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お見舞い兼ねての日帰りの旅は伊和神社を出て次の目的地へ事前に周辺を調べておきました戦国武将後藤又兵衛の菩提寺多聞寺です人も多くなくて良かったです手水舎も花で色とりどりで鮮やかです至る所に花を発見静かなたたずまいの本堂でした庭の模様?すいません何と言うのか忘れてしまいました本堂に入らせていただきました素晴らしい墨絵でした見事な甲冑ですさすが黒田節ですね。お酒のお供えお酒との逸話もありましたよね大河ドラマでも出てましたからね真田丸では哀川翔さんが又兵衛役でTVで
今日は、後藤又兵衛の命日でした。母里太兵衛のことで、数年前に黒田武士顕彰会の名誉副会長の御供で行った麟翁寺、その北隣にある福圓寺で偶然見かけた後藤又兵衛の母親の墓のことが未だ心に残っています。『【福岡】日帰り取材記☆福圓寺・母の墓所(太兵衛と又兵衛)』9月17日(火)麟翁寺を出ると北隣の福圓寺に向かいました。このお寺に母里太兵衛友信と後藤又兵衛の母の墓所があります。門前の通りは秋月街道。今…ameblo.jp麟翁寺は、はじめは「大雄山永
今回の大宇陀の旅も最終回となりました。4月1日のことです。いよいよ見えて来ましたね。言うまでも無く、右に見えるとても大きな枝垂れ桜が又兵衛桜です。可愛い桃色の桃?花桃?も可愛いですね。小さく見えている白いテントのゲートで一人100円を支払って、入場です。相当久し振り、クオーターセンチュリー(quarterofacentury)😆と言うか、大体四半世紀振りくらいです。まあ、樹齢300年余りと言われているので、二十数年程度では、桜そのものはそれほど大きく変わっては
この土日が満開&雨なく鑑賞できるグッドタイミング👍のような気がしますお花見第三弾は奈良へ又兵衛さんが植えたのではなく戦国武将後藤又兵衛屋敷跡にちなんでこう呼ばれているそうです樹齢300年ともいわれる枝垂れ桜凛々しいですね桃の花とのコラボ水仙とのコラボこちらは北向き地蔵の桜周辺の段々畑や杉並、古民家や小山に小川、奈良の魅力はこの原風景にあると言っても過言ではない水分神社芳野川沿いの桜並木曽爾温泉に立ち寄り相変わらずとろりんな泉質で何時間でも浸かっていられる大好きな
又兵衛桜は奈良県宇陀市大宇陀本郷の一本桜です。戦国武将として活躍した後藤又兵衛が落ちのび、僧侶となり一生を終えたという伝説が残っており、このしだれ桜が残る地も、後藤家の屋敷跡にあることから地元では「又兵衛桜」と呼ばれ親しまれています。樹齢300年ともいわれ、幹周約3m、高さ約13mの見事な桜です。又兵衛桜以外の桜です。
今週日曜日(4/7)早朝、家族と一緒に奈良県宇陀市にある「本郷の滝桜」を見に行ってきました。「本郷の滝桜」は別名「又兵衛桜」とも知られています。その由来は、戦国武将後藤又兵衛が1615年に勃発した大阪夏の陣で、豊臣家が滅亡した後、一族と共に奈良県宇陀市に逃れ、そこで一生を終えた伝説に由来しています。その後、後藤一族が過ごした屋敷跡に、この枝垂桜が植えられ、地元の住民達によって大切に守られています。この又兵衛桜は、2000年のNHK大河ドラマ「葵徳川三代」のオープニングテロップに
秘境の美容室『ぱぁまやさん』奈良吉野郡川上村で美容室をしてます鍵谷(かぎたに)いづみいーさんです仕事終わりに向かった桜は大好きな桜で宝蔵寺の枝垂れ桜です昨日!今日で一気に満開になそうな気がします毎年年々、桜開花が早くなってきて日がよめないのです〜でもでも今年は普通にもどりました去年より1週間遅い感じです吉野にお花見を考えてる方はどうぞ2024年を参考にしてくださいね『2023年のお花見まとめブログです』秘境の美容室『ぱぁまやさん』奈良吉野郡川上村で美容室をしてま
