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こんちくわオイちゃんです今日もノンビリやってます。おなじみ記念日シリーズ。今日の記念日は『ことばの日』五(こ)十(と)八(ば)で『ことば』の語呂合せ。オイちゃんにはもってこいの日。A君も喜びそう(笑)その昔、1221年の『承久の乱』で鎌倉幕府に敗北したことにより、隠岐諸島(島根県隠岐郡海士町・中ノ島)へ流罪となった人がいたような…。(オイちゃん、それは後鳥羽上皇)後鳥羽上皇は60歳で崩御されるまでの約19年間を島で過ごし、都
こんばんは!前回の続きで、大阪泉南市の信達宿を散策中です。信達宿本陣にやって来ました。ふじまつりで何度も来てますが、ここを訪問するのは初めてです。本陣とは今でいう旅館、ホテルなどの宿泊施設のことです。この道紀州街道は、古くは熊野街道とも呼ばれ、信達宿はおよそ900年前頃より、熊野詣で賑わっていました。特に市場村は、白河上皇(1053年~1129年)以後、歴代上皇の宿舎が置かれたところから、信達荘御所村とも呼ばれていました。後鳥羽上皇が熊野詣をされた、建仁元(1201)年10月、お
イランのアラグチ外相とテレビで聞くと、新口さんかな、それとも荒口さんかなと思ってしまいます。英語では殆どないのですが、中東の言葉では時々音が通じていて日本語が当て嵌まるような言葉が出てきます。イラク南部のメソポタミアの地に四千年ほど前にシュメール文明がありました、世界最古の文明であると言われています。このシュメール人が日本人の先祖だという説が流行ったことがあります。シュメール人の宗教は自然を神とする多神教であり、王を神とする点など日本の神道に似ていて、古代バビロニアの日神・月神
先日、文化財めぐりというウォーキングみたいな講座があったので参加してみた。思っていたとおり、スタッフ以外は高齢者です。30人ぐらいの参加者で90歳くらいの人も数人いた。天気は晴れて日中の気温は25度くらいまで上がるという予報の中、約4キロを歩きました。まず最初は【高山千義神社】まで歩き神社にお参りして、神社の歴史について話をききました。次は、【石造物】で鎌倉時代中期以前と思われるお墓です。続いてもお墓で、伝(後)鳥羽御陵です。後鳥羽上皇は高倉天皇の第4皇子で、
隠岐伝説殺人事件内田康夫日本文学を専攻する佐治貴恵は、資料を閲覧するために訪れたお屋敷で不可解な体験をする。『おちくぼものがたり』の閲覧を希望したはずなのに、用意されていたのは正体不明の絵巻物だった。浅見光彦は、隠岐にやって来た。『旅と歴史』の仕事で、後鳥羽上皇にまつわる遺跡の発掘調査を取材するためだ。発掘調査隊の歓迎と、調査の成功を祈念するパーティーにひとりの老人が乱入する。老人は、「後鳥羽上皇の祟り」を声高に主張するが、老人の言葉をまともに取り合う者はいない。その場を去った老
***水無瀬神宮***ZIPANG-5TOKIO2020水無瀬神宮~招福の風と音と水~「見渡せば山もと霞む水瀬川夕べは秋となに思ひけむ」(その2)ZIPANG-5TOKIO2020後鳥羽天皇の源故郷~水無瀬神宮~(その1)https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/18848897水無瀬神宮御社殿と招福の風tokyo2020-5.themedia.jp離宮八幡宮/水無瀬川/水無瀬神宮-Googleマイマップ
P145S0507○北面西面之始付一院御謀反根元並平九郎(くらう)-胤義仙洞(せんとう)に参する事/145p同年四月の比より、後鳥羽上皇(しやうくわう)、鎌倉を滅さんと思(おぼ)し召(め)し立ち給(たま)ふ。往初(そのかみ)上皇(しやうくわう)御在位の御時より武臣既(すで)/に天下(てんが)の権取りて、王威を蔑(ないがしろ)に思(おも)ひ奉(たてまつ)り、禁中の政道の衰へ行く事を憤り、御位を第一の皇子(わうじ)土御門〔の〕院に譲りて隠(おり)-居(ゐ)させ給(たま)ひ、この君
思いがけなく有原天満神社に参拝し、狛犬さんを堪能。さあ次に計画していた吉舎(きさ)の艮(うしとら)神社へ。三次市吉舎町は興味深い土地で、町内によく知られている艮神社が4か所あります。普通は、都城を鎮護するために北東に置かれる神社に名付けられますが、この地域では疾病、地震、豪雨災害、火災などの天変地異を起こす悪鬼がやってくる方角にその地区地区の災いを避けるために祀った神社に、名を付けたように思います。(特定のモノからの方角ではなく、疫神社や塞神社の性格を併せ持つ氏神社・鎮守社で
