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御嶽橋から見る紅葉久しぶりにオンタイムで紅葉風景を観た息をのむ美しさだった御嶽駅からすぐにある橋
大府市長草町の長草公民館近くにある長草八幡社。創建年代は不詳だが、御祭神は誉田別命で、長草天神社の境外社という位置付けである。明治10年、長草村にあった「愛原の神明社」「田の神社」「山の神社」「本郷の藤井神社」「荒神社」「五ツ屋の神明社」の6社が八幡社に合祀されたが、明治44年には八幡社を含む全てが長草天神社に合祀された。昭和16年に現在地に神殿が建立されたが、この時はまだ御祭神は天神社に祀られたままだった。昭和47年に新社殿を建立した際に、八幡社の御祭神のみ現在の社殿へ遷座した
支会はさておき『信用名鑑』の記事には「又曩(さ)キニ神宮官長ヨリ大教正ニ補セラル、」とある。先というのが何時かは分からないが、明治四十一年の一月三日新年の広告(朝日)では権大教正となっており、同年九月三日の広告(朝日)では晴れて大教正を称している。これに任命した「神宮官長」というのは伊勢神宮と紛らわしいが、御嶽教の神宮暠寿(たかとし)であろう。明治三十八年から大正十年まで御嶽教「管長」を務めた。同じ内容が『大日本之実業』(明治四十一年、大成会編輯局編、大成会)にもあるが、ここでは四十年十一
滋賀県の和邇御嶽山が毎年恒例の登拝で訪れました。この業界は年々信者数が減り衰退していますが、和邇御嶽山は安定している感じなので業界を盛り上げてもらいたいですね。先日も金峰山寺の山伏が登拝して来ましたが向こうも山伏が顕著に減っているそうです。
霊峰木曾御嶽山登拝前行御嶽山大和本宮へ令和6年8月4日(日)気象庁観測史上、最も暑かった7月が過ぎ去り、いよいよ8月に入りました。暑さは依然として落ちる気配もなく、危険な暑さが続いております。皆様も、外出する際には、どうか油断することなく、暑さ対策、熱中症対策を万全にして、お出かけくださいませ。今月は三度目の正直(。´・ω・)木曾御嶽山(3067m)に登拝する月となりました。一昨年は567無発症感染、昨年は台風7号により、交通機関が運休となり、未だ御嶽
さてさて続きなのですがなんせ今回は長靴で来ちゃってるもんでアヒャ。ご心配なくさすが神です◎頂きマウ◎からの登る途中の蕎麦屋へINジャズ流れてまんす中盛りかき揚げ別注文見たよりかはボリュウムあって◎、そば湯もトロッと濃いめで美味しかったです。寄って大正解でした◎◎◎新潟の八海山にご縁らしくこちらは目に良いお水だとか(目のマークが既に怪しいのですが)の先にあるのが本日もオフ車積んだご熱心なお方達がここで完全に
吉野先生の高祖父様は御嶽教の行者様〜そして医の道の方行者様としては「覚」のつく方霊人様になられた方だった!やはり、お血筋!流れているものが〜違って気合入ってらっしゃる吉野先生素晴らしい筈です🧐
寝覚めの床を後にして、道の駅の営業時間になったので、先ずは「木曽福島」に寄ってみました。今日は観光もしますが、娘の道の駅スタンプ集めも頑張るつもりで運転します。娘がスタンプを押してる間に、御嶽山を眺めて、木曽川を挟んで、すぐ向こうにある御嶽教御嶽山木曽本宮美味しそうななめこが売っていたので、ヒラタケと、ショウゲンジも一緒に買っておきました。あとは、どこかで蕎麦を買って投じ蕎麦を作りましょ。
今回は岐阜県高山市に鎮座します御嶽教飛騨教会です。飛騨教会の建物不動橋から御朱印いただきました。