--------------------------------------------2024年負けたことがあるのは大事です。人生、、、負けて、、、なんぼじゃないですか。--------------------------------------------2023年黒田如水をうならせた、後藤又兵衛。たいした猛将です。愛蔵版戦国名将一日一言Amazon(アマゾン)2,826〜3,410円
一昨年訪れた奈良の又兵衛桜戦国武将の後藤又兵衛にちなんだ桜といわれるが、流石樹齢数百年の貫禄であった桃の花が咲き乱れ水仙や菜の花と色とりどりの花に囲まれ周りは華やかであったがやはり長い年月の重みは隠しようもなかった気がする
又兵衛桜の垂れ桜サイズ:F8水彩画奈良県宇陀市の又兵衛桜。大阪夏の陣で討死した後藤又兵衛の供養のために、屋敷に植えられた。樹齢300年以上の1本垂れ桜。最後まで信心を貫いた生きざまを感じられる、豪快で華麗な垂れ桜🌸。
何ヶ月ぶりかな?1年以上空いたのかもしれませんが、この装備を身に纏いました誰の影武者でしょうか?特徴のある兜の前立てやはり口元を隠さないと、それなりに武将ぽい印象に見えますねなかなか強そうな武将に撮ってもらえてるので気に入ってます!ありがとうございました!……#南無妙法蓮華経#摩利支天#後藤又兵衛#後藤基次#後藤又兵衛基次#黒田武士#黒田二十四騎#四天王#大阪城#姫路城#日輪#サムライ#石垣#逆光#影武者#姫路城甲冑隊#おもてなし武将隊#武将隊
2024年--------------------------------------------生きるか死ぬか。難しい選択が昔もあったのですよね。生きるって精神鍛錬の連続ですよね。2023年--------------------------------------------関ヶ原の合戦。そりゃあ、どちらにつくか迷いますよね。でも、武士は迷っちゃだめなんですよね、とほほ。愛蔵版戦国名将一日一言Amazon(アマゾン)2,826〜3,410円
私も少しは今の時代に役に立つような悩み苦しんでいる学生さんにしても先生にしてもその他の人たちにしてもそのヒントや答えになるようなものは多少持っているかなと思うけれど果たしてそんな自分を武田信玄のように感じてくれる人学校関係者、悩んでる本人その家族などは果たしてどれだけいるのだろうか?でもこれはこれで面白い気がする関ヶ原の後の、大坂の陣の時の後藤又兵衛や、元大名の人たちや、真田幸村ではないけれど自分というものがもは
奈良の宇陀市にある又兵衛桜。圧巻です。樹齢300年ともいわれるしだれ桜ですが、大坂夏の陣で活躍した戦国武将後藤又兵衛の屋敷跡にあると伝わることから、又兵衛桜と呼ばれてます。近鉄榛原駅からバスで約20分(奈良交通バス「大宇陀」行き)「大宇陀」終点下車から徒歩で約20分(もうすこしかかるかも)ソメイヨシノも好きですが、枝垂桜も好きになりました。
No.0372022.4.10(日)幸村を討て/今村翔吾/中央公論新社/2022.3.25第1刷2000+10%直木賞受賞第一作幸村と言う諱が突然歴史に現れるのが、関ヶ原後に流人となった真田昌幸と「次男」源次郎信繁から大阪城に招かれ冬の陣に在陣した時だった。長男源三郎信幸は徳川家康の元に残り名を信之と「幸」を捨てる。兄源三郎、信繁源次郎の間に武田家の与力だった昌幸には「次男」がいた。源四郎。昌幸が付けた諱は『幸村』!!父昌幸の遺志、真田家の宿願が『幸村』を駆り立て
