ブログ記事84件
「やまない雨はない」なんてフレーズを実に様々なところで我々は使いがちですが、それってどうなのかなって思う。確かに安心感はある。ただ、それは投げっぱなしの安心感でもある。プロレス技の投げっぱなしジャーマンは受け身が取りづらいように、保証のない安心感だけ渡されて放り投げられているようなモヤモヤ感が残る。そのモヤモヤ感の正体は「やんだ雨はいつかまた降る」というファクトだ。雨は繰り返し降るものだ。それなのに「やまない雨はない」でとめてしまい、希望だけを含ませるから言葉を選ばず言えばたちが悪い。
朝起きて顔を洗っている時や、朝まで飲んでひとりとぼとぼ帰ってる時なんかに、ふと昨日と何かが違うって思う事ありませんか?それが何かは判然としない。けれども、何かが明らかに違う。それはまるで似て非なる世界に来てしまったような感覚。歯ブラシの配置が昨日と違うとか、コンビニ店員の制服のストライプの数が一本少ないとか、そういうサイゼリヤの間違い探しのような類ではなく、もっと感覚的な違和感である。そういう時って実は本当に昨日と違っていたりするんですよ。ここだけの話。
30年以上前、中国へ行った時に現地の中国人に「水道水が危ないと思うだろ?ちがうその前に出された食器が危ないんだ」と言われました。だから、外食ではまわりの中国人も必ずナプキンで皿をキュッキュッと拭いてました。基本、みんな自分のいる環境を信じてないんですよ。自己防衛の世界。これは日本人の僕からするとあまり意識することなく生きてきたので新鮮な体験でした。ちなみに僕の住んでいた街には通称「肝炎街」と言われる現地の人からも「行ったら終わり」と呼ばれる屋台街がありました。でも、なぜかそういう屋
水漏れみたいに滴り落ちてくるどこの誰かもわからない制作会社関係者や番組スタッフの証言それを記事にする顔のないライター雑な言葉は深淵からガスのように湧き上がり街を埋め尽くす
どんなジャンルの趣味も一部古参のファンやマニアが新規参入の障壁になっていたりするのは残念だなと感じます。ルール内で自由に楽しめる雰囲気を作ってビギナーに楽しんでもらえるようにするのが古参の役割じゃないかなと思うのです。ほら、あなたの趣味でも思い当たるでしょう?
この世界で一番大切な要素は「余白」だと思います。pic.twitter.com/1rmqGrfasA—エンドケイプ🛸(Endcape⚡)(@endcape)June3,2025この世界で一番大切な要素は「余白」だと思います。
“彼らの信仰は懲罰は教えるが、許しは教えない”とある海外小説の一文です。これって、まるで現代のSNS叩きに通じる文言ですよね。懲罰を与えることが目的ではなく、懲罰を与えている自分自身の溜飲を下げ、自己肯定感を上げるのが目的になっている気がします。
何事も浮き足立たずに静かに仕留めにいこうと常日頃思っています。
不安を煽り相手の心にあけた穴につけ込む手法は昔から存在する。やれ政治がー老後の資金がー健康がー柱のシロアリがーといった具合に。人生をうまく泳いでいくコツのひとつが、そういった不安を煽ってくる人の相手をしないことだ。これを徹底するだけで劇的に変わる。それでもあなたの周囲には不安を煽ってくる人が必ず出てくる。そして何かに勧誘したり誰かを紹介しようとする。そういう人に対しては天山ばりのモンゴリアン・チョップをかましてもいいとさえ思っている(しろとは言っていない)。
株価の上がったnoteひっそり更新中です。エンドケイプ|note
なにかを始める時に一番恐れる事。それはもれなく「終わり」がついてくる事だと思います。なかなかスタート出来ない人の頭の中には少なからずこういう先の事まで考えて躊躇してしまっている人も多いと思います。僕はとても理解できます。だって怖いもの。始めなかったら終わらないし。
貯金したい時にお金をどう貯めるかではなくお金をどう使うかで思考した方がお金は貯まる。考え方のちょっとしたベクトルの変化って必要だ。何事も。