教派神道【7】御嶽教御嶽山信仰を中心とする近世の講社組織の発展的形態と考えられる。下山応助(しもやまおうすけ)が維新後、御嶽信仰を結集する必要を感じて組織したのが始まり。明治15年(1882年)に神道本局から特立。現在所在地奈良県奈良市。『え?木曽の御嶽山の近くじゃないの?』と思った私であった。御祭神は国常立尊・大己貴命・少彦名命の三柱を奉斎主神として「御嶽大神」と木曽御嶽山の開闢大道彦たる覚明・普寛の二霊神を崇敬神として「開闢霊神」奉る。また天神地祇、八百万の神々を
令和5年8月6日(日)いよいよ8月になりましたね。うだるような暑さが続きますが、無理をせず、自分自身の体調を労わりながら、日々を過ごしましょう(⋈◍>◡<◍)。✧♡私は、今週末に迫りました、木曽御嶽山登拝の前行をいたしました(^^)v約一年ぶりにお詣りです(´∀`)木曾御嶽山では、いよいよ夏山登拝のクライマックスを迎えるようです。七五三(なごみ)の教。まさにその通りですね(´∀`)初めての霊峰、やはり手順は踏んでおかないと、ですね(^_-)ま
読者のみなさま、おこんばんわm(__)m本日もご訪問ありがとうございます。幸運エネルギーをONにして人生を書換える神仏融合アチューメント3100名以上の実績安心感のあるヒーラー神仏融合師の坂田暢悠(skipper)ですこれまでのラジオ放送はプロフイール欄最下部より昔の盛り上がりは今はコチラリアルタイム更新facebookお友達申請待ってまーす関東ゲリラ雷雨と騒いでいたが、私の地元は、ただのにわか雨これでは、屁の突っ張りにもならんですよ
龍吟山天猷寺を訪ねた後「龍吟峡(龍吟七滝)」を訪れます。車ですと滝の近くまで入れるのですが、下街道からは少しばかり歩かねばなりません。国道19号線沿いに「ドラゴン21」と名付けられた陶製モニュメントが建てられています。瑞浪市が進める地元陶磁器産業を生かした町造りのシンボルとして制作されたものです。デザインは公募により採用されたもの。龍吟の滝の伝説に由来し、21世紀に新しく生まれ変わる町の象徴として「たまごから生まれる2頭の龍」です。平成13年4月完成。鉄筋コンクリート造
教派神道明治政府は神官の教導職としての強化活動が「国家の宗祀」の祭祀者としての本務から逸脱しているという観点から、教導職から撤退させ、神道の教えを人々に説いたり葬儀の執行を禁止し、政府は神道を他の宗教と別格にし、政治と宗教の分離を目指されたということでした。しかし、これと意見を異にした人達がいました。出雲大社宮司の千家尊福(せんげたかとみ)は、先の祭神論争で大国主神も幽世を主宰すると日本書紀に記載があるので祀るべきと提唱した方ですから、勅裁での決着で伊勢派の勝利には従うしかなか
御岳講(山岳信仰)の霊場で普寛上人の墓も守る寛大教会普寛上人は木曽御嶽山・上州武尊山・越後八海山などを開山し御嶽教を広めた人物鳥居神楽殿手水舎彫刻普寛堂狛犬彫刻火難除けの龍普寛上人の墓圓城院泰賢の墓金剛院順明の墓もともと普寛上人のお墓は安養院にあった『若泉山安養院無量寺[本庄市]』文明7年(1475年)に本庄信明(室町時代の武将[児玉党の一族])が開基となって弟の信行が結んだ庵(その頃水不足に悩まされていた)に玉岑慶珠を招いてこの地に移…ameblo.jp
秩父地方には、御嶽教の神社や道場、行場が数多く点在します。それは木曽御嶽山を開いた普寛行者の生まれ故郷であるからです。本日は普寛行者の生家でもある普寛神社と裏山、行場でもある意波羅山へ参詣してまいりました。麓から見る意波羅山は春の彩り。普寛神社本殿神社にご挨拶後、裏山の意和羅山へ。山の表記が意和羅、意波羅など幾つかありますが神の名からであれば意波羅でしょうか?分かりずらいですが、普寛神社の真裏から藪こぎ状態で参道を探します。かなり荒れた山道を九折に急な傾斜を登りま
