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和歌山を歩く1からの続きです。紀三井寺→海禅院多宝塔→妹背山→塩竈神社→玉津島神社→奠供山(てんぐさん)→和歌浦天満宮→紀州東照宮→五百羅漢寺→秋葉大権現社→矢宮神社→神明神社→無量光寺→刺田比古神社(岡の宮)→弁天社→岡公園→和歌山県護国神社→多賀神社→東の宮恵美須神社・聖天宮法輪寺奠供山を後にして和歌浦天満宮の方に歩いて行きます。和歌浦天満宮も宿題を残していました。というのも、以前訪れたときは16時30分前後だったので、門が閉められてしまうかもしれないと思い、山の方には
先日の4月17日、上野東照宮へ行った時のお話です。この日、上野東照宮の本殿である金色堂の扉が開(かい)扉(ひ)されるということで、開館前からたくさんの人が列を作っていました。(2026/4/18ブログ「上野東照宮の開かれた扉の中」参照)並んでいる時、目の前を見ると、徳川御三家が奉納した大きな灯籠(とうろう)が三つ並んでいます。一般的に「徳川御三家」とは、尾張徳川家(家康の九男・徳川義直が始祖)・紀伊徳川家(家康の十男・徳川頼宣が始祖)・水戸徳川家(家康の十一男
大僧正天海(233)「(寛永十四年正月)十日、いささか、御なやみあり。兼てはけふは葛西にてからせ給ひし白鳥もて、三家を饗せらるべき旨仰出されしが、御不豫によて其事なし。」(「大猷院殿御實紀」)「10日、家光は少し体調を崩された。かねてより、本日は葛西での鷹狩りで自ら獲られた白鳥を用いて、御三家を饗応される手はずであったが、将軍のご病気によって中止となった。」家光は相変わらず病弱である。ただこの度は大病と言うほどではなかった。「十四日御なやみさはや
おはようございます😊昨日までの「和歌山県の道の駅シリーズ」をお読みいただきありがとうございました。ついでといってはアレですが、せっかく寄ってきたので本日は和歌山城について書かせてください🙇♀️歴史が長いだけに一回ではまとめられないので、複数回に分けさせていただきます。和歌山城(別名虎伏城)は、虎伏山(とらふすやま)に天守閣が立つ和歌山県のシンボル的存在です。天正13年(1585年)に紀州を平定した豊臣秀吉が、弟の秀長に築城させたのが始まりです。その築城を担当(普請奉行)し
大僧正天海(201)「(寛永十一年十二月)廿日酒井雅樂頭忠世は西城失火の後城を出て、東叡山の僧坊にて籠居せしを聞召、御けしき宜しからねば、彌畏縮して山を出ず。大僧正天海につき、しきりに過を悔罪を謝しければ、天海尾紀両卿にこふ事度々に及べり。両卿より井伊掃部頭直孝、土井大炊頭利勝、酒井讃岐守忠勝もて愁訴懇願あり。此日聞召いられしとぞ。」(「大猷院殿御實紀」)「20日、酒井忠世は、江戸城の西の丸で発生した火災の責任から城を出て東叡山の僧坊に引きこもった。家光は、忠世の謹
大僧正天海(191)「(寛永十一年七月)十七日、勅使、院使参り、重ねて太政大臣に御昇進の叡智を傳ふ。こはすでに天下を統御まします事三世に及び、四海昇平の化に浴する事、ひとへに威徳の致すところなり。しかのみならず父祖みな相国にのぼり給ふ。芳躅連綿として絶べからず。よてあながち御推認の詔を下さるるとぞ聞えし。」(「大猷院殿御實紀」)「7月17日、勅使と院使が参上し、重ねて太政大臣に昇進させるという天皇の思し召しを伝えた。これは、家光公がすでに三代にわたって天下を統
大僧正天海(190)【家光上洛③】「大津へいらせ給ふとき、加賀中納言利常卿拝し奉る。まかでて後太田備中守資宗を御使として慰労せらる。」(「大猷院殿御實紀」)家光が大津へ入ると、加賀中納言・前田利常が拝謁にやって来た。利常が御前を退くと、家光は太田資宗を派遣し、利常をねぎらったのである。日岡まで来ると、今度は勅使(天皇からの使い)、院使(上皇からの使い)、そして公卿や殿上人たちが家光をお迎えしようと参上していた。また、摂関家(五摂家)の人々は使い
