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こんにちは!LINDAですっ!昨年、御朱印がほしくって、とりあえず近所の神社参りをした。その結果、なんだかんだ言って、自分的にはいい一年だった気がする。さて、今年。初詣は、ちょっと遠いところでお参りしたけど、いわゆる「氏神さま」たちにごあいさつがまだだった。まずは、神理教。昨年から、なぜか徳力神宮って名前に変わった。クルマを停めると、裏から入ることになるけどまあいいや、ってことで。神理教は、二礼二拍手一礼ではない。
・玉龍山福昌寺跡と島津家墓所玉龍山福昌寺の寺域は現在の玉龍高校の校地と島津家墓所を一緒にした広さがあった。1869年(明治2年)の廃仏毀釈で廃寺になった。島津斉彬と英姫の墓島津久光の墓玉龍山福昌寺についての解説玉龍山福昌寺跡(現在の玉龍高校の敷地と島津家墓所)・浄土真宗本願寺派本願寺鹿児島別院(略称、西本願寺鹿児島別院)鶴丸城の南にある鹿児島最大の寺院。1874年(明治7年)に、廃仏毀釈により鹿児島線内の寺院と僧侶の双方ともにゼロになった。1876年(明治9年)に「信教の自由令」が
伊勢神道吉田神道垂加神道復古神道😮💨なんかさ宇宙云々言われたらちょっと離れちゃうよね新興宗教みたいに聞こえてさファンタジーほらレムリアみたいなねwもうエエわってなる歴史って全てが美しくなるよね調べないと…と思う反面うんざりしてくるのも確かよね
❤️🔥❁愛国心を排外主義や人種差別主義と履き違えるのは大間違いだ!!_大挙示挙主義と爾後の日本の国際的使命.❤️🔥It'sABigMistakeToConfusePatriotismWithXenophobiaOrRacism!!______________⚠【LINEBLOG復刻版】+αの編集版と,なります。⚜️⛔注意事項簡易版+著作権注意書⛔⚜️_♦️【先ず始めに】♦️_⛔【当該Blog下部の※注意事項を⛔⛔_【※必ずお読み下さい.】_
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今回は、秋田駅から歩いて5分程度の所にある千秋公園内に鎮座する、彌高神社(いやたかじんじゃ)をレポートします。明治14年(1881年)小谷部甚左衛門らの有志にて八橋に平田神社を創建しました。その後、明治42年(1909年)に至り秋田県教育会が中心となり久保田城内の正八幡社(旧県社八幡神社)を購入のうえ修繕し、佐藤信淵を合祀、彌高神社と改称しました。大正5年(1916年)に現在地へ移築され、大正8年(1919年)には県社に列せられました。境内には、平田篤胤の歌碑もあります。平
教派神道明治政府は神官の教導職としての強化活動が「国家の宗祀」の祭祀者としての本務から逸脱しているという観点から、教導職から撤退させ、神道の教えを人々に説いたり葬儀の執行を禁止し、政府は神道を他の宗教と別格にし、政治と宗教の分離を目指されたということでした。しかし、これと意見を異にした人達がいました。出雲大社宮司の千家尊福(せんげたかとみ)は、先の祭神論争で大国主神も幽世を主宰すると日本書紀に記載があるので祀るべきと提唱した方ですから、勅裁での決着で伊勢派の勝利には従うしかなか
平田篤胤ー死後の霊魂の行方ー平田篤胤(ひらたあつたね/1776~1843年)は、秋田藩で武家の四男として生まれました。19歳の時に脱藩して江戸に出て松山藩士・平田藤兵衛の養子となります。学問を志していた篤胤は、本居宣長の『古事記伝』に巡り合い、宣長の没後ではありましたが門人となり、やがて講義も始めるようになりました。霊能真柱(たまのみはしら)文化9年(1812年)に著書『霊能真柱(たまのみはしら)』を完成させ、翌年に刊行します。その内容は死後の霊魂の行方を明らかにす
元禄年間(1688~1704年)あたりから日本の古典を考証し研究する動きが起こってきます。18世紀半ばになると、古典の中に日本独自の精神世界を見出していこうとする「国学」が生まれました。それについては先にアップした国学院大学博物館の動画で解説されていたので、よかったらご覧ください。簡単に説明すると、契沖初めに歌学において、万葉集が再評価され、真言宗の僧侶だった「契沖(けいちゅう)」が、徳川光圀に万葉集の諸本の校訂を依頼され、注釈書『万葉代匠記』を著します。それは仏典の注釈作業を通