石浜御岳神社の取り壊しの動き石浜2023/02/25昨日2月25日(土)、稲荷神社の境内の外れにある御嶽講の社・御岳神社の取り壊しの話し合いがもたれました。御岳神社の老朽化にともない維持ができなくなり、やむを得ず取り壊しの運びとなりました。取り壊しの費用がかなりかかり、御岳講をすすめてきた講の子孫の方が中心となって募金をして、すすめるとのこと。跡地に小さな社をつくり供養ができるとよいとの考えも上がっています。2023/02/25--------・--------
今回は静岡県周智郡森町飯田に鎮座します金毘羅神社です。御嶽教の神社のようです。境内入口車はこの辺りに停めました。鎌倉松ここは稲葉山と呼ばれているようです。道祖神?この建物の中に石碑があります。手水舎鳥居拝殿御朱印は坂の途中にある宮司さん宅兼社務所で書置きをいただきました。住所も聞かれました。
翌明治二十一年一月二十九日:この日付の「上申書」「証書」は前々項に述べた前橋一件に関する。上申書は佐藤から木島宛で、前橋の件の反省と謹慎後はまたお引き受けを願うというものである。但書として他教からは教導職は受けないとも述べている。証書は同じような反省の弁を保証人石井栄助連署でやはり木島に提出したものである。同二月十八日:これは少講義高山照光が御嶽教に報じた「御忠告」に対して御嶽教が木島に宛てた照会(詰問)である。御忠告は、教職を剥奪(停止)されたはずの佐藤が未だに前橋に居て、木島並びに御嶽
佐藤はこうして占卜を始めたものの、もとより無学なため全てを子分格の医者松原融に丸投げした。占断の実際は不明だが、それぞれ根拠となる書物を秘蔵しており、重要なもの、あるいは高度なものは限られた人間にのみ公開していたらしい。佐藤は木島の秘術書を詐って入手し、自分は無筆のため松原に筆写させた。松原もまたその横領を企み、人を使って持ち出させ、気づいた佐藤や仲介に入った木島の妻さらには警察も巻き込む騒ぎになり、詳細はさっぱり不明だが最後は金で解決したのであろう。ただ東京には居づらくなったのか、翌二十
本日高崎の客先へ出かけています。早めに出て本庄市の普寛霊場に寄り道です。ナビで行くと一方通行をぐるぐる回ってなかなか到着出来ません😅何とか学校脇の細い道から入場出来ました。小高い丘の上に他の寺院と共に鎮座されます。広い道からは石段で登るようになっていましたが、駐車場が分からず停めることが出来ませんでした。御嶽教開祖普寛大行人の墓所でもあります。木曽の御嶽山が御神体山であると同時に普寛上人が山岳路を切り拓き修験の場に整えたとのこと。御嶽教自体山岳修験道の一派で教派神道との記載もありま
秩父は古の時代に熊野修験が多く関わり、秩父観音霊場もその流れで成立しております。熊野に関わる場所は現在も多く残ります。時代は流れ、秩父の修験者だった普寛行者により木曾御嶽山大滝口が開かれ、後に教派神道の御嶽教へと繋がりました。その様な土地柄ですから、御嶽教関連の霊場が多数ありまして、山々にはその足跡が至る所にみられます。秩父曼荼羅小屋から程近く。秩父の神奈備山、宝登山は神仏習合の形式を残す宝登山神社が在りますが、その北の山麓に「神まわり」と呼ばれる御嶽教の霊場がありま
御嶽教に私の超能力、霊能力について相談してきた。https://youtu.be/rvLcxbdPmMQ御嶽教に私の超能力、霊能力について相談してきた。宗教団体に相談シリーズについて備忘録。未来の超能力や霊能力が芽生えて不安に思ってる君へ。私の超能力の動画https://youtu.be/dWkNNApqGdY外国の方を私の超能力で救ってみた。https://youtu.be/2xyVv7tXV10貴方の病や心の苦しみが救われる波動共鳴具販売ラクマhtt...youtu.b
