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こんにちは小掃除など・洗濯槽クリーナー・電子レンジ掃除・風呂釜洗浄・クリーンセンター搬入私はクリーンセンターへ行った後、「道の駅おばあちゃんの里」さんでぜんざいを食べました😋帰りにお墓参りへ行きました。お墓といえば、徳川慶喜公の玄孫に当たる方が「家じまい」を発表されました。お墓掃除だけで2万歩歩くとか、資料が何千点もあるとか、個人では抱えきれないご苦労があったんだろうなと思います。
「最後の将軍」徳川慶喜家も墓じまいへ5代目当主の決断「住んでもいない300坪のお墓の維持費用が現実的でない」(2025/12/03)https://youtube.com/watch?v=NXxFbNDWjK4&si=hBke-th5CK_NRlX3将軍で無理なら我々庶民ではなおのこと無理ですな…笑やはりこの墓の制度そのものに、何かしらの滞り問題が出ているのでしょう。根本の制度に問題がなければ、トラブルは多発していないはず🧐トラブル=更新時期、バグ修正が必要のサインです。制度
徳川慶喜家第五代当主・山岸美喜さんが、家内で代々伝わる新選組の評価を旧Twitterに投稿していた。それが新選組ファンの逆鱗に触れたようで、タイムラインがずいぶん荒れているらしい。怒る気持ちもわからなくはないけれど、正直ちょっと面白い。そもそも、征夷大将軍が会津藩お預かりの浪士隊のことを知っていたこと自体が驚きだし、その“悪口”が代々口伝で残っているというのもすごい話。片や大政奉還で幕府を終わらせた人、片や「幕府を終わらせてなるものか」と五稜郭まで戦い抜いた人たちなのだから、互いを高く評価
江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の玄孫にあたる山岸美喜さんが、明治期に創設された「徳川慶喜家」の5代目当主として墓じまいの検討に入ったという記事が毎日新聞に掲載されていた。私は2017年に偶然この墓を訪れている。【日光の旅谷中】日光に旅する前日、やなか銀座を散策し、日暮里駅へ向かっていたら谷中霊園を偶然発見しました。中に入ってみると「徳川慶喜墓」と標識が立ててあります。これは何かの偶然かもと思い進んで行くと、そのにひっそりと徳川慶喜の墓がありました。江戸幕府第15代征夷大将軍つまり
//三田村邦彦(@Kunihiko_M92)さん/X明治維新の志士は今の国会議員の年齢のほぼ半分の若さ!この若さで江戸から明治へ!#110_明治元年(1868年)のときに明治維新の志士たちは何歳だったか|FlowerzLawOffice(FLZ)午後10:16·2025年9月9日///「べらぼう」で高橋英樹さんが徳川治貞を演じています。高橋英樹さんといえば「翔ぶが如く」の島津久光役が印象的ですが「篤姫」で島津斉彬公を演じたときは驚きました。「西郷どん」の斉彬役だった渡
この度、徳川慶喜家の祭祀継承という事になりました。8年前に亡くなった叔父第4代徳川慶喜家当主徳川慶朝の遺言で、私に譲るという遺志がありましたが祭祀継承というのは、相続財産とは切り離され慣習によるものというのが、法的見解のようで親族を含めた関係者で意見を伺ったり調整をしておりました。やはり徳川家という封建的な社会でしかも、女性の現役当主というのは前代未聞でなかなか理解に至るまでに時間がかかりました。しかし、その中でも変わらずお墓参りを続け墓地の管理もして(途中から上野東照
今日は叔父、徳川慶朝の命日で8年祭を執り行いました。お世話になっている方々にお声がけして墓参と直会そして上野東照宮へのお参り徳川慶喜家御墓所(谷中霊園)にて約300坪あります。この墓地はもう個人で維持できるレベルではなく、墓じまいを考えておりますがそれは、更地にするとかではなく親族の管理ではなく然るべき所にお渡しをし今後、子孫が関わらずとも終生お守りいただくようお願いしたいと思います。お墓というのは、本来は子孫が守るべき物であり、お墓にこだわる時代もあったと思います。
