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徳川家康には男子が11人いたが、大政奉還まで将軍家か大名家として存続したのは、下表の通りです。幕末期には、ちゃっかり頼房系が最多ですね、🤣家康の子主な藩名幕末期次男秀康忠直津山藩秀康系忠昌福井藩頼宣系直堅糸魚川藩秀康系直政松江藩秀康系近栄広瀬藩秀康系隆政母里藩秀康系直基川越藩頼房系直良明石藩秀康系三男秀忠家光将軍家頼房系保科松平正之会津藩頼房系越智松平清武浜田藩頼房系九男義直光友尾張藩頼房系義行高須藩
うしことチーム水戸黄門です🌈🐮🐉🕊🦒🎶💡うしことチーム水戸黄門って?突然ですが人生1度は行ってみたい憧れの場所ってありますか?✨皆さん、それぞれ思い浮かぶ場所があるんじゃないかなと思うんですがうしこも2019年に龍さんと繋がりなぜかその龍さんたちのチーム名が『チーム水戸黄門』と決まった時から憧れていた場所があるんです🤭💕それが水戸黄門さまの聖地水戸♡ただ当時のうしこ
ブログテーマ『城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」』にスポットを当てて、具体的なお城の写真をお届けしています。「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓『城郭建造物『全国「平(一重)櫓」を巡る”はじめに”』』今回からのブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞ってお届けしようと計画しています。過去に、全国「復元、復興、模擬」の「天守シリーズ」「三…ameblo.jp※全国の「
徳川幕府は、関ケ原の戦いの勝者・徳川家康が1603年2月12日に征夷大将軍宣下を受けて始まりました。家康は1605年4月16日に将軍を辞職し、5月1日に三男秀忠が将軍宣下を受けました。これで、秀忠の家系が将軍家になりました。そのあと、家光、家綱、綱吉、家宣、家継と、将軍職が引き継がれました。しかし、1716年4月30日、7代将軍家継は享年8才で亡くなりました。次期将軍は、尾張藩6代藩主継友と紀州藩5代藩主吉宗の争いになりました。吉宗は家康の曾孫で、玄孫の継友より血筋が濃いと
徳川頼房は、家康の十一男で末子です。1603年8月10日〜1661年7月29日、享年59才頼房は御三家水戸徳川家初代です。ちゃっかり頼房は、父の家康や十人の兄よりも多くの子供(11男15女)を作りました。水戸徳川家を継いだ光圀、高松藩頼重、守山藩頼元、府中藩頼隆、宍戸藩頼雄は、父の頼房より長生きして還暦を超えています。長男松平頼重(1622〜1695年、享年74才)讃岐国高松松平家(12万石)初代光圀の同母兄次男亀丸(夭折)三男徳川光圀(1628〜1701年、享年7
徳川頼房は、家康の十一男で末子です。1603年8月10日〜1661年7月29日、享年59才頼房は御三家水戸徳川家の初代です。家康三男の二代将軍秀忠より24才も年下であり、三代将軍家光(秀忠次男)の叔父になりますが、わずか1才上です。家康次男の松平秀康の長男忠直、次男忠昌、三男直政は、頼房の甥になりますが、頼房よりも年上です。頼房は、家康十男の頼宣の同母弟です。当初、家康は、秀忠の将軍家、九男義直の尾張家、頼宣の紀州家を御三家と考えていたようです。徳川頼房か、松平頼房にする
徳川家康には、十一人の男子がいました。長男信康1559/4/12〜1579/10/8享年21才織田信長の娘と結婚するも、信長の命令で切腹。1560年5月19日桶狭間の戦い今川義元敗死。人質から解放され、岡崎城に帰還。1572年12月22日三方ヶ原の戦い武田信玄に徳川方(織田の援軍を含む)は大敗。次男秀康1574/3/1〜1607/6/2享年34才豊臣秀吉の人質、養子となる。関ケ原の戦いでは、会津の上杉景勝、水戸の佐竹義宣の南下を防いだ。初代福井藩67万
