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お江の方400回忌の記念事業として進めてきた記念碑が完成いたしました。お江の方は徳川秀忠公の正室で家光公、忠長公のご生母です。かつて当院に存在したお江の方の御霊屋(霊廟)は実子である徳川忠長公が、母の菩提を弔うため建立したものです。その後、徳川吉宗公によって廃され芝増上寺に合祀されました。内部に位牌を安置する宮殿(厨子)は目黒祐天寺に寄贈されたため現存しております。この機会に多くの方に当院とお江の方のご縁を知っていただきたく思っております。宝台院副住職野上崇光
大僧正天海(143)「(寛永九年正月)廿四日夜亥刻、大御所大漸に及ばせ給ふ。廿五日御遺命には、御葬礼御法会倹約を宗とし、霊牌一の外何も新に製する事あるべからずとなり。」(「大猷院殿御實紀」)寛永9年(1632年)1月24日夜、10時頃に秀忠は息を引き取った。最後に命じたのは「祭礼・法会は倹約せよ、霊牌を一つ作ればよい。他には何も新調するな。」という言葉であった。長らく秀忠は「凡庸な二代目」と評価されていた。テレビドラマでも、関ケ原に遅延し家康に激しく
大僧正天海(141)「(寛永九年正月)三日拝賀例の如し。金地院崇伝まうのぼり年筮を献ず。大御所年筮は御病中によりて奉らず。此のほど駿河大納言忠長卿はしばしば崇伝につきて、御勘気御免のことをこはれしとぞ。」(「大猷院殿御實紀」)正月3日、例年通り、崇伝は年筮(占い)を行うために登城した。忠長は崇伝を通じて「御勘気御免」を願い出たが、これも認められなかった。4日、将軍家光、尾張大納言義直、紀伊大納言頼宣、水戸中納言頼房がそろって西の丸の秀忠を見舞った。7
大僧正天海(140)【秀忠薨去】「(寛永八年)閏十月朔日御咳気により外殿に出給はず。(中略)四日、御平癒有て始て西城にならせ給ふ。」(「大猷院殿御實紀」)家光は相変わらずで、病弱であった。周囲は、秀忠の病状が思わしくないのに、家光に万が一のことがあってはどうなるのか、心配で仕方がなかった。せめて家光に跡取りがいれば良いのであるが、その気配はなかった。「(寛永八年十一月)二十一日駿河大納言忠長卿江戸近郊迄もまかり、大御所御けしき伺はん事を金地院崇
ブログランキング参加しました。『ブログランキング』と『にほんブログ村』の2つです。よろしければクリックお願いします。歴史ランキングにほんブログ村いつも応援ありがとうございます。果たしてこれを日本史カテゴリーに入れてどうするのか悩んだんですが、一応史実パートもあるのでご容赦ください。私が大好きな時代劇に里見浩太朗が主演を務める松平長七郎シリーズがあります。最初の「松平長七郎天下御免」次いで続編の「長七郎江戸日記」がありますが、私は再放送も含めて熱心に観ていました。「三
大僧正天海(139)むかし私は、嘉明を「地味な方の加藤」と呼んでいた。清正に比べると、どうしても小粒な印象を受けるのだ。嘉明は朝鮮役でも加増され10万石となったが、秀吉薨去後は、「武断派」となり、筆頭大老・家康に接近した。関ケ原本戦でも活躍し、戦後嘉明は伊予国20万石になった。ただ伊予国には高虎も20万石で入り、領地も複雑に入り組んでいたため、両家はいざこざが絶えなかったのである。その後、居城を松山に移し、松山城を建設、城下町を整備した。大坂冬の
大僧正天海(137)「(寛永八年三月)八日、大御所疝なやませ給ふにより、御気色うかがひ給ふとて西城にならせらる。尾水両卿もまうのぼらる。」(「大猷院殿御實紀」)この頃から秀忠の体調は、急激に悪くなる。この「疝」とは恐らく「疝痛」のことで、腹部を中心に、急激に差し込むような激しい痛みが周期的に繰り返される症状をいう。ただし、疝には「ヘルニア」という意味もあり、26日には、灸治療により、「平快」しているので、その可能性もある。「十六日けふより、二十日迄、
大僧正天海(136)「一、駿河大納言様、弥(いよいよ)御手討かさなり、此十日前ニ小浜民部子御誅伐、其後御伽之坊主御きり候由候、年寄衆かたく御異見被申、以来ハ可仰付とて御かためニて候処、又か様ニ御座候。」(「細川家書状」)忠長は浅間神社で猿狩りをした帰り道、何を思ったか、駕籠の中から脇差を抜くと、駕籠かきの肘を突き刺したという。家光のもとには、これまでも忠長の粗暴な行いが報告されていたが、秀忠には知らせていなかった。寛永7年(1630年)12月、忠長は
大僧正天海(135)【駿河大納言】「(寛永七年十一月)是月駿河大納言忠長卿封地にて城をいで、安養寺山の奥毬子といふ所にて猿を狩たまふ。江府の鎮守山王も、猿をもて神獣とし、当国浅間の神も猿を神獣とし給ふよし申伝ふれば、この山中にて猿を殺事、むかしより大に忌所なりと、村老らなげきとどむるといへども、更に用ひず狩せられしかば、国人等この卿の御行衛頼母しからず。いかがおはしますべきと、爪弾してあざみけるとぞ。」(「大猷院殿御實紀」)家康の子孫には、大きく分けて二つの
大僧正天海(123)「(寛永六年四月)又、東叡山麓の不忍池に異鳥三飛来る。人これを見しるものなし、画工をしてその形状を模写せしめて御覧にそなふ。西海の辺りには多くすむ鳥にて、名は島鵜といふよしなり。」(「大猷院殿御實紀」)不忍池に見慣れぬ鳥が三羽飛来して、話題になった。画家がその姿を模写して幕府に届けたという。幕府の者が調べるとそれは西海(九州)辺りに沢山いる「島鵜」という鳥だったという。では、その島鵜という鳥がどのような鳥かというと、これが良く分からない。
大僧正天海(119)正之は不幸な生い立ちであったが、周囲の人間には恵まれていた。まず見性院は、温情があり、凛とした知性を備えた人物であった。幸松丸を自身の孫のように慈しみ、愛育した。正之の温情ある性格は、彼女によるものであろう。養父となった正光も、15年もの間、忠実に尽くした。また傅役には清廉潔白の士・民部正近がつき、訓育している。高遠城では、狩野八太夫、井上市兵衛、小原内匠等の剛勇の士に守られていた。16歳以降は、鉄舟和尚が、禅や儒学を指導している。正之は
大僧正天海(114)「諸人南光を感じ、金地院をわろく申す事、耳あてて聞かさるる儀にて御座なく候。内々は遠島と思召し候えども南光ゆえ、かくの如しと申し候。」(「細川家記」)沢庵らの判決に、崇伝は「極刑」を主張し、幕府は内々に「遠島」を落しどころとしていた。この時代の「遠島」といえば、伊豆七島であり、いわゆる島流しであった。ところが、天海の執り成しによって、ただの「流罪」となり、配流先は島ではなく奥羽等の「僻地」となったのである。このため、神号論争に続く
大僧正天海(103)「三月二日、大御所駿河大納言忠長卿の邸臨駕あり。水戸中納言頼房卿、丹羽宰相長重、藤堂和泉守高虎御相伴として参る。」(「大猷院殿御實紀」)翌月、再び高虎は秀忠と相伴し、北の丸の忠長邸を訪問した。この度は、白河に加増転封となった丹羽長重も同伴したのであった。高虎や長重が、徳川の身内のような待遇を受けることは、名誉なことではあるが、72歳となった高虎にはいささか重荷でもあった。「(三月)八日、この夜大番興津七郎右衛門某、江波太郎兵衛某の
大僧正天海(102)「あの者は幼い頃から豊臣家に仕え、賤ケ岳七本槍の一人として称えられました。しかし、その後は当家(徳川家)に仕え、関ケ原でも大坂の御陣でも、その志を変えることがありませんでした。極めて律儀で、誠実な男です。この男ならいかなる要地を任せても、大丈夫でしょう。」と理由を述べた。「しかしながら、藤堂家と加藤家は、朝鮮役で度々争い事を起こし、四国の領国でも家臣同士が大いに揉めたと聞いております。その様な者を御推挙なされるのですか。」と老中衆は高虎に尋ね
大僧正天海(97)「(寛永三年九月十八日)夜に入りて江戸より松平内膳重則はせつきて、大御台薨御の事を告奉る。兼ては明日早天に、御所御出京ありて、いそぎ御帰府の御あらましなりしが、この訃報を聞召、今はいそがせ給ふもせんなしとて、まづ三浦志摩守正次を御先にくだらしめる。三好左馬直政も同じ事により、御使奉りて急にはせ下る。」(「大猷院殿御實紀」)立場の違いはあるとはいえ、家光は極めて冷淡であり、昼夜を問わず駆け馳せた忠長とは、対照的であった。御使を派遣しただけで、「一
