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藤森神社(舞鶴市行永弥加宜)丹後国加佐郡京都府舞鶴市行永弥加宜183-1(社前に停め置き可能なスペース有り)■祭神崇道天王牛頭天王東舞鶴の南部、市街地外れの山間部の際に鎮座する社。最強とも言える祟り神、崇道天皇を祀ります。◎創建は大同永年間(1521~28年)、土豪池部重房が山城国の藤森神社(未参拝)から勧請したものとされます。かつては「天王社」と称され、それは「崇道天王」を祀っていたからと。おそらく本来は牛頭天王を祀っていたからではないかと思われます。「舞鶴市史」には「行永と
古代史はまことに混然としてほの暗い。通説というものがありながら、諸説百出して、なお完全に断定できない。いまから70年余り前に出た学説がある。王朝交代説というものだ。王朝交替説とは、天皇の血統が万世一系ではなく複数回途切れており、異なる複数の王朝が交代したとする学説である。特に、1952年に水野祐博士が提唱した三王朝交替説が有名で、崇神王朝応神王朝継体王朝という三つの王朝が存在したとされている。武内宿禰が仕えた天皇は、崇神天皇の孫である景行天皇から応神天皇の子である仁徳天皇ま
【起稿2025年10月30日記事】※この記事で引用した全ての画像は著作権に配慮し削除しましたm(__)m久しぶりの「歴史の話(妄想😅)」は、北の強国「越」と関係氏族、継体天皇誕生を取り上げます😲越の領域※画像は借用いたしましたm(__)m前に、日本神話シリーズ記事に書きましたが、越(高志)は、弥生時代後期~古墳時代において、大和河内、吉備、出雲、筑紫と並ぶ強国でした😤『歴史的解釈(その7国造りと葦原中国)』【起稿2025年7月13日記事】前回の「歴史の話(妄想)」は、素戔嗚
飛鳥時代における権力闘争も凄まじく、蘇我系VS石川系VS息長(おきなが)系の構図であったわけです。このいずれの氏の妃の子が、天皇になるのかにおいて熾烈な争いが繰り広げられるわけです。蘇我氏と石川氏(河内石川氏)は、武内宿禰大田根命を通じての親戚同士ではあっても、三国国造家の蘇我本家は、元々は旧東出雲王国・磯城登美(富)家の分家であり、石川氏とは、系統が違う氏族となります。ちなみに、記紀における蘇我馬子、蝦夷、入鹿の蘇我氏は創作上の人物たちで、実在の石川氏が、そのモデルになってい
社会派イラストレーターの牛嶋浩美さんとわたくしNAVI彦が同行する旅企画の第2弾です。2025年9月23日秋分の日に息長族・神功皇后ツアー~琵琶湖湖東・伊吹山麓の女神の降臨~がおこなわれまして20名ちかくの方がたとともに滋賀県米原市を巡りました。息長氏の謎にせまるべく息長氏ゆかりの神社や史跡を訪ねてまわりました!↓くわしくはこちらからお願いいたします。牛嶋浩美♡NAVI彦と行く第2弾滋賀県米原市を巡るツアーです。謎の古代氏族である息長氏を追いか
ブログに訪問くださりありがとうございます。先日YouTubeにあがってきていた『アナグラム』というものに興味が湧きました。アナグラムとは単語や文章を構成する文字を並び替えて異なる意味を持つ言葉を作る言葉遊びです。元の名前には表されていない人生のヒントや使命が隠されているらしく、遊びがてらやってみることにしました。①自分の名前をひらがなにする。②1枚の紙につきひとつの文字を書き出す。③書いた文字(紙をシャッフルして)を入れ替えながら意味のある言葉を探す。自由な発想で
小野龍海’s歴史塾このホームページでは歴史研究の成果を資料化して公表しています。ono-no-tatsumi.amebaownd.com脱線が続きましたが『富士史』の続きを読みたいと思います、「第十遷都」では遷都の話が出ますが、「富士山から筑紫(九州)」への遷都と書かれています、遷都した人物は鸕鶿草葺不合尊(51代)ですので神皇記と書いている内容が人も時代も違いますが、コレはどのように解釈すべきでしょう!(※ホホデミの子のウガヤと書いています。)実は答えが見えています、