📩◾️『知っておきたい日本の神道』(武光誠/角川文庫)[6]🔹神道の国家統制のはじまり《復古神道の立場をとる人びとが明治政府で主導権をとったことによって、神道の性格は大きく変えられた。明治政府は祭政一致の原則をとり、皇室の古代の祭祀を復活させたり、古代のような神祇官を復興した。そして神仏分離を行なったうえに、すべての神社⛩を神祇官に帰属させた。本来は神社は、一つの地域の住民の心の拠り所としてつくられたものである。ところが明治政府は個々の地域の特性を考慮せずに、全国の神社を一律
三夜沢赤城神社は歴代領主や支配者から崇敬され鎌倉幕府三代将軍源実朝は唄を残し、上杉氏・武田氏などの大大名から地元領主まで、多くの祈願文や寄進状が残されている。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、東西両社が統一、別当神宮寺であった東社の竜赤寺と西社の神光寺が廃寺となり赤城神社として独立し、明治4年(1871)に郷社、明治12年(1879)に県社、昭和19年(1944)に国幣中社昇格の内示が出されている。・・・・・・・・
鎌卍がつなぐ長野と秋田ナーガの鉄の海洋民族戸隠を開ける?今、これを書いているときはこの後、起こった出来事を知っているからコーフン気味秋田お墓参りの旅『又鬼マタギの里阿仁水多き水無みなしの神鬼王君の名はから謎解きが』阿仁合とおーい山ふかーい現在北秋田市阿仁町お墓参りで角館から車で阿仁合の山へ向かうhttps://ameblo.jp/rimarima28/entry-12…ameblo.jp最終日は角館→秋田へ秋田駅で迎えてくれるそういえばこのナマハゲ赤は大年
あたしは漫画も読みませんし、アニメもほとんど見ませんがあ、以前たまたま回したチャンネルから興味を持ち犬夜叉は楽しく見てましたよ🤭そんなわけなのでありますからして鬼滅の刃もそんな人気アニメがあることは知ってはいましたが、昨年テレビで3連続で放送されたときに初めて見たくらいに疎かったわけで…💦今は(もうすでに遅いの?)呪術廻戦とやらが人気なんだそうですね?あるとき、職場の若手が両の手でなにやら致しておりました。。聞けば、呪術廻戦というアニメの印がどうとか…アニメは知らんけど、印ならお
前回、江戸時代を通じて仏教に対するある種の悪意が存在し、それが醸成されて行った過程について説明した。復権を狙う復古神道の神職を中心に、図の本地垂迹説の逆を行く...神本仏迹説がじわじわと台頭し始める。後期水戸学の仏教軽視思想がそれと交わり、幕末に至りさらにその流れが加速して行く...。当時のインテリ層はことごとく水戸学の影響を受けており、仏教排斥の気運はピークに達していた。仏教によって虐げられ続けて来たと言う...復古神道側の強い主張は水戸学の学徒には大いに響いたであろうし、尊王を正し
第5回国学と復古神道編集作業にかける時間がないため、しばらく音声のみでお届けしています。サムネイル:北アルプス白馬山頂付近より坂の上の雲参照資料原武史放送大学印刷教材『日本政治思想史』5章各論2・国学と復古神道苅部直日本思想史の名著を読む第14回平田篤胤「霊の真柱」http://www.webchikuma.jp/artic...www.youtube.com第5回では、本居宣長と、それを継いだ平田篤胤について考えていきます。なぜ、今、本居宣長なのでしょうか?近年、
☆保田與重郞生家奈良県桜井市桜井(詳細住所不明、琴平神社「桜井778」から南へ30mほど)(P無し、駅前コインP利用)※現在も一族の方がお住まいされておられるので要配慮桜井市「桜井」の北東部、かつての「伊勢街道」より少し北側。ここに保田與重郞の生家があります。保田與重郞については→こちらの記事にて場所柄、そして間口もかなり広く、なかなかの名家にお生まれだったのではないかと思います。現在も一族の方がお住まいになられています。ベンチまで設けて頂き、大変に有難いことです。等彌神
