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鎌倉時代に後鳥羽上皇と後醍醐天皇が配流された日本海に浮かぶ隠岐を訪ねて、9/28~10/13までの16日間にわたって、ゆかりの地や史跡名勝を車中泊しながら巡りました。1~3日目(9/28~30)は、後鳥羽上皇と後醍醐天皇の隠岐への配流ルートを辿って岡山県から島根県へ4日目(10/1)は、七類港からフェリーで隠岐・知夫里島へ移動後、後醍醐天皇ゆかりの地、赤壁5日目(10/2)は、知夫里島からフェリーで西ノ島へ移動後、国賀海岸の観光6日目(10/3)は、西ノ島の焼火神社、後醍醐天皇行在所
鎌倉幕府が三寅を第四代将軍として鎌倉に迎え入れると打診してきたのは建保から承久への改元のあたりと想定される。北条時房がどのような交渉をしたのかは残念ながら歴史資料に残っていないが、承久元(一二一九)年六月初頭には確定事項となり、六月二五日に北条時房がいったん六波羅へ立ち寄ったのちに京都を出発して鎌倉に向かい、七月一九日に北条時房が鎌倉に到着したことは他の記録から明らかとなっている。また、散逸している吾妻鏡も承久元(一二一九)年七月一九日より記録が復活し、その後の記録を追いかけることが可能と
手相を変える開運術願いを叶える人生逆転の法則Amazon(アマゾン)『明恵』(みょうえ)鎌倉時代前期の華厳宗の僧。華厳宗中興の祖と称される。明恵は、9歳で仏道に入りました。やがて、東大寺や仁和寺などで熱心に仏教の知識を習得し、華厳経へと傾倒していきました。非常に聡明な明恵の名は、次第に高まり、仏教界から大いに嘱望されます。しかし、23歳の時に、「僧侶の世界から出て文殊菩薩を師として仏道に励む」と宣言し、仏像
それが源実朝の死と同時に存在根拠を失った。侍所や政所といった三位以上の位階を持つ貴族であれば誰もが設置できる氏族内機関は、従二位の位階を持つ北条政子に由来させることで存在根拠を維持できたが、守護と地頭については北条政子でもどうにもならない。そこで、左大臣九条道家の子である三寅を鎌倉に招き、母系の血筋を利用して源頼朝が獲得した特権を維持させることとし、行く末は三寅の位階昇叙に合わせて、氏族内機関の存在根拠を北条政子から三寅へと移行させ、鎌倉幕府第四代将軍に基づく組織として鎌倉幕府を建て直
後に藤原頼経と名乗ることとなるその男児は、このとき二歳。寅歳寅日寅時に生まれたことから、この頃はまだ三寅(みとら)と呼ばれていた。北条政子を主軸とする鎌倉幕府の首脳陣は、三寅を鎌倉に招いて鎌倉幕府第四代将軍とすると同時に、この男児が成長するまでは北条政子の位階を利用して組織を存続させることとしたのである。一説によると、鎌倉幕府第四代将軍に三寅を強く推挙したのは大納言西園寺公経であるという。三寅にとって西園寺公経は母方の祖父だ。西園寺公経が権大納言から大納言への昇格を後鳥羽上皇に訴え出て拒否
今回はこういうお題でいきます。そうですね、誰が一番有名でしょうかね。後醍醐天皇でしょうか?建武の新政を行い、南朝の創始者となりましたが、後世の評価はあまりよくはありません。それとも後白河法皇?平清盛との丁々発止のやりとりで有名ですね。あとは後鳥羽上皇などもよく知られています。鎌倉幕府に対して承久の乱を起こしましたが、敗れて配流になりました。ただこの人たちも法王、上皇となったのは天皇退位後で、もともとは後白河天皇、後鳥羽天皇でした。じつはこれらの名前は生前から名のってい
神社を後にして国道を北上します。交通量も多く歩道もないちょっと危険な道のりを歩いてゆくと左手に川を渡る簡易な橋が架かっているのでそこを渡り踏切を渡り未舗装のじゃり道をどんどん進むと"弓の木"という巨大な椋があります😀墓場の前にあります。石仏と椋鎌倉時代に後鳥羽上皇が隠岐島に流される際にここを通りかかり休憩したと伝わります。弓を立てかけて休んだところから弓の木と呼ばれています。樹齢は600年くらい主幹は腐って空洞になっているが樹皮だけで元気に立っています。穴が空いており向こうの景色
