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「穢れ」と「言霊」の謎:その272024年のNHK大河ドラマは「光る君へ」である。平安時代中期を舞台に、平安時代を象徴する小説であり「世界最古の女性文学」であり、千年の時を超えるベストセラー『源氏物語』を書き上げた女性「紫式部」の生涯を吉高由里子が演じている。まぁ、筆者は全く見ていないが(笑)。主人公の光源氏は左大臣で、後に太政大臣にまで昇りつめる。現在でいえば首相であるから政府高官である。その光源氏がいろんなおネエちゃんたちと恋愛絵巻を繰り広げるわけで、今なら「週刊文春」のターゲットと
…「御霊会」「祇園御霊会」を起源とする「【83】疫病退散を願う祭礼」である。
【日本国記】第二章9長岡京遷都3早良親王日本とは世界で最も特殊な国である―古くて新しい―土方水月9長岡京遷都3早良親王(祟道天皇)早良親王の父光仁天皇が天皇に指名されたいきさつは「初めは平安京から」で述べたように、末席の藤原百川の発言によってであったといわれる。光仁天皇は天智天皇の第7皇子施基親王の第6皇子であった。第49代天皇となったが、それまでは白壁王と呼ばれていて年齢も60歳であったといわれる。しかし、その第一皇子である後に桓武天皇となる山部
御霊会の御朱印を頂きました。
紫野の今宮神社と「あぶり餅」金澤成保京都洛北の紫野に出向いて大徳寺の伽藍を拝見した。西北に進んで今宮神社門前の茶屋で、名物の「あぶり餅」をいただき一休みした後、今宮神社の壮麗な社殿や境内を参拝した。今宮神社の由来と境内当社地には平安建都以前より疫神・素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀る社があったといわれる。建都ののちに平安京が都として栄える一方で、疫病や災厄に悩まされ、これを鎮めるため神泉苑、御霊社、祇園社などで盛んに御霊会が営まれた。今宮社の紫野御霊会もその一つである
昨夜から降り始めた雨は、今日お昼頃にはまさに〝叩き付ける〟ようなという形容ができるほど、強い雨脚の降り方になっていた。近畿南部の和歌山県や奈良県南部に線状降水帯ができて、一時は避難を求められるほどになっていた。紀の川水系などでは、氾濫するほどの水位になっていたようだ。京都市にも、朝から大雨・洪水警報が出されていたが、午後になって徐々に雨脚が弱くなり、午後4時過ぎには、出されていたすべての気象警報が注意報に切り替わった。それでも我が家の近くの鴨川では、茶色く濁った濁流の様子がSN
昨日は京都市内で御霊会が執り行われると耳にしたので買い出しの後上御霊神社へ。御祭神に橘逸勢や吉備真備の遣唐使の一員名前も連なってたのでここも空海が関連してるのでしょうか。後で調べたら皆非業の死を迎えた人たちばかりなのだとか。御霊会とは簡単に言うと悪霊退散の儀式。つまりここは悪霊を閉じ込め鎮めるための神社ということ。そういう意味では祇園祭なんかも御霊会の一種とも言えますね。北が上御霊神社で南が八坂神社の分担ということか。ちょっと時間が遅かったので神輿は出向した後。とい
春のお祭りシーズンも終わりが近付いている。5月1日に神幸祭が行われた「上御霊神社」の「御霊祭」も、今日、還幸祭を迎えて3基の神輿が氏子町を練り歩いた。この「上御霊神社」の氏子地域は、平安京ができる以前から「出雲氏」の一族が住む地域だった。現在も、賀茂川には「出雲路橋」が架けられ、出雲路という地名も残っている。さらに「御霊祭」というくらいだから、このお祭りは、古代に政治的な理由で非業の死を遂げた早良親王(崇道天皇)など、八柱(最初は六柱)の怨霊を鎮める鎮魂祭ということだ。
LeSanctuaireshinto"Shimogoryo-jinjya"àKyoto.----------2022年11月11日撮影。お昼ご飯を食べた後は京都御苑に向かっていたのですが、その道中、下御霊神社へ。桓武天皇の御世、各地で疫病が流行り、これは御霊の祟りだということで平安京の神泉苑で御霊会を催しました。それが863年(貞観5年)5月。これによって、上御霊神社と下御霊神社が創祀されました。早良親王(崇道天皇)など、無念の内に亡くなられた方々を祀っております。八坂