2023年に徳川慶喜家の当主という事を明言させていただいたのですが叔父が亡くなってから約5年の間徳川慶喜家の遺言執行人、受遺者として責任を果たしてきたのですがいかんせん女性で徳川姓でない事で周りの理解に至らず私の立場蔑ろにされる事も多くまた批判や妬みによりやろうとする事にバイアスがかかったり見下されたりという苦しい時間がありました。自分が当主ですなんてこいつ、何いってるんだ?みたいにそれこそ白い目で見られそうなんですが私は当主として自分が徳川だと主張する意味
今回、プリンセス将軍珈琲というのがサザコーヒーから発売されました。コロンビア産カツーラ・チロソ種という、新しい豆の品種で突然変異と言われています。徳川家はもちろん東京(江戸)出身なのですがサザコーヒーの創業者鈴木誉志男さんと叔父の徳川慶朝の出会いが徳川という閉鎖的な社会を一変させたと言っても過言ではありません。そこにあるのは親切と配慮と感謝の世界これまでの徳川なんだから◯◯しなくちゃいけない◯◯すべきだみっともないからやめろなどという、周りの意見を押し付けられ
2014年にガンが発覚し2017年に亡くなった叔父の話糖尿病を患っていた叔父は定期的に病院で血液検査を受けていましたがある日、血液検査で貧血が続いていたり腫瘍マーカーの数値でガンの疑いとされ、大きな病院に行きました。精密検査の結果咽頭がん、食道がんという複数箇所でのがん(転移ではない)で原発性のダブルキャンサーという診断。咽頭がんは、複数のリンパ節に転移していてその大きさもピンポン玉くらいでしたし食道がんも浸潤が進んでおり咽頭がんはステージ4食道がんはステージ2b
7年前、18時ごろオーケストラのリハーサルの帰り最寄駅からチェロを背負って歩いて帰宅している時でした。ケータイに電話があり出てみると叔父の看病でお世話になっている人からで美喜さん、慶朝さんが玄関で倒れて今、救急車を呼んだんですけど心臓が止まっているみたいで心臓マッサージしています。と。。。は???急いで帰宅し、楽器は置いて、急いで2階に上がり国内旅行用のスーツケースを開きお泊まり用に荷物を入れ最後に、喪服も入れて急いで家を飛び出しました。2日後、友人のいるアメ
みみずのたわごと徳川慶喜家に嫁いだ松平容保の孫の半生[徳川和子]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}やんごとないお姫様の著書ですが、なぜ「みみず」?と思いました。著者曰く「地下でゴニョゴニョ言っているから」だそうで、そのセンスにお育ちを感じました。幕末の悲劇のように思われる「会津藩」松平容保の孫と聞くと、学習院などでも苦しいお立場だったのかと思っていましたが、お育ちの良さから来るのでしょうか、屈託のない人柄がうかがえるようなエッセイです。徳川慶喜家に嫁
去年度から進めてきた将軍米プロジェクトお米に日本の歴史を乗せて。。。日本のお米は、諸外国の小麦粉などの穀類とは一線を画し、日本の歴史と文化、そして風習が込められています。小さい頃とかお米つぶを残したら目がつぶれますよ!最後まで食べなさい!なんて教えられていたりしたんですが。。。あ、ワタシの時代はそうなんですけどそれだけ一粒一粒を大切にという教えなのでしょうが目がつぶれるって、なんて恐ろしい😱そこまで脅迫するかね?まぁ、その心はそれだけ大切にしなさいという事なんだと思
私の母の生まれた家が徳川家であった事は選べるものでもなく53歳で亡くなった事も自分の力だけではどうにも出来なかった事。そういった事は、母だけでなく全ての人に当てはまる事でもあると思っています。歴史に良し悪し、正誤を判断するのではなくそのものとして、受け止めるように努めています。時にXに、徳川家の歴史を投稿していますが資料が残されている事からまた、その時代を反映する資料だったりでコメントをつけながらの投稿ですが今、私の中で学んでいる事はその時代に生きた人の気持ちを受け止め
一昨年あたりから、講演をさせていただく様になりました。お声がけくださるのは企業様やロータリークラブ、ライオンズクラブや自己啓発セミナーなど。。。初めての講演会は30分くらいの会でしたが本当に緊張しました。30分も持つかな。。。💧しかし、だんだん回数を重ねるにつれうまくいった!!喜んでいただけた!!と感じる事もありまた、著書がたくさん売れる事もありました。初めて伺う所では徳川慶喜家の始まりと現在というような内容でお話させていただいています。徳川慶喜家がどのように成り立