抽選に勝ち抜いたエヴァンゲリオンコラボ商品。パッケージが良くてなかなか出せずにいる。このままエヴァンゲリオンに変形する事なく、ずっとビックマックに潜んだままかもしれない。あえて取り出さない様式美って、我々の心にも同じ事が言えたりする。全てをさらけ出さずにパッケージ状態で対外的に接する事も多い。その方が楽だし、相手からしても重くなくていい。トレーに置かれたハンバーガーのように、過度な自己主張もせずに佇んでいるのに、突如としてエヴァンゲリオンに変化されても困るだろう。大切なのは中に芯を
たまーにTVに出させてもらう事があるのですが、以前室外機マニアとして某番組に出た時に番組ディレクターの方からいただいた直筆のお手紙はとても嬉しいものがありました。人の心を動かせるものは、人の心だけだなと思った次第です。
今年もいろいろありがとうございました。来年は個人的に目標がいくつかあります。目標なんてものはいくらあってもいいと思っています。叶うものもあれば叶わぬ夢もあることでしょう。ただ、問題は達成するか否かではなく、やるか否かなんです。その目標の合否はどうであり、そこへ向かって動けばとりあえず勝負は勝ちなんです。そんなの綺麗ごとだと感じる人もいるかもしれません。違うんです。人が動けばまわりの空気も動くんです。それがあとあと効いてくるのです。目標とは直線的に見つめるものではなく俯瞰で眺め
自分もいい年齢になりまして、昨今誰かと会った時に、これがこの人と会うの最期になったら嫌だなと考えるようになりました。その後も何変わりなく何度も会う時もあるし、本当に最期になる時もあります。こんな文章を書いている間も時間は平等に減っています。僕もあなたも。山手線で泥酔している人も、恋人と自宅で過ごしている人も、これから首を吊ろうとしている人も、人生のピークを謳歌している人も、戦地で生死を賭している人も同じだけ時間を消化しています。そんな減りゆく時間を止める術もなく、どう生きていくのが正解な
何事も人のせいにするのは簡単だ。問題のエネルギーを他者に委ねて自身の責務を終えてしまうのだから。悪いのは自分ではないという着地点にもなる。かたや、あらゆる事柄を自分のせいにする人は、問題の根源となるエネルギーを自分の中に持ち続けている。どうすれば同じ過ちをしないか考える。他責するのは楽ちんである、なぜならそこで考える必要がなくなるからだ。バトンを渡してしまうからこれ以上走らずに済むし、周回遅れなのも今走っている人のせいに出来る。自責するとバトンを握ったままだから、そこからいろいろと考え
いつも思うのです。「勝利」とは勝った日ではなく、負けないと決めた日を指すのだと。
普段めったに降らない地域で雪がつもると妙な連帯感が生まれますよね。知らない人とすれ違う時も「雪なんか積もっちゃってお互い頑張りましょうね」みたいな目くばせしちゃったりして。雪が降るとなんというかそんな暗黙の団結力を感じるのです。
人生50年、年上も年下もこれまでたくさんの人に出会ってきた中で、うまくいっている人の共通点がありました。それは他者のせいにしない人です。他責思考は恨みにもなり過去を引きずるのですが、自責になると未来が課題になるからだと思います。他責と自責の思考の違いは即ち過去に留まるか、前を向いて歩くかに変わるのです。そう考えると全然変わってきますよね。ただネガティブな自責思考は逆効果なので要注意です。なんでも自分のせいにしろって言ってる訳ではないですよ。例えば雪がたくさん降って家に引きこもってし
役所という空間ほど人生を詰め込んでいる場所はない。生まれてから死ぬまでのあらゆる手続きを処理しているのだから当然と言えば当然。だからそこに来る人々も同じく喜怒哀楽あらゆる感情を持ち合わせている。嬉しい人悲しい人、余裕ある人ない人、税金払いたくない人、たらい回しにされている人、やたらめったら怒鳴り散らかしている人。職員も緊張感が張り詰めていたり、疲れ果て昼休みノートPCに突っ伏して寝ていたり。混ざり合うと、独特な殺伐感が漂い出す。例えそこに幾らかの祝福すべき幸せな要素(婚姻届とか)があっ
