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SがBと談笑しているところにやってきたのは、高校時代の同級生RとIだった。Rは十年前に肺がんで、Iは六年前に肺気腫を悪化させて鬼籍に入っていた。この二人が一緒にやってきたのは、Sにとってごく自然だった。二人とも、Sとともに高校時代に組んでいたエレキバンドのメンバーだった。後年、全員が還暦を迎えた年に開かれたクラス同窓会で、昔のバンドを再結成しようと言い出したうちの一人がIだった。バンド名はアロー・ザ・ファイブだった。高校時代に流行っていたベンチャーズやシャドウズといったインストゥル
近づいてきたのは、小中学校を一緒に過ごしたSの幼なじみのBだった。中野住宅の南にある住宅地に住んでいたBは、中学生になった年、ビートルズの魅力をSと共有して一層親しい音楽上の仲間になった。会場にBGMが流れ出した。Sが中学生のころから何度も聴いてきたビートルズの《セカンド・アルバム》の最初の曲〈キャント・バイ・ミー・ラヴ〉だった。BはSとは別の高校にいったが、中学生のころからエレキギターを弾いていた。高一の時にテレビ番組のエレキ合戦にバンドを組んで参加して、流麗な腕前を天下にさらした。
もしよかったら、せっかくあの世にきたんだから、他にも逢いたい人たちとたくさん逢ってみましょうよ、ご主人様。E嬢の思いに共鳴するように、E嬢の母もうなずいて、じゃあ、これからSさんを主役にして、パーティーを開きましょう。わが家を素敵な洋館にして、一階のフロアを会場にするのよ、と思考を送り出してきた。賛成。姫は案内役になろうかな。決まりね、と目を輝かせたE嬢の母が、さっき出てきた別荘を振り返った。別荘はたちまち二階建ての瀟洒な洋館に姿を変えた。三人がめざした洋館は、すでにパーティー
SとE嬢は、豊かな雲が浮かぶ青空の下で寄り添った。遠くに建物が見えた。森の木々に囲まれた、バンガロー風の小屋だった。あれって、北軽の姫の家の別荘みたいだ。Sの指摘に、E嬢がうなずいた。いま、あそこに住む人はだれでしょう。ちょっと出てきてもらおうかな。だれが出てくるか、Sは思いを巡らせた。もしかしたら、E嬢の母かもしれなかった。もしそうだとしたら、E嬢の母はすでにこの世の人ではなくなったのだろう。別荘の扉が開いて、小さな人影が現れた。二人に向かって手を振った。E嬢が振り返した
セダンに乗った星間ドライブはどれくらい続いたのか。三十分だったかもしれない。一時間だったかもしれない。それとも、Sがこれまでにたどってきた七十五年だったかもしれない。あるいは一瞬で終わったのかもしれなかった。うたかたの夢のようだった。さあ、着いたわ。セダンが動きを止めた。運転席から腰を滑らせたE嬢が、ドアを押し開けて外に出た。Sも助手席側からE嬢に倣った。満天の星々が消えていた。雲一つない青空がどこまでも明るく無限に広がって、二人を眺め下ろしていた。Sは足もとがどうなっているかわか
E嬢の運転するセダンの行く手には、左右を灰色の空間に挟まれた一車線の道路が、どこまでも延びていた。走っても走っても、擦れ違う車は一台もなかった。前方を走る車もなかった。通行人も皆無だった。灰色の空間は、それ自体がほの白い光を発していた。セダンはヘッドライトもつけていないのに、道路の彼方まで見通せた。Sが見上げると、暗い空にはいつしか満天の星が輝いていた。そのうち道路は消えて、窓の外は無限の宇宙空間に包まれた。このまま、あの世へ向かっているんだね。思考するSの心を受け止めて返した
二人が歩く先の広場の隅には、黒塗りのセダンが停まっていた。E嬢は手にしているキーでドアを開けて運転席に座った。体を少し斜めに動かして、助手席のドアのロックを外した。どうぞ、と顔で合図した。Sが助手席に乗り込むと、E嬢はエンジンをかけた。セダンは一度後退してから広場をUターンして、団地出入口に向かった。出入口にはチェーンが張ってあった。その向こうには灰色の空間が広がっていた。Sは一度降りて、昔そうしたようにチェーンを外そうと思ったが、E嬢は「大丈夫」と言ってセダンを進ませた。Sはまた