今回はお墓以外の少し珍しい仕事のご報告でして、タイトルにございますように、記念碑を建てさせていただくというものです。ありがたいことです。御嶽山を中心とする山岳信仰として御嶽教があり、修験道などの流れも汲んで、その歴史は非常に古いということだそうですが、弊社が運営するお墓のサポートセンターからもほど近い奈良市高畑町に、御嶽教の大杉教会は位置しています。とても立派な宗教施設でして、その境内地の一角に記念碑を建立することになるわけです。では早速現場をご覧いただきましょう。次のようなところ
ここは夜の星もすごいけれど、朝もすばらしい窓を開けて寝ているので、夜中さわやかな高原の空気が入ってくるのだけれど、夜明けとともに鳥のさえずりが聞こえてくる友人は「うぐいすがあちこちで鳴いてるんだわ、それでキツツキがすぐそこの木で幹をトントンやってた」と興奮して何度も繰り返していたけれど、その間私は熟睡していてもったいないことをしましたでも、5時頃に「えっ、この天上から降ってきたような美しい声は?」と思える美しいさえずりは聞くことが出来ました次回は朝早く起きて、外でのんびり森の
宝山寺から参道を下りて、生駒駅にまいりました。生駒駅から学園前駅へ移動、バスに乗って、大淵橋バス停まで移動、歩いて10分くらいかな?御嶽山大和本宮にお詣りさせていただきました。前行とまではいきませんが、来月に登拝させていただきます、木曾御嶽山(3067m)に鎮まります神々にご挨拶と、出羽三山の代わり、という形とはいえ、登拝が叶います事への、事情とお礼を申し上げる為にお詣りさせていただきます。また、私は御嶽信仰については、全く知識もありませんですから、少しでも勉強になれば、と思い、訪れ
秩父御嶽神社にて本日は修行。階段半端ない山の中祈祷所本殿御嶽教でお馴染みの普寛様かな?東郷さん
秩父は普寛行者さんの関係から御嶽教信仰の足跡が多くあります。此方の場所は、秩父長瀞にあります宝登山の北側「神まわり」と云われるプチ行場となります。低山全体に神仏が祀られ、中腹広場の不動明王前には護摩壇などもあります。「神まわり」から宝登山に登拝ができるルートを通り、宝登山山頂の奥宮へ。宝登山も低山ですが、「神まわり」から宝登山ルートは少々急角度の登拝となります。宝登山神社奥宮は、山麓の本殿とはまた違った雰囲気が漂います。宝登山神社は現在も神仏習合の場所で境内には
ある御嶽教の教会に行ってきたご高齢の先生でこの方も様々な修行を積み霊能力を色々とお持ちの方だった。そこで色々お話を伺ったのは超能力や霊能力だとか修行だとかの前にまず一人の人間として法律を守るだとか人に思いやりを持つだとか綺麗に掃除をするだとか六根清浄が出来る事がまず何よりも大事なんだと教えて頂いた。まず1人の社会人としての心構え無くして人は救えないし本当の神様とも通じないと。低級な物に騙されてる自称霊能者も多いと。霊が存在するのか、または霊に上がいるとか下がいるとかの概念が
前回は→その②竹内文書を世に出した竹内氏のあらましと来歴です。竹内巨麿(1875年-1965年)以下の経歴は巨麿自身の主張による。※つまり自称という事か?後に特高警察調べ内容有り富山県上新川郡新保村生まれ。幼少のとき、母が暴漢に襲われ自殺、そのあだ討ちのために修行を思い立った。1893年(明治26年)、祖父から遺言で「世の中が平和になったときに公開せよ」として譲り受けた宝物・文献を携えて上京。宝物・文献は知人に預けて、東京御嶽教本部に入信。②彼の入信した御嶽教とは?『宗