忘れてはならないこととして、源頼朝が特別であるのは、清和源氏の頭領であると同時に、熱田神宮の宮司の娘である由良御前を母として生まれた身であり、源頼朝は母系で熱田神宮とつながるという点に着目しなければならない。源頼朝は源義朝の三男であり、源頼朝には二人の兄と六人の弟がいたが、この九人兄弟のうち母系で熱田神宮につながると断言できるのは三男の源頼朝と五男の源希義の二人。四男の源義門も熱田神宮につながる血筋であるとする説もあるが、その説を確定できる記録はない。一方、源範頼や源義経、阿野全成といった源頼
今日も寒い1日いつもの様に、丸善本店で本探し晴れているからせっかくなのでちょっと歩いて三菱一号館美術館へアール・デコの展示会さすがに女性が90%以上男性お断りと追い出されるんじゃないか、と思ったほどまあおけらには合わない世界会場の外は丸の内イルミネーションの一部がディズニーの世界さて、ここから二重橋前駅~大手町駅~三越前へと移動今日から始まる展示会国宝「熊野御幸記」の展示を中心に、藤原定家の書や肖像画、また近世になっって定家を敬愛した小堀遠州の作品など定家ゆかりの作品集
お出かけした日から間があいてしまいましたが11月30日(日)哲学の道の方へ紅葉を見に行ってきました🍁予想していたより人は多くなくて駐車場もすぐに見つけられた🚗哲学の道の紅葉は散り始めでした🍁近くの法然院へ安楽寺安楽寺ではこのお寺と縁の深い二人の姫にまつわる悲しいお話を聞くことができました。後鳥羽上皇に女官として仕えた松虫姫と鈴虫姫は容姿端麗・才色兼備で上皇から寵愛を受けていたため他の女官から嫉妬されており御所での生活に苦悩し出家を望むようになった。後鳥羽上皇
・今日が初日。副題はー茶道具・かるた・歌仙絵とともにー。熊野御幸記1巻が国宝。建仁元年(1201年)の熊野御幸では歌人の藤原定家がお供し、その様子を日記『後鳥羽上皇熊野御幸随行日記』に記していて、それによると、住吉社・厩戸王子・湯浅宿・切部王子・滝尻王子・近露宿・本宮・新宮・那智の9ケ所で和歌の会が催されていることがわかる。全23日間。・「御幸」記のある、第四室のみ撮影可。これは、円山応挙の作。・もともと藤原定家は日記をつけており、明月記(冷泉家時雨亭文庫蔵)は、119
どうやら皇族将軍は難しい。後鳥羽上皇の皇子が鎌倉に将軍としてやってくるというところまでは話をこぎ着けることができたが、建保七(一二一九)年三月時点では、皇族将軍が鎌倉までやってくるのはいつのことになるか話が全く見えてこない。後鳥羽上皇の派遣した藤原忠綱は建保七(一二一九)年三月一一日に京都へ戻るために鎌倉を出発したが、そのとき、北条政子ら鎌倉幕府の首脳から、後鳥羽上皇からの二つの荘園の地頭職放棄について後ほど回答を送ることを伝えられている。翌建保七(一二一九)年三月一二日、北条義時
後鳥羽上皇はここで一つの駆け引きを持ち込んだ。藤原忠綱を通じて、摂津国の長江荘と倉橋荘の地頭職の解職を求めてきたのである。この二つの荘園は摂津国豊島部の神崎川と猪名川が合流する付近にあった荘園である。この二つの荘園は両方とも、川を下れば大阪湾に出て、さらには瀬戸内海へ向かうことができる一方、川を遡ると、水無瀬、鳥羽、さらには平安京へと至る水運の要衝に存在していた。後鳥羽上皇がこの二つの荘園に対する地頭職の解任を求めてきたのであり、荘園を手放すように求めたわけではない。元からして荘園の所有者は後
鎌倉時代に後鳥羽上皇と後醍醐天皇が配流された日本海に浮かぶ隠岐を訪ねて、9/28~10/13までの16日間にわたって、ゆかりの地や史跡名勝を車中泊しながら巡りました。1~3日目(9/28~30)は、後鳥羽上皇と後醍醐天皇の隠岐への配流ルートを辿って岡山県から島根県へ4日目(10/1)は、七類港からフェリーで隠岐・知夫里島へ移動後、後醍醐天皇ゆかりの地、赤壁5日目(10/2)は、知夫里島からフェリーで西ノ島へ移動後、国賀海岸の観光18:00「西ノ島総合公園」の駐車場へ到着しまし
