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学業成就祈願詣で…神田神社から移動して来たのが直ぐ傍の湯島聖堂神社仏閣では有りませんが、日本の学校教育発祥の地となっているので手を合わせる為にやってきました🙏湯島聖堂仰高門と湯島聖堂の石柱碑孔子像昭和50年(1975年)中華民国台北ライオンズクラブからの寄贈入徳門湯島聖堂は震災などで殆どの建物は壊れてしまいましたが、1704年建立の入徳門は当時の建物として残っております杏檀門杏檀門から見れた大成殿大成殿は1935年再建湯島聖堂は、江戸時代元禄3年(1690年)徳川5代将軍
本日はわかどしよりです!若年寄(わかどしより)とは江戸幕府の職名。老中に次ぐ重職であった江戸幕府の若年寄全国支配の担当である老中に対し、旗本や御家人の支配を軸とする将軍家の家政を担当した寛永10年(1633年)に3代将軍徳川家光が、松平信綱・堀田正盛・三浦正次・阿部忠秋・太田資宗・阿部重次の側衆6名を日常の雑務を扱う六人衆としたことを嚆矢とするこのうちの4名がその後老中に昇進したためこの制度は慶安2年(1649年)に廃止され、その職掌は老中に移管された
狗鷲イヌワシさん@inuwasi22月15日再掲17世紀のコレクション「アルメッサン・ニコラ-フランス王の代表作」の将軍・徳川家綱の肖像画。その後、タメルランとチンギス・ハーンは白人として描写され、次に中国の統治者として描写され、今度は日本の天皇がアジア人の容姿ではないことが判明する。何が真実なのかは分からない。
天地明察2012年9月15日公開江戸時代前期、800年もの間国内で使用されてきた中国の暦のズレを正し、日本独自の暦作りに専念した実在の人物安井算哲の半生を描く。あらすじ江戸時代前期。安井算哲の生まれた安井家は将軍に囲碁を教える名家であるものの、算哲自身は出世欲のない不器用な男だった。星の観測と算術の問いを解くことが好きで、あまりにも熱中しすぎて周囲が見えなくなることもしばしばだった。算哲は形ばかりの勝負となった囲碁に次第に疑問を抱き、真剣勝負の場に身を置きたいとの願いを持つようになる。
徳川家綱生年月日1641年9月7日(土)日干支丙午同じ日干支の人物(ブログに掲載済みの人物)・ニッコロ・マキャヴェッリ1469年5月3日(水)おうし座・前田綱紀1643年12月26日(土)やぎ座・ボブ・マーリー1945年2月6日(火)みずがめ座
そろそろ日光大猷院から撤収するとしますか。ここで見かけた外国人ツアー団体はスペイン語でした。この周り、秋の風情がなかなかのものです。正面の大きな高野槙の木、400年ほど前、徳川家綱公が植えたものだとか。さて、日光からの帰路を急ぐことにしますかね。
結果からいうと、この将軍継嗣問題は、老中の一人堀田正俊が推す「徳川綱吉将軍案」に、危篤に陥った4代将軍(徳川家綱)が同意してあっさり決着します。以降の出来事を時系列的に記しますと、まず延宝8年5月8日に家綱が没し、8月23日に綱吉が将軍に就任。そして、12月9日、綱吉に呼び出された酒井忠清は病気療養を理由に大老の職を免じられました。さらに年明け早々、「下馬将軍」と綽名される原因となる下馬札近くの上屋敷も取り上げられ、その翌月、忠清は隠居しています。こうみてくると
明暦の大火(1657)で江戸城の天守閣は消失しました。4代将軍の徳川家綱の時代(1641-1680、在職:1651-1680)でした。天守閣は再建されませんでした。脈絡なく大阪万博を考えていて、上記の史実を思い出しました。建設費は上振れして大阪市民は1人当たり1万9千円の負担です。大阪市民1人当たり「1万9千円」(11/15)(参考)(6:30PM、追記)徳川家綱が天守閣を再建しなかったのは、財政上の問題があるが、幕藩体制が確立して「オワコン」だったと考えています
元老中・阿部忠秋の忠告が掲載される『武門諸説拾遺』は江戸中期以降に成立したとされ、忠清の生きた時代の史料ではありません。逆に同時代には、「下馬将軍」どころか、忠清の奢りを示す史料は確認できないのです。したがって、本当に忠清の時代に彼を「下馬将軍」と呼んでいた定かではありません。むしろ、後世になって面白おかしくそう渾名したと考えたほうがよさそうです。なぜなら、彼には後世の人がそう呼ぶワケがありそうだからです。そこで次に宮将軍招聘問題を探っていきましょう。
寛永14年(1637)、忠清は14歳で父忠行から上野国厩橋(群馬県前橋市)10万石を継承しました。つづいて、慶安4年(1651)年に4代将軍徳川家綱が誕生すると、その2年後、わずか30歳で老中となりました。当時、老中首座(現在でいう首相格)には「左衛門尉家」の酒井忠勝が就いていましたが、その幕政の中心人物と同列という扱いでの入閣でした。しかも、席次は忠勝より上席。すべては家格によるものです。寛文6年(1666)には大老に昇格し、家綱の治世に彼が権勢を奮っ