大僧正天海(96)一成との間に一女(完子)を儲けたが、後に茶々の猶子となり、引き取られている。このように不遇だったお江の人生に転機が訪れた。文禄4年(1595年)秀吉の猶子となり、徳川家康の三男・秀忠に嫁いだのである。この時、お江は23歳、秀忠は17歳であった。お江と秀忠は、仲睦まじかったようで、2男5女を儲けたという。千姫…慶長2年(1597年)豊臣秀頼に嫁ぐ。後に本多忠刻に再嫁。珠姫…慶長4年(1599年)前田利常に嫁ぐ。勝姫…慶長6年(16
大僧正天海(95)【崇源院】「(寛永三年九月)十一日、諸大名二條の城に出仕し、両御所に拝謁し、行幸のことなくはてしを賀し奉る。此日関東より、大御台病危急のよしをつげ奉る。よりて、御危急に御かへりあるべしとて、淀城を発輿し給ひ、まづ二條の城にわたらせたまふ。」(「大猷院殿御實紀」)9月11日、後水尾天皇の「二条城行幸」は成功し、諸大名が賛辞と祝辞のため、次々と二条城に登城し、両御所に拝謁したのである。すると関東から、早馬が到着し、「大御台所(お江)、急病
大僧正天海(93)「(寛永三年七月廿五日)此日、大御所は二条城を出まし、大坂の地を巡覧したまふ。金地院崇伝従えり。」(「大猷院殿御實紀」)家光が上洛の途にある中、秀忠は二条城から大坂城に向かった。大坂の陣からの復興には目覚ましいものがあった。その秀忠に影のように従うのは金地院崇伝である。神号論争に敗れて一時失脚状態となったが、その後、復活を果たし、現在は外交・宗教政策・徳川家の行事の吉凶などを担当していった。「黒衣の宰相」という言葉がある。歴史的には何人
大僧正天海(92)「(寛永三年六月廿八日)家光、上京セントスルニ依リ、武蔵川越城主酒井忠利・大番頭牧野信成ニ江戸城本丸ノ留守居ヲ命ジ、出羽山形城主鳥居忠政・常陸土浦城主西尾忠照以下数人ヲシテ、諸門ヲ守ラシム。」(「史料綜覧」)家光は、上洛にあたり、江戸城本丸留守居に酒井忠利、大番頭の牧野信成を指名した。そして7月12日、家光は江戸を発ったのである。7月15日、稲葉正勝が城主を務める小田原城に入った。この夜、林重信が番所で宿直するお役目であったが、
大僧正天海(84)「四日致仕板倉伊賀守勝重卒せし旨聞召て、御手書を其子京職周防守宗重に給はせ吊せらる。」(「大猷院殿御實紀」)「鷹司孝子編」の拾遺である。寛永元年(1624年)5月4日板倉勝重が亡くなった。元和9年(1623年)、勝重は従四位下侍従に任じられている。親族一門ではない譜代の旗本・大名で、侍従以上になっている者は、外には井伊直孝しかなく、勝重が幕府内でいかに突出した人間であったかが分かる。遺領の1万6千石余は、重宗と重昌で分割した。これで
大僧正天海(82)家光を語る時、両親(秀忠とお江)との関係は無視できない。日光大猷院殿で発見された春日局の東照大権現祝詞に以下の文面がある。「そうげんいん(崇厳院・お江)様、君(家光)をにくませられ、あしくおぼしめすにつき、たいとくいん(台徳院・秀忠)さまもおなし御事に、二しん(親)ともににくませられ」つまり、秀忠夫婦は、単に忠長を可愛がったのではなく、家光を憎んだのである。それはお江が先導し、秀忠が追従したのであろう。幼少期に父母に憎まれた子供は余
大僧正天海(77)秀忠という人物を一言で表せば、「忠孝」である。これはただの親孝行という意味ではない。家康に尽くすことは、彼の「生存」のすべてである。家康に認められ、後継者となることが彼の宿命なのだ。これは大変に辛いことで、生涯、家康の言動に一喜一憂する人生であった。だから、極めて真面目で、自分を助けてくれる家臣には丁寧に接していたのである。秀忠には致命的な欠点があった。それは武将としての才能がない事である。例えば、長兄の信康は勇猛で知られた。あの家
