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あずみ2DeathorLove2005年3月12日公開刺客として戦い続けなければならない宿命を背負った少女剣士の生き様を描く時代活劇の続篇。あらすじ浅野長政、加藤清正の暗殺に成功した徳川軍の刺客・あずみとながらは、半蔵の部下として家康の側近・天海に仕える伊賀忍者衆のくノ一・こずえと共に、残る標的・真田昌幸を討つべく、彼が幽閉蟄居されている九度山に向けて旅を続けていた。だがその途中、あずみはかつて使命の為に自ら手にかけた初恋の相手・なちと瓜二つの野盗青年・銀角と出会う。彼の姿になちを重
・・・・・・・っということで、昨日の続きです。興国寺城の次です。令和になって新築されたビジターセンター。武田軍が守る城を徳川軍が攻撃しています。↓興国寺城に比べて大規模です。武田の特徴である三日月型の馬出が見えますね。↓何重もの堀の数々。それもかなり深いです。↓堀を渡るには、この細い土橋を通るしかありません。↓堀の底に下る道。↓せっかくの堀に杉を植林するものだから、原型が分かりづらいです。↓こういう城跡って結構多いんですね。正面の防衛は何重もの堀でガードしていますが、背面
日本で一番人を殺してる戦争は、頭の回転が速い人・仕事できる・予定組むの得意・話すの早い・せっかち・一人でなんでもする・理屈っぽい・論理的・物知り人と、頭の中がゆるゆるな人・仕事普通もしくはおそい・のほほんとしてる・話すのおそい・予定とか立てるの苦手・わからないことたくさん・文字読むの苦手・忘れ物よくする・他のことが見えなくなる・すぐぼーっとしちゃうとの《戦争》ですよね。笑。
これは夏休みに入る前に行われたイベントです。子どもだけの少人数での開催だったので、安心。秀吉軍、真田軍、徳川軍に分かれての対戦。腰にボールをつけ、それを落とせば勝利だそうです。関西での開催のため子どもが好きな伊達軍は、ありませんでしたが、ヘトヘトになって帰ってきました。家康軍のオレンジチーム。惜しくも敗れてしまったそうですが、相当楽しかったようです。ずっと自粛要請に応じ、お出かけしていない…旅行はおろか府内にあるUSJはもちろん、遊び場も行っていないし、外食もしていない。
別所温泉・北向観音、安楽寺、常楽寺を巡り再び上田市内に戻って来ました。目的地は、上田城。日本百名城27番目。真田昌幸・信幸、信繁を語るに上田城は外せません。天正10年(1582年)主君だった武田氏が、織田信長の甲州征伐で滅ぼされたが信長は本能寺の変で横死すると甲斐国・信濃国を巡る天正壬午の乱が勃発。越後の上杉・相模の北条・三河の徳川が領土拡大を狙います。主君を失った真田昌幸は、小勢力ながらも小県郡を本拠地で独立。策を練りながら上杉、北条、徳川と主を次々に変え生き残りを計ります。天正
こんにちは。日の入りも段々と早まり、めっきり秋らしくなってきましたネ。ただ、たまに蒸し暑い日があったりして爽やか秋日和とはいかない模様。さてさて設楽原の戦場巡り第四弾。今回は馬防位柵に近づいてみます。保存会の皆様が数年に一度新しく掛け直すのだそうです。現地調達したほうが早そうな気もしますが。岐阜から担いでくるのも大変でしょうに。柵は三重に巡らせていたようです。しかし素人の浅はかな考えかもしれませんが、何故、足元がぬかるむ中、わざわざ攻めにくい正面から突進していったの
長篠城へ行ったついでに長篠・設楽原の戦いのもう一つの舞台設楽原にある歴史資料館へも行ってきました~こちらでも長篠・設楽原の戦いについて勉強。長篠城から車で10分ほどの距離にある設楽原ですが長篠・設楽原の戦いはこのような布陣でした。まずは長篠城に攻撃を仕掛けた武田軍上の模型の右側で戦っていたのですが模型左側にある織田・徳川連合軍が布陣すると武田軍は設楽原に移動織田・徳川連合軍vs武田の戦いが始まります。その戦いの様子です。左側の馬防柵で鉄砲を撃ちながら自
こんばんは〜今日はカウンセリングとお金をおろす日でした。いつもならカウンセリングが終わったあと寝てしまうくらい疲れてしまうのですが今日は寝ないで晴れ間を見計らい洗濯をしました。夕方に干したので乾ききらなかったんですけどねそれからBASARA4をやりました。本多忠勝が使いたくて家康のストーリーをクリアすればいいのかなと思い進めていくとBASARA3では語られなかった秀吉とのお話があり衝撃をうけました。BASARA3宴までしかプレイしていなかったわたしはてっきり家康が豊臣軍を