奈良の宇陀市にある又兵衛桜。圧巻です。見ていると時を忘れて、ひとときが去った後は、日ごろのごちゃごちゃっとした思いはどこかに行っている気がします。樹齢300年ともいわれるしだれ桜ですが、大坂夏の陣で活躍した戦国武将・後藤又兵衛の屋敷跡にあると伝わることから、又兵衛桜と呼ばれてます。300年の間、多くの人がこの景色を眺めてきたんでしょうね。最寄り駅は近鉄榛原駅。
【2024年2月5日(月)】小林ゆうさん、お誕生日おめでとうございます!『42歳』いつもお相手と一緒に幸せ。【基本情報】出身地:東京都身長:168cm事務所:ホーリーピーク愛称:ゆうちゃん※2017年結婚アニメキャラまとめ:
2024年--------------------------------------------犬と言えば、前田利家のことです、織田信長的には。従順な犬。忠犬ですね。ハチ公ですね。御主人様がいいのでしょうね。2023年--------------------------------------------後藤又兵衛。なかなか、粋な武将ですね。愛蔵版戦国名将一日一言Amazon(アマゾン)1,894〜3,410円
※こちらの記事は、平成29年9月5日に書かれたものです。皆さんこんばんは。惰性で続いている平成28年の大人気NHK大河ドラマ『真田丸(さなだまる)』の感想シリーズですが、ついに49回です!※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。あらすじとしてはどうしても真田幸村(堺雅人)に死んでほしくない兄の信之(大泉洋)ですが、名を隠して本人に会いに行くも、幸村の決意は固く説得はできず。幸村は妻子を伊達(だて)家に託し、ついに大坂(おおさか)夏の陣が開戦となり、後藤又兵衛(哀川翔)を
2024.1.13加西市の多聞寺に行きました戦国武将槍の後藤又兵衛の菩提所です本堂の中には、又兵衛の墨絵がいくつも飾ってありました多聞寺のもう一つの見どころは、綺麗な花手水です季節によりお花の種類が変わりますが、前日にお花を入れ替えたそうで一段と綺麗でした#多聞寺#後藤又兵衛#加西市#花手水
ひゃっほーーーっブログ書きたい気分がやばくてぇー続けて書きます昨日の小谷城の後に続けて行きました今日は山下城🏯後藤又兵衛ゆかりの地らってぇここを登っていくよここは、大堀切なんか、やばくなひ??ここーここは、水路になちてるこのお城は水がたえないようなお城🏯らよ??井戸二の丸二の丸をずどーーーーん上は本丸らよ本丸に登っても。。。帯曲輪が、ずーーーーっと主郭をとりまいてるのーーここは、主郭🏯上からみると、素敵じゃなーーひ上からの井戸と大堀切れすここは、土塁が左
「乞食大将(1952)」「乞食大将(1952)」全編1952年4月3日公開。戦国武将・後藤又兵衛を描く名作。原作:大佛次郎監督:松田定次脚本:八尋不二キャスト:市川右太衛門:後藤又兵衛藤野秀夫:徳川家康中村芳子:鶴姫月形龍之介:黒田甲斐守長政羅門光三郎:宇都宮鎮房嵐徳三郎:本多正信荒木忍:夜須平四郎香川良介:福島丹波葛木香一:明石全登小川隆:黒田惣兵衛見明凡太朗:堤西堂南部彰三:馬蔵
[どうする家康感想]大河ドラマ、どうする家康、第47回「乱世の亡霊」の感想です。すごかったですね!(和睦交渉はスイーツ合戦で決まってしまうんですね!そりゃそんなもんでしょう!)大坂・冬の陣で、<大坂城に>大砲が撃ち込まれ、自分をかばい、がれきの下敷きになった茶々を心配する千姫。ここから彼女の心は大きく豊臣方に動いたんでしょう。大坂冬の陣は和睦交渉となり、豊臣方の全権代表に選ばれたのは、茶々の妹・初であった。<大坂城>大野修理は和睦