名称:水戸城別名:馬場城、水府城城郭:連郭式平山城遺構:薬医門1棟、藩校築城年:1190年〜1198年築城主:馬場資幹改修者:佐竹義宣、徳川頼房主要城主:大掾氏(馬場氏)、江戸氏、佐竹氏、徳川氏所在地:水戸市三の丸2-9指定文化財:国特別史跡(藩校)、県指定史跡日本100名城空堀、土塁医薬門大手門跡三ノ丸空堀徳川光圀生誕の地徳川斉昭像
尾張徳川家の祖となった徳川義直徳川義直は1600年(慶長5年)徳川家康の9男として誕生。母は側室「於亀の方」です。徳川家康が天下人となって初めての子どもであり徳川家康の寵愛を受けたと言われています。徳川義直は1606年(慶長11年)に元服。翌年1607年(慶長12年)に死去した松平忠吉の死去に伴い尾張国清洲に移封して清洲藩主となります。その後、1616年(元和2年)に徳川家康が亡くなると名古屋城に入国。17歳という若さで尾張藩の初代藩主となり尾張徳川家を率いる立場となっ
徳川家康と家系図江戸幕府初代将軍へ上り詰めた徳川家康は11人の息子と5人の娘に恵まれました。子どものなかには、徳川家康の後を継いだ「徳川秀忠」をはじめ尾張徳川家の祖となった「徳川義直」紀州徳川家の祖となった「徳川頼宣」水戸徳川家の祖となった「徳川頼房」などがいます。≪徳川家康の家系図≫江戸幕府2代将軍となった徳川秀忠徳川秀忠は1579年(天正7年)、徳川家康の三男として誕生。母は側室「於愛の方」です。徳川秀忠は徳川家康の三男であったため出生時点
三島市にある玉沢に行きました。玉沢とは妙法華寺のことです。もしかしたら、大河ドラマどうする家康本編で登場するかも知れない家康の側室お万の方ゆかりの寺。本編放送後の紀行で放送されるかなぁ?妙法華寺日蓮聖人の本弟子で六老僧第一の弁阿闍梨日昭上人が開創。もともと鎌倉の浜(浜土の玉沢)の法華寺が前身。日蓮宗第15代日産の時、大木沢に移転。妙法華寺創建の地名をとって玉沢と改称。江戸時代、徳川秀忠の朱印地として寄進され下乗札が立てられる。徳川家康の側室お万の方、お勝の方らが寺の再興に
水戸東照宮の御朱印御祭神は、徳川三百年の基礎を築いた徳川家康公と水戸初代藩主徳川頼房公の二柱境内には、水戸天満宮と稲荷神社を配し、家内安全、営業繁盛、交通安全、学業成就、除災招福等に霊験あらたかで、水戸市内をはじめ近郷近在の方々の深い崇敬を受けています。黄金の鳥居⛩️東日本大震災で倒壊した大鳥居を平成三十年に再建⛩️東照宮の社号標この鳥居の奥に見えるのが水戸東照宮の社殿⛩️見えている部分は唐門で、数メートル歩くと、その先に拝殿があり〼御祭神
像・・・①物の形。人の姿。②神・仏・人・獣などの形をまねて作ったり描いたりしたもの。③思い描くイメージ。④物体から出た光線が鏡やレンズで反射または屈折して生じる、その物の形。⑤数学で、写像によって元または集合に対応する元または集合。GWの5月5日に水戸へ日帰り旅行してきました。すでに、巡ったところは記事にし終えましたが・・・巡っていて、市内に水戸所縁の人物の銅像があちこちに設置してあるな・・・と思いました。上は、水戸駅前の水戸黄門と助さん・格さんの
東照宮・・・東照大権現の神号を得た徳川家康を祀る神社。家康は初め久能山に葬られたが、日光に社殿が営まれ東照大権現として奉斎。初めは東照社と称されたが、正保2年(1645年)宮号を授けられると、全国の社も東照宮と改称した。GWの5月5日に水戸へ日帰り旅行をしてきました。偕楽園や弘道館などを回りましたが、最後に水戸駅から遠くないところにある東照宮を訪れました。水戸徳川家のお膝元ですので、やはり家康を祀った東照宮は付き物になりますよね。水戸東照宮と呼ばれているようです
本日、おやつに激辛カレーパンを食べたところ、激辛を体験。最後まで食べられませんでした。生産者様、すみませんでした。あと一歩でした。私の好奇心を満たしていただき、誠にありがとうございました。徳川頼房生年月日1603年9月15日(月)日干支甲午同じ日干支の人物(ブログに掲載済みの人物)・ナポレオン・ボナパルト1769年8月15日・ニコラ・テスラ1856年7月10日