お疲れ様です!この前仕事の休憩中真田幸村さんの最後迎えた場所に行きました!四天王寺から徒歩3分入った瞬間から凄い空気が変わった!うぉ〜真田幸村さんの最後場所や〜((((;゚Д゚)))))))スゲェ〜迫力が((((;゚Д゚)))))))この一本松で亡くなったのか((((;゚Д゚)))))))ここで徳川軍と戦ったのかここから大阪城まで結構な距離あるのに大阪城から四天王寺まで戦に行くぞってなったらぼくがいてたら大阪城から森ノ宮でバテてる(爆笑)こんな距離考えたら凄まじい戦いやったのが
【問題】徳川軍が、犀ヶ崖という地で敵に大きな損害を与えた伝説が残るのは、次のうちどの戦いの直後のことか?【選択肢】桶狭間の戦い姉川の戦い三方ヶ原の戦い長久手の戦い【正解】三方ヶ原の戦い【解説】徳川家康は、三方ヶ原で武田軍に敗れた後、これに一矢報いるために、犀ヶ崖(さいががけ)という地で武田軍を夜襲し、大きな損害を与えたという(諸説あり)。
1570年6月に織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉義景の連合軍が死闘を演じている。戦いは織田・徳川軍が2万8000浅井・朝倉軍が1万8000という大軍が姉川を挟んで対峙した。初めは浅井・朝倉軍が有利だったが徳川軍の奮戦により最終的に織田・徳川軍が勝利跡地は今美しい田園が広がる風景となっている。家康が陣を強いた岡山は、この時の勝利にちなみ勝山という名になり現在も残されている。
歴史学者磯田氏のことは先だって書きました。100年前のパンデミックの説明で、余談ながら徳川15代将軍徳川慶喜の大坂城退避のときのことを少しお話していました。徳川軍が京都に進軍している途中に薩摩・長州軍に待ち伏せをくらい、散々にやられてしまいました。大阪城でその報を聞いた将軍は船で大坂を脱出し江戸の帰ってしまった。大将のいなくなった徳川軍はこれを境に負け戦を続け、徳川幕府は終わりを告げます。このときの慶喜公はインフルエンザだったと磯田氏は言ったのでした。病み上がりに、進軍させろと急
長久手古戦場公園池田恒興と森長可の部隊(秀吉軍)と徳川軍とがぶつかり、池田・森隊が壊滅した小牧・長久手の戦いの主戦場跡地。郷土資料室室内撮影禁止29日以降は不定期な更新になります。哲学者の言葉、何か知ってる?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう
宗源院は普済寺十三門派のうちに数えられる寺歴の古い曹洞宗の寺で、1416(応永23)年に開創された。実質開山は華蔵義曇(けぞうぎどん)禅師の法弟在天弘雲和尚である。室町後期には今川義元の庇護をうけ、義元自身が開基としての役割を果たし、再建を行っている。そうした関係を裏付ける史料としてこの寺には浜松市の文化財に指定されている今川義元とその子である氏真の判物が残されている。三方ケ原の戦い三方ケ原の戦いの際、徳川軍の武将成瀬藤蔵正義が奮戦の末に討死、その成瀬正義の五輪塔が宗源院の墓苑にあ
Part1:北陸新幹線車両基地長野水害地現場を行くPart2:千曲川(台風19号)堤防決壊現場視察Part3:上田電鉄千曲川橋梁落橋現場,上田〜城下駅折返し運転今回アップは、台風被災状況はゼロ、鉄分もゼロです。悪しからずⅡ)観光編3.上田城跡(真田神社)訪問毎年の長野出張の際、新幹線の車窓から上田駅手前で気になっていた上田城址。上田電鉄の被災現場の後、初めて訪問しました。1)上田城の歴史(写真は東虎口櫓門)上田城🏯は真田幸村(信繁)の父正幸が1583年に築城。2度に渡って徳川軍
2016年11月5日愛知県長久手市尾張長久手古戦場跡尾張長久手古戦場おわり:ながくてこせんじょう歴史1584年3月~11月に行われた羽柴秀吉×徳川家康の覇権争奪戦である。3月17日秀吉軍先鋒の森長可隊3000が功を焦って犬山城から羽黒へ陣を進めるが、家康軍の酒井忠次・奥平信昌・榊原康政6000の迎撃で敗退となる〔羽黒の戦い〕。説明県道6号線古戦場南信号を北へ曲がると、長久手古戦場公園・長久手町郷土資料室が在ります。古戦場関連の史跡はこの資料室の駐車場に立
あの日の当たりは料理長の写真×2賞品:鳥五目おにぎり大当たり×2賞品:次回料理かデザート一品サービス4個とも清正さまの宵の陣だったけど当たりを引き当てた4人全員徳川軍だった(笑)じゃんけんは弱いが、ここぞの引きは強いな、と話す私と城友さんと。Twitterではチラ見せでしたが、こちらでは全形をば。みたくない方はここで止めて下さい。みたくない人はこっから下はネタバレだから。デザート選んだ方は自己責任で。では、いきます。こちらが大当たりのサービスの一品。でした~~~