この本は確か東京の本棚にあるはずですが、初版の2012年頃は更年期真っ盛りで、会社へ行くのがやっと状態の頃だったので、本屋でパラパラめくっても記憶がよみがえりません---なのでもったいないけど、神道の通史を知っておきたいと改めて購入しました私たちの時代は、廃仏毀釈や政教分離の時代を経ているので、感覚的に神仏習合や本地垂迹をすっと受け入れるのは難しい---それだけ時代の空気というものは、人の思想の中に深く入り込むということでしょう仏教には教義や哲学ではかなわないけれども、中世になり神道側は
<出雲>という思想(講談社学術文庫)Amazon(アマゾン)565〜3,860円<概要>神道の思想史的系譜について、江戸時代の国学から維新政府による国家神道に至るまでの流れを俯瞰し、アマテラスから続く血統「天皇家」の中央集権近代国家の権威として伊勢の系譜を紹介しつつ、(維新政府にとって)傍系たるオホクニヌシノミコトから続く出雲の血統「出雲国造」に焦点を当てた著作。別途出雲の系譜としての大宮氷川神社の思想史の紹介あり。<コメント>◼️復古神道における出雲著者あとがき
おはようございます。荻窪と中延のハイブリット氣功、秒速の療術師@kaz、徳田です。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・施術場所のご案内荻窪ハンドセラピー(杉並区)お問い合わせ・ご予約は090-5493-0704ohimesama95@gmail.com・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本来の正しい参拝方法はコレだっ!神社での参拝方法は三礼三拍手一礼が本来正しい!本来の作法にしよう
先日、ちょっと衝撃的な話をききました。『参拝って二礼二拍手一礼じゃなくて三礼三拍手一礼だって知ってた?』えー⁉️知らなかった!どういう意味?二礼二拍手一礼はこの100年くらいに参拝する方法として日本中に広まったけれど本来は三礼三拍手一礼が正式なのだとか。なのでちょっと調べてみたのだけど資料が少ない。その中でわかったことは明治新政府になった際に「神道復古運動」が全国規模でまきおこりこの復古神道の流れを明治政府は利用してあらたまった神道を強烈に印象付けるために「二礼二拍手
古事記を古事記自身の立場において理解し得ること、これなしにはわが国の初発的な尊皇思想をありのままに把捉することは不可能なのであるが、この仕事を長い間妨げていたのは記紀編纂時代以来わが国に浸潤している仏教と儒教との影響であった。人々は古語による古事記を顧みず、ただ漢文による日本書紀によってのみ神代史上代史を考えた。そうしてその神代史上代史も、その素朴な姿のままに理解することをせず、仏教や儒教の媒介により、種々の形而上学的な意味を現わすものとして、あるいは合理的な史実を記すものとして転釈しようとした
どこか御神水が汲める神社はないかなと調べて行ってみましたご神水が汲めるということでポリタンクをもって来ている人が何人かいらっしゃいました。私は、コンビニで買った500のペットボトルです。ご神水コーヒーが楽しみです。■赤城神社(あかぎじんじゃ)は、群馬県前橋市三夜沢町にある神社。式内社(名神大社)論社、上野国二宮論社。旧社格は県社。正式名称は「赤城神社」であるが、他の赤城神社との区別のため「三夜沢赤城神社(みよさわ-)」とも呼ばれる。関東地方を中心として全国に約300社あ
江戸時代の文化の人名とキーワードの区別こういう問題は、単調だけに絶対に落とせない。色がついていない「」にも注意!1.神道①「伊勢神道」・・・「鎌倉時代末期」に「度会家行」が唱える。②「唯一神道」・・・「室町時代」に「吉田兼倶」が唱える。③「垂加神道」・・・「江戸時代前期」に「山崎闇斎」が唱える。④「復古神道」・・・「江戸時代後期」に「平田篤胤」が唱える。2.古学①「山鹿素行」・・・『聖教要録』で朱子学を批判し幕府に罰せられる。②「伊藤仁斎」・・・「京都
関ヶ原の合戦の結果、常陸国には徳川氏が入り水戸藩となったが、以前の佐竹氏は秋田に移され、秋田にいた秋田氏は三春に移された。幕末、水戸藩は光圀公以来、尊皇の立場から大日本史を編纂し、尊攘激派が大老井伊直弼を襲って殺し、天狗党として立ち上がったが結局は壊滅した歴史がある。秋田の佐竹氏は豊臣方に加担して東国武士の頭領の徳川氏に負けたことから、常陸国の水戸から秋田へ移封された。すなわち、元々、幕府方というより、むしろ尊皇の志を持った人々を連れて秋田に行ったと考えられる。三春藩は戊辰戦争では奥羽越列