先日東京ドームに行ったときに、少し時間があったので小石川後楽園に行ってきました小石川後楽園の入口門は「西門」と「東門」2か所あります今回は東門から入って、西門に出てみました西門東門「花菖蒲を楽しむ」とイベントの看板があったので楽しみに入ったのですが、この時はまだ数輪しか咲いていなくて、ちょっと残念でした660株ほどあるのだそうです小石川後楽園は、1629年に水戸徳川家の初代藩主・徳川頼房公が江戸の中屋敷の庭として造成二代藩主の光圀公の代に完成した庭園
以前の記事に書いた通り、高松藩の初代藩主松平頼重公は、水戸光圀公の同母兄にあたる。『今も昔も変わらぬ親子関係?』子どもの頃、うちの両親は、6つ歳の離れた弟に大層甘かった。例えば、姉と私には雑誌「小学○年生」も買ってくれなくて、たまの夏休みに祖父母が買ってくれたそれを、擦…ameblo.jp高瀬局(久昌院)は、高松初代藩主頼重公と水戸藩二代藩主光圀公の母だ。「大日本史」編纂などで名を残す光圀公は言うに及ばず、頼重公も当地にて、江戸に先んじて上水道を整備し、また、各
水戸芸術館と道を挟んで隣にある、京成デパート立体駐車ビルの脇に、小さなお社が張り付いた様に建っています。このお社が、これからお話しする真木神社です。水戸真木家の初代当主、真木隼人は越前の太守朝倉氏の一門でした。朝倉氏が、一乗谷で織田信長により滅ぼされたあと、隼人は浪人となります。徳川家康は、1603年に第10子の徳川賴宣を水戸城主とします。この時隼人は、藩士として賴宣に召し抱えられました。頼宣が紀州和歌山に移った後の1609年。徳川家康の第11子
木場公園から地下鉄に乗り小石川後楽園に来ました。小石川後楽園は、水戸徳川家の徳川頼房公の命により、整備が始まり、その整備を主に担当したのが徳大寺左兵衛という、当時の人物であり3代将軍徳川家光とともに小石川後楽園の作庭指示が行われたそうです。訪れたことのない場所なので楽しみですね!飯田橋駅の地下鉄の通路を出て小石川後楽園に向かいます。神田や秋葉原などには音楽や電気関係、芸術関連で学生時代から良く来
“こんなキャンペーンをやってるよ”☟と、家人が教えてくれて“chuの気ままなお出かけ”、何時もその多くはなのですが、その昔、「青春18きっぷ」やJR東日本の企画切符を使って日帰りで長野や新潟、そしてなんと青森まで足を延ばしたこともある「乗り鉄」の血が騒ぎだしました「駅からハイキング」なるイベントがあることは以前より知っていましたが、現地に行くまで電車ってどうなのよと思っていたので、chuの地元を走る私鉄の新京成電鉄や北総鉄道が企画している街歩きには何度か参加したこともありましたが…『“仲秋
「お城」の「天守台シリーズ」第10弾は、「江戸城」の続き、及び「水戸城」「小田原城」です。現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の
「全国の“二重櫓”を巡る」シリーズでは、「水戸城」(茨城県水戸市)の「二の丸角櫓」がまだ未完成であったので紹介していませんでしたが、2021年6月に一般公開され、先日の「夏恒例2泊3日のお城巡り」では写真を撮ることができましたので、お届をしたいと思います。「水戸城二の丸隅櫓」(茨城県水戸市)、木造復元木造復元「水戸城二の丸角櫓」(西面)「水戸城」の歴史と城主については、何度も記載していますがここで触れておきます。古くは、12世紀最後に「馬場資幹(しげもと)」が、現在
「櫓門」シリーズでは、「水戸城」の「大手門」を未訪問として「水戸城」のホームページ(URL)からの紹介で留めていましたが、先日の「夏のお城巡りの旅」で訪問を果たすことが出来ましたので、改めて「水戸城大手門」(茨城県水戸市)をお届けしたいと思います。「水戸城大手門」(木造復元)木造復元「水戸城大手門」(「大手橋」側から)古くは、12世紀最後に「馬場資幹(しげもと)」が、現在の「本丸」跡に「馬場城」を築きます。しかし1426年に「佐竹家」配下であった「江戸通房」が占拠し「江戸