小さい頃から、お墓参りはとても楽しみにしていたイベントでした。大好きなおじいちゃまとおばあちゃまとママと兄とそして写真を撮ってくれたのが、アンクルこの写真、私は嫌いだったのです。目をつぶっているし。でもアンクルはそれがいいんだよ。。。って言っていました。正確に言うと、楽しみにしていたのは、お墓参りそのものではなくてお墓参りに行くと、みんなで美味しいご飯が食べられるから。。。数年前、アンクルがガンになり看病していた中でお墓参りの話になりました。昔々、お墓参りのあと、し
德川慶久(カラー処理)德川慶久(左)と實枝子(右)夫妻の墓谷中霊園囲碁の愛好家としても知られた江戸幕府15代将軍・徳川慶喜は、明治35年(1902)に公爵を授けられた際、宗家から独立し「徳川慶喜家」を興すが、二代目の德川慶久(よしひさ)は、明治17年(1884)に慶喜の七男として静岡で生まれている。母は慶喜の側室、新村信で、初名は久(ひさし)。慶喜は子の多くが幼くして亡くなり、それを避けるために生まれた子供を他家に預けて育てたそうで、久も宮川喜久蔵、次いで黒田幸兵衛に預けられ
第四代徳川慶喜家当主であった徳川慶朝が遺言にて私を指名し全てを私に託して2017年9月25日に亡くなりました。それ以来、私が徳川慶喜家の責任者として色々な事を進めてきました。ただ、徳川家の当主というのは徳川姓の男子が継ぐというのがならわしで私は当主ではないと、思われていました。しかし、寛永寺に行って、遺言書を見せながらお話したのですが家を閉じるためには、今、生きている人が当主とならなければなりません。葬儀を出したのも山岸さんですしこの遺言書見ても然り。私たちは、山
先週木曜日の「マダムの部屋」オンタイム(有)社ハイブリッド配信の講座大好評、盛大にもりあがり、なんと翌日お二人からサザコーヒーの写真も届きました!ゴールドのカップの入ったカフェオレオンタイム社のスタッフさんからの写真ですまだむも「このカフェオレが1番おすすめ!」だそうですこちらの写真は某区長様が新橋のオープン間もないサザコーヒーから送ってくださった1枚とてもおいしそう私が東京駅のサザコーヒーへ行った時は行列がすごくてきらめてしまったの
松平容保の孫である祖母が書いた原稿をもとに出版したみみずのたわごとが世に出てから、約1年が経ちました。近代史ベストセラーとして何度か一位になったり、全国の図書館に複数冊導入され、沢山の方が借りて読んでくださったりして本当に有り難く思います。誤解されやすいのですが私は徳川慶喜の子孫だということ主張したいのではなく一番に目標にしている事は沢山の方に、生きた歴史として認識していただく事なのです。図書館に入る書籍というのは、読むべき本として認められる事で、とても嬉しく思いました。徳川
ネットで見つけたこの本の著者は徳川家最後の将軍、慶喜のお孫さんにあたる方だそうで最初の方に載っている家系図はとても華やかで更に徳川慶喜邸見取り図をみると迷ってしまいそうな程の驚く広さで同じ家にいてもその日は会えずじまいという日もあったとのこと。そんなお家柄に育った方は一体何を感じてどんな生涯だったのだろうと読んでみました。徳川おてんば姫Amazon(アマゾン)600〜5,280円慶喜公の孫という誇りある家柄であることを常に意識するように教育されていたようで言葉
叔父の葬儀は、とても質素なものでした。早朝にも関わらず、何人かの親戚に連絡をしたのですが、かねてより葬儀は小さく。というのが叔父の遺言でした。というのは、祖父や祖母の葬儀はそれはそれは大きく立派でしたが、同時に大変でした。寛永寺輪王殿で行われたのですが、参列者は1,000人以上来てくださった記憶があります。そういった事はしないで欲しいという、思いやりの気持ちで言っていたのだと思いますし、連絡した親戚も皆、徳川家というより徳川慶朝個人の葬儀としたいという意向が強かったので、その
