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☆皆さん、こんにちは、本日も引き続きお伝えして参ります…………第54…☆☆《無言の言》…前回の続きからです…《宇宙人の長老…クリエより…》…☆………………………………☆君達が常に考え、思い、感じるということが、いかにナンセンスであるかと言う事について話してみよう。……☆もともと君達の思考がどのように回路で成り立っているかということを、君達は理解する必要があるだろう。……☆生まれた時、貴方は無言だった。これはとても重要なことである。……☆それは語る以前に、考える以前に、思う以前に、君達
哲学の祖であるソクラテスが説いたように、自分自身に立ち帰ることが哲学であり、自分自身が何者であるかを知ることも哲学であり、流転してゆく精神の軌跡の中で、変わらない魂の息吹きを遺し、感ずることも哲学の営みであろう。私は今まで数多くの書をつづってきたし、今後もつづってゆくことであろう。このような思索の道は果てしがない道であるが、それは限られた人生の内における有限の道でもある。魂が肉体から解放されるまで、魂の本来の欲求に耳を傾け、そこから流れ出る泉水のような哲理を紡ぎつづけてゆかなけ
或る面において、様々なことを思索しながら生きている私達の魂は、日々、輪廻転生しているとも言えるであろう。一定の思索を起点として、少しずつ魂の教養を蓄積してゆきながら、我々はどのようなことにも対処出来る不動心を築いてゆくとも言えるのである。このような堅忍不抜の精神は、たえず求めつづける哲学の心によってこそ培われるとも言える。哲学者として生きることは、いつの時代どこの地域にもある普遍的な生き方の一つであり、考えることを中心にしてライフスタイルを創ってゆくことは、どのような歴
今日、感情が大きく揺れる出来事がありなかなか辛かったのですが手帳に書き出し、向き合い、落ち着くことができました。しかも今回は、過去に手帳に記した思索が気持ちを落ち着けるのにとても役立ちました。ズバリ、最終的に私にとって必要な答えがそこにあったのです。まるで過去の私からのプレゼント←「ああ、手帳をやっていて良かった」そう思えた瞬間でした。向き合う最中はなかなか苦しかったですけども(苦笑)寝る前に心を落ち着けることができたのは気持ちを引きずりがちな私にとっては
精神は日々思索をなし、思索された真理は蓄積され、深い叡智的教養の貯蓄を創ってゆく。今日発見した新鮮と想える真理は、実は、かつて何度も発見したことがある真理なのかもしれない。それを想起しているだけなのかもしれない。しかし、こうした自己同一性の認識を得た上で、さらに思索を展開し、思索のために言葉を費やしてゆくことは、そこにさらなる価値を創造してゆくことになるであろう。プラトンの対話篇の「パイドン」の中で、ソクラテスは、哲学者は、肉体から離れることによって、より純粋に知を働かせる
まず何よりも、自らの心の波を平静にしてゆくことである。意図的に平静心を保ってゆくことである。心の波を平らかにしてゆくことである。己が心を鏡のようにして、人生の全てを映してゆくことである。これを「正定」と云う。すなわち、禅定である。日々、瞑想を行い、「心のノート」をつづり、思索録、自省録をつけつづけてゆくことである。さすれば、自然にインスピレーションが湧いてきて、理性的気付きもあり、真理の発見も、真理の観照もあるはずである。様々な分野の真理を日々学ぶことを通して、自らの心を耕しつづけ
今日のことばショーペンハウエルさんの言葉自分の思索で得た真理の価値は、本の中の真理の百倍以上である。(哲学者)
2月中旬に途中まで下書きして、3月突入😅先日。車を運転していて。ふと見た雲。おっ!と思って、車を停めて撮影。何かに見えませんか?私は、右足を左足の上に乗せて座られている、有名な弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう)に見えました。(上半身のみの雰囲気。)人々を救済する方法を考え、思索にふけっている様子を表現した像なのだそうです。実際に見たような?それとも、教科書だけで見たような?どっちだったかな💦そして、人々を救済するってどんな事なのだろうか?と、思索にふけり
時空を超えて遺っている魂の輝き、精神の声というものの本質とは、一体何なのであろうか。例えば、歌というものであっても、その対象となった恋愛関係が無くなってしまったのにもかかわらず、その歌は遺りつづけ、時を経て復活し、歌われ、愛されるということがある。そして、その歌の対象の限定を超えて、多くの人々に愛されてゆくということがあるのである。このように、「言の葉」というものには、本源的に永遠普遍のロゴスのようなものがあって、不死性や普遍性をもともと持っているのではないかと思われる。ま