昨日の続きです。今回は柵町坂下門です。下図⑮から⑰方向です。右端の建物は二の丸跡にある、水戸三高の体育館です。水戸城立体模型です。進むと矢印の先に柵町坂下門が復元されています。復元された柵町坂下門です。この門はもとはこの坂の下にありました。この左にカメラを回すと徳川頼房の銅像があります。徳川頼房(1603~1661年)は水戸藩初代藩主で、伏見城で徳川家康の十一男として生まれました。徳川光圀の父です。徳川頼房の肖像画です。古写
「水戸城」(茨城県水戸市)の後編で、前回のブログでは「二の丸」跡までお届けしましたので、本日は「本丸」跡からのスタートです。前編は↓『お城紀行第2弾「水戸城」で楽しみにしていた復元「大手門」と「角櫓」』お城紀行第二弾は、「水戸城」です。8月3日(火)の16時前にJR「水戸駅」に到着し、滞在予定はレンタサイクルで約2時間です。北口レンタサイクルの場所が判ら…ameblo.jp「水戸学の道」散策マップより「本城橋」を渡った所が「本丸」跡で、その入口には「本丸橋詰門」が構えてい
お城紀行第二弾は、「水戸城」です。8月3日(火)の16時前にJR「水戸駅」に到着し、滞在予定はレンタサイクルで約2時間です。北口レンタサイクルの場所が判らず、人に聞いたり、スマホでグーグルナビを操作するも拉致があかず、地図をじっくり見てようやく探し当てたものの地下深く入らないといけませんでした。電動サイクルでようやくスタートできたのは16時20分頃で、「大銀杏」が植わる所からのスタートとなり、当初予定のルートとは逆方向で進みました。「水戸学の道」散策マップよりその前
だいぶブログもサボり気味でした…。最近は格安スマホに乗り換えて、通信環境の変化がありましたが、使い心地は悪くないです~さて、相変わらずのコロナ禍ですので旅には出ておりません。一年以上前に訪れた場所などをきまぐれに書き留めていこうと思います鹿島神宮には前々から行ってみたいと思っていました。朱塗りの美しい楼門が夢で見た神社によく似ていたからです。実際に行ってみても確信は持ててませんが、呼んで頂けたのは確かかなぁ、と思っています朱塗りの楼門に着いたら、結婚式の前撮りをされてるカップルに遭遇
名古屋のシンゾウです最近、コロナ・オリンピック関係のTVは観ないことにしています。イライラして気分が悪くなります。我が身を安全地帯に置き、常に誰かを責め続けるという構図の番組ばかりで、腹が立ってきます。それにしても政府はどうしたんでしょうか。何をやっても上手くいきません。原因は何かと考えたことは.....無いでしょうね。頑張ってください!!あまり期待はしていませんが。―――――――――――――本日の問題(133)《漢字書取り》【07271】ががく【07272】きず(飲む)
今日の夜噺は・・・今日は不思議な人のご縁のお話。江戸時代、日本を統治していたのは徳川家。将軍は家康の直系から選ばれていました。それに次ぐ地位が、尾張、紀州、水戸の徳川御三家で、水戸藩の初代藩主は徳川家康の11男徳川頼房。頼房には正室がおらず、側室が9名いました。ある日、正式な側室ではなかった久子が身ごもりました。しかしものすごく嫉妬深い側室が、久子の堕胎を頼房に懇願。。。頼房は仕方なく家臣の三木之次に堕胎を命じました。あまりにも久子を不憫に思った三木之次は、三木家に久子を匿い
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の銅像めぐり、徳川頼房の銅像の紹介です。武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」史跡めぐりの旅は少しお休みです。youtubeはじめました。甲冑を着て日本刀で食材をさばき食べます。チャンネル登録よろしくお願いします。人物名銅像設置場所住所徳川頼房大手門そば茨城県水戸市三の丸目誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたしますm