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紀州徳川家頼宣も名目上は幼少時から大名に取り立てられましたが、駿府城で家康に養育されました。頼宣が紀州和歌山藩55.5万石の藩主になったのは、大坂夏の陣(1615年)、家康の死(1616年)のあとの1619年です。当時、頼宣は数え18才でした。1619年から1867年の大政奉還までの248年間の紀州藩主の属性を考察しました。初代頼宣の成人した男子は長男光貞と三男松平頼純の二人でした。御三卿は紀州藩5代藩主から8代将軍に就いた吉宗の子孫なので、初代頼宣の血筋が明治維新ま
家康を基準にすると、秀忠は子(二代将軍、三男、1親等)家光は孫(三代将軍、秀忠の次男、2親等)家綱は曾孫(四代将軍、家光の長男、3親等)綱吉は曾孫(五代将軍、家光の四男、3親等)家宣は玄孫(六代将軍、家光の三男綱重の長男の綱豊、将軍世子をなって家宣と改名、4親等)家宣の弟清武(越智松平家初代)家継の死去時点で54才家宣の男子長男夢月院(1699年生まれ、享年1才、夭折)次男家千代(1707年生まれ、享年1才、夭折)三男大五郎(1708
池上墓参りシリーズ紀州藩主徳川光貞の正室で伏見宮貞清親王の王女照子女王院号天真院の墓参りです。天真院とは伏見宮貞清親王の娘として京都で生まれた。明暦3年(1657年)、徳川御三家の一つである紀州家の2代藩主・徳川光貞と縁組。同年11月に和歌山城へ入り、婚礼の式を挙げた。これ以後紀州家では、5代藩主・吉宗、7代・宗将、14代・茂承の正室を伏見宮家から迎えているが、和歌山城で婚礼を挙げたのは照子女王だけである。この光貞との婚姻の経緯には、照子女王の妹であり4代将軍・徳川家綱の御
徳川光貞生年月日1627年1月28日(木)日干支庚戌同じ日干支の人物(ブログに掲載済みの人物)・アイザック・ニュートン1643年1月4日・太宰治1909年6月19日
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」高野山・武将の墓めぐり、紀州・徳川家の墓の紹介です。武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」史跡めぐりの旅は少しお休みです。youtubeはじめました。甲冑を着て日本刀で食材をさばき食べます。チャンネル登録よろしくお願いします。人物名墓のある施設住所紀州・徳川家の墓高野山奥之院和歌山県伊都郡高野町高野山誤字やリンク切れ等がご<ざいましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろ