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今日は素晴らしいお天気です。珍しく風もなく、湿度なくカラッとしているので今のところ過ごしやすいです。でも今日は、28度まで気温が上がるとか言ってるのでお家時間を楽しむことにしました。今回も、上野御朱印巡りで寛永寺根本中堂へ参拝と御朱印の続きです重要文化財へ続く道なりには白いツツジが満開でしたこちらは、徳川家のお墓や一般の方のお墓がある方向になります。徳川御三家の拝殿(国指定重要文化財です)徳川家康の男子のうち、義直(尾張)、頼宣(紀伊)、頼房(常陸、水戸)の家系を指す言葉
ドラマはあくまでドラマであり、田沼意次は時代劇というドラマ世界では悪役のポジションに据えられるのに格好のキャラクターです。「大奥」は歴史劇ではなく時代劇です。ここでは人間は愛憎だけで動きます。つまり、好いた惚れた、色と欲と、恨みつらみ、妬み嫉み、がすべての世界。歴史上の人物の業績とか功罪とか、そういう話はNHK大河でやればいいんで。民放の「大奥」には、そんなの関係ありません。日本史には、たいてい「二つの常識」があります。道鏡といえば皇位簒奪、清盛といえば傲慢、富子といえば銭ゲバ、綱
うちのブログは、アクセスの7割ちょっとが「検索」でいらっしゃる方々でして。ありがとうございます。日本古代史ばっかりやっている所ですが、たまに中世や近代や海外もやってます。ゆっくりして行ってってくださいましね☆で、アクセス解析を見てみると、多い日で「検索」の8割ほどは「系図」なのですが、ここ数ヶ月は『光る君へ』関連で来る「藤原氏」のほかに、「徳川家」でいらっしゃる方が多いのです。去年は大河ドラマが『どうする家康』だったので、その余波かな…と思いかけたのですが、検索ワードでは「徳川
NHKドラマ10「大奥」のシーズン2医療編の出演者が、ぞくぞくと発表となっています。このドラマは、男女逆転の世界を描くファンタジードラマですが、ストーリー上の事柄は、殆どが、史実通りのものとなっています。シーズン2では、9代将軍家重、10代将軍家治、11代将軍家斉が中心となると思いますが。(12代将軍家定も含まれるかもしれません。)この期間の将軍職の跡目相続に関連する御三家と御三卿について書きます。この御三家、特に御三卿が分かっていないと、この時代の権力闘争が見えてこな
水稲荷神社社殿脇の階段を下るマンション前、石灯篭と石柱児童公園を挟んで、趣のある竹垣と門甘泉園こちらは、堀部安兵衛碑近くの甘泉園公園への入口流石は、徳川将軍家御三卿清水家の下屋敷旧大名屋敷庭園池の木々の一部に雪吊り都内では珍しく一瞬だけ「金沢兼六園」を思いだす後数日で立春の頃、早咲き梅が開花始めてました
水戸は御三家と習ったものですが、江戸幕府設立当初御三家と言う考えはなく、当時徳川の分家が、絶えたり将軍職を継いだりして他の家がなくなったので、たまたま御三家と言われただけです。水戸光圀は「大日本史」を編纂させ、これが200年後に幕府転覆の精神的支柱になります。世界観は天皇中心の世。国学を代々学んだ水戸徳川家に、朝廷に逆らう道理はありません。当然幕府からは遠ざけられます。江戸時代、水戸藩から将軍は出ていません。慶喜は継いだ一橋家当主としての将軍です。御三卿とはいえ名ばかりで、部屋
千代田区役所の入っている九段合同庁舎前にある旧江戸城の門清水門に、せっかくなので寄り道石垣には草が鬱蒼と映え堀には水草旧江戸城の中では比較的に人影が少ないので往時をイメージするには絶好の場所かな旧江戸城北の丸(現北の丸公園)の東門にあたり高麗門と渡櫓門からなる門は、江戸時代のもの(万治元年・1658年)が現存し、国の重要文化財だそうです清水門という名の由来は家康入府で江戸城が築城される以前中世には清水寺が建っていた清水が湧き出す土地だからともいわ
ご来訪ありがとうございます……第十一代将軍の徳川家斉……艶福家と巷では噂され……野望も桁外れでした……もしかして……子供の顔と名前は……覚えているのかしら…https://news.yahoo.co.jp/articles/42b485a155d864a5c8ecec291409c05701c97016?page=117人の女性に54人の子を産ませる…11代将軍・徳川家斉が実子を増やしつづけた本当の理由(プレジデントオンライン)-Yahoo!ニュース江戸幕府11代将軍の徳川家
まず最初に確認すべきことは、「将軍というのは、能力によって選抜されるものではない」ということです。将軍は、血筋の順番で選ばれる、馬鹿でも子供でも病弱でも。その代わり実際に政治をする老中とか奉行とかになるには、それなりに厳しい競争があって、有能でなければ職にはつけない。これが江戸幕府の仕組みなんです。「松平定信が、優秀だったのに将軍になれなかったのはおかしい、なんかの陰謀にちがいない」ってのが、そもそも違うんです。吉宗には成長した男子が三人いました。長男の家重は言語不明瞭で、弟二人のほうが
●德川家康の家系図(将軍家)(完)◎江戸城(江こう城・千代田城。皇居)(武蔵国豊嶋軍江戸。東京都千代田区千代田)松平広忠(次郎三郎)(1526年6月9日~1549年4月3日)妻・於大の方(父・水野忠政)①徳川家康(1543年2月10日~1616年6月1日又大坂夏の陣にて死亡?)②徳川秀忠③德川家光德川義直(尾張家)徳川光義徳川綱誠(つなのぶ)徳川頼宣(よりのぶ)(紀州家)徳川
1903年12月17日にライト兄弟が動力飛行機の初飛行に成功しました。4回飛行し、4回目が飛行時間59秒、飛行距離256mで最長でした。それから7年後の1910年12月19日、徳川好敏陸軍大尉が代々木練兵場(現在の代々木公園)で、日本人初飛行に成功しました。飛行時間は4分、最高高度70m、飛行距離3,000mでした。徳川好敏(1884年〜1963年)は、御三卿の一つ清水徳川家の第八代当主でした。陸軍航空発展に貢献し、最終階級は陸軍中将でした。
出典📖『江戸近郊道しるべ』(村尾嘉陵著/朝倉治彦·編注/東洋文庫448/平凡社)ヨリ👆何故か?下👇の画像と一緒にくっついて来た😩なぜ?...まいいか。今回の内容とは関係ないけど。ほぼ同時期なんで当時の永田町「三べ坂」松平出羽守は出雲松江、土井大隅守は越前大野藩。名前の上に家紋があるのは「上屋敷」の意。現在の永田町衆議院議員会館の裏辺りになろうか...和泉岸和田藩岡部家上屋敷と和泉伯太藩渡辺家と武蔵岡部藩(渋沢栄一の故郷・血洗島辺りを領した殿様)安部家・・・「おかべ・わたなべ・あんべ」の
将軍継承順位については成文法があるわけではありませんから、実際の例から帰納して「たぶん、こういうルールだったんだろう」というのを皆さんあれこれ推測するわけですが。実のところ、そのときそのときの事情で基準はまったく違います。五代将軍選びのときは、御三家ではなく将軍の弟である館林藩主綱吉が選ばれています。真偽は分かりませんが、このときは「宮将軍」つまり女系で徳川と繋がりのある親王を連れてこようという案も浮上したとかしないとか。とにかく「将軍の跡継ぎはこういう順序で決まる」というルールは特にはなか
今回は、徳川家御三卿の墓所をご紹介します。田安徳川家墓所田安家の墓所は外からお参りです。徳川宗武(田安家初代)から徳川家達(九代目)まで埋葬されています。清水徳川家墓所徳川重好(清水家初代)・敦之助(二代目)・斉明(四代目)が埋葬されています。六代目徳川昭武(民部公子)は、清水家より水戸藩主になった為こちらには眠っておりません。一橋徳川家墓所徳川宗尹(一橋家初代)から徳川茂徳(十代目)までこの地に埋葬されています。※慶喜は、明治維新後に慶喜家初代当主になっておrます。晴
今週から、中学の中間テスト。息子「大河の徳川慶喜、御三家とちゃうで。知ってるやんなぁ。」前回の期末テストに出た模様。私「そんなん、常識や。知っとるわ。最後の将軍、いうねん。」息子「御三卿やで。『卿』って字が、またややこしいねん。」私「汚い字で、ごまかせば○をくれんねん、中学は。」逃げるのに必死。
只今、「門」と「櫓」を兼ね備え、特に「大手」等の重要箇所を固めた最強の門であった「櫓門」シリーズをお届け中です。ということで、今回第17弾は、「江戸城(後編)」(東京都千代田区)の「櫓門」をお届けします。「江戸城」には、8基(※)の櫓門があり写真もふんだんにありますので、前編、中編、後編の3回に分けてお届けしています。(※)大手門、桔梗門(内桜田門)、坂下門、西の丸大手門、桜田門(外桜田門)、清水門、田安門、平川門前編<大手門、桔梗門(内桜田門)>『<江戸城>の”櫓門”を巡る(前
「青天を衝け」の現時点でいえば、「徳川慶喜」が本名で、「一橋慶喜」は通称(みたいなもん)です。水戸斉昭(これも通称、正しくは徳川斉昭)の息子として生まれた七郎麿は、「将軍の養子候補」として江戸城内の一橋屋敷に迎えられ、「一橋家」を相続し、将軍家慶から偏諱を受け慶喜となります。この一橋というのは「屋敷(建物)の名前」ですから、いわば屋号(みたいなもん)であって、名字ではありません。一橋家の養子になった、と言われますけど、正式な名字は徳川です。江戸城内には、将軍の跡継ぎ候補を住まわせるための屋
御三卿というのは藩でも大名でもありません。将軍家の御親戚という特殊な身分で、田安、一橋、清水というのは江戸城内の屋敷の名前です。ここに住まわされている「養子待機要員」が、御三卿です。家臣は幕府からの出向、飛び飛びにある領地も実質幕府が管理している。だから御三家を含む普通の大名なら当然する領地経営の努力ってものがありません。つまり「藩」ではないんです。御三卿の家の当主であっても、いい養子の口があれば行く。屋敷が空き家になったら、どっかからまた徳川一族の若者を連れてきて屋敷に入れればいい。御三