ふと無性に行きたくなって横浜のそごう美術館で開催中の百鬼夜行展へ向かいました。それはとても有意義で勉強になる時間でした。可愛いすぎて河童の三平のタヌキをお持ち帰りしました。この子が出口にいるのは反則です。そんなことをされたらひょいと手に取りレジへ持って行ってしまうでしょう、と。どう考えたって反則です。さて、日本には実に様々な妖怪がいる訳ですが、なかなか地味な嫌がらせをしてくる妖怪も多いのです。例えば提灯なんかの火を消す火消婆とか、地味だけど嫌なことをしてきます。
僕がかれこれ1年続けている分散型SNS「Nostr」で、ありがたいことに多くの外国の方から度々「フォローすべきアカウント」として紹介されている。その理由もなんとなくわかる。僕は自分の作品や日常生活を切り取った投稿を続けているのだが、多くの外国人は流行りのネットミーム画像をアップしたり、投稿者本人の実態が見えないケースが多く正直つまらない。それに加えビットコインについての話題も多い(これはNostrの特性上仕方がないのだが)。どの投稿もかなり偏りがあり、万人受けしないものばかりで現
人生を進むためには想像力を必要とします。想像力の欠如は人として割と致命的な結果に繋がると思っています。例えば、目の前の通りが二股にわかれています。右の道は今歩いてきた道と同じようにきれいに舗装されている。しかし、左の道は草が生い茂ってしばらく人が出入りした様子もなく、奥の方から獣の低い唸り声まで聞こえてくる。そんな二股の道があれば、誰でも想像力を働かせますよね。どちらを進みますか?僕は左を進みます。
自分の完璧が決して第三者にとっての完璧ではない。せっかくよい角(カド)がある創作物もヤスリをかけ過ぎてしまえばその角は取れて丸くなってしまう。そして、最後には削りカスの山を積み上げ跡形もなくなってしまう。こうして多くのクリエイターはヤスリをかけ続けているうちに作品を世に出す機会を逃してしまう。造形物にしても言葉にしても同じことだ。ヤスリはほどほどでいいのだ。角を丸くすれば美しいわけでもない。そう言うと、今度は完璧を目指さない言い訳として機能してしまうから着地点は難しい。以前、作詞家とし
自分のからだにトゲトゲをつけていたら、周囲の人は触れたくないから遠ざかるし、近寄る人は対抗するために同じようなトゲトゲをつけてしまう。何ひとつ良いことなんてない。何ひとつ。でも全身トゲ人間はそのことに気付かない。気付けない。だからトゲ人間のままだ。SNSの世界なんて、みんなモフモフしていればいいんだ。
自信過剰は比較的ネガティブな意味合いで使われることが多い。根拠のない自信は持つべきではない、と。でも、人が何かで成功する要素のひとつとして根拠のない自信がとても大きな役割を果たしていると思っている。それに対して中身が伴っていようがいまいが、形成された自信というその力で目標まで走り続けることができる。だから、僕は自信過剰な人を否定しない。例え殻だけの空っぽなポジティブ思考でも、ポジティブに変わりはないのだから応援したい。そもそも殻がなければ中身は生まれないのだから。
読みかけの本があるというだけで、冷蔵庫の製氷機に氷のストックがじゅうぶんあるというだけで、瓶の中のジンが半分以上残っているというだけで、その日が楽しく思えたりする。幸せの価値は人それぞれだ。
自分のために何かをやる意味それは他人のために何かをしようとするからだ。“自分のため”と“他人のため”は、人と、そこに張り付く影のように決して分離できない関係性を持ち合わせている。
全ての蚊は人工的に作られたロボット兵器|エンドケイプ(note.com)noteに書いたのでどうぞ。