・・『Zipangu』IsJapaneseBigPictureFirst.PleaseDon'tKorea❗️Truth・・真実は動き始めた2020年(R2)、BigChina、SmallChina(SpecialAsia)3国は呪詛、憎しみ、Ttongsulに満ちていた。TheXXXFiles・・・20th.FutureGeneration!真実と闘え・・・ZipanguIndependenceBanzai⁉️
こんばんは、やましゅんです。新しい趣向を…と、【れきし】シリーズのblog記事を書いてみます(^^)/第1回目は、2016年の大河ドラマ「真田丸」で脚光を浴びた「真田一族」にスポットを当てます♪(大河ドラマ「真田丸」のNHKのwebサイトはこちらをクリック)※歴史上とは誤った記載をしてしまっているかもしれません。その際は、ご意見ご指摘のほどをコメント等でお願いいたします(;^ω^)*************真田一族の名を世に知らしめた
こんにちは。先日、関ケ原合戦祭り2019の締めくくりのイベント。関ケ原合戦絵巻に井伊直政役で出演させていただきました。徳川軍副将、忠勝公と。戦場で虎視眈々と隙を伺う赤い軍勢。先陣を切る。手傷を負い動けなくなる戦の最後。戦の前はニコニコしてたんですがね^^100名以上の参加者の皆さんがタスキを最後までつなげた熱量の高い作品に参加させていただきありがとうございました!最後は仲間たち。徳川軍の雄姿を見ましたか?そして。徳川軍御大将、家康公に徳川コ
子供達のリクエストで上田城へ!特に、真田丸を夢中で観ていた息子。実際に来られて感慨深かったみたい南櫓にて。武者窓と鉄砲狭間を覗いてみる。私も矢狭間から。想像以上に高い位置にあり、遠くまで見渡せます!スタッフの方々がとても親切で。真田家の六文銭の法被を貸してくれましたそして火縄銃を触りまくるふたり。笑本丸跡。沢山の木が植えられていて広場のようになっています。2度にわたって徳川軍を撃退した名城。石垣も立派で資料館もとっても見応えありました!行ってよかったです!
どうも!美剣雷覇です。前回のブログでなるべく早く更新すると書いておきながら2ヶ月以上経ちました。なかなか更新できず申し訳ありません。今回は前回の続きです。真田信繁は大坂城の南側が弱点であることを見抜き、出丸を構築しました。12月2日、徳川家康から城を攻撃する前に塹壕を掘って土塁を築くように命じられた前田利常は、塹壕を掘り始めると、それが真田丸の望楼から丸見えであり、真田信繁は真田丸の前にある篠山から火縄銃で狙撃して妨害しました。12月4日、前田軍は篠山を奪取しようとすると、事前に察知
先日、戦国時代に作られたお城を特集されたCATVを見ました。凄く気になったのが、江戸城は有名ですが、徳川軍(勢力を拡大しまくっていた時)が二度攻めても落とせなかった上田城も、風水を取り入れていたんですね。そういえば有名スポーツ選手も、ゲン担ぎをしたり勝負の世界に生きている方は運気も重要視しているんだなと改めて実感しました。
どの時代においても、戦いでの戦略・戦術はとても重要だ。徳川家康が武田信玄に挑んだ三方ヶ原の戦いは間違った戦術だったのか、家康は命からがら逃げ徳川軍は大敗した。武田軍は3万の兵力で家康の領地であった三河の浜松を通過していた。対する徳川軍は約1万であり、普通に考えても徳川の不利は明白だった。武田軍も戦う意思はなかったと言われ、素通りだったにも関わらず、家康は籠城戦を取らずに、武田に対して撃って出た。徳川軍は鶴翼の陣。対する武田は魚鱗の陣。徳川軍は武田軍の背後から襲撃し、なおか
続きの幕末です150年前の本日は、明治2年5月5日。伝承による、旧暦の歳様のお誕生日ですね。当時「誕生日」という意識はないと思うけれど、最後の誕生日となってしまう満年齢だと34歳。ハピバって小さな声でつぶやいたりして…と、メソメソしそうなので、さっさと本題にこの日は大雨の為に海戦はなく、桔梗野方面で戦いがあったようです。五月五日東風大雨振。海軍戦休み、陸にて官軍徳川と桔梗野にて戦争有之。(新開調記)実は昨日の記録にも、「桔梗野小屋小屋
武田軍から徳川軍を見る感じ武田123体徳川85体両軍合わせて208体