いかなるものであっても、思索の対象とならないものは本来ないのである。いかなる世界であっても、思索をしつづける限り、真理を無限に創造し、真理界を無限無数に創造してゆけると言えるのである。また、思索する以前に、真理を学ぶということであっても、真理の世界を現象界に創造することになるのである。古今東西の哲人達の真理を学べば、現在にあって現在を超越してゆく。永遠無限の世界に楽しんでゆくことが出来るのである。さらに、自らの思索を練って、思索を深めてゆけば、思索すること自体が、現象界を超越するこ
キリストあってこそのクリスマス―イエスの降誕を祝う今週の「わたしに従ってきなさい」ルカ2:19しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。「与えられたもので満足する」2000年4月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会自分自身について、また将来の出来事について驚くべきことを耳にしたマリヤは、「これらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらして」いました(ルカ2:19)。満足はしばしば思索の後に来ます。
昨日(12月6日)のブログに関することです。いつもとは異なるテーマになりますが、その点はご了承ください。また、テーマとして大きいことになりますので、本来はブログには不向きということで、いつもよりは簡略になることについても同様にご了承ください。今年も有名人の方が亡くなっている話をよく耳にしていますが、身近なところでも同様です。人には必ず永遠の別れが来ることは理解しているものの、普段はどうしても日常に流されます。私もそれなりの年齢になっておりますので、両親も含め
先日の道場で私はこう思った。『今日はKが饒舌だな』これについてちょっと考えてみると、いつもは基本的には黙っている。受けている時も多少は言ってる感じである。(これはあくまでも私が感じたので本人にはこんな感覚は無いのだと思う。)それが上記の状態である。きっと同僚が複数名いて、これらの方々に関わらなくてはいけなかったからなのだろう。私は『お前ら、それをここでやんなよ』と思った。そして別の方々の場面で「ここでしかやれない事をやれよ」と言った。(別の言葉でしたが自己修正します(笑))こ
珍しく哲学書を読み終えました。途中からは飛ばし飛ばしになりましたが・・・。「思索」「著作と文体」「読書について」の三篇が収められています。一貫して、読書だけしても愚者になるだけで「思索」をしなければならない、という主張が貫かれています。カントのことは評価していますが、その後の哲学者たちはコテンコテン状態で、いささか上から目線的に罵倒しているようにも見えます。一方で、「ただ沢山読めばいいというものではなく、量より質で、深い思索が伴わなければならない」と考えれば納得
もともと「ラタトゥイユ」はもう長いプロ友のひとりLondoncalling63さんの弁当日記に出てくるフランス料理の野菜の煮込み料理弁当日記vol.448|londoncalling63のブログ(ameblo.jp)として覚えました一方昨夜のボクの夢の中では「物事を思索する空間を提供するお店」の店名となっていました「思索する空間」なので守って欲しいルールは
今日は森を歩いた緑は木々大小の葉っぱ小川のせせらぎキノコ🦟も蛾もそして、りす🐿️~ホテルは、朝食も夕食もビュッフェ⁉️ちょっと苦手美味しいものを少しいただくのがいい☺️来週は健康診断もあるから食べ過ぎ👋😵🍴飲み過ぎ😵🍺🌀要注意⚠️今日も元気に過ごせたそして素敵な女性と🚌を待っ間話した先に下車した彼女、手を振って下さり嬉しかったです☺️3日目、無事に終了移動中、色々思索できました感謝
映画『君たちはどう生きるか』は「よく理解できないけれど、『この世界で生きてゆけ』『時代は変わる』というメッセージがある」と思う作品。2回観て、より一層理解できなくなった一方で、三たび観たくなる力がある。ひと言で言える真実や想いがあるなら、映画や文学、音楽、写真、芸術は不要。それを承知の上で敢えて言えば、映画や文学は特に、「込めた想いやメッセージに説得力を持たせる営み」に違いない。そして宮崎駿の作品に通底するのは、自分としては、「生きる」だと信じて疑わない。それに説得力を持たせる作品群。災
(つづき)●瞑想についてこの項では、まず、瞑想は、不意に訪問・招来する客、予期しない(思い設けぬ)客なので、その準備に、思索の方法的訓練を具えて待つべきとされ、瞑想には、条件つきの中途半端がなく、着いて行くか虐殺するか(絶対的な瞑想か否か)、いずれかを孤独で選択することになります。また、瞑想は、思索の根底にあり、思索の厳しさで瞑想を生かすべきとされ、次のように、思索と対比させています。・瞑想=上から降りてくる、天与の性質、ミスティック(神秘的)、結果的、リズム・思索