今朝息子の厄祓いで和歌浦にある紀州東照宮へ。実は、氏神様の【濱宮神社】へ予約の電話を入れたが宮司の島田氏の体調が悪いという事で、先の予定は建てられないという。そうなると和歌山市で最も由緒ある神社と言う事で【紀州東照宮】でお願いする事にした。駐車場の、奥にある東照宮会館「拝殿」で執り行われた。そして本殿にお参りする事に。紀州東照宮を簡単に説明すると元和七年(一六二一年)紀州藩初代藩主で徳川家康公の十男である徳川頼宣公により父家康公を祀り、天下泰平と人々の安寧を願うために和歌山市和歌浦の地
《養珠寺御首題》−瀧ノ口法難−−小松原法難−《オリジナル御朱印帳》−養珠院お万の方−アート御首題とオリジナルの御朱印帳をいただきに和歌浦まで行ってきました…と言っても依頼のみで年内には郵送して貰えるという事になりました千糸繍院さんの縫製御朱印帳は30冊のみだそうです再販が無ければ貴重ですかな本堂ガメラゴジラウルトラマン
大僧正天海(142)秀忠は御三家に向かい、「今の将軍は果報者だ。先代とお別れした時、私は些細なことでも、話し相手がいないため、随分心細く感じたものだ。それが今では、解決が困難な問題も、お互いに心を通わせ、将軍を支援することができる。もし将軍に相応しくない挙動があったときは、汝等のうちで代摂(職務を代行する)することだ。決して神祖(家康)の櫛風沐雨の労を忘れることのないようにしなさい。」と話した。三卿は感涙して言葉もなかったのである。次に秀忠は老臣を呼び、「私
大僧正天海(141)「(寛永九年正月)三日拝賀例の如し。金地院崇伝まうのぼり年筮を献ず。大御所年筮は御病中によりて奉らず。此のほど駿河大納言忠長卿はしばしば崇伝につきて、御勘気御免のことをこはれしとぞ。」(「大猷院殿御實紀」)正月3日、例年通り、崇伝は年筮(占い)を行うために登城した。忠長は崇伝を通じて「御勘気御免」を願い出たが、これも認められなかった。4日、将軍家光、尾張大納言義直、紀伊大納言頼宣、水戸中納言頼房がそろって西の丸の秀忠を見舞った。7
京都/奈良を経由し和歌山へ、ほぼほぼ知らない街の散策は放浪癖の賜物、そんな身としては中々に満足なひとり旅、、紀州東照宮侍坂百八段あるとか鶴岡八幡宮の古例にならい頼宣公が陣頭指揮、家臣が一段一段積み上げたもの👀御朱印全国東照宮連合会加盟社巡り三つ葉葵の押印篇紀州東照宮全国東照宮連合会加盟社徳川家康公(東照大権現)と紀州藩初代藩主徳川頼宣公(南龍大神)創建は徳川頼宣公(元和七年1621年)和歌山県和歌山市『長栄山本門寺(池上本門寺)(五重塔特別御開帳)[東京都]
☆不老橋/芦辺屋・朝日屋跡地(和歌浦)紀伊国名草郡和歌山市和歌浦中(P有)日本遺産に登録される名勝「和歌浦」の「市町川」河口間際に架かる「不老橋」。「妹背山・鏡山・奠供山・運蓋山・妙見山・船頭山」の海に囲まれ6山が並び、玉を連ねたように並んだ島々であったことから、総称して「玉津島山」と歌われました。この地に行幸した聖武天皇があまりの美しさ景観に感動、「弱浜(わかはま)」であった名を「明光浦(あかのうら)」と改め、景観を守るために管理者を置くよう命じ、「玉津島と明光浦の霊」を祀るよ
☆妹背山(附三断橋)紀伊国名草郡和歌山市和歌浦中(P有)日本遺産に登録される名勝「和歌浦」に浮かぶ周囲250mほどの小島。「妹背山・鏡山・奠供山・運蓋山・妙見山・船頭山」の海に囲まれ6山が並び、玉を連ねたように並んだ島々であったことから、総称して「玉津島山」と歌われました。この地に行幸した聖武天皇があまりの美しさ景観に感動、「弱浜(わかはま)」であった名を「明光浦(あかのうら)」と改め、景観を守るために管理者を置くよう命じ、「玉津島と明光浦の霊」を祀るよう(玉津島神社)詔を出し