J'aiachetéungâteautraditionneldusanctuaireshintoïsteKamigoryo-jijya,"Karaïta".----------上御霊神社の楼門(西門)から出ると目の前に「水田玉雲堂」(みずたぎょくうんどう)というお店があります。ここで売られているのが上御霊神社の門前名物「唐板」(からいた)。平安の世、禁苑(天皇のための庭園)で催されていた御霊会(ごりょうえ)で神前にお供えされていた菓子です。御霊会(ごりょうえ)とは
今年はコロナの行動制限も発令されておらず、各地で3年ぶりの行事開催が放送されている。3年ぶりの祇園祭(起源は疾病の流行や天変地異での怨霊を鎮めなだめる為の御霊会)やら徳島の阿波踊りも。奈良の大仏さんのお掃除・おみぬぐいも参加の人員を削減しての開催と成り引率で出かけて来ました。ちょうどコロナの第7波で開催がどうなるかと心配しましたが計画通りの実施でやれやれと共に大挙して訪れる高齢者カメラマンの数は少なく伽藍もガランとした感じを受けました。やはり見ているだけでは面白くないね。阿波踊りの「同じ阿保な
僕の中では…祇園祭=宵山♪↑昨日のブログでこういう風に書きましたが…嘘です(笑)3年前までそう思っていたのはまぎれもない事実だったのですが…一昨年、昨年の疫病騒動で宵山が中止になって…それでも神幸祭に祇園社にご参拝を続けて…祇園祭=宵山の認識は完全に無くなりました♪↑僕ら夫婦は八坂神社で結婚式を挙げたのでそれなりに八坂神社にはご縁を感じていて初詣は毎年祇園社ではあったのですが…疫病騒動のお陰でさらに八坂神社が身近になりました♪
【食育クイズ:Vol.968】「京都府」の「疫病除け文化」おさらいクイズ!空也上人が疫病除けで民衆に振る舞い、天皇も服した「皇服茶」を提供する寺社とは?∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞【食育クイズ:Vol.967】(「京都府」の「門前菓子」おさらいクイズ!「今宮神社」の門前菓子で「やすらい祭」の疫病除けとされる「京菓子」とは?)の↓↓↓↓↓↓正解と解説↓↓↓↓↓↓【解説】毎年4月に行われる、「
今宮神社(いまみやじんじゃ)は船岡山の北に鎮座しており、平安時代、疫病が流行るたびに船岡山で御霊会が行われた。平安京遷都後、平安京が都市として栄える一方で、人々は疫病や災厄に悩まされ、これを鎮めるために神泉苑、御霊社、祇園社などで御霊会が営まれた。今宮社の紫野御霊会もその一つである。一条天皇の御代、正暦五年(994年)当社地に祀る疫神を二基の神輿に齋いこめて船岡山に安置し、神のみこころを慰め奉って悪疫退散を祈ったのが、紫野御霊会であり今宮祭の起源である。長保三年(1001年)の疫病流行のおり
こんばんは。旗をあげない、名札をつけない、歴史案内をしない、女性の心に寄り添う旅京都癒しの旅案内人の安藤加恵です。もうあと少しで充実した一日もおわります。遅くなってしまいましたが、今日は上御霊神社のお祭りでした。地元の方も神事に関わる方もお祭り大好きな方も2年ぶりでワクワクドキドキご参加くださったお客様たちとゆっくり上御霊神社をお参り。地元のおじいさんに昔のお祭りの様子をきいたり、灯籠やお神輿にじっと見入って普段気が付かなかったことに気付けて、とても良い時間になりました。お神輿も
蔵出し京都画像~京都画像クイズNo.116は同名神社の問題でした。大ヒント画像があったとはいえ、長いこと拝観していない方には神社の雰囲気が変わってしまったため、けっこう難問だと思いましたが、やっぱりというか、解答を寄せられた皆さん正解です😊。それでは正解と解説です。1枚目の画像はこちらの神社の末社になります。吉田神社ですね。問題の神社は、本殿のある境内に上がる手前にあります。画像に見えていますね。それでは正解です。今
御霊神社(奈良市薬師堂町)大和国添上郡奈良市薬師堂町24(P無し、近隣コインP等利用)■旧社格村社■祭神[本殿]井上皇后他戸親王事代主命[本殿東社殿]早良親王藤原広嗣藤原大夫人[本殿西社殿]伊予親王橘逸勢文屋宮田麿「ならまち」内、元興寺の南方に鎮座。社名通りに「御霊信仰」に関わる社。◎社頭案内に掲出される由緒は以下の通り。━━延暦十九年(800年)人皇第50代桓武天皇の勅命により御創祀された社であります。宝亀六年(775年)聖武天皇の皇女で光仁天皇の
