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寂光院、建礼門院陵から再び大原女の小径を菜の花畑。京都〜、大原、三千院〜🎵三千院の近くまで来ました。後鳥羽天皇・順徳天皇大原陵へ到着。前の通りは外国人を含め観光客がいっぱい行き来してますが、こちらを訪れる人は極少ですオーバーツーリズムの喧騒から逃れられる空間第82代後鳥羽天皇大原陵。(1180〜1239)在位1183〜1198。高倉天皇の第4皇子。名は尊成。祖父後白河法皇の院政下、神器継承なしに即位し、譲位後、土御門・順徳・仲恭3帝にわたって院政を執った。北条義時追討を謀
寂光院に到着しました。天台宗の尼寺で、推古2年(594)に聖徳太子が御父用明天皇の菩提を弔うために創建。初代住職玉照姫(聖徳太子の御乳人)二代住職阿波内侍(大原女のモデル)三代住職建礼門院徳子(平清盛の息女、高倉天皇の中宮、安徳天皇の国母、源平の戦いに破れ、壇ノ浦で滅亡した平家一門と我が子安徳天皇の菩提を弔い、終生をこの地で過ごされ閑居御所とされた。)参内します。紫葉漬け発祥の寺。バスは満車でしたが、こちらはまだ人は少なかった。みんな三千院へ行ってるんやろうなぁ。山門。
10月31日『京都の神社仏閣ー3新熊野神社①』10月31日次に歩いて10分程の新熊野(イマクマノ)神社へ鳥居扁額社号碑大樟さん大樟の枝がさすり木になっていて参拝者が…ameblo.jpつづきです新熊野神社は熊野信仰の盛んな平安時代末期の永暦元年後白河法皇によって創建された法皇は一生のうちに34回熊野に参詣されているが当時の都人にとって熊野に参詣することは大変なことそこで熊野の新宮・別宮として創建されたそうです境内のミニチュ
大原へはレンタカーで行きました。京都の街中からはずいぶん離れていて、とても山奥に来た感がありました。今ですらそうなのですから、当時は尚更、大変奥まった寂しい場所だったでしょうね。参道の石段を登ると山門が見えてきます。本堂本堂の中には、建礼門院と阿波内侍の像が置かれています。いずれも2000年の火事で消失したのでその後制作されたものです。ホームページよりお借りしました。秀吉が寄進したという雪見燈籠。本堂の前にある汀の池。以下寂光院ホームページより。〜池水に汀の桜散り敷きて波の花
こんにちは。観心寺から一旦河内長野駅に戻りバスで向かった先は天野山金剛寺。別名女人高野。思った以上にすごく立派。国宝が沢山ありました。お目当てはこちらの屏風国宝-絵画|日月四季山水図屏風[金剛寺/大阪]天野山金剛寺のこと大阪南部の河内長野市にある真言宗寺院で、聖武天皇の命によって行基が開き、空海が修行したと伝わる。一時は荒廃するが、後白河法皇の庇護を受け伽藍が再興された。高野山から伝わった弘法大師像をまつる御影堂は、当時では珍しく女wanderkokuho.comバスの時
まず、源頼朝は征夷大将軍で無ければならないと考えていたわけではない。必要なのは「大将軍」の官職であって、官職名の先頭二文字が「征夷」であることにはこだわっていなかった。内大臣中山忠親の建久三(一一九二)年七月九日の日記によると、源頼朝の要望はあくまでも「大将軍」であって、どのような大将軍であるかまでは細かく指定していない。そこで、朝廷では、「総官」、「征東大将軍」、「征夷大将軍」、「上将軍」といった職務を源頼朝に任命する役職名として検討することとなった。まず、「総官」については平宗盛が
それにしてもどうして源頼朝は征夷大将軍を渇望したのか。江戸時代まで続く征夷大将軍の持つ権威と権勢を考えたならば、武家のトップである人物が征夷大将軍を求めたとしてもおかしなことではない。だが、この時点での征夷大将軍という職位は、江戸時代や室町時代のような圧倒的権威と権力が付帯する職位ではない。既に何度も述べたように征夷大将軍という職位において重要なのは「大将軍」である。これが単なる「将軍」であれば軍事作戦の開始と終了は朝廷が決定し、作戦遂行中も朝廷の管理監督を受けることとなる。しかし「大