ご訪問ありがとうございます。ちょっとややこしい話が続きましたが、継体天皇の出自について、「上宮記逸文」が「古事記」より古く、かつ「日本書紀」はこの逸文の系譜か、それと同系統の史料を踏まえて編纂されているということがわかってきました。少しまとめておくと凡牟都和希王が皇統の万世一系化に伴い、応神天皇と同一視される過程で神功皇后も応神天皇の母神であった大帯比売に凡牟都和希王の母の息長比売が加えられ、息長帯比売になった、とわたしは見ています。ホムダワケは仁徳天皇から、ホムダワケとオオササ
社会派イラストレーターの牛嶋浩美さんとわたくしNAVI彦が同行する旅企画の第2弾です。今回は秋分の息長族・神功皇后ツアー~琵琶湖湖東・伊吹山麓の女神の降臨~と題しまして息長族の本拠地でもある滋賀県米原市を巡ります!息長族発祥の地ともいわれる日撫神社にてあわうた奉納と正式参拝をおこないます。お昼には米原名物のお寿司御前をいただきます。神功皇后ゆかりの角川美恵子さんの対談のコーナーもあるようです。■日時令和7年9月23日(火・秋分の日)10
ご訪問ありがとうございます。実は次回の継体天皇の出自について30年ぶりくらいに岡田精司氏の「継体天皇の出自とその背景」を読み返しましたところ、「上宮記逸文」の分析において、同じ論旨になっているところが多々ありましたので、前回と前々回にその点を加筆致しました。ご了承を御願い申し上げます。さて、前回の凡牟都和希王がめちゃくちゃ難問でしたので、今回はさらりと(^^;)目次「上宮記逸文」の検証母々㤙己麻和加中比賣雄略天皇の母系一族「上宮記逸文」の検証まずは読み下し文を再掲します。前
ご訪問ありがとうございます。前回は継体天皇の后妃について検証しましたが、継体天皇は、かなり広くネットワークを構築していたことが見受けられます。そこで今回からは継体天皇自身がどこに母胎を持っていたのか、考えてみたいと思いますが、今回はちょっと長いので目次をご活用いただいて、ちょっとずつ読んでいただければ(;^_^Aいやぁ、いいタイミングでリリースされて良かったです。目次「上宮記逸文」の系譜凡牟都和希王は誰か?応神天皇の原像(ホムダワケ)応神天皇の原像(オオトモワケ)応神天皇
7月に似顔絵で訪れた滋賀県長浜市。仕事前の古墳巡り!暑さと虫の勢いにヘロヘロになりながらも7基ほど巡ることができました最後は、長浜市のお隣の米原市の古墳。茶臼山古墳などがある横山という丘陵地の米原市側にある古墳です。古墳というか陵墓です!いつもの陵墓の屋根付き看板と鳥居この組み合わせを見ると無性に安心するのは何故!?宮内庁によると、ここは第30代の敏達天皇の皇后、息長広姫の陵墓とされています。息長陵|滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる!
ご訪問ありがとうございます。今回は継体天皇の姻族を中心に、天皇の地盤を考えてみたいと思います。目次お田植えとご養蚕継体天皇の後宮妃たちの出身地(和珥氏)妃たちの出身地(三尾氏)妃たちの出身地(坂田郡の王族)尾張氏との関係目次を開くお田植えとご養蚕9日に継体天皇は詔勅を出して「朕が聞くところによると、士オトコがその年に、耕作をしないことがあれば、天下は飢えることがあり、女メノコがその年に、糸を紡がないでいると、天下は凍えることがある。それゆえ帝王が自ら耕作し、農業を勧め、后
西ノ山古墳(八尾市楽音寺)の被葬者の新たな推論について[推定・隼別天皇陵墓]・1「宇佐王朝・隼別皇子と西ノ山古墳」奈良県磯城郡の川西町に「糸井神社」があります。糸井神社-奈良寺社ガイド[wc_row][wc_columnsize="one-half"position="first"][nara-jisya.info今は豊鋤入姫命(宇佐・豊国・豊玉姫の子・豊来入姫・台与)が祭神とされていますが、これは明らかに間違いであり、名前の通りに元の祭神は、「糸井姫」と
「閑話休題」(七七)一、過日、たまたま「東京古田会ニュース」№221に触れる機会があった。そこに国枝浩氏の「古田氏の旧説撤回問題(下)」とする論考が載っていた。(下)とあるところから、(上)乃至(中)から続くものであるのだろうが、小生には不知なため、この論考に対する見解を述べるにはふさわしくないであろうと思われる。ただ、この(下)のみを見ても、国枝氏の緻密な分析には感心させられるところが多い。論考末尾に「本論考を終わるにあたって」の項があり、「今回、私の視点で取り上げた諸
