の供養塔
伊勢自動車道久居I・Cから西へ1km程のお寺に来ました寺院名;白圭山蓮蔵寺宗派;天台真盛宗御本尊;阿弥陀如来所在地;三重県津市戸木町2078TEL;059-255-3346蓮蔵寺は応和3年(963)比叡山の元三大師(慈恵大師)良源によって開創されたと伝えられています。寛和2年(986)恵心僧都によって再興され、延徳年間(1489~92年)に真盛上人が伽藍を整備したといわれてます。永禄9年(1556)現在地
23.05/21sun.13:30-16:40近鉄二上神社口駅から南に住宅沿い、池端沿いに駐車場に至り右に、二上山ふるさと公園左に、道の駅ふたかみパーク當麻を過ぎ鬼瓦の地蔵堂地蔵堂を左折、東に白壁の寺院見え、右折して慈雲山石光寺創建飛鳥時代後期開基役小角(伝)本尊阿弥陀如来おんあみりたていせいからうん道なり南に、當麻小学校を右左に駐車場、英霊碑辺りから南にて首子1号墳(首子古墳群、現存4基)円墳墳丘径10m(本来20m)築造直葬棺6世
極楽寺(ごくらくじ)は用明天皇二年(587年)に聖徳太子によって建立したと伝えられている。当初は、常楽寺と称しこの地域の守り神の牛頭天王社(飽波神社)と共に聖徳太子により建てられた。太子没後、常楽寺の勢いは衰えたが、慶長十八年(1613年)の「常楽寺縁起」によると、寛弘三年(1006年)に恵心僧都が夢のお告げによって堂宇を再建した。そして、恵心僧都は、寺の復興は阿弥陀様のおかげであると信じ、寺の名を紫雲山極楽寺と改めたと伝えられている。その後、戦国時代や明治初めの廃仏毀釈により、寺は荒れ果て
今日、滋賀県の大津市逢坂にある長安寺をご紹介したいと思います、この長安寺は「関寺」の跡という事なので、この付近に小野小町は住んでいたとされていますので、勿論、小野小町の関係地には違いありません。それにしては、知名度が低いとは思いませんか?私も関寺小町の内容から考えて、ここの近くに千葉県出身の小野小町がいて、愛知県あま市にて亡くなったと思っています。しかし、近年の小野小町の研究家からはあまり注目されていないようで、この長安寺(関寺跡)に対する調査や考察を見た事が無い気がします。関
宇治川の東岸より少し高台にある『恵心院(えしんいん)』の雪景色を見るために訪れました。このお寺は、恵心僧都源信によって1005年二中興された寺院。そして、恵心僧都源信は源氏物語・宇治十帖に出てくる『横川の僧都のモデル』と言われていますね。恵心院は宇治川から少し高い位置にあります。対岸(西側:平等院側)を見ることもでき、雪景色がいい感じでした。2023/01/2508:30訪問撮影<恵心院の基本情報>拝観時間:拝観料:境内無料宗派:真言宗智山派御本尊:十一面観音創
東京・上野公園内、清水観音堂。1625年、天海僧正が上野の山に、東叡山“寛永寺”を開山。これは、平安京の鬼門(北東)を護る為に比叡山延暦寺が存在するのに倣って、江戸城の北東を護るという考えによる。そして、1631年、京都の清水寺をモデルとして、清水観音堂が建てられたという。清水観音堂は、最初は摺鉢山古墳の上に建てられたそうだが、江戸時代中後期、元禄初頭に100m程南西のこちらに移転したとか。現在、国指定重要文化財。本尊は、京都清水寺から遷座された千手観音。平安時代の比叡
やほほほーーーーーーーひこれも古いお写真なりけど。。。『浮御堂』へ滋賀県にあるなりよ??拝観料は300円で、8時から17時までなり平安時代恵心僧都が湖上安全と衆生済度を祈願して建立。現在の建物は昭和12年の再建によるものなり。じゃーん素敵れしょー???琵琶湖のながめーこんな感じれした帰りは、山よしそんな高くなかったと、おもーうお小遣いあまったから、カニらー❤となったよ?デカイカニに誘われたのもある色々食べましたとさー??美味しかったんだろけど、記憶なひ〆は、雑
今日は小野小町の瘡病み伝説が生まれた理由と、薬師如来との贈答歌が広まった事について総括してみようと思います。まずは柳田国男がこの瘡病み伝説について著書の中で触れていますので、『定本柳田国男集第五巻』の「木思石語」から引用します。「稍奇拔なものでは瘡藥師の歌間答、或美人が「身より佛の名こそ惜けれ」といふ一首の歌を以て、所願の效無きを怨ずると、忽ち戸帳の中より御聲高く、村雨はたゞ一時のものぞかしそのみのかさをそこに脱ぎおけとあって、瘡癒えて痕も無しといふ話の如きは、南は日
大慈寺だいじじ秩父三十四観音霊場第10番大慈寺です区切りの良い10番札所大慈寺に到着❗️今回の巡礼は🚗ですしかし…境内に入るには道が狭いし…坂が急だし…と思っていたら貼り紙が…お寺から少し離れたところに駐車場がありましたホッとしました~まわりは田園風景…のどかで癒されますあらためまして境内へ良い空気が流れていますね~楼門形式の仁王門石段の上にありますこの感じ好きですね古寺の佇まい…庚申塚…かな仁王門に到着阿吽とあります本堂が見えます仁王門か
こんばんは!!ブライダルナカノの愛植男です!世界中から集めた愛の名言集♥今日の名言はこの方それ往生極楽の教業は濁世末代のの目足なり(極楽往生するための教えや修行は汚れたこの世の目とも足ともなるものだ)恵心僧都仏教の教えを説いた「往生要集」の著者。上の名言はその中からのもの。この本に八大地獄が出ていてよく描かれる地獄の様子はほぼこの本が元になっています。ご本人は村上天皇に最高位を与えられたものの、母の
8月20日(土)18時から20時頃まで、企画委員会(第1回)を開催しました。打合せの内容は、9月3日(土)に開かれる祭典委員会(第2回)の事前検討でした。出席された委員や自治会役員の方々から建設的なご意見をいただき、骨子が固まりました。9月3日(土)祭典委員の皆さま、よろしくお願いします。
昨日は弟と祖父母や父が眠るお寺へお墓参り🙏。大磯の実家を出る時にはピーカンによく晴れた天気で弟は布団や洗濯物を干したまま。小田原へ近づくにつれ伊豆方面は真っ黒な雲に覆われ小田原の山の上もすっぽり雲の中・・・嫌な予感がしながらもお寺へ向かいました。まずは寺務所へ行きご住職にご挨拶。いつもお墓参りは帰省の時に行く弟とは別々に行っていましたが今年の春から弟が実家に戻ってきたので久しぶりの姉弟揃っての御挨拶に住職との話が弾みました。長男が実家に戻ってきた
千津島自治会内の8月の回覧で、祭典STAFF募集のチラシを配付しました。