すべてエーアイが書いていますエーアイは間違えることがあります必ず事実確認をしてね♪JunaEvrin自体は中立の立場でそれを冷静に読んでいるだけだよ♥日本の栄誉、その頂へ。叙勲の序列と「菊と桐」が紡ぐ悠久の物語「日本で最も尊い名誉とは、一体どのような形をしているのでしょうか?」ふとニュースで耳にする「大勲位」や「菊花章」という言葉。それは単なる公的な表彰ではありません。そこには、1000年を超える日本の魂と、選ばれし者だけが纏う「光の記憶」が刻まれています。この記事を開
女房三十六歌仙シリーズ?はいったん置いといて。。(失礼)後醍醐天皇の寵姫となった女性です。実家は苗字の通り阿野家で、父親は右近衛中将の阿野公廉。藤原家北家の閑院流(道長の叔父の公季が始祖)の流れをくむ公家の家柄。本家は三条家、西園寺家などがあります。直系の先祖?は源頼朝の弟阿野全成です。実家の身分はさほど高くはなかったけど、母親は不詳。のち洞院公賢の養女となります。それでも女好きの後醍醐天皇にはうってつけの女性だったようですね。最初は後醍醐天皇の皇后西園寺禧子(太政大臣西園寺実兼の娘
美人王子後鳥羽上皇御所跡塩屋王子神社への石段小高い山の上に鎮座している当社は、別名「美人王子」ともいうように、景勝の地にあって、前面の権現磯、紀伊水道の広々とした景色は風光絶佳であったという左右に樹木が生い茂っている石段を登ると山上の平地につく平地は広く、正面の奥に石垣をめぐらし、その中央に社殿がある境内の一角は、後鳥羽上皇の御所跡と伝えられており、「御所の芝」の碑が建てられている昭和33年(1958年)4月1日に県史跡に指定平成30年(2018年)2月13日に国史跡に追加指
幼名牛若、源義経だ。平家の、陣地の背後からの、騎馬での奇襲、ヒヨドリ越えは、卑怯という、評価に変わり、後鳥羽上皇から、冠位、言い換えれば、勲章を、兄、源頼朝の許可を得ず、貰ったのは、後鳥羽上皇の、兄弟仲を、引き裂く策に、ハマったという、評価に・・・・
霊鑑寺から向かったのは同じ鹿ケ谷にある哲学の道の東側に位置する住連山安楽寺通常は非公開ですが、お彼岸に合わせて特別公開されていましたここは京都の夏の風物詩である「中風まじない鹿ケ谷南瓜供養」で知られているお寺さんですカボチャ供養は7月25日ですまず目に入ってくるのが地蔵堂狛犬にあらず狛南京(こまかぼちゃ)阿吽も可愛い~♪敷石も手水もハート形本堂ではお寺さんに安楽寺の歴史を丁寧にご説明して頂き、ゆっくり拝観を愉しむことがでました
鎌倉時代に後鳥羽上皇と後醍醐天皇が配流された日本海に浮かぶ隠岐を訪ねて、9/28~10/13までの16日間にわたって、ゆかりの地や史跡名勝を車中泊しながら巡りました。9/28に岡山県の自宅を出発1~3日目(9/28~30)は、後鳥羽上皇と後醍醐天皇の隠岐への配流ルートを辿って岡山県から島根県へ4日目(10/1)は、七類港からフェリーで隠岐・知夫里島へ移動5~13日目(10/2~10)は、隠岐4島(知夫里島・西ノ島・中ノ島・島後)の後鳥羽上皇と後醍醐天皇ゆかりの地を訪問、史跡名勝の観光
鎌倉時代に後鳥羽上皇と後醍醐天皇が配流された日本海に浮かぶ隠岐を訪ねて、9/28~10/13までの16日間にわたって、ゆかりの地や史跡名勝を車中泊しながら巡りました。1~3日目(9/28~30)は、後鳥羽上皇と後醍醐天皇の隠岐への配流ルートを辿って岡山県から島根県へ4日目(10/1)は、七類港からフェリーで隠岐・知夫里島へ移動後、後醍醐天皇ゆかりの地、赤壁5、6日目(10/2、3)は、西ノ島へ移動後、国賀海岸、後醍醐天皇ゆかりの地、焼火神社7、8日目(10/4、5)は、中ノ島へ移動後
玉津岡神社から、『橘諸兄公旧趾』に向かいました。山背街道が、古道として。そこから、山の方に入って行くと、『橘諸兄公旧趾』。由緒も記され。橘諸兄(684~757)。父親は、美努王。母親は、橘三千代。妻は、藤原不比等の娘・多比能。天平9(737)年、猛威をふるった天然痘。その大流行により、政界のトップ『藤原四兄弟』(武智麻呂、房前、麻呂、宇合)がみな亡くなり。諸兄が、トップに。という、運命の歯車がまわり。供養塔も。ここにたどり着くために、竹林の山道を。そして、ようやく、誰
流罪となったのは後鳥羽法皇だけではない。七月二〇日、順徳上皇が佐渡へと配流になった。順徳上皇には一条能氏、藤原範経、源康光の三名のほか、名が伝わっていない二人の女性が同行したとある。ただし、一条能氏は佐渡へ向かう途中で病気になり京都へ戻され、藤原範経も途中で重病となり越後国寺泊に留め置かれることとなった。七月二四日、六条宮雅成親王が但馬国へ、翌七月二五日には冷泉宮頼仁親王が備前国へ配流となった。なお、三人の上皇のうち土御門上皇については承久三(一二二一)年七月時点で鎌倉幕府は何ら処