平家物語・今村翔吾編祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きああり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。直木賞作家の今村翔吾さんやっと図書館より半年間の待った甲斐あり借りることになった彼上巻を一週間で読み取った彼後白河法皇に翻弄される武士たちの悲哀が感じられ、ここから本当の武士達の台頭となる。いやー歴史は良いもんだと彼彼の好きな四字熟語疑心暗鬼~心に疑
もいさんのブログをリブログさせていただきました。リブログした中に『伴大納言絵巻』の後ろ姿の公卿がいます。これは第13~14紙にわたっている上巻最後の場面です。すやり霞の効果によって劇的な場面展開をうながし、応天門炎上の様子を見る「伴善男(とものよしお)」と清和天皇に進言する藤原良房(清和天皇の祖父にあたる)が異時同図法で描かれています。この13・14紙の継ぎ方と、後ろ姿の公卿が誰かについて長い間謎とされてきました。紙継ぎは伴大納言の裾(きょ:束帯着用の時うしろに長くひく下襲〈したがさね〉
その知らせは突然訪れた。鎌倉に第一報が届いたのは建久三(一一九二)年七月二〇日のことである。七月一二日に源頼朝が征夷大将軍に任命されたというのだ。征夷大将軍の地位を求めながら後白河法皇によってはぐらかされてきたのが、後白河法皇が亡くなってから四ヶ月後にいきなり征夷大将軍就任である。第一報が到着してから六日後の七月二六日、源頼朝を征夷大将軍に任じる除書(じょしょ)、すなわち、朝廷が正式に役職に任命したことを伝える書状を持参する使者が京都から鎌倉に到着した。検非違使庁の官人である中原景
後鳥羽天皇が倚廬(いろ)を出て通常政務に完全に復帰したのは四月二日のことである。この日、間もなく迎える予定の賀茂祭については後白河法皇の喪に服すために中止となることが決まった。賀茂祭は建久新制で華美な装飾を慎み質素なものとするように命令が出た影響で前年度はそれまでより簡素なものとなっていたが、この年の中止は簡素化に次ぐ中止ということで賀茂祭そのもののあり方に影響を与えることとなった。何しろ、二年連続で従来の賀茂祭でなくなったことから従来の賀茂祭の様子を取り戻すことができなくなってしまっただけで
祇園精舎の鐘の声諸行無常の響あり沙羅双樹の花の色盛者必衰の理をあらわす奢れる人も久しからず唯春の夜の夢のごとし猛き者も遂には滅びぬ偏に風の前の塵におなじ上巻は、平清盛が、五〇歳で太政大臣従一位となり、六波羅に居を構えたところから、以仁親王が源氏に平家討伐の令旨を出したところまで。但し、清盛の回想シーンとして、保元・平治の乱も挿入されています。けっこうザックリで、此処ぞってとこはありませんでした。まぁ、これからってところですね。
こんにちは、占いカウンセラーの静珠です。京都の旅第四弾京都東山区にあります「新熊野神社」いまくまのじんじゃ新と書いていまと呼びます。こちらの神社のご紹介をします。三十三間堂から徒歩10分ほどにありました。ここは、永暦元年1160年、後白河法皇によって創建された神社です。そして、上皇お手植えとして伝わる立派な大楠は、健康長寿、病魔退散のご利益があります。特に、お腹の神様として信仰が厚いそうです。境内は正直荒れ果てていました。こんなに由緒ある神社で、京都でこんな寂しい神社
後白河法皇の死はただちに全国に向けて発せられたが、この時代の通信事情で日本全国に後白河法皇の死の知らせを届けるには一ヶ月を要する。鎌倉には後白河法皇が亡くなってから三日後に知らせが届いたが、これは異例中の異例の早さであり、後白河法皇の死をその日のうちに知ることができたのは京都内外の人達だけである。その代わりと言うべきか、後白河法皇の死に伴う全国家的服喪期間はかなり長い。現在でも亡くなった日を一日目として数えて七日目である初七日の法要があるが、このときの後白河法皇の死については初七日を迎える
