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【食育クイズ:Vol.1650】「京都府」の「建永(承久)の法難」おさらいクイズ!御所の女御が専修念仏の教えに感化され出家した事に激怒して処罰した上皇とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)大豆コーヒードリップパックAmazon(アマ
中学校の歴史の教科書に記載されている重要人物を紹介します。第33回は「後鳥羽上皇」です。☟詳細はこちら☟-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。youtube.com
蘇りの季節、肩の力を抜いてみなさん、おはようございます雨が上がり新緑の美しい季節です蘇りの季節です少し肩の力を抜いて深呼吸幸せを感じましょうアリガトウ「5月14日」の國史です「承久の乱、起こる」承久3年(1221年)後鳥羽上皇が院宣(いんぜん)を出し執権・北条義時を追討しようとします源頼朝が地頭を置いて荘園を管理したため朝廷に租税が入りにくくなったことが大きな要因です頼家(2代)、実朝(3代)が早世したのでこの機に後鳥羽上皇は動きました
歴史シンポジウムに参加して来ました。長時間お疲れ様でした。(自分へ)愛妻は、小さい頃からお勉強してるのでお得意分野。オイラは、勉強嫌いですが住んでいる地域の歴史なので、結構?頭に入り有意義時間を過ごしました。感謝。
田辺市の本宮町から日高郡印南町にやってきました。SNSをされている方にお会いしたくて切目神社(王子)を訪れました。社務所が閉まっており人のいる気配がしなかったので、残念に思いながら本殿にお詣りしました。正月三ヶ日が過ぎると人の賑わいも無く静かでした。お参りをした後、本殿裏にあるパワースポットへ。中を覗くと私には壁板の顔が笑っているように見えましたみなさんにはどのように見えるのでしょうか?拝殿に向かって左側に生育している巨木は和歌山県
さてさて…………………【まるか食堂】にて、至福のランチタイムをとって元気モリモリのココロは、次の目的地へと向かって歩いた…………………【開田城跡の土塁】歩いていると、史跡に出会う【八条ヶ池】この【八条ヶ池】の向こうに【長岡天満宮】が鎮座する。『天下分け目の天王山⑪〜長岡天満宮〜』さてさて…………天下分け目の【天王山】を出発した我々は、次の目的地に到着した…………到着したのは…………【長岡天満宮(ながおかてんまんぐう)】京都府長岡京市天…ameblo.jp【長岡天満宮】のココロ過去
【食育クイズ:Vol.1611】「京都府」の「六波羅探題」おさらいクイズ!鎌倉幕府が京都に六波羅探題を設置したのは何の戦乱の後?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)大豆コーヒードリップパックAmazon(アマゾン)たねす
皆さま、こんにちは今日も楽しく笑顔で過ごせたら嬉しいなっ🥰お仕事の皆さまもお休みの皆さまも、笑顔溢れる素敵な一日をお過ごし下さいねっ❤•••••cut•••••・1205年(元久2年)3月26日、新古今和歌集が完成する→後鳥羽上皇が藤原定家らにつくらせた『新古今和歌集』。およそ1900首がおさめられ、上皇は「和歌は、世をおさめ民の心をやわらぐ道」と書いています
運の佳い友はいますかみなさん、おはようございます大雨ですお出かけには注意をしてください今日はゆっくり人間関係を考えるのもいいです運の佳い友は財産です新しい春は佳い人間関係をつくってくださいアリガトウ「3月26日」の國史です「新古今和歌集、完成」元久2年(1205年)平安時代末期に後鳥羽上皇は藤原定家等6名に編纂を命じます万葉集(7~8世紀)古今集(12世紀)についで新古今和歌集ができました新古今調は名詞止めや初句切れ、三句切れで平安
