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2023年7月7日から『北から南へ「天守」シリーズ』をスタートさせ、初回の「プロローグ」では「天守」についてのエピソード等をお話をしました。『<北から南へ「天守」シリーズ>プロローグ』本日から、『北から南へ「天守」シリーズ』をお届けしようと思います。まずは「プロローグ」から。「天守」については、3年ほど前に、現存、復元、復興、模擬をグルー…ameblo.jpそして2回目以降は、具体的に「天守(御三階櫓含む)」があるお城を、北から順次、現存・復元・復興・模擬の「天守(御三階櫓含む)
阿波の徳島藩の鉄砲は,口径が小さく一匁五分(10mm)が標準的で、どの銃も銃身が異様に太く,頑丈な巻張作りのものが多い。これは、大量の火薬を装填できるよう銃身の厚さを太くしたためと思われる。また,小口径の一匁五分筒(11mm)を主装備としたのは、空気抵抗や風の影響を受けることの少ない小口径弾を用いて,命中率を上げようとした結果と推測される。阿波の鉄砲阿波と淡路の二国を有する徳島藩は,瀬戸内海や紀伊水道に面する京大坂への関門だ。徳島藩は、海の関守として,大阪や淡路島の制海権の確保に重点
2022.04.02和歌山城を見学後、南海フェリーで徳島に渡る。フェリーを降りたのが16:00、百名城スタンプのある徳島城博物館の最終入場時間まで30分しかない(最終入場16:30、閉館17:00)タクシーで10分、「お城桜満開できれいですよ」と運転手さん。多分お城は徳島市民の誇りなんだろう。タクシーを降りて博物館入り口に急ぐ。「桜きれいだぁ」写真を撮りたい気持ちを抑えて、まずスタンプを押す。閉館まで少し時間がある。さらに、宿泊先の高松行き電車にも時間がある。博物館を見学の後、徳島城公園で花
阿波徳島藩の鉄砲は,銃身が異様に太く重い。しかも,頑丈な巻張作りのものが多い。士筒と呼ばれる口径19ミリの10匁筒にいたっては、重さが7キロもある。同じサイズの仙台鉄砲は5キロ以下なのだ。下の写真は阿波の一匁五分(11mm)の鉄砲と10匁筒の比較写真だが,阿波の10匁筒は,まるで大筒のように見える。下の鉄砲が10匁筒全長105.3センチ,銃身長73.4センチ銘阿州山田民右衛門惣巻張徳島藩は,火薬を通常量の何倍も装填できるよう銃身の厚さを太くしたのだろう。火薬量を増加させ
前回の続きです。「台地4」から台地3→台地10→台地6→台地7→台地9→台地12→台地13と降りてまいります。すみません。台地10は寄っていませんでした。10代重喜さんのお子さんたち、台地11の前を通り台地3へ。【台地3】8代蜂須賀宗鎮(1721-1780)の墓ここ、万年山の墓域を作ったという10代重喜のご先祖にあたる方なのですが、実は案内板を見る限り唯一の「ご先祖さま」なんですよね。しかもこの8代宗鎮さん、亡くなったのが1780年ということですから・・・
ブログに書くのが遅れに遅れております。4月12日のお散歩をお話します。今日もお立ち寄り頂き有難うございます。妄想性パーソナリティ障害NEGHiです。今日は歴史苦手なNEGHiが、うすっぺら~い知識と、全く吸収力・理解力の無い頭でネット上の情報を寄せ集めて徳島城築城(1585年)の前後から廃藩までの藩主について眉山萬年山の墓所を歩きながら「時代妄想」してみたいと思います。なにぶん、苦手分野かつ、妄想族のたわごとですので、誤認識もあるかと存じます。「またコイツええかげんな妄想
100~102は、戦国時代の過去世に関連した場所の浄霊浄化をさせていただきました!100.徳島県お寺①(過去世関連のお墓)浄霊を開始すると鼻の体感があります。小さい黒蛇がチョロチョロしていて、地面が黒く固まっているように見えました。日中は、延髄が重いし、痛いし、、、と過去世から来る契約や呪詛が関連してそうです。ディメンションリアクターのアートと黒水晶がかなりがんばってくれましたが、一日で終了できず、翌日に持ち越し。2回目:気管支に体感があり、召喚すると守っている