江戸城の天守閣が焼け落ちた。重臣たちが天守閣の再建を決めようとしたとき、保科正之が幕府に対抗する大名はもはやいないので、再建する必要はないと意見した。再建が必要と訴える重臣たちの考えも、保科正之の考えもわかる。将軍家綱は迷った。「保科の意見はもっともじゃ」家綱は裁断を下した。送料無料!根室産とろサンマ(約4kg40〜42尾1尾97g前後)お刺身にできる!北海道産獲れたて生さんまを水氷でお届けします。楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEX
さてさて…………………【三室戸寺】を出発した我々は、次なる目的地の駐車場に到着した………………駐車場から目的地へ向かうと……………んっ『陸軍省』んっなんだこれ【旧陸軍火薬庫の土類とトンネル】宇治市黄檗公園の一帯には、かつて旧陸軍の火薬庫があったというこの地が選定されたのは、明治8年(1875年)。その後しだいに施設は整備された。火薬庫は、爆破事故が起こった際に被害が拡大しないように一棟ずつ建物と同じくらいの高さの堅固な土塁で囲まれ、出入口としてトンネルが設けられていた。昭和
最近、ペラペラと実教出版の『日本史探究』を見ていて、法度した。失礼。ハッとした。武家諸法度の史料として「天和令」がガッツリ載っていたんですよ!天和令が、元和令・寛永令と同格の扱い!というわけで、武家諸法度について説明。武家諸法度は江戸幕府の法令。2代将軍秀忠以降、各将軍が定めました。年号をとって、2代将軍が定めたものを「元和令」。3代将軍家光が定めたものを「寛永令」と呼んでいます。そして「天和令」は、5代将軍綱吉のときの法令というわけです。従来
本日、土曜日は、シニアバレーボール🏐早めに切り上げてラジオ聞きながら入浴8回裏のヤクルトの攻撃危なかった9回、岩崎が抑えてマジック17「A・R・E」に一歩前進28日(月)美味しいピッツァを探して食べ歩き。ラ・ピッエリア・ダ・ニーノの、続きです。その後は、近くの川西市にあるブログで見かけた神社に参拝。(誰のブログか判らなくなりました)神社の周りの道が狭くて軽四で来て正解でした。駐車場に車を止めて一旦橋を渡って、一之鳥居
みなさんこんにちは♪今日のコトノハは「火毒」のお話火毒を浄化することが重要な時代へです2024年から20年間は「火」の気が中心となる時代へ移行風水の五行(木火土金水)の象意の中で、これから重要になるのはこの火毒をどう扱えるかになってきます。というのも、、なんと、来年2024年から20年間!三元九運という、通常毎年変化する九つの星のもっと大きな周期で第八運という土の時代から第九運という火の時代に移行するからです。このブログを見つけるような皆さんなら猛暑
2023.7.14(金)先月末に行った時ちょっと早かったので、黄檗山萬福寺の蓮の花の開花状況を見に行きました。放水池は満開の花や蕾がイッパイでまだまだ楽しめそうです、ただし境内の鉢植えは残念ながらぼちぼち終わりとの情報で入山しませんでした。「放水池の蓮の花は開花盛りや蕾がイッパイでまだまだ楽しめそうです、朝の早い時間が良く咲いているようです。」「黄檗山萬福寺の家紋はなぜ三つ葉葵か、4代将軍徳川家綱に山城の国宇治に土地が与えられ新しい寺が建てられたとの事?」「宇治市名木百選、(もうそう
今日は、時代劇を楽しむために5について書きます。初代・徳川家康に始まり第3代将軍・家光の代までは、江戸幕府の基礎を築くために、家臣である大名を圧倒的な武力で威圧し、逆らう者があれば、改易、減封、移封による厳罰を科しています。これにより、江戸幕府の基礎は築かれたのですが、同時に改易により多くの大名が取り潰しになり、市中に多くの牢人(浪人)が溢れるようになります。そして、この牢人の不満が、反乱という形で噴き出す様になります。牢人の反乱1651年3代家光死去し、4代家綱が就任する
四代目!四代将軍の徳川家綱。地味だよな。地味。何をしたのか、いまいちわからない。肖像画だけど。地味な将軍様だから。肖像画ですら、「色」がない。ますます地味さに拍車がかかる。ぬり絵か?肖像画だよな。とりあえず、徳川家綱について調べてみるか。また機会があれば。多分、地味な功績しかないだろうな。
今日は朝から雲間に見える青空が、久しぶりに際立って見える好天でした。外歩きの時、いつもとルートを変えて小学校の横を通ると、まだまだ桜が楽しめたので、つい写真に収めてしまいました。毎週マメにしていることは?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう『インゲン豆の日』は、1673年(延宝元年)の今日、いんげん豆を日本に伝えたとされる隠元禅師が亡くなった日にちなんで制定されました。隠元
今日は、江戸時代に来日して多くの文化を紹介した禅宗・黄檗(おうばく)宗の開祖、いんげんりゅうき隠元隆琦禅師の命日・没後350周年にあたります。隠元禅師は明代末期の1592年に福建省福州府で生まれました。23歳で寧波の普陀山にのぼり潮音洞で茶の接待役〝茶頭(さずう)〟となって仏道修行に入ると、母を亡くした翌年・29歳の時に黄檗山萬福寺で得度。35歳で大悟し印可を受け、45歳の時に萬福寺の住職となりました。一方日本では、長崎の唐人寺であった崇福寺の住持に空
ゆるカワな絵が楽しめる“名画”ではない絵(⁈)の本表紙から心を打ち抜かれました徳川家光公が描いたと言われている切り株に乗った兎異様な黒目を見つめていると吸い込まれそうです吸い込まれた先は江戸時代に繋がっているのかもしれないひょっとして兎型タイムマシーンなのかへそまがり日本美術禅画からヘタウマまでAmazon(アマゾン)1,786〜7,882円動物の絵日本とヨーロッパふしぎ・かわいい・へそまがりAmazon(アマゾン)1,994〜6,940円
19日(木)東御苑へ行ってきました。各種お蜜柑の樹が鈴なりでした。(人が来ない奥の方)日本人は素敵ですね、誰も採る人がいません柑橘類はみんなだいすき~(^^♪他の樹も皇居だからかお手入れが良かったです▽ムラサキシキブ▽千両がいっぱい見事に咲いていました。▽ミツマタは3月ですね黄色く咲くと綺麗です。▽栴檀の実栴檀は双葉より・・・の栴檀ではありません▽江戸城の模型がありました。立派です。江戸時代初期の50年間に3度も建てられました。勿論諸大名に命じてですが・・・
▽加来先生の偉人・こぼれ噺徳川家康編YouTubeを視聴します。↓徳川家康写真ネットから拝借しました。↓家系図徳川家康→秀忠→家光→家綱→綱吉↓徳川秀忠江戸幕府の第ニ代征夷大将軍↓徳川家光江戸幕府の第三代征夷大将軍↓徳川家綱江戸幕府第四代征夷大将軍↓徳川綱吉江戸幕府第五代征夷大将軍
最後の見学は玉川酒造さん。「寛文13年、第四代将軍徳川家綱公の時代より酒造りを続けています。」寛文13年って??1673年だそうです。来年は350年ってこと?ゆきぐら貯蔵:この溝に雪を入れて天然の冷蔵庫代わりだそうです。蔵内の酒米の洗い、蒸し場も少し見せていただきました。ここは、「蔵見学」という言葉が合っています。試飲コーナーで、アルコール度数46度の日本酒の「越後武士」と初対面。日本酒はアルコール度数22度までと決められているため、分類はリキュールだそうです。「越後武
今日は、クイズから始めましょう。徳川家康の孫にあたり、第3代将軍・家光の異母弟で、第4代将軍・家綱を支えた人物は誰でしょう?即答できた方は、かなりの日本史通だと言えましょうか。正解は、保科正之名前は聞き覚えのある方が多いと思いますが、今日はこの江戸時代・・・いや、日本史上屈指といわれるこの名君の命日・没後350周年にあたります。狩野探幽・筆正之は1611(慶長11)年に第2代将軍・徳川秀忠の四男として生まれました。母親のお静(後の
昨日は赤穂浪士討ち入りを記事にしましたが、ということは必然的に今日・12月15日は、吉良上野介(義央)の命日・没後320周年にあたります。1641(寛永18)年に高家旗本・吉良義冬の嫡男として生まれた上野介は、11歳にして将軍・家綱に拝謁。そして16歳の時に出羽米沢藩主・上杉綱勝の妹と結婚。翌年父と共に江戸城に出自すると、その3年後には幕府の使いの1人として上洛し天皇に謁見。22歳で2回目の上洛をした際には従四位上を賜っており、以後生涯に24回も上洛した彼は、使者職として
【食育クイズ:Vol.1075】「京都府」の「寺院の呼び名」おさらいクイズ!「後水尾天皇」ゆかりの「閑臥庵」の主祭神の名は?∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞【食育クイズ:Vol.1074】(「京都府」の「日露戦争」と「草庵」おさらいクイズ!「日露戦争」開戦にまつわる会議をした「京都の草庵」とは何?)の↓↓↓↓↓↓正解と解説↓↓↓↓↓↓【解説】「無鄰菴(むりんあん)」とは、「山縣有朋」の別邸の事を
こんにちは、SuzuTomoです小学4年生のママシンプルで丁寧な暮らしがしたい自宅で抹茶教室を開催しています自己紹介をもっと見る方はこちらへ先日、人生で初めて訪れた奈良。『初めて、奈良を訪れました』こんにちは、SuzuTomoです小学4年生のママシンプルで丁寧な暮らしがしたい自宅で抹茶教室を開催しています自己紹介をもっと見る方はこちらへ休日…ameblo.jp奈良公園、ならまち、平城宮跡。どこも感動!そしてお抹茶が