こんにちは。今日は晴れましたね。法華経と養珠院(ようじゅいん)について…。(お万のかた・蔭山殿)養珠院は17歳で57歳の徳川家康の側室となりました。そして徳川頼宜(とくがわよりのぶ)徳川頼房(とくがわよりふさ)の生母となり…。徳川光圀(とくがわみつくに)の祖母にあたります。養珠院は蔭山氏の養女で実名は「万」まんそのためお万の方と呼ばれていましたが徳川家康の側室には「お万のかた」と呼称される方が2人いたため蔭山殿と呼ばれるように
大僧正天海(86)そもそも事の始まりは、元和8年(1622年)であるという。秀忠、家光とも天海への信頼篤く、しばしば登城を望んだが、江戸城から川越仙波は一日の行程であり、既に高齢となった天海には重荷であった。そこである日、家光に江戸城近くに法地を頂けないかと頼んだところ、望みの地があればこれを許すといった。天海は、良き土地がないかと江戸城郊外を探していると、城の東北に忍の岡という場所があった。これが後の上野である。「山色寂寞として林容幽邃なり」と
大僧正天海(78)「八月六日、新将軍内大臣家光には、優渥なる天恩を拝謝すべく、九重の雲を分けて参内す。右大臣秀忠を始め、親戚公卿殿上人、及び尾張中納言義直、紀伊中納言頼宣、水戸宰相頼房以下、数十の武林之に会して、其儀容の巍乎たる、実に目を驚かすばかりなりき。」(「大僧正天海」須藤光暉)さてこの度、天海はお福に請われ、右大将・家光のお供として上洛した。しかし、その後の儀礼には参加せず、比叡山にのぼり、南光坊で日々を過ごした。年齢的に仰々しい儀式には、なるべく参加し
No.0835(酬恩庵一休寺)今日のテーマは『落語漫遊記』近い将来、私自身が落語の旅を趣味にするためのガイドブックにでもなればと思います。(笑)タイトルは……「落語漫遊記」。落語の「縁(ゆかり)」を書き留めたいです。今日ご紹介する「縁」は友ヶ島[和歌山県]苫ヶ島は加太岬の沖にある無人島で、神功皇后が難船したとき、苫によって導かれたため苫ヶ島と名づけたという。後に友ヶ島と呼ぶようになったという。友ヶ島は、沖ノ島、虎島、神島、地ノ島からできています。戦前は、紀淡海峡の要衝に
大僧正天海(55)大坂城から越前に戻ると、胸に渦巻く怒りと空疎感に忠直は、日々悶々とするばかりであった。いつしか忠直は酒と女に溺れるようになる。「元和元年七月十七日大坂御帰陣、忠直卿今年より不行跡。」(「越藩貴耳録」)元和2年(1616年)4月、家康は75年の生涯を閉じた。忠直には形見として「國次の刀一振」と「銀50枚」を与えられた。秀忠の時代に入ると、義直・頼宣・頼房の三人(御三家)が重んじられるようになる。忠直は、常にこの三人より下位に置かれ、明
先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば
令和7年8月24日(日)紀三井寺から竈山神社へ向かう。車で10分程度のところにある。電車の最寄り駅は、和歌山電鉄貴志川線の竈山駅。駅からは徒歩15分〜18分くらい。〈竈山神社〉正面境内鳥居。大鳥居は竈山駅から和田川を渡ったところにある。参道脇には野球場がある。今日は、少年野球の試合をしていたようだ。子供達の歓声が森の中に響き渡る。神門。各社殿は紀伊藩主徳川頼宣によって再建され現在に至る。手水舎。斎館・参集所。拝殿・本殿。拝殿から見た神門。絵馬掛け。本殿。合祀神社
大僧正天海㉜広島城の城門では、福島治重以下、家中一同が裃を着てこれを迎えた。治重は上使に城内の武器の目録、諸士の分限帳、行政関係書類、そして城門の鍵を渡したのである。上使らが城内に入ると、城は隅々まで掃き清められ、大広間には決死の覚悟で籠城した侍衆の名前とその事跡を大書して張り出してあった。これを見た諸藩のものは、大急ぎでこれを書き留めたのである。広島城に籠城した二千余の侍衆は、一人残らず「忠臣」として諸藩に仕官が叶った。例えば吉村又右衛門は一万石で松平