誰もがそのときを覚悟していた渦中の建久三(一一九二)年三月一三日、そのニュースが朝廷に届いた。後白河法皇崩御。死の間際を見とった一人が右大臣藤原兼雅である。藤原兼雅から伝えられた記録によると、後白河法皇は自らの死を覚悟していたため臨終に備えて僧侶達を呼び寄せ、死後の往生を祈祷させたという。また、この時代において死を間近に迎えた人は西方浄土に向かって最後の瞬間を迎えることで往生に備えるのが通例であったが、後白河法皇は巽(たつみ)の方角、すなわち東南に向いており、また、最後の最後まで笑顔で
後白河法皇の症状悪化は鎌倉にも伝わっており、鎌倉方は後白河法皇の病状回復を祈祷するためという名目と、後白河法皇の身に何か起こったときにただちに動くことができるようにという実利的な理由から、鎌倉に戻ってきていた中原広元を再び京都に派遣することになった。中原広元は明法博士を辞してはいても、兼任している検非違使も左衛門大尉もまだ職務としているので、平安京内の自由がある程度は利く。また、武官の職務の兼任であるため、鎌倉方の御家人を一時的に家臣とすることで鎌倉方の武士が平安京内で武装することが許されるよ
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建久三(一一九二)年一月、例年であれば新年の祝賀気分に盛り上がるところであるが、この年は後白河法皇の病状悪化のために祝賀ムードは自粛となり、静かな正月となった。鎌倉では源頼朝が年末から潔斎して祈請や法華経の読誦を続けており、正月らしい時間の過ごし方としては鶴岡八幡宮への参詣のみであった。後白河法皇は自らの命の終わりを確信したようで、後白河院の中での最大の資産とも言うべき六条殿長講堂領を宣陽門院へと相続させた。これにより、宣陽門院は母の丹後局とともに強力な勢力となり、関白九条兼実は厳しい状況
後白河法皇が復旧なった法住寺へと遷御したのは建久二(一一九一)年一二月一六日。その二日前、政局において大きな動きがあった。九条兼実、摂政を辞任。ただし、九条兼実が失脚したのではない。後鳥羽天皇の元服後、およそ二年間に亘ってなおも摂政であり続けていた九条兼実が、いったん摂政を辞任にした上で改めて関白に就任したのである。それでも世間一般ではまだまだ九条兼実を摂政と呼んでおり、京都の中原広元から鎌倉へ送られた書状において、中原広元は関白となったはずの九条兼実を「摂政殿」と書き記している。
中原広元は既に鎌倉へ書状を送り、明法博士をはじめとする朝廷から付与された官職の全てから降りることを告げていたが、そのことが公表されたのは建久二(一一九一)年一一月五日のことである。検非違使も左衛門大尉も兼任している上で明法博士も兼任していた中原広元は、摂政九条兼実との対立の激しさからこれ以上明法博士としての職務を遂行できないとして明法博士を辞職するだけでなく、朝廷のあらゆる官職を捨てると公表したことで、九条兼実の立場は極めて悪化し、鎌倉方は丹後局と土御門通親の同情を獲得することに成功した。
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それにしてもなぜ丹後局なのか。しかも、牧ノ方を利用しての接近という誰も想定しない方法をどうして選んだのか。その答えは建久二(一一九一)年一〇月二〇日の吾妻鏡の記載に存在する。中原広元が京都を去って鎌倉へ戻ることにしたのである。中原広元は四月一日に明法博士に任命されたばかりであるのだが、僅か半年で辞職したのだ。中原広元が明法博士に就任したとき、摂政九条兼実は強く反対した。明法博士は律令制に従えば日本国における法学の最高権威者であるが、事実上は讃岐氏や惟宗氏の世襲職となってきており中原氏の
永続的な組織とするための要素の中には建物もある。人のつながりがどんなに重要であると言っても、人のつながりを実践するシンボル的存在になり得る建物を用意するのとしないのとでは、建物を用意するほうが組織を永続的なものとさせやすくする。都市鎌倉は建久二(一一九一)年三月四日に大規模な火災に遭い、鶴岡八幡宮をはじめとする鎌倉の建物の多くが灰に帰してしまった。その中には源頼朝の邸宅も兼ねていた鎌倉方の中心地である大倉御所も含まれていた。大倉御所の復旧工事そのものは六月中にある程度の形ができあがって
