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〇史談会は国事に斃れた志士などを称揚し、請願によって政府に贈位などを働きかけています。文部省の外郭団体のような性格の会と思います。○薄井龍之はよく分からない人ですが、ネット検索によると幕末の志士、維新後司法官を勤めたとあります。○大名の慣例については、御三家、御三卿、親藩、外様などが知られています。薄井はかなり詳しく慣例を話しています。これからしばらく伝えていくことにします。●今日は旧幕時代の大名方の各席ならびに幕府から諸大名を扱われました法律と申すほどではありませぬが、ほとん
徳川幕府では、将軍家に跡継ぎがいないとき、御三家と御三卿はどちらが優先なのか?ということを言うひとがいますが。これについて、成文だろうと慣例だろうと、規定というべきものはありません。「跡継ぎがいないときは、将軍家の分家ぜんぶの中から、みんなで検討して適任者を選ぶ」というだけです。ヨーロッパの王室のように(あるいは現在の日本の皇室のように)「継承順位何位」というのが決まっているものではないです。「御三家と御三卿はどっちが格上か、どっちが継承順位が高いか」なんてのは論じてる意味ありません。そ
台風一過秋晴れの東京です今朝になって、大河川の中流域などで大きな被害が出ているとわかりお見舞い申し上げますさて昨日は一日中、家の中にいたので朝からお散歩に出ました西早稲田の水稲荷神社へ行ってみたらあれ、馬の搬送車がいます明日は約1kmほど離れた穴八幡宮の流鏑馬ですがなぜここに?聞いてみると水稲荷神社の境内には弓道の練習場があるので馬は一晩ここで過ごすのだとか搬送車の扉が開いて馬が降りて来ましたが一台に4頭も乗っているのですねそしてゆっくりと社務所奥の馬小屋?に
家康が御三家という制度を作ったわけではないし、吉宗が御三卿という制度を作ったわけでもありません。ここは誤解しがちなところですが、家康が徳川家が断絶しないように深慮遠謀の結果御三家という制度を考えて「これでいくぞ」と宣言したわけではない。成り行きでそういうふうになった、というだけのことです。最初から尾張、紀伊、水戸の三つで御三家が結成されたわけでもない。「将軍のスペアの資格のある家が、結果的に三つ残った」というまでのことです。御三家は、万が一のときに将軍になる可能性がある、という以外は、普通
面影橋の甘泉園公園都電の早稲田駅にやってきました。次の駅は面影橋。この階段を上ると、水稲荷神社(戸塚稲荷神社)です。甘泉園はもともと徳川御三卿の一つ、清水家の下屋敷だったところ。明治時代には相馬子爵家の邸宅に。その後早稲田大学の施設を経て、1969年からは新宿区の公園となっています。ちょうど裏口に当たるところ。ここは湧き水が多く、また回遊式の大名庭園がそのまま残されています。正式な入口はこちらのようです。近く
【NeufLesMilleetUneNuits=ヌフレミレユンヌニュイ=ニュー千夜一夜物語No.908】《徳川家康》全てはここから始まりました!此れは此れはようこそお越し下されました!手前は浅草は御籾倉に店を構えます〔赤札付き〕の結城屋滉衛門と申します!江戸時代の変わった職業の第73位(貸本屋)の続きです!《徳川家略系図》ここらでひとつ、このおはなしの時代背景をおさらいしましょう!勉強頭が痛くなる方がいらっしゃいましたら、
つつじで有名な根津神社へ初めて訪れました。つつじまつりは最終日でしたが、遅咲きのものが楽しめました。又、その後、谷中霊園の方へも。根津神社(オフィシャル)URL==>http://www.nedujinja.or.jp/index.htmlウィキペディア:根津神社URL==>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E6%B4%A5%E7%A5%9E%E7%A4%BE01.根津神社・表参道鳥居02.根津神社03.根津神社
去年の大河も終わったところで、「一橋慶喜とは何か?」っていう話を、もういっぺん、しようかな、と。御三卿というのは、八代将軍吉宗が、「自分の子孫で永久に将軍位を独占させたい」と考えて作った、いわば「新御三家」です。が、御三家とは決定的な性質の違いがあります。御三家は、家康の息子の下から三人が、城と領地を貰って分家したものです。「いざというとき将軍の跡継ぎを出す資格を持つ」という以外は、他の大名と同じです。領国経営の仕事があり、地元振興、産業育成などに心を砕いているわけです。水戸は江戸定府ですが