おはようございます。本日は小話です。ですが、これをするだけで伏見宮家が重んじられていた事を証明できます。~伏見宮もうひとつの天皇家~のリンクは↓著者・浅見雅男氏発行所・株式会社講談社伏見宮─もうひとつの天皇家|浅見雅男|本|通販|Amazon伏見宮家の説明は↓簡単に分かる!伏見宮家~伏見宮もうひとつの天皇家~より①|夕凪に思う。~神代光のブログ~(ameblo.jp)簡単に分かる!伏見宮家~伏見宮もうひとつの天皇家~より②|夕凪に思
「一橋」というのは単に屋敷の名前であって、通称に過ぎません。名字でも姓でもない。尾張・紀伊・水戸の御三家、田安・一橋・清水の御三卿は、正式にはすべて「徳川」です。父親も「徳川斉昭」であって、水戸様と呼ばれるのは通称に過ぎません。御三卿というのは、江戸城内の屋敷に「将軍の御親戚」という資格で養子候補を住まわせておき、無位無官ではカッコつかないので「~卿」という官位を与えておく、という制度です。一橋というのは藩でもなければ(厳密には)家ですらありません。江戸城内、一橋門のすぐ内側の屋敷に住ん
家康が御三家という制度を作ったわけではないし、吉宗が御三卿という制度を作ったわけでもありません。ここは誤解しがちなところですが、家康が徳川家が断絶しないように深慮遠謀の結果御三家という制度を考えて「これでいくぞ」と宣言したわけではない。成り行きでそういうふうになった、というだけのことです。最初から尾張、紀伊、水戸の三つで御三家が結成されたわけでもない。「将軍のスペアの資格のある家が、結果的に三つ残った」というまでのことです。御三家は、万が一のときに将軍になる可能性がある、という以外は、普通
<御三家・御家門、譜代・外様大名のお城>(まとめ)※当(まとめ)ですが、「もう少し整理すべき点」「お城の位置を現わす地図の挿入」等の整備を、順次進めていきます。現代の生活・文化教養・経済・政治行政など殆ど全ての事柄の礎は、「江戸時代にあるのでは」と、私はかねがね思っています。江戸時代を良く知ることで、現代の上記の項目の成り立ちや仕組みがわかるような気がします。そして、約270年近く続いたほぼ平和な江戸時代を確立したのが「徳川家康」であり、その前裁きをすべく全国統一を果たしたのが「豊
12月19日は日本人初飛行の日1903年12月17日、ライト兄弟が動力付き飛行機の初飛行に成功しました。それから7年後の1910年12月19日、徳川好敏陸軍大尉が代々木練兵場(現在の代々木公園)で、日本人初飛行に成功しました。飛行時間4分、飛行距離3km、最高高度70mでした。徳川大尉は、清水徳川家の当主で男爵です。清水徳川家の初代は、9代将軍家重の次男重好です。兄が10代将軍家治、祖父は8代将軍吉宗です。吉宗の意向で、次男宗武の田安徳川家、四男宗尹の一橋徳川家、孫の重好の清水徳川
北の丸公園に来ています。清水門へ通じる長い階段。靖國通りに面した田安門に比べてひっそりとしているので、近隣の子ども達の遊び場になっています。車の往来のない広い場所の確保は、少子化対策として有効な手段であることが分かります。子どもはビルの中では成長しません。田安門と同じく、清水門も桝形門となっています。こちらは外から見た櫓門です。昔見た空き地のように野草が生えていて、子ども達が集まって来るのも分かります。重要文化財なので、落書き等を心配する大人もいるでしょうが、実際にそういった
ここに例のお寺の番犬の話しが出てくるw
俺らの別ブログから~こういう発見も楽しいんでござんす
甘泉園(かんせんえん)を探索しています。徳川御三家に次ぐ徳川御三卿の一つ、清水徳川家の下屋敷だった甘泉園。起伏に富んだ庭園です。湧き水がお茶に適していたことから甘泉園と名付けられました。パプニング発生!アップダウンに耐え切れず、革パンが破れました。ジーンズならお洒落で通せるけど、これはもうサヨナラですね。東屋からの眺め。雪吊を見ていると、兼六園のようですね。なんとか閉園(17時)前に出て来ました。こちら(北側)が正面入口のようです。入口
〇史談会は国事に斃れた志士などを称揚し、請願によって政府に贈位などを働きかけています。文部省の外郭団体のような性格の会と思います。○薄井龍之はよく分からない人ですが、ネット検索によると幕末の志士、維新後司法官を勤めたとあります。○大名の慣例については、御三家、御三卿、親藩、外様などが知られています。薄井はかなり詳しく慣例を話しています。これからしばらく伝えていくことにします。●それから御三卿は万事御三家同様な待遇でありましたけれど、官位の昇進方などは三家とは違いまして、初めはや