5月6日午前0時、後藤又兵衛の指揮する、2,800の兵は、平野を出発し、藤井寺を経て、夜明け前に道明寺に到着した。しかし、他には、後隊は、無論、前隊さえ到着していない。そして、後藤又兵衛は、徳川軍が、既に国分に展開していることを知る。後藤又兵衛は、豊臣軍の作戦が、既に、破綻していること認めた。後藤又兵衛は、石川を渡り、小松山に登ると、陣を構えた。徳川軍は、小松山に敵が、布陣していることを知り、小松山を包囲した。午前4時、後藤又兵衛は、松倉重政及び、奥田忠次勢に対して、攻
[どうする家康感想]大河ドラマ、どうする家康、第46回「大坂の陣」の感想の続きです。豊臣×徳川の戦に突入!<大坂城で>徳川に恨みを持つものがぞくぞくと集まってきた。大野修理を先頭にして、豊臣勢の前に秀頼、茶々、千姫が登場した。秀頼が「豊臣に忠義を尽くしてきた皆々よくぞここに集まってくれた!」と皆に声をかけ、鼓舞した。大野修理が大谷吉治を紹介しすると、「我が父、大谷刑部少舗吉継の無念を晴らしに参りました!」と名乗りをあげた。
景福寺は、鳥取城下西端に位置する伯耆街道に面した道筋にある。山門前から西に行き、鍛冶側の川の土橋までの町が、新品治町(しんほんじまち)である。景福寺の位置する町は新鋳物師町である。この街道が城下の出入り口となり、往来する人々でにぎわっていた。享保八年(1723)2月城下町人地四八町の一町として起立された町だ。景福寺門前に「大阪陣猛将後藤又兵衛父子之墓」と刻まれた石柱が建てられている。後藤又兵衛は黒田如水の旧家臣であり、筑前六端城大隅城1万六千石の領主だったが、出奔し、豊臣秀頼の軍師となった。
関ケ原の戦いで、西軍が、敗北すると、西軍の真田昌幸、真田信繫の父子は、本来は、死罪のはずであった。しかし、真田信幸及び、その舅の本多忠勝の取り成しがあったため、死罪を免ぜられ、高野山に流罪となった。真田昌幸、信繁は、高野山の蓮華定院に入り、その後、九度山に移った。1611年(慶長十六年)、真田昌幸は、九度山にて、死去する。1614年(慶長十九年)、方広寺鐘銘事件を契機に、徳川家と豊臣家の関係が、悪化した。豊臣秀頼は、大名の加勢が期待できないために、浪人を集めた。九度山の真田
堺は南宗寺。ここは織田信長より先に天下人となった、三好長慶が父(元長)の為に開山。何度か訪れたことがあります。私、戦国時代はビックリするほど無知なため、歴女さんから聞くまでは、三好さん知らず。なのに三度目の訪問。もうちょっと勉強します。茶人・千利休や師匠である武野紹鴎らが修行をした寺です。ここには、本当の家康さんの墓があります。実は大阪夏の陣で、後藤又兵衛の槍が家康の籠に刺さり絶命。息子の秀忠が、家康の死を隠し、南宗寺に葬りました。大河ドラマは観てませ
軍師二人/司馬遼太郎Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}★★★★★姫路に来た。泊るのは初めて。西国三十三か所巡礼のため。姫路といえば姫路城、姫路城といえば宮本武蔵か黒田官兵衛だなぁ、そういえば黒田官兵衛の本読んでないな、と思っていたところAudibleでこの「軍師二人」を発見。確か読んだことがあった。竹中半兵衛と黒田官兵衛だったよなぁ、と思って道中聴いたがうっすらとした記憶は見事外れて真田幸村と後藤又兵衛基次だった(笑)。世
加西市にある多聞寺へ!多聞寺は、戦国時代の武将、後藤又兵衛の菩提所で、素敵な御朱印とクリアファイルをいただきました。多聞寺も、心地よい場所で、住職さんも、とても素敵な方でした✨その後、姫路の書写山圓教寺へ!ここは、大河ドラマの「黒田官兵衛」と映画の「ラストサムライ」の撮影で使用された場所。書写山には、ロープウェイを利用し、圓教寺にはバスがありましたが、行きは歩いて行き、帰りはロープウェイの駅までバスを利用しました。体力不足の私は、汗だくand息切れがひどく帰宅してからも、なかなか疲れが取れ