ご訪問ありがとうございます今回は以前から「皇后の来た道」として紹介してきた息長ー忍坂間のルートについてお話ししましょう。まず忍坂宮の位置なのですがダンナさんの允恭天皇も、子供の安康天皇の石上穴穂イソノカミアナホ宮も、雄略天皇の泊瀬ハツセ朝倉宮も、みんな近くにあります。ついでに側室の衣通郞姫の藤原宮も近くです(^^;)妹だから💧忍坂宮が「倭の五王」の「済グループ」と関わりが深いということが分かりますね(*´・ω・`)b允恭天皇が即位を渋ったときは、忍坂大中姫がめちゃくちゃ圧をかけ
ご訪問ありがとうございます。最初に先日の息長川の分注なのですが、実は米原市を流れる天野川を息長川と呼んだのが、あの椿井文書の作成者椿井政隆であったらしく、私が学生時代に行って感動した息長郵便局や息長小学校のある旧息長村も、明治に近隣の村の合併で生まれた時以来の呼称であり、厳密な意味での古代の息長は確認できていません。という部分についてですが、この息長川の解釈は、そもそも「万葉集」の4458番のにほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやもという和歌に関しての解釈で、椿井政隆以
◆火吹く人たちの神~41ここまでで天日槍の足跡をくまなく追っかけてきたのですが…谷川健一氏はそれらをすべて覆すが如くの発言を、今回の記事でなされるのです。一斉に膝から崩れ落ちて転んだらええんかな?「何でやねん」と思っきり頭ドツイてもええんかな?…今回はそんな記事です。~*~*~*~*~*~*~*~*~*~■過去記事一覧『◆【過去記事一覧】火吹く人たちの神』◆【過去記事一覧】火吹く人たちの神谷川健一氏の渾身の作!今もなお多くの古代史・民俗学研究者等のバイブルであり続ける不朽
【大和朝廷成立のマクロ史観】『日本書紀』と『続日本紀』を読むと、7世紀孝徳天皇紀以降、中臣氏は中大兄と出会い、息長氏出自の大海人皇子に嫁ぐ天智天皇の皇女鸕野讚良(後の持統天皇)の側近として壬申の乱の後も天武天皇の朝廷に仕官している。大和朝廷は、藤原不比等を参謀役として律令制を施行することによって、持統天皇が長期政権の礎を築くことになる。倭国の最後の王となった天智天皇とその皇女である持統天皇、天智天皇と持統天皇に側近として仕えた藤原氏、近江から大和に進出して近畿の王となった息
ご訪問ありがとうございます。今回は本朝三美人「衣通郎姫、藤原道綱の母、光明皇后」のうちの衣通郎姫ソトオシノイラツメ、つまり衣通姫ソトオリヒメの話です。と言っても「古事記」では別人の呼び名で、この話は載っていません。まあ、美しさが衣を通して光輝くということなので、美人を表す普通名詞なのかも(^^;)ちなみに「上宮記逸文」の一云の系図では「藤原琴節フジワラノコトフシ郎女」なので、コトフシ→ソトフシ→ソトオシとなったのかもしれません。「日本書紀」では弟姫と呼ばれて出てきます。今回は話が長
【蘇我氏と息長氏の対立】記・紀の系譜から考えると、欽明天皇(在位:539年~571年)以降、敏達天皇⇒彦人大兄皇子⇒舒明天皇⇒皇極天皇の息長氏系のラインと、用明天皇⇒崇峻天皇⇒推古天皇(&摂政厩戸豊聡耳尊)⇒蘇我蝦夷・入鹿の蘇我氏系のラインが勢力争いをして、息長氏が最終勝者となって近畿天皇家の覇権が確立した、という大きな流れで、8世紀初頭までの日本古代史をとらえることができる。【理解しやすい『古事記』の記述と不可解な『日本書紀』の記述】『古事記』は以上のマクロ史観とほぼ矛
【記・紀で食い違う継体天皇の出身地】近畿天皇家の始祖とも言われる継体天皇の出自についての記述は、『古事記』と『日本書紀』では大きく食い違っている。『古事記』では武烈記の最後に、「故、品太天皇の五世孫袁本杼命を近つ淡海国より上りまさしめて、手白髪命に合わせて、天の下を授け奉りき。」とある。『日本書紀』では、武烈天皇が跡継ぎを残さないまま崩御した後、大伴金村大連が中心になり後継者を探す。紆余曲折を経て「男大迹王」に白羽の矢を立てて、「臣連等を遣して、節を持ちて法駕を備へて、三国