SがE嬢を伴って226号室のわが家に入ると、Sの母が満面を笑みにして迎えた。成人になった息子が初めて家に連れてきた娘だった。E嬢も緊張していたが、Sの母はそれ以上に緊張していたかもしれない。この異世界で昔を回想すると、そこに出てくる故人をあの世から呼び出せた。が、いまはSに寄り添っているE嬢に圧倒的な存在感があった。Sの母の姿はどこにもなかった。それに、回想の世界では家の中が舞台でも、いま二人が立っている場所は戸外だった。家に上がり込んだE嬢を、Sは北側の四畳半にある二人用のソファに誘
突拍子もないE嬢の提案に、Sは少なからず狼狽えた。しかし、好奇心は十分にくすぐられた。あの世巡りか、悪くはないが。「大丈夫。姫はご主人様を、そのままあの世へ置き去りになんていたしませんから」Sは、自分で創ったとされながらも、何がどうしてこんな異世界が出現したのか、未だにわからなかった。その上、今度はあの世へいくことになったらしい。生者として、か。明るい夕暮れのメーン通りに立って、E嬢は静かにSに寄り添った。「憶えているかしら。姫が最初にこの団地にきた時のことを」もちろんだった。
団地のメーン通りや、いくつもの集合棟を照らす夕刻の日差しは、いつまでたっても翳ってこなかった。Sは疑問を解決するヒントを与えてくれたE嬢に感謝した。同時に、いまは横浜でつつがなく暮らしている娘とその家族全員の幸せを改めて祈った。「こちらこそ、祈ってくれてありがとうございます。娘さんに代わって、お礼を言うわ」E嬢が声を弾ませて、長い髪を揺らせた。その魂はあの世で、Sの長女と次女それぞれの魂に重なっていた。再構築をくり返しながら新しい肉体に宿ってきた魂は、あの世にも断片を残しつつ、かつて生き
眠っている間に見た夢を、起きてしばらくするとさっぱり忘れてしまうのは、夢と現実が一緒になって、日常生活に混乱が起きるのを防ぐためだと、Sは以前、どこかで読んだか聞いたかしたことがあった。また、孫たちの魂の分析が「タブー」なのは、いまのE嬢が発した「知らなければ惑わされない」という言葉にヒントが隠されているような気がした。そうした疑問は「あの世に還れば自然に思い出す」と言われたところから、おそらく同一の原理に基づいているのだろう。本来は魂にだけ備わっている性質なのかもしれない。Sはそう考
いま、E嬢と向き合っているSは、最初にこの団地の226号室で彼女と逢ったときがそうだったように、かつての学生時代の若さを取り戻していた。ここは確かに、Sの想念が創った異世界だった。地上に流れる時間は戻せない。が、この異世界では若返りが可能だった。しかも、これまで過ごしてきた七十五年にも渡る人生の記憶はそのままで。「だけど、学生のころのあなたもいまのあなたも、同じ魂に輝かされていることは忘れないで。魂は地上の肉体とは違うの。生まれ変わる度にあの世のワンネスでいくつかの断片になって再構築されるで
Sがこの異世界で再会したE嬢が、たちまち幼い娘のUに変身したと思ったら、それも束の間だった。Uはすぐに大きくなって、夭折した長女が生きられなかった十代の少女の姿になった。いま地上で暮らしている次女Uの、少女時代の姿に生き写しだった。まるで三、四十年前の娘と話しているみたいだ。でも、いまのUは家庭を持っていて子どもまでいるからね。長女と長男だが……。Sの思考の先につながる疑問をすばやく汲み取った少女Uが、機先を制した。「だめだめパパ。それともご主人様かしら。あなたの孫になった者たちの魂
なぜかいま、団地出入口から続く広いメーン通りには、夕方の陽が明るく射していた。二歳か三歳くらいに見える幼いUは、その場で見下ろすSの顔を黙ってじっと見上げていた。まもなく、舌ったらずの声を出した。「パパないてるの」SはUの名前を一声口にしてから、ほおに流れる涙を拭った。このUが長女なのか次女なのかわからなかったが、どちらのUも親としての限りない愛の対象だった。それからSは考えた。次女Uはいまも地上で存命中だった。とすればどうだ。かつてこの異世界に地上存命中の幼なじみMを呼び寄せようと
長女Uの前世が「姫」だったと教えられたSは、はっとして思い返した。そのUが生まれてしばらくのころだった。SはUの寝顔を見て「ぼくのお姫様」と呼び始めた。かつて燃えるような恋をしてかげろうのように去っていったE嬢の面影を重ねたかどうか、S自身にはわからなかった。ただ無意識にそう呼んだのだった。Sの「お姫様」はその後何度か、祖母(Sの母)にとっては掌中の珠の初孫として中野住宅に連れてこられた。よちよち歩きを始めてからは、祖母に手を引かれたりだっこされたりして、団地めぐりを愉しんだ。しかし、