ガン治療を終えた叔父は自分の時間を手に入れました。人に煩わされることの無い朝🌅タバコを吸って🚬コーヒー飲んで☕️夜はお酒を飲んで🥃音楽を聴いて♪そのお酒とタバコがガンの原因なんですけどね。。。今更、本人に言っても本人だってわかってる。だから、わざわざ言わないに限りますオマケの人生好きなように暮らして下さい♪という事で、少しの間、会いに行かなかったらなんだか寂しくなったみたいで美喜ちゃん、いつ来られますか?と。。。というコトで、退院後も時々様子を見に行っていました
誰しもがそうですがガン患者の付き添いの為に、自分の存在があるのではなく大切な人への思いやりとその人との時間を大切したいから看病しているのです。大人になったら、やっぱり何でもお互い様だと思うのです。お世話になったら、お礼をするって普通の事だと思うのです。叔父がガンになって、私にお見舞いを預けた人が2名いました。1人は私の義母美喜さん、交通費とか大変でしょう?と言って、3万円くれました。もう1人は父方の親戚の叔母慶朝さんに何か買ってあげてと1万円くれました。私はそれ
手術後、3週間くらい経ってやっと歩き回れるくらいにまで回復してきました。一度、意識が無くなり、大変だった時があったのですが、無事に回復して少しずつ、歩行器を使ってリハビリをしていました。しかし、本人にとっては思った以上の大手術だったので、心に不安がいつも渦巻いていて、とにかくずっと側にいて欲しいと、涙ながらの訴えは、本当に私も心苦しかったです。いつもはこんな事、全然思わないんだよ。と。。。そういった時期が2ヶ月ほど続いたと思います。ガンという病は病そのものよりも、精神的な事とかそ
手術は無事終わったけれど、その後の闘いがとてもとても長かった。手術が成功してら、あとは回復のみという感じですが、叔父の場合は糖尿病もあるコトですし放射線と抗がん剤治療で体力も無くなっていたことにより一進一退でした。10日ほど、集中治療室にいましたが、一般病棟へ移る事になりました。ブドウのフサのような点滴は相変わらずです。酸素、抗生物質、水、ブドウ糖、痛み止め、などなど。。。消化器外科の病室は狭く、それでも個室は有り難かったです。痰が出るので、吸引用に喉に穴を開けて、日に数回、痰
この事は8年前の事ですが、人生を変える出来事だったので私の記憶に鮮明に残っているのだと思います。きっと私だけでなく、同じ様にガン患者と共に向き合って来られた人は、分かり合える所があるのではないかと思います。私の場合、叔父が亡くなった後は、病気だけでなく歴史とも向き合う事になりました。その家のしきたりや、親族の関わりなど、家ごとに違うので一概には言えないですが、徳川慶喜から続いた家の事ですので、決して簡単な事ではないですし、今も様々方の意見を聞いたり、助けていただいたりしています。大
私は名古屋に夫と2人暮らしです。もう20年以上になります。叔父の看病に通いだして、家をしょっちゅう留守にしていました。名古屋〜茨城はあまりに遠く毎週通い続けるには、精神力しかありませんでした。夫はそんな私を見て、最初は協力的でしたが、だんだんと顔が険しくなってゆきました。美喜がこんなに一生懸命やっているのに、他の人たちは一体何をやっているんだ?というのとそこまでする必要ないじゃないか?というのと。叔父も私の旦那さんには美喜ちゃん、とっちゃって申し訳ない気持ちもあるんだよ。
どんな人にとっても、家族の病というのは心の負担になると思います。ちょっとしたコトに怯えるというのでしょうか。病院から電話が有れば、何かあったのではないか?とか病人から連絡があれば、どうしたのかな?とか。。。8月のある日、叔父の手術が決まり、私は1週間泊まり込みで、筑波にいました。毎週、筑波に泊まっていたので、筑波近辺のビジネスホテルは泊まり尽くしたといっても過言ではありませんでした。手術の日は、朝8時に手術室に行くというので、7時すぎには病院に行きました。看護師さん達も色々と
顔で笑って心で泣いて。。。看病ってそんな感じかも知れません。叔父の主治医の先生はそれぞれ専門の先生がいらして咽頭ガンは耳鼻咽頭科のN先生食道ガンは消化器外科のH先生でした。全面的に信頼していました。食道ガンへは抗がん剤3クール点滴5日間〜3週間お休み〜点滴5日間〜3週間お休み〜点滴5日間咽頭ガンへは60回にかけて、放射線治療で先ず、ガンを小さくして、そして外科手術です。4月に入院し、一旦7月に退院して、身体を休めて、体力を復活させて、8月中ごろに手術となりました。食道切除