オミクロン株が一番ひどいんじゃ?感染力では今までの比較にならん。重症化はするのが少ないから緊急事態宣言まではいかないのかね。昔は疫病が流行れば御霊会が行われていた。コロナのアホ!!さあ、みんなで唄いましょう🎵アホ!アホ!アホのコロナ🎵アホ!アホ!アホのコロナ🎵アーホーのコーローナー♪アホのコロナアホのコロナアホのコロナ🎵アホのコーローナー🎵(坂田師匠のテーマ曲で)
令和3年12月30日(木)京都紫野にある今宮神社に行く。近くには大徳寺や船岡山に信長を祀る建勲神社もある地域だ。京阪で祇園四条駅まで行き、南座前から市バス46系統に乗車し今宮神社前で下車する。御朱印をいただくかたちでは、2回目の参拝となる。この地には平安建都以前より疫神を祀る社があったといわれているようである。建都ののち平安京が都市へと栄えると、疫病や災厄に悩まされ、これを鎮めるため「神泉苑・御霊社・祇園社」など各地で盛んに御霊会が営まわれた。今宮社もその御霊会の一つ紫野御霊会として
前回の続きです♪本能寺を後にして、次の目的地へまたお散歩を再開♪なのですが、、、ここでもまた寄り道(笑)お散歩してると、次々にお寺や神社に出会えるのが京都ですね(*^^*)下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)です。鳥居を写したかったのですが、鳥居の奥には本殿が鎮座しているために、断念(>_<)この神社は、早良親王(のちに崇道天皇と呼ばれる)、伊予親王、藤原吉子(きつし)、藤原広嗣(ひろつぐ)、橘逸勢(たちばなのはやなり)、文屋宮田麻呂(ぶんやのみやたまろ)という六座。
この日、奈良市、ならまちにある御霊神社に、お詣りさせてもらい直書き対応日には書いていただける御霊会の見開き御朱印を御朱印帳にいただき書き置き限定で授与されている菊花開の御朱印をいただきました。
この日、奈良市にある崇道天皇社に、お詣りさせてもらい御霊会の見開き御朱印を書いていただき書き置き限定で授与されている栗の御朱印いただきました。
崇道天皇社大和国添上郡奈良市西紀寺町40(境内北側にP有り)■旧社格村社■祭神崇道天皇「奈良町」と称される歴史的な町並みの一つ、「京終(きょうばて)」エリアの北端「西紀寺町」に鎮座する社。北に面する社前道路を挟み北側は「奈良町」エリア。◎薬師堂町の御霊神社(記事未作成)と並び、「南都二大御霊社」と称されるようです。早良親王は藤原種継暗殺の関与したとの疑義をかけられ、無実の罪を晴らすため配流中に絶食し憤死。その後疫病蔓延や大洪水などが続き、早良親王の祟りであるとの認識が広まりま
井上神社(奈良市井上町)大和国添上郡奈良市井上町17(近隣コインP等利用)■祭神井上内親王他戸親王「奈良町」と称される歴史的な町並みの一つ、「ならまち」エリアの「井上町」に鎮座する社。◎「奈良坊目拙解」(享保二十年1735年)という書によると、当地は元興寺という仏教施設の南大門があり、その門前に井上内親王の御霊社の神輿舎があったからという「井上町」の地名由来。「元興寺古図」には神輿舎が描かれているとのこと。つまり現在の薬師堂町の御霊神社(当社より北300m足らず)の旧社地であ
静御前の見開きの書き置き
祇園祭特別御朱印
この日、京都市中京区にある東寺真言宗のお寺、神泉苑に、お詣りさせてもらい今月1日から授与を始められた二体の御朱印を金墨で書いていただきました。
御靈神社(ごりょうじんじゃ)は上御霊神社と呼ばれ、延暦十三年(794年)の平安京遷都にあたり、桓武天皇の勅願により、崇道天皇(早良親王)の御神霊を現在の社地に祀り、京都の守護神とされたのが始まりである。その後、仁明天皇、清和天皇により、井上大皇后、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫、文大夫の神霊が合祀され、貞観五年(863年)に神泉苑で六所の神座を設けて悪疫退散の御霊会を勅修された。室町時代、文正二年(1467年)に管領の畠山政長が当社境内の御霊の森に陣をしき、畠山義就と御霊神社の戦いを交えたのが
密を避けた初詣の第2弾というのだろうか、今日は午前中に我が家からさほど遠くない寺社へサッとお参りに出掛けた。京都御苑、いわゆる京都御所の南東側に当たる「寺町丸太町」に「下御霊神社」と「革堂(こうどう)行願寺」がある。どちらも、それなりに由緒のある寺社だ。市バスを「河原町丸太町」で下車して、交差点を渡ると、丸太町通りに面して今までなら「丸太町河道屋」だったビルがある。ところが、今日見たところビルの外壁のネームプレートが外されていた。閉店してしまったのだろうか。ふと見上げると1階の