数量がいかに豊かでも整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく数量が乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが知識の場合も事情はまったく同様であるいかに多量にかき集めても自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で量では断然見劣りしてもいくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い何か一つのことを知り一つの真理をものにするといってもそれを他のさまざまな知識や真理と結合し比較する必要がありこの手続きを経て初めて自分自身の知識が完全な意
仕事をすればストレスにさいなまれる仕事をしなければ時間にさいなまれる所詮、自分の内面の問題なのは解っているが、思うにまかせない
我が家のお気に入りの場所は?適応障害になってから、まずは自分の部屋を片付けてよい空間にしたいな…と思い、いろいろなものを片付けていたら、本当に自分好みの部屋になってくれました。パソコンの脇には作業スペース。手の届く範囲で一通りの事がすべてできてしまうスペースが完成したので、あとは自分が思う事をがむしゃらにできる体力と集中力をつけないといけないと思う私です。▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう\好きなもの沢山書いています/さて、今回も自分ごとなので
わが友に贈る2023年5月6日多忙な中でも読書と思索の時間を。学び考え抜く人は永遠に成長し続ける。向上の人生を朗らかに!
(『人間革命』第7巻より編集)67〈翼の下〉18(つづき)付け加えてお言っておくが、不幸な人を助けようとする『愛』は、時には、自分の心、感情を制して、努力しなければできない。ところが、仏界になると、自然に、振る舞いそのものが、そのままで『慈悲』になってしまうんです」メガネの女子部員は、上気した顔を見ながら、感謝を込めて言った。「ありがとうございました。よくわかりました」戸田は、さらに付け加えて言
4月です。今日明日は住宅のイベント。良い天気の中でお客さんやメーカーさんと一緒の中で新年度がスタートした。桜の見頃も先週から続いていて、穏やかな天気が続いたのでSNSでは桜、桜、桜・・・お腹いっぱいです。日本人はやっぱり桜が好きなんだなあ。家に帰って、CDの整理をしつつ、「シックリくる」音を聴く。リラックスしながら、本年度の意欲も湧いてくる。2つの目標。一つは新規事業へのトライ。そしてもう一つは自分の興味分野の探究だ。101年目を迎えた会社ではまた新しさを出していき
こんばんは、マティです。今日は、S性とM性について語ろうと思います。ここで言う「S」はサディズム、「M」はマゾヒズムを指します。といっても、SMの話をしたいわけではないので、ご安心を。度々、「いじめ」と「いじり」の境界が話題に上がることがあります。どこまでは「いじり」として許容され、どこからが「いじめ」になってしまうのかということです。それについて明確な答えはないでしょう。なぜならば、人によって感じ方が違うからです。私たちが何気なく日常を過ごしていても
(『青春対話』より)97そのころ、自分に言い聞かせていたのが、「書を読め、書に読まれるな!」ということです。読んだら、自分の栄養にするということです。食べ物だって、消化し、吸収しなかったら、自分の血となり、肉とならない。消化するには、自分で思索することが必要です。牧口先生も「本に読まれるな。本を読んだら思索しなければならない。今の若い者はよく本を読むようだが、思索が足りない。本を読んで、思索することが自分のものになるのだ」と言われている
(『青春対話』より)94「本を読む時間がない」という声も聞きますが。戸田先生は、言われた。「青年よ、心に読書と思索の暇(いとま)をつくれ」と。「心」です。”暇がない”という人は、大抵”心に暇がない”のです。読む気があれば、十分、ニ十分の時間がつくれないわけがない。また机に向かって読むだけが読書ではない。むしろ忙しければ忙しいほど、苦労してつくった読書の時間は、集中して読むものです。その上で、”今の時間は、勉強と読書と、どちらを
「パンセ」と「論語」。思索と身体性の関係。もし、人間の腕の長さが2mだったら、「これ」「あれ」「それ」の概念はそれぞれ、2倍になるだろう。人間がなにを、どう考え、どう感じるかってことは、身体性によって規定されている。「パンセ」を病的とするなら、「論語」は健康的である。さもありなん、パスカルは始終、病気で消化不良だったので、死のことで頭が埋め尽くされていた。(死を一つの解放と位置づけた)一方、孔子は偉丈夫であり、バキバキのキン肉マンだったので、
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