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、蜂須賀小六夫人・松の墓の紹介です。武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」史跡めぐりの旅は少しお休みです。人物名墓のある施設住所松(大匠院)興源寺徳島県徳島市下助任町2丁目45誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたしますm(__)mスマホで地図が表示されない場合、一度前の記事に戻ってもらい再度次の記事を読み込みす
#徳島城博物館に#阿波の水軍見に行っとった。#森家と#徳島藩のん。今の鳴門の文明橋あたりからバッキバキに水軍が押さえ込んどったんじゃって。元々荒ぶる#海賊上がりとかガイドさんが言よったけど、鳴門人が使う#阿波弁に気の強さが入っとんと何かの因果関係があると、わっしゃ思とんよ🔍水路が中心やったら#徳島もまた変わっとったんだろなー。ほれとやっぱり#明治に#印度から安い#染料が入ってきたんがアレダ💢やな😓まあほのあと#独逸から化学染料かいな⁉️アッカダ
先祖を千年、遡る(幻冬舎新書)Amazon(アマゾン)79〜5,493円2020年正月、帰省に伴い、再び親父と徳島県三好市池田町佐野に向かいました。やっと、これで、ほぼ出そろったかな?非常にわかりにくいので結論を簡単に書くと、「18世紀前半(1700年前後うまれ)までさらに3世代の名前をさかのぼれました。」※20200123修正なぜか?要は、「文化8年(1811年)佐野村棟付帳の記載にご先祖が見つかった」
関西からも気軽に行ける観光地であり、食べ物も美味しい淡路島。言うまでもなく淡路島は兵庫県に属しているが、もしかしたらその淡路島は徳島県になっていたかもしれなかった、と言ったら皆様驚かれるであろう。と言うのも、江戸幕府下において淡路島は蜂須賀家が治める徳島藩の領土であったのだ。そして淡路島は徳島藩の宿老、稲田家が城代として統治をしていた。だが、藩主である蜂須賀家と稲田家の関係ははっきり言ってよろしくなかった。さらに、幕末の動乱において蜂須賀家が公武合体路線を支持したのに対し、稲田家はそれ
海の関守徳島藩が生んだ阿波の鉄砲昨年は荒れに荒れた阿波踊りだが,今年は荒れずに開催できそうだという。前夜祭は8月11日で,8月15日までの5日間は徳島の夏は,阿波のエライヤッチャらと阿呆たちで,大いに盛り上がるだろう。「阿波の殿様,蜂須賀公が,今に残せし,阿波踊り」と唄われるとおり,徳島市は,徳島藩蜂須賀家25万7000石の藩都だ。徳島藩は,阿波筒と呼ばれる独特な鉄砲を装備していた。阿波の鉄砲は,口径が小さく一匁五分(11mm)が標準的のようで、どの銃も銃身が異様に太く,
【徳島藩と吉良上野介さんのご近所トラブル】討入り現場となった吉良邸は、本所にありました。その頃の本所は、江戸城下のはしのはし、ものすごい田舎でした。しかし、地位の高かった吉良邸の江戸屋敷がなぜ、そんな利便性の悪い田舎にあったのでしょうか。実は、もと
【もう一つの華蔵寺】吉良上野介さんの菩提寺は、愛知県西尾市にある『華蔵寺(けぞうじ)』(臨済宗)です。そして、実家の家内喜屋(やなぎや)の菩提寺も、奇遇にして『華蔵寺(けぞうじ)』(浄土宗)といいます。阿波水軍の本拠地である徳島県阿南市椿泊町にあります。実家の菩提寺である華蔵寺は、安土桃山から続く古いお寺
【なぜ討ち入り武具輸送に徳島藩と岡山藩が関係するのか】家内喜屋の資料には、大阪から江戸に討ち入り討ち入り武具を運んだ際の輸送エピソードが書かれています。【討ち入り武具の輸送方法】・討ち入り道具は五そうの千石船で運んだこと。・武具を船底に隠して輸送する予定だったが、急遽、徳島藩からの命で岡山藩の上納米を千石船で運ぶことになり、その米の下に討ち入り武具を隠し輸送することになったこと。・徳島藩の藩札を千石船の船
【大石内蔵助の実母は徳島蜂須賀家】討ち入りにご縁がある土地といえば、浅野家があり、大石内蔵助の地元兵庫県赤穂市、吉良上野介の地元愛知県、東京都品川区の泉岳寺などが有名です。しかし、大石内蔵助の実母熊子が徳島藩祖蜂須賀家政のひ孫で、大石内蔵助が蜂須賀家政の玄孫であること、そして、大石内蔵助が討ち入り前日に、蜂須賀家政の孫で、徳島藩家老を父親に持つ