建保七(一二一九)年は閏年である。閏年と言っても現在の太陽暦ように四年に一度、二月二九日が発生する年というわけではなく、この時代の暦のシステムでは、一九年に七回、一年を一三ヶ月とするシステムになっている。建保七(一二一九)年の場合は、二月のあとで一ヶ月を挿入し、閏二月とすることで閏年の対処としている。このこと自体は珍しいことではない。ゆえに、一月末に源実朝の暗殺からおよそ二ヶ月を経たのが建保七(一二一九)年三月であるというのもおかしなことではない。話を元に戻すと、源実朝の暗殺から二
鎌倉時代に後鳥羽上皇と後醍醐天皇が配流された日本海に浮かぶ隠岐を訪ねて、9/28~10/13までの16日間にわたって、ゆかりの地や史跡名勝を車中泊しながら巡りました。1~3日目(9/28~30)は、後鳥羽上皇と後醍醐天皇の隠岐への配流ルートを辿って岡山県から島根県へ4日目(10/1)は、七類港からフェリーで隠岐・知夫里島へ移動後、後醍醐天皇ゆかりの地、赤壁5日目(10/2)は、知夫里島からフェリーで西ノ島へ移動後、国賀海岸の観光16:30「シーサイドホテル鶴丸」にやってきました
15年ほどのまえ、ある瞑想会でこのお寺に三度、四度来たことがありました。この茅葺きの屋根にいたく感動したもんです。めちゃくちゃでもないが長歩きして通ってました。地下鉄今出川から歩き通したり、JR京都からも歩き通したり。でもあまり土地勘を形成できないところでした。その後ほろほろ歩きを重ねてすこし勘が磨かれてきた感じです。哲学の道ここからまだ山側に三本ほども上がっていく門くぐります
鎌倉時代に後鳥羽上皇と後醍醐天皇が配流された日本海に浮かぶ隠岐を訪ねて、9/28~10/13までの16日間にわたって、ゆかりの地や史跡名勝を車中泊しながら巡りました。1~3日目(9/28~30)は、後鳥羽上皇と後醍醐天皇の隠岐への配流ルートを辿って岡山県から島根県へ4日目(10/1)は、七類港からフェリーで隠岐・知夫里島へ移動後、後醍醐天皇ゆかりの地、赤壁5日目(10/2)は、知夫里島からフェリーで西ノ島へ移動後、国賀海岸の観光16:00島前カルデラを一望できる「鬼舞(おにまい
鎌倉幕府はどうにかして新たな将軍として皇族を鎌倉に招き入れようとしていたが、後鳥羽上皇からの返答は良好なものではなかった。後鳥羽上皇は自分の皇子である六条宮雅成親王と冷泉宮頼仁親王のどちらかを将軍として鎌倉に送り込むことを了承していたが、それは同時にリスクでもあった。人質とされるのだ。自分の子を将軍として鎌倉に送り込むことで後鳥羽上皇は鎌倉幕府の軍事力を手に入れられる。同時に、鎌倉に送り込むこととなる皇族は後鳥羽上皇の皇子であるために皇位継承権を有していることとなる。つまり
鎌倉時代に後鳥羽上皇と後醍醐天皇が配流された日本海に浮かぶ隠岐を訪ねて、9/28~10/13までの16日間にわたって、ゆかりの地や史跡名勝を車中泊しながら巡りました。1~3日目(9/28~30)は、後鳥羽上皇と後醍醐天皇の隠岐への配流ルートを辿って岡山県から島根県へ4日目(10/1)は、七類港からフェリーで隠岐・知夫里島へ移動後、後醍醐天皇ゆかりの地、赤壁5日目(10/2)は、知夫里島からフェリーで西ノ島へ移動後、国賀海岸の観光15:00「赤尾展望所」にやってきました。ちょうど
鎌倉時代に後鳥羽上皇と後醍醐天皇が配流された日本海に浮かぶ隠岐を訪ねて、9/28~10/13までの16日間にわたって、ゆかりの地や史跡名勝を車中泊しながら巡りました。1~3日目(9/28~30)は、後鳥羽上皇と後醍醐天皇の隠岐への配流ルートを辿って岡山県から島根県へ4日目(10/1)は、七類港からフェリーで隠岐・知夫里島へ移動後、後醍醐天皇ゆかりの地、赤壁5日目(10/2)は、知夫里島からフェリーで西ノ島へ移動後、国賀海岸の観光13:15国賀海岸・摩天崖駐車場へ到着しました。
本日は旧暦では10月10日で出雲の神在祭始まりの日ですが、建保六年十月十日、西暦では1218年10月30日は、順徳天皇の第三皇子の懐成親王が誕生した日となります。その翌月には立太子し、満三歳の承久三年(1221年)四月三日には順徳天皇が父の後鳥羽上皇との倒幕に関わって譲位されたため践祚しています。その討幕、承久の変の結果、同年七月九日には鎌倉幕府の沙汰により幼い天皇は廃され、後堀河天皇が即位しました。『承久の変・・・歴史の彼方から日本の不思議な時の流れをみる』本日は旧暦五月十四日です