以前から素敵な名前の神社だなと思ってた水無瀬神宮へ行ってきました。手水舎手を浸すと、温かい!柔かなお水でした名水百選"離宮の水"があり、水を汲む為6〜7人並んでましたお連れさんが「俺、(水汲みの列に)並んどくわ!」と言ってくれ、私だけ先に神様へご挨拶後鳥羽上皇が愛された、水無瀬離宮のあったこの地に、上皇の菩提を弔う為に御影堂を建てたのがはじまりです。御祭神後鳥羽上皇・土御門天皇・順徳天皇神様、はじめましてあの肖像画は後鳥羽上皇かな?春日神社柿本神社星阪
この大井戸の渡し(尾張川:現木曽川)は、鎌倉時代に起こった国内最大級の内乱・承久(じょうきゅう)の乱の口火を切った「大井戸の戦い」の場所でもあります。㊟サライよりお借りしました。承久の乱とは、承久3年(1221)後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権北条義時に討伐の兵を挙げて敗れた兵乱のことです。日本史上初の朝廷と武家政権との間に起きた武力による争いで、鎌倉軍の圧勝により支配階級が公家から武士へと移り変わる画期的事件でした。以降600年にわたり武士が政権を担い続ける契機となりました。鎌倉
千佳前回で『私見承久合戦』が100回を迎えました。長戸というわけで、今回回想してみようってことだな。豚白まあ、とにかく今回は自己紹介から。千佳はい。今の推しは【式目制定】北条泰時さんの香月千佳と長戸推しか・・・うーん【ババピー】大江広元の長戸賢治に豚白もとからこの時代は【得宗】北条義時推しだった豚白です。千佳『私見承久合戦』、第1回目の話覚えています?長戸確か守護職の世襲というシブいネタだったはず。千佳その後しばらく平穏無事で話が進まず、ホントに承久合戦までいく
千佳今回は建国記念の日、2月11日に書き始めました。長戸数日後暖かくなるのは本当か。豚白これがアップされる頃にはわかっている。それでは始めよう。千佳奈良で幕府方と僧達の間にトラブルが発生していました。豚白僧達は撤兵してもらうために「悪い連中は探して引き渡す」と言っていた訳だが、1221年10月2日、【富裕】藤原秀康の使用人が捕らえられ六波羅に送られた。もちろん処分されている。千佳処分=死罪でしょうね。豚白ただ【富裕】秀康らを追えば大丈夫、というわけではなかった。3日、【
長戸暦の上では今日から春の2月4日から書き始めたとさ。千佳春まだ遠い、って感じですけどね。豚白でも今年は雪解けは進んでいる。それでは始めよう。千佳長く草創期の鎌倉幕府を支えた【裁判官】三善康信さんが亡くなりました。豚白【法橋】太田昌明は【新島守】後鳥羽上皇の誘いがあったが断り、鎌倉方で戦った。【夫婦別姓】北条政子は【法橋】昌明を但馬守護職等を与えたのだが、8月10日、【夫婦別姓】政子宛の手紙が届き、読んだ【夫婦別姓】政子は感激したという。千佳どんな内容だったんです?豚白
『本歌取り』は藤原俊成、定家父子によって開発、発展された当時最先端の和歌の読み方でした。『本歌取り』は過去の和歌をベースにしたものですので、一歩間違えれば、盗作になりかねませんので両刃の刃でした。藤原定家は、藤原家隆と歌の名手としてライバル関係でしたが、後年の後鳥羽上皇への接し方は異なりました。承久の乱で負けて隠岐に配流された、後鳥羽上皇に忠義に仕え続ける家隆に対して、定家は距離を置き、京都で花壇の名手としてその名前をほしいままにします。わたしが、好きな定家の歌は、見渡せば花も紅葉もな