【討ち入りを支えた先祖】「自分のルーツを知っておきたいんだよね...」と、何気に母と電話してたら、実家の父がいきなり家系図を送ってきた。なにせ実家は田舎なもので、檀家のお寺には、超古~い過去帳も残っている。長い巻物をクルクルひろげて伸ばしていくと、いきなり屋号と初代の名前が目に入る。「私の名前の文字と一緒だ...」と驚愕する。さらにそこには、元
愛知県あま市蜂須賀。蜂須賀城跡(はちすかじょうあと)尾張の土豪・蜂須賀氏が鎌倉時代よりこの地に住んでいたとされますが、史料に乏しく築城年などの詳細は不明です。戦国時代には豊臣秀吉(羽柴秀吉)を支えた孤高の家臣、蜂須賀小六正勝(通称小六、彦右衛門)が生まれたとされる城です。現在城跡は蜂須賀家の菩提寺である蓮華寺があります。蓮華寺入口の説明板。蓮華寺に入って左側。小六の顕彰碑があります。晴れの日の日陰は
久しぶりに大分昔の小説を読んだ。船山馨「お登勢」である。いわゆる大河小説というジャンルだろう。幕末から明治初期の時代を、お登勢という女性の波乱の人生を通して描いている。※坂本竜馬の話に出てくる寺田屋女将の「お登勢」ではない。▼毎日新聞社版の単行本お登勢(1969年)Amazon▼角川書店(2001年改版)の文庫本お登勢(角川文庫)Amazon淡路島の貧農の娘であるお登勢は、16歳になって武家の加納家に奉公に出た。加納家には、長男の睦太郎とそ
私達夫婦がご先祖様のルーツを調べるようになったのは、ぱぱさんの親戚の人が調べていたのを、身内のお通夜がキッカケで話題になり、ぱぱさんが家系図を作り出しました。当時は私は全く無関心というよりも、そんなショウモナイ事と思っていました(笑)その後、お通夜で淡路島に帰る度に話題になっていたようです。簡単におさらいします。清和源氏→京都妙顕寺より目付役とし、徳島蜂須賀藩へ赴任。徳島に歴代の墓あり。宗教は日蓮宗法華経(弘法)江戸末期、九州島津へ出征、その時の文書(轡木瓜家紋の由来など)あり。
徳島大学日亜会館に相撲展見に来た徳島藩のときは相撲大国やった阿波なぜ大国やったか来たら分かりまっせ徳島藩頭よろしおますな˚✧₊⁎❝᷀ົཽ≀ˍ̮ ❝᷀ົཽ⁎⁺˳✧༚うふふ帰りにSOGO行った中華と和菓子食べて食べてしたーええ中華行たわよおはぎもこしあんのやで˚✧₊⁎❝᷀ົཽ≀ˍ̮ ❝᷀ົཽ⁎⁺˳✧༚うふふ
蜂須賀まつりOtsucleその後、江戸時代を通じて城下町で踊り継がれましたが、一揆や暴動に幕府が神経をとがらせる中、徳島藩は再々禁令をだし、阿波踊りを規制したと言われてい...初節句ひな人形の選び方は江戸時代を知ると値段の違いも納得日めくりオトナ稼業桃の節句、ひな祭りにひな人形は欠かせません。初節句のひな人形を買う時のコツ、種類・値段の違い、選ぶ時のポイントを解説。何を目安に買ったらいいか困っ...豪華出演陣の感動作「すもも」は自主映画から時代劇発信日刊ゲンダイ豪華
【問題】淡路国は江戸時代徳島藩の領地であったが、現在の淡路島も徳島県に属する。○か×か?【選択肢】○×【正解】×【解説】淡路島(淡路国)は戦国時代には三好氏らの勢力下にあり、その後豊臣氏の時代を経て江戸時代には徳島藩の領地となった。明治9年(1876)兵庫県に編入され現在に至っている。
24日以前、阿波徳島藩の造船工場「安宅役所」跡で江戸時代の船蔵跡が発見された。安宅役所は1640年頃設置され、明治時代初期に藩船が民間に払い下げられた後に埋め戻されたという。[徳島新聞・熊本日日新聞]徳島藩士譜〈上巻〉(1972年)/徳島藩士譜刊行会¥価格不明Amazon.co.jp
家老・稲田家臣団を襲った「庚午(こうご)事変」の責任で明治三年(1870)切腹した徳島藩士・小倉富三郎の辞世の句が発見された。「今は早捨つる命の惜しからで君が情に濡(ぬ)るる袖かな」など4首だという。[徳島新聞]徳島藩士譜〈上巻〉(1972年)/徳島藩士譜刊行会¥価格不明Amazon.co.jp