3泊4日の和歌山県漫遊初日。最後に訪れたのは、徳川御三家の一角を成す紀州徳川家の居城。◆和歌山城◆(国指定史跡・日本100名城)大手門和歌山市街の中心に位置する丘陵、虎伏山に築かれた名城です。築城されたのは豊臣政権下の時代。天正13年(1585)、紀州を平定した豊臣秀吉が弟・豊臣秀長に命じて築城させました。その際、地名が若山から和歌山に改められたそうです。この大手門は昭和57年(1982)の再建。東堀時は下り、慶長5年(1600)の関ヶ原
和歌山漫遊、一の宮の次は東照宮。徳川家康を"東照大権現"と神格化して祀った東照宮。日光を総本宮として、その数は関東東海を中心に全国100社を超えます。そして勿論、徳川御三家の一角を成す紀州和歌山にも東照宮があります。和歌山駅からタクシーで5分程、「万葉集」にも詠まれた風光明媚な和歌浦の一角へ。◆紀州東照宮◆三ノ鳥居朱色の塗装が剥げたかの様な石鳥居。二ノ鳥居時代毎に建てられた石鳥居が続きます。一ノ鳥居参道は深淵な森の中へと続きます。
【問題】慶長14年、徳川家康の十男・頼宣が加増転封された先は、次のうちどの地か?【選択肢】美濃・飛騨・北近江備前・備中・西播磨駿河・遠江・東三河大和・伊賀・南山城【正解】駿河・遠江・東三河【解説】慶長14年(1609)、徳川頼宣は駿河・遠江および東三河の計50万石に加増転封された。しかし、当時頼宣は幼少で駿府城に家康がいたことから、政務は引き続き家康が執った。
本当は出立前に完結されたかったんだけど余ってしまったものは仕方がない。畿内から東海道と南海道の旅路、最終日にして最終回。ホテルの窓から和歌山城。早朝は雨でしたが、動き出す頃にはほとんど止んでいたのは助かった。『実刻旅記・紀伊国~摂津国』今回も一日遅くなってしまったがリアルタイム?旅行記最終日。本日は和歌山県・大阪府。予定にはなかった紀三井寺だが、時間が合わずに重文の仏像は見られなかった……ameblo.jpそして最終日も予定外から始まる。クソ狭道のため、完全片側通行だ
南光坊天海(208)大坂の役では戦死する者も多く、子や弟がそれぞれ家を継いだ。その外、土井利勝は岡山の陣で首級98を上げる武勲をあげ、2万石加増を受け、6万5千石となった。また、阿部正次は7千石を加増され、2万2千石となった。佐久間安政は3万石となり、佐久間勝之は1万石を給わり、1万8千石となった。木下利房には2万5千石、三枝昌吉は3700石加増となり、6千石になった。市橋長政に千石、久世山広当に500石、青木義精に300石、永井白元に200石加増となっている。
南光坊天海(204)「どう思う。」と家康は唐突に尋ねた。「まず改易は免れぬものと思っておりましたので、正直驚きました。ただよく考えてみれば、勘当とは、大御所様と少将様の間のこと、幕府とはまた異なるのでしょう。」と天海は言う。「うむ、このままでは幕府から厳しい沙汰が出るであろう。先んじて、勘当すれば、オレが健在なうちは、処分保留となる。この間に名誉挽回ができればよいのであるが…。」と家康は暗い顔をした。「どうにも彼奴のやることは覚束ない。父親であるオレが見
続・和歌山城。小一時間ほど小休止し、再出撃。こちらは西外堀。おそらく唯一残るの外堀の遺構。堀の先の石垣が吹上門櫓台現在は埋め立てられていますが左に見える鳥居のあたりも元々は外掘。石垣から先が吹上口跡、石垣の手前が外堀跡。右側手前の石垣が吹上門櫓台で丁度この位置に吹上橋が架けらていたのではないでしょうか。吹上口は物資の搬入口だったそうです。護国神社一の鳥居。鳥居の奥にある石垣が勘定門跡で、吹上門を潜ると丁度桝形の位置になります。勘定門跡を抜けると西の丸跡だ
続・和歌山城。今回は二階から。金蒔絵梨子地葵紋散糸巻太刀伝10代藩主徳川治宝画「花鳥之図」11代将軍徳川家斉黒印上オットセイ将軍またの名を種馬公方というw大奥に入り浸り幕政をほとんど顧みない、それでいて歴代征夷大将軍(鎌倉・室町も含む)の最長在位期間を誇るという困った絶倫くんw12代藩主徳川斉彊画「松に叭々鳥」徳川斉彊はオットセイ将軍の二十一男。12代藩主徳川斉彊一行書葵紋革製陣羽織12代藩主徳川斉彊書状11代藩主徳川斉順書状