Lの話が本当なら、二歳と十一か月で夭折した長女のUと、S夫妻がその生まれ変わりとして信じた次女のUには、あの世でどのような魂のつながりがあったのだろう。「あたしが知っている限りの話をしましょうね。死んでからわかったことですけど、亡くなったUちゃんは魂となってあの世の光に包まれると、すぐに生まれ変わる態勢に入ったわ。人は若くして死ぬほど、地上の時間で生まれ変わりが早くなるの。逆に長く生きてから死ぬと、次に生まれてくるまでが長くなるのよ。でも、あの世には時間の概念がないから、そうした観測はすべて
Sは胸を震わせた。Lがいま口にしたのはSの長女で、二歳と十一か月という短命でこの世を去ったUのことだった。死者を呼び出そうと思えば、いつでもあの世から呼び出せる世界にいながら、Sはなぜ、いままでUを呼び出さなかったのだろう。「わかるわよ、その気持ち」Sの思いを、Lが言葉にしてくれた。「あなたはUちゃんが亡くなって半年もたたないうちに生まれてきたいまのお嬢さんに、Uちゃんと同じ名前をつけたのよね。次女のUちゃんが、長女のUちゃんの生まれ変わりだと信じていたから」長女Uは三月十四日に、
Lは死後も、あの世でSの父と暮らしているのだろうか。そこはいったい、どんな世界なのか。Sがそうした問いを発しようとした時、Lは既に返答を口にしていた。「あたしが死んだ時、あの人は病院のベッドまで霊体となって迎えにきてくれました。心配することは何もないって教えてくれたんです。でも、連れていってくれたのはあの世の入口まででした。そこで大いなる光に包まれた後、あたしはもう、だれにも頼る必要がなくなりました。そこはワンネスの世界なの。自分と他者、自然や宇宙のすべてが本質的に一つになっているんです」
Sが父の愛人で同居人だったLと初めて顔を合わせたのは、小学四年生だったこの時だった。次に会ったのは、父が七十四歳で死去した日の翌日だった。Sは三十九歳で、Lは六十二歳になっていた。場所は都内にある病院の霊安室だった。千葉に住んでいたSは、妻と生後間もない娘とともに、父の遺体と、約三十五年ぶりになるLとの対面を果たすために、車を走らせた。その場では、Sの母、兄、妻、娘が顔をそろえて、Lとの初対面に臨んだ。その日までにSを除いて、Lと顔を合わせた父の親族はいなかった。S自身も、父に口止めさ
いま、Sの父は四十代前半の若さに返っていた。感服したような表情で黄昏に似た暗い光に照らされた2号棟を見上げていた。Sは七十五歳までの全記憶を引きずった少年Sとして、次に何が起きるか興味津津だった。父の同居人Lの存在を思い返していた。団地出入口中央に張られているチェーンの向こう側は、何もない灰色の空間だった。これからそこにだれも現れなければ、当時、父より一回り年が若かったLは現在もたぶん生きていることになる。あり得るだろうか。Sの父が七十四歳で没してから、今年で三十五年が過ぎていた。当時
Sが自分で創ったとされる異世界・中野住宅にあの世の父を呼び寄せたのは、団地出入口に佇んだときに無意識に浮かび上がった記憶の断片が引き金だった。Sは小学四年生で、父は働き盛りの四十代前半だった。その日は土曜日で、午前中に仕事を終えた父は、中野住宅の妻子にその月の生活費を届けるために、午後の早い時間に226号室のドアをノックしていた。父が土産として買ってきたゲームの野球盤が息子たちを歓喜雀躍させた。父も気分をよくして、いつもなら一、二時間もたてば「仕事場」と称した愛人宅へ帰るところを、この
先刻まで団地出入口に張られたチェーンの前に立ち、自殺男の自縛霊があの世からきた使いの犬に導かれて灰色の外世界に消えていくのを見ていたSは、七十五歳の自分の老体が空間を移動して、小学四年生の少年に変身した事実に驚いた。が、いま少年Sとして追いかけてきた大人が、当時の四十代の若さに蘇った父だったことにはもっと驚いた。Sの父が死んだのは、昭和の時代が終焉を迎えた年の十月だった。享年七十四歳といえば、いまのSとほぼ同年だ。場所は都内の救急病院だったが、それより前にいた場所は勤め先でも中野住宅でもな
あの世からの迎えの主が、昔なじみの愛犬ではあっても、これでどうやら地縛霊としての束縛が断ち切れて成仏への道が開かれそうだと知った男の手には、いつのまにか犬の首輪から伸びたリードが握られていた。ペギーが「いくわよ」というふうに団地出入口のほうに鼻を向けた。しっぽを振り振り歩き出すと、ぴん、と張ったリードに引かれるように男の足も後に続いた。Sはその場で一匹と一人を見送りながら、しばらく合掌したまま念仏を唱えた。団地出入口の側壁にある「関係車以外進入禁止」の警告板を右手に、中央に渡されたチェ
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僧侶でもなければ特定の宗教の信者でもないSだったが、死者に向かって南無阿弥陀仏を唱えると極楽往生できるという情報は、かつて観た映画から得たものだった。その名号を漢字で書けと言われたら無理だった。しかし、どのような抑揚をもって唱えればいいかは、役者顔負けに掌握していた。真心を込めて唱えれば天に通じるのだ(きっと)。その場に立ったまま、両手のひらを合掌の形にして、「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ、ナームアーミーダブッツ」と一声、朗々と唱えたSは正面に立っている男に向かって「ご一緒にお唱えしまし
「いずれにしても、ですね」男の動揺が若干収まったと思われたところで、Sは少し突き放した語調で言い渡した。「あなたのところにあの世からの迎えがこないなら、あるいはその迎えがきたとしてあなたが連れていかれる場所がどこであろうと、あなたはいつまでもここにいてめそめそ泣いていたってしょうがないですよね」男は背広の内ポケットからハンケチを取り出すと、大きな音を立てて洟をかんだ。こくん、とうなずいてから、ぼそっと言った。「わたしはもう、ここにいったいどれくらいいたかも忘れてしまいました。その間に
男の悲惨な形相の内側から、安堵と不安の感情がともに浮かび上がった。事態を察したSは、誤解を解かなければと思った。「あ。ぼくをそんな目で見られても……」男が場合によってはその場でハグでもしてくるか、あるいは絶叫しそうな気配を見せたので、Sは反射的に一歩下がった。と、男の曲がったくちびるの端からすっと、血まみれのよだれが垂れてきた。Sの否定の言葉がその刹那、間欠泉のようにほとばしり出た。「ぼくは神でも天使でもなけりゃ、あの世からの使いでもありません。もちろんあなたの遠い親戚でもないだろうし
陰陽師シリーズ16巻。☆有能なその男、人として世に出たくなった道満の作った木偶だった。☆痛い!目から出血が。。。五年前に姿を消した竹取り婆の呪い。☆離魂して他所の女に通う男。ある日から眠ったまま起きてこぬ理由。☆十二、三の女の童と日頃からおとなしい飼い狗。しかし両者には前世の因縁があった。☆立て続けに人の足が喰われる。遂に人の肉を欲するようになった魔獣・土狼。☆人を喰らいたくなる性、それは百足による近江の不幸。☆毎夜女に
男はうつろな目で辺りを見回した。血の気が失せて、半分干からびているような歪んだくちびるを一度なめると、言った。「実はわたし、この団地の者ではなく、よそからきたんです。で、あの日は外回りの仕事中でしたが、急に何もかもいやになっちまって。気がついたときにはふらふらと、この住宅の屋上まで上がっていました。発作的に身を投げたんです。ああ、これでわたしは死んだとわかったまではいいんですが」どこがいいものか。Sは口を挟もうとしたが、やめにした。その形相の恐ろしさには目をつぶることにして(それがじつに
いつ起きた事件だったか、Sの記憶はあいまいだった。小学生高学年のときだったかもしれない。学校からの帰途、Sの背後から救急車がサイレンを鳴らしてやってきた。中野住宅のほうに向かって走り去っていった。Sが帰宅の足を急がせると、果たして救急車は団地のメーン出入口を入ってすぐの場所に停まっていた。辺りには数人の人だかりができて、遠巻きに様子を窺っていた。「何があったの、おばさん」人だかりの中に1号棟に住む知り合いの主婦を見つけたSは、近づいていって訊いた。おばさんは慌てた顔になって「いいのよ