経営学では個人の資質によることなく企業が永続する前提のことを「ゴーイングコンサーン」という。日本語に訳すとしたら「継続企業の前提」となるが、日本国のビジネスシーンを眺めると、日本語訳ではなく英語をそのまま使用する方が多い。そして、一廉(ひとかど)のビジネスパーソンであればゴーイングコンサーンという語で何を意味するかわかるし、何のために経営戦略なのかに対する返答としてゴーイングコンサーンを目的とするという返答があれば、熟慮ののち、納得する結果になることは多い。ゴーイングコンサーンという用語そ
それでも何らかの対処は考える。院政は、権力の継承は不可能でも資産の継承ならば可能であることは、鳥羽法皇が先例を作っている。鳥羽法皇の資産の多くを鳥羽法皇の娘である八条院暲子内親王は継承した。また、八条院は実母である美福門院藤原得子からの資産も相続しているため、全国で二〇〇箇所を超える荘園を保有する一大荘園領主となっていたのである。これだけの荘園を有することで手にすることとなる資産がどれだけの巨大さであったのかは、後の南北朝時代の南朝の源流である大覚寺統の経済基盤となったことからも理解いただける
警察権力であることを前面に掲げているから、目の前に強盗が現れれば取り締まるために出動することはあるが、先に記したように彼らの主目的は九条兼実と鎌倉方への対抗であり、後白河院と丹後局、宣陽門院、そして土御門通親にとって不都合な存在の失態を見つけて追求する材料を提供することだ。建久二(一一九一)年七月一七日、土御門通親の院宣が生み出した独自の警察権力は一つの結果を生み出した。九条兼実の家司が後白河法皇を呪詛したという落書があったことを丹後局から追求され、九条兼実が弁明に務めるという事態が起こったの
混迷化していた近江国での佐々木一族に対する処罰は後白河法皇の院宣で決まった。院政以前の日本国を取り戻そうとしていた摂政九条兼実も、これまで一〇〇年続いていた院政というシステムの強固さを痛感するしかなかった。意趣返しをしたとは言え、鎌倉方ですら院政に逆らえないという現実の前にはどうにもならなかった。この状況は後白河法皇にとって絶好のチャンスであった。それまでは通すことのできなかった覲子内親王の院号宣下を通すことに成功したのである。丹後局高階栄子との間に生まれた女児は法皇の実子であるため院号宣
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の頼朝と義経の対立と鎌倉幕府成立についてヒストリーチャンネルで放送されていたのを見た感想ついに武家政権の支配が本州・四国・九州に行きわたる画期鎌倉幕府の成立(『まんが日本史』より、タイトル画面)義経・後白河法皇・奥州藤原氏・範頼が消え、頼朝も・・・1185(文治元)年6月、兄の頼朝に鎌倉入りを断られ、兄頼朝の誤解を解くために腰越にて有名な”腰越状”を書いて大江広元を通して提出するも受け入れられず、怒りをもって
既に何度も記しているが、京都から鎌倉までの情報連絡は最速で七日を要する。そして、鎌倉まで派遣された比叡山延暦寺からの使者はあくまでも佐々木一族に対する処罰を求めており、源頼朝はその対応をできずにいるというのが建久二(一一九一)年五月初頭時点での鎌倉での情勢だ。多くの人はこのまま事態が膠着すると考えていた。だが、源頼朝がどうにかする前に、京都で決着が早々に付いてしまった。建久二(一一九一)年五月八日、京都から書状が届いた。四月二六日に後白河法皇の口頭での要望、二八日には正式な書状
10月のお稽古の予習として、季語を見ていて、龍田川で思い出すのはいつも在原業平朝臣のちはやぶる神代(かみよ)もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとはこの和歌(百人一首17)は、喩えの塊で、意味が分かり辛い。この話は、二条天皇の后の春宮の御息所(みやすどころ)の屏風に竜田川に紅葉が流れる絵があり、それを読んだ歌とされていて、どうも、奈良で読まれたものではないらしい。だから、全体が「喩え」(たとえ)で成り立っているというわけ。ここで、二条