【允恭天皇と息長氏との関連】若野毛二俣王の長女忍坂大中津比売命は允恭天皇の皇后となる。允恭天皇の諱は男浅津間若子宿禰王。何故か臣下の姓である「宿禰」が入った名前である。息長氏との関係は時代を超えた結びつきになるが、神功皇后の父親とされる「息長宿禰王」との関連を考えたくなる。また「浅津間」については、息長氏の根拠地である米原市の天野川(旧息長川)の下流に「浅妻」という地名が残っている。大和岩雄氏は、『古事記と天武天皇の謎』の中で、允恭天皇の「浅津間若子」の諡号は朝妻の少年という
【若野毛二俣王(紀では稚野毛二派皇子)に関する日本書紀の記述】倭建命から応神天皇を経て継体天皇につながる古事記の若野毛二俣王系譜は、日本書紀では全く無視されている。古事記にとっては最も根幹となる息長氏正当化の主張だったものが、日本書紀から削除されていることには注目せざるをえない。日本書紀には「稚野毛二派皇子」は二か所に出てくる。応神二年春三月条、応神天皇の20人の皇子女のひとりとして、「次妃河派仲彦女弟媛、生稚野毛二派皇子」とある。古事記が応神記の最後に応神天皇の後世につながる系
【倭建命→応神天皇→若野毛二俣王→継体天皇】黒沢幸三氏は『日本古代の伝承文学の研究』の中で、「ヤマトタケルの系譜は、日子坐王の系譜を継承していると同時に次の稚野毛二派皇子(若野毛二俣王、以下同)の系譜につづき」と述べ、さらに、「稚野毛二派皇子の系譜は、神功皇后の胎中にあって三韓征討に参加したと言われる応神と息長氏の密接な関係をあらわしている」とし、稚野毛二派皇子の系譜が継体に続いていくことは、「息長氏の特別な位置を暗示する」と記述している。黒沢氏は、古事記が系譜の最も重
ご訪問ありがとうございます。もう99回目ですか~(・∀・)💦まだ古典文学体系本の上巻終わってな~い( ̄▽ ̄;)まあもう少しで継体天皇になって、まあまあ内容が信じてもいいレベルになるので、もう少しちゃっちゃと終わると思いますw継体天皇以降の歴史解釈は、すでに「飛鳥の夢」シリーズで書いてますので、面倒な方はそっちを読んでください(^∇^)で、忍坂大中姫ですが、卒論を書いたときは息長オキナガ氏ブームで、ヤマトタケルも「一妻系譜」に息長田別王や息長真若中比売が出てくるので、息長氏の
ご訪問ありがとうございます。さて、ぜんぜん即位してくれない雄朝津間稚子ですが、どうなるんでしょう?(;´・ω・`)元年冬12月、妃の忍坂大中姫オシサカノオオナカツヒメ命、群臣が憂い嘆くのを心苦しく思われて、みずから手水鉢チョウズバチ=金だらいに水を入れて皇子の前に進み、そこで「大王キミが卽位を辞退したので、天皇の位は空位のまま既に年月が経っております。群臣や官僚たちは、愁いてもなす術がありません。願わくば大王キミ、みなさんの望强むところに従い帝位におつきください。」と申し上げた。然
【古事記中巻の位置づけ】これまで見てきたように、天皇系譜以外に古事記中巻に詳細に記載された系譜(日子坐王系譜、天之日矛系譜、倭建命系譜)は、系譜の中に息長氏とのかかわりをもちながら、品陀和気命(応神天皇)に合流していることがわかった。古事記中巻は品陀和気命の段で終わっているが、上記三系譜は内外勢力とのかかわりの中に成立し、国内外を制圧する説話と結びつきながら、大和で即位する品陀和気命(応神天皇)の治世で一つの区切りをつけて終了し、大雀命(仁徳天皇)から始まる古事記下巻へと続
【天日槍の渡来説話:『日本書紀』】『日本書紀』垂仁三年春三月条に、新羅の王子天日槍の渡来説話が記載されている。播磨の国に到着した天日槍に対して、垂仁天皇の使者大友主(三輪君の祖)と長尾市(倭直の祖)は、「播磨国宍粟邑と淡路島出浅邑に自由に住んでかまわない」との詔を伝えている。それに対して天日槍は、「自分で諸国を廻って気に入ったところを選びたい」と言い、宇治川をさかのぼって近江国の吾名邑に入りしばらく住んだ、と記述されている。『日本書紀』岩波版の注には、吾名(あな)邑は「
【『日子国』とは】考安記から開化記にかけて「日子国」という言葉が出てきている。考安帝:大倭帯日子国押人命孝元帝:大倭根子日子国玖琉命日子坐王の母:日子国意祁都命の妹意祁都比賣命日子坐王は「但馬国司文書」では、出雲国の傘下で「丹波・但馬・二方の三国を賜り、下多遅麻之刀我禾鹿(山東町粟鹿)に宮室を造営し此所に坐す」と記述されている。さらに日子坐王を祭神とする粟鹿神社には、日子坐王の墓所とされる円墳が現存している。このように現地には日子坐王が丹波国の大王であったことを示