『新古今和歌集』は鎌倉時代に後鳥羽上皇が編纂しました。藤原定家と出会いますが、定家の歌の才能を早くから見出したも言われています。ふたりが出会った時、後鳥羽上皇は、21才、定家は39歳でした。後鳥羽上皇の和歌集への思入れはとても強く、何度も削除したり、入れ替えたりしています。ちなみに、タイトルも、『新撰和歌集』や、『続和歌集』が候補にあったようです。後鳥羽上皇は生涯の一時業として、和歌集にのめり込みまが、つき合わされた藤原定家は辟易として愚痴をこぼしています。のちに、承久の乱を起こし、隠
千佳今回はこの冬最強の寒波がきた1月24日に書きはじめました。長戸雪は予報で言ってた程は降ってないがとにかく寒いぞ。豚白とにかく寒気団が抜けるまで気を緩めないように。それでは始めよう。千佳【新島守】後鳥羽上皇が隠岐に流されました。豚白1221年6月26日、関東で恩賞として畿内、西国の守護を審議している。長戸支配地となったからなあ。豚白さて、【東山道大将軍】小笠原長清は【斬首後助命】源有雅を連れ関東に向かっていた。千佳このパターン多いですね。豚白娘が【伽藍面】九条
徒然草第四十八段藤原光親が後鳥羽上皇の院御所で催された最勝講の奉行を務めていた際、上皇が御前に呼び食事を出しました。光親は食べ終わった食器を上皇の御簾の中に差し入れて退出しました。それを見て、女房たちは「なんて汚い。誰に片づけさせるの。」と言ったのですが、上皇は「有職の振舞、やんごとなき事なり」と返す返す感心されたという事です。藤原光親さんは葉室光親ともいい”有職”に長けた人であったようです。最後は鎌倉幕府追討の宣旨を書いたために駿河で斬られています。
長戸今回は1月18日に書き始めたぞよ。千佳年末年始の慌ただしさ、ロボコン、能登半島地震、駅伝とありましたからね。豚白18日現在、箱根駅伝の往路も見終えていない。まあとりあえず始めよう。千佳承久合戦の戦後処理に話は移っていました。豚白1221年7月11日、【リフティング】北条時房以下承久合戦で手柄をあげた御家人達が恩賞をもらった。千佳これは幕府の動きが素早いです。豚白なお、与えられたのは【新島守】後鳥羽上皇に味方した者の土地だ。長戸【新島守】後鳥羽上皇に味方した者は西
さてさて………………【三千院】を出発したココロは、次なる目的地を目指した…………………【三千院】への参道入口には、こんな石碑もありました。はいっココロが目指した次なる目的地とは……………【後鳥羽天皇大原陵】【順徳天皇大原陵】京都府京都市左京区大原勝林院町引き続きの雪景色の初参詣【後鳥羽天皇(ごとばてんのう)】1180年〜1239年日本の第82代天皇。高倉天皇の第四皇子。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟にあたる。文武両道で、「新古今和歌集」の編纂でも知られる。
千佳今回は不気味に暖かな強風が吹いている12月15日に書きはじめました。長戸この暖かさの反動が怖いよな。豚白暖冬予報でも数日だけ豪雪ってことあるからね。それでは始めよう。千佳承久合戦で【新島守】後鳥羽上皇に味方した人達の処分が始まっています。豚白1221年7月8日、次の天皇に【擬せられた皇太子】持明院入道守貞親王がなるという話があったと記されている。長戸承久合戦で鎌倉方が勝った以上、【新島守】後鳥羽上皇の系統である【最短記録】仲恭天皇が廃位となるのはわかるが、【擬せられた皇
千佳今回はとっても暖かだった12月9日に書きはじめました。長戸とんぱくさんが異常に忙しい12月に入ったので、更新のペースが落ちている、と。豚白でも、去年よりはマシだね。それでは始めよう。千佳承久合戦の戦後処理の話が続きます。豚白1221年6月24日、鎌倉から【看病人】安東光成を京都に派遣した。戦後処理の指示のためだ。長戸つまり【得宗】北条義時や【ババピー】大江広元の意向を持った使者だな。豚白25日、承久合戦の首謀者とされた公卿のうち、【妹が助命】坊門忠信らが追加で六波羅