大僧正天海(69)真田信之が去った後の上田城には、仙石忠政(信濃国小諸5万石)が6万石で入った。仙石の居城・小諸城(佐久郡等7万石)は、甲斐宰相・徳川忠長の所領となり、甲斐と合わせ30万石余となっている。また、水戸宰相・頼房には常陸国松岡3万石を加増し、28万石としている。「酒井讃岐守忠勝、武蔵の国深谷の城主になされ、七千石加恩ありて1万石を給ふ。」(「台徳院殿御實紀」)さて、前項で「酒井忠勝が、出羽国庄内で13万8千石を賜った。」と書いたが、ややこしい
令和七年九月十五日、徳川秀忠公正室お江の方四百回忌御祥当にあたり崇源院殿忌を宝台院本堂にて厳修致しました。かつて当院には次男徳川忠長公が母の菩提を弔うために建立した御霊屋があり、年忌法要を中心にご供養を続けて参りました。崇源院殿一品大夫人昌譽和興仁清大禅定四百回忌増崇品位執筆者宝台院副住職野上崇光
大僧正天海(52)斎藤福の父親は、よく知られているように明智家重臣の斎藤利三である。利三は、「光秀の妹の子である。」といわれているが、確かな資料ではない。要するに良く分からないのである。ただ、光秀の厚遇ぶりを思うと、何かしら縁戚関係であることは間違いないであろう。腹案はいくつかあったのであろうが、「家光」の名が竹千代とお福から提案されたものであれば、この「光」は、「光秀」に由来している可能性は高いのではないか。さて、この話をまとめると以下のようになる。
大僧正天海(51)「則御名乗七つ書付字切ヲ見テ掛御目候家光岡之字ニ切ル御意ニ入則書付ル大高一重二ツ折ニ〆書之御国様ノも先日ハ引合ニ書候間大高ニ同前ニかきなをす也。かきやうハ同前也。大高ハ御前より出ル。御右筆衆持て出ル。停書也。」(「本光国師日記」)そこで崇伝は、七つの名乗りを紙に書いて、老中らに見せた。すると、「家光」の名乗りが「御意」にいり、これを書き付けることになったのである。崇伝は「大高檀紙」(楮を原料とした上質大判の和紙)を二つ折りにし
大僧正天海㊿本能寺の変の後、森長可が友政のいる苗木城を攻めた。敗れた友政は美濃から遁れ、浜松城の家康を頼ったのである。その後、友政は菅沼定利の配下として徳川家で過ごす。天正18年(1590年)、徳川家が関東移封になると榊原康政の配下となり、上野館林に移った。関ケ原の戦いでは、東軍に属し、友政は木曽義利の家臣であった山村良勝・千村良重らと共に信濃に入った。次いで、明智遠山氏の遠山利景、小里光親、妻木頼忠らと東美濃に侵攻し次々旧領を回復し、ついに苗木城に復帰した。戦
大僧正天海㊾「(十一月)廿七日立花左近将監宗茂、陸奥国棚倉三万国を転じ、旧領筑後国山門、三池、三瀦、上妻、下妻五郡の内にて、十万九千六百石を賜ひ、再び柳川城主となる。」(「台徳院殿御實紀」)田中忠政が改易となった理由の一つに、基督禁教令への対応が甘かったため、ともいわれる。密かにキリシタンを保護していたとさえ、いわれているのだ。なお田中家は、病弱で後継をはずされた三男・吉興が近江で2万石を与えられ存続が許された。ところがその吉興にも、男子がいなかったため、菅
大僧正天海㉑「この日(十月十二日)、安南国(ベトナム)より本多上野介正純、土井大炊頭利勝へ、書簡を呈し、近年商人等互市をみだり、両国の累をなす事多し。さきに船木彌七郎顯定貴国の信牌を持渡り、互市の法厳重にして混乱する事なかりしば、この後も顯定をして信牌を持て渡航せしめ、互市の法を厳整ならしめん事ぞ聞えし。よて金地院崇伝を召して、その返簡を作らしめられ、崇伝その返簡を製して、草案を御覧に備ふ。」(「台徳院殿御實紀」)この頃、江戸幕府は朱印船貿易を行っていて、東南ア
大僧正天海⑳「御所も御心よげにて、さるにてもいづくにてか得たりけんと仰ありしに、そのさま御物語ありしかば、聞し召もあえず御箸を投げすてたまひ。供に候て、かかる不思議をばふるまはせたりん。」(「台徳院殿御實紀」)秀忠も上機嫌で国松が初めて得た鴨のあつものを食べた。お江は自慢げに我が子国松がどのようにして、鴨を射止めたのか話始めたのである。すると秀忠の顔色が変わり、箸を投げすてると、そのまま部屋を出ていったのである。供の者が大慌てで後を追ったが、このような不