そんな泰平の眠りに割って入ってきたのが18世紀末からの外圧である。対策を講じる必要性を感じつつも幕府の動きは鈍い。軍船に対する「大船建造の禁」が解かれたのは、かのペリーが来航後、3カ月を経た嘉永6(1853)年9月。何ごとにも焦眉の急を要した頃だ。西洋列強に通用する艦船一隻なく、操れる船員も皆無の丸腰状態を一刻も早く脱する必要から安政2(1855)年10月、長崎に海軍伝習所が誕生した。ただし、直接の動機はあくまでオランダ国王ウィレム三世から軍艦「スンビン(観光)丸」が同年10月に寄贈されたためで