長戸今回の書き始めた日は11月29日だ。豚白甲子園球場で「あの夏を取り戻せ」プロジェクトが行われた日だ。千佳とんぱくさん的に重要イベントというのは理解できましたけど。とりあえず始めますね。承久合戦の戦後処理からです。長戸宇治川渡河の手柄をめぐって【歌人じゃない】佐々木信綱と【義時の腹心】芝田兼義が争っていたな。豚白【証言役】春日貞幸の起請文を読んだ【式目制定】北条泰時は【義時の腹心】兼義に「この証言の通り鎌倉に伝えよう。望み通りの恩賞が当たるだろうから言い争いはよくない」と諭し
天皇陵・皇后陵リンク集第41代持統天皇陵岡宮天皇(草壁皇子)陵長屋王の墓(平群町)吉備内親王の墓(平群町)第42代文武天皇陵第43代元明天皇陵(平城京遷都)第44代元正天皇陵第45代聖武天皇陵(東大寺建立)・2第45代聖武天皇皇后光明皇后陵(天平応真仁正皇太后佐保山東陵)2安積親王和束墓第46代孝謙天皇(第48代称徳天皇)陵2第47代淳仁天皇淡路陵第48代称徳天皇(第4
長戸寒いぞ、という11月14日に今回は書きはじめた、と。千佳11月頭が暖かだったから余計に寒く感じるよね。豚白この寒い中、駅に行ったら居合わせた女の子達がみんな生脚ミニスカだったことに驚いたよ。それでは始めよう。千佳承久合戦も゙いよいよ大詰め。【新島守】後鳥羽上皇の院宣を【文博士者】藤田能国さんが読み上げます。豚白今回の合戦は我が意によって行われたものではなく、近臣達勝手にいいだしたことだ。だから希望通りの院宣を出してやろう。また、京都で兵士に乱暴狼藉はさせないよう、幕府から命
▲▼観光牛突き隠岐モーモードームで見学しました島根県隠岐の島町池田風呂前19番1大人1500円朝一の牛突き見ました⬇️約800年前隠岐へ配流となった後鳥羽上皇を慰めるために島の人々が始めたのが起源とされる▲道路を歩いて帰る隠岐牛🐃▲マンホールの蓋も牛突き▲いちじく▲みかん🍊美味しそう隠岐の島の旅既にアップしたブログ⬇️『隠岐の島の旅(島根県隠岐郡)①到着編』▲隠岐世界ジオパーク空港✈️島根県隠岐郡隠岐の島町岬町1889−12▲山が結構ありますね隠岐の大地は約
久々の連投先ほど、自分の番のリハーサルが終わりました写真は、昨日の『TAMASHIZUME~情念の百人一首~』のお稽古の際の写真になります私はお衣装&お稽古着から着替えてしまった後ですがお衣装も小道具、大道具、ウィッグにいたるまで、プロデューサー・脚本・演出のさかもと未明様こだわりの美しい舞台です薮田翔一様の百人一首も、ストーリーにぴったりとハマり、音楽も美しいですこれから弦楽五重奏の方々とのコンサートです🎻頑張りたいと思いますっ当日券ございます(「辰巳真理恵より」とお伝
八代集のうち、『新古今和歌集』は、最後の勅撰和歌集で、後鳥羽上皇の勅令で編纂された。建仁元年7月の院宣により仙洞御所に和歌所が設置され、編纂事業が始まった。撰者は・源通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経・寂蓮(ジャクレン・完成前に死去)。総数は約1980首で、収録作品最多は西行法師の94首で、以下は慈円・藤原良経・藤原俊成・・・と続く。
さてさて………………ココロの次の目的地は、京阪『東福寺駅』のすぐ前にも石碑があったあの場所だ。てくてく歩いて、入口まで無事に到着ーーーーっ美しく整備されているのが良く分かる緩やかな昇りとなる石畳をてくてく歩いて進む…………おっ見えてきたぞーーっまず到着したのは…………………【崇徳天皇皇后聖子月輪南陵】第75代天皇崇徳天皇の皇后(中宮)藤原聖子(ふじわらのせいし/きよこ)の御陵だ。【藤原聖子(ふじわらのせいし/きよこ)】1122年ー1182年近衛天皇の養母。摂政関白太政