こんにちは、教育しん研です。面白いモノを手に入れました。徳川家ブランドのコーラです。キンキンに冷やして開封して飲んだのですが、中身はフツーのコーラでした。缶入りなので、オリジナルの味わいは昔に変わらず美味しくいただきました。水戸徳川家に縁のある都立公園にてゲットしました。~ここか中学生歴史分野~水戸徳川家といえば親藩筆頭格です。尾張・紀伊・水戸の御三家でしたね?親藩・譜代・外様の3種類が江戸幕府にはありましたね?参勤交代のしくみ、理解でき
田安家墓所谷中霊園の一画には江戸時代の御三卿の墓所がそれぞれあります。御三卿とは第8代将軍徳川吉宗により創設された将軍家(徳川宗家)の別家で、徳川御三家と同様、将軍家に後嗣がない際に将軍の後継者を提供する役割を担ってきました。三家の当主は従三位で公卿の位であったことから「御三卿」と呼ばれ、それぞれ10万石が支給されましたが、領地は全国各地に分散し、藩として直接領地を支配することはありませんでした。あくまで将軍家の家族という立場で徳川姓を名乗りましたが、それぞれ江戸城内に与えられた
御三卿というのは、八代将軍吉宗が、「自分の子孫で永久に将軍位を独占させたい」と考えて作った、いわば「新御三家」です。が、御三家とは決定的な性質の違いがあります。御三家は、家康の息子の下から三人が、城と領地を貰って分家したものです。「いざというとき将軍の跡継ぎを出す資格を持つ」という以外は、他の大名と同じです。領国経営の仕事があり、地元振興、産業育成などに心を砕いているわけです。水戸は江戸定府ですが、尾張と紀州は参勤交代もします。ところが御三卿は、江戸城の中の屋敷に住み、城もまとまった領地も
大江戸御家相続家を続けることはなぜ難しいか(朝日新書)886円Amazon明治天皇に拝謁する蜂須賀侯爵(元・徳島藩主)が天皇を待っている間に部屋にあった紙巻き煙草を一本失敬したところ、後からやってきた明治天皇がそれに気づいて「血は争えぬのう…」と嬉しそうにからかった、という逸話があります。蜂須賀家の祖先、蜂須賀正勝が元は盗賊だったことを指していますが、実はこの話には続きがあり、侯爵の父は「オットセイ将軍」と揶揄されたほどの子沢山の11代将軍・徳川家斉の22男(!)で蜂須賀
ブログトラブルは、マイクロソフト関連らしく、昨日書いたブログは諦めました。再度、松岡城について書き起こそうと思いましたが、また後日にします。とりあえず昨晩に一部送った写真でご勘弁を!ということで、御三家とその付家老居城のお城シリーズは、ひとまず終了します。それで、このシリーズ前に記載していましたが、御三卿の居城について触れたいと思います。まず、御三卿とはなんぞや!徳川幕府八代将軍吉宗は、幕府の中興の祖と言われるくらいに、力を持った将軍でした。家康から始まり、秀忠、家光の頃までは
名古屋城からのリレーは、どこのお城へバトンタッチするか?天下普請シリーズを進めながら、色々と考えました。しばらく続けることができる企画は何がいいか・・・・ということで、お城連関図は、名古屋城といえば徳川御三家筆頭のお城、御三家のお城と言えば、和歌山城、水戸城ですね。和歌山城外観復元天守と小天守水戸城内に移築現存の薬医門ところで「御三家」とは何ぞや?徳川家康は幕府創設時に、将軍家を補佐する立場の家として、また本家が断絶した際に将軍を出す家という重要な位置づけで、創設された
吉宗の子、孫のうち、将軍になれなかった三人が、江戸城内に屋敷を与えられ、「御三卿」と呼ばれます。田安、一橋、清水です。これは大名ではなく、適当な養子先(天下り先)が見つかるまでの待機ポストのようなものです。このうちの一橋家から、将軍家の養子になり、のちに将軍になった家斉が出ます。この家斉はものすごい数の子供を作り、それを親藩、譜代、外様にかかわりなく、あらゆる大名家の養子に押し付けました。(ほかの御三卿の家からも養子がイッパイ出てるので、日本中の大名がみんな吉宗の子孫、みたいなことにな
茨城県立歴史館で開催されている特別展「一橋徳川家の200年」に行ってきました。この展示は、茨城県立歴史館「一橋徳川家記念室」開設30周年を記念して開催されています。一橋徳川家は”御三卿”の一つです。8代将吉宗の子と孫が江戸城内に屋敷を得て創設されたのが、田安、一橋、清水の御三卿です。御三卿は御三家(尾張、紀伊、水戸)と異なり独立した大名ではなく、徳川将軍家の身内の立場にありました。特に一橋徳川家は第11代将軍家斉、第15代将軍慶喜を輩出するなど徳川将軍家と密接に関わっていま