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(前日に続く)そこは、北は法皇山脈、南は石鎚山系に囲まれ、隣接する新居浜市別子山を源流とする銅山川が流れる四国中央市の嶺南という地。集落は、その銅山川を剪んで山深い地に点在していた。わが生地は一番奥まった地にあった。▼今では地滑り地帯という地況により住人はいない。ともあれ、嶺南の地も過疎高齢化が進み、人影はまばら。
あらためて『平家物語』を復習したくて、吉野敬介さんの『1日で読める平家物語』を読んでみました。考えてみれば、高校の古典の授業で『平家物語』の一部分(たしか「敦盛の最期」だったと記憶してるのですが)を教材として勉強しましたが、通して読んだことってなかったような…。著者の吉野敬介さんは予備校の先生だそうで、語り口はわかりやすく読みやすかったです。ただ、「1日で読める」と銘打ってありますが、おそらく多くの方は1日では読めないのでは?と思えるボリュームでした。読んだのはこの本
週末です、気を引き締めてみなさん、おはようございます週末です桜が満開のところが多いでしょうウキウキします今年は少し気を引き締めたいですアリガトウ「4月5日」の國史です「九条兼実、没」承元元年(1207年)平安末期から鎌倉時代にかけての公家、関白です九条家は五摂家(ほかに、近衛、鷹司、二条、一条)の一つで九条兼実(かねざね)は九条家の祖です平氏や源氏、後白河法皇の中で特定の勢力に属さず正しい政治を採ろうとします後白河法皇は源頼朝に
神泉苑は、雨乞いの霊場であり、疫病が流行した際には御霊会が修されてきた霊場。池に架かる朱塗りの橋は法成橋。源義経と静御前が出会った場所と言われています。5月2日から4日までの間、神泉苑祭が開催され、5月3日には法成橋で静御前の舞が奉納されるようです。☆☆☆☆☆『義経記』によると・・・源頼朝が三島大社を参拝した時の事。その道中で河越重頼が「静御前の舞を見たかった」と話します。梶原景時は「日本一の舞」と語ります。頼朝が「大げさな話だ。どこで舞って日本一と言われたのか?」と問
南叡山法住寺157天台宗令和5年5月2日参拝御朱印『法華堂普賢菩薩』(後白河法皇御尊像特別御開扉・法住寺山門御朱印ランキング※掲出の御朱印はこの日この時頂いた「一期一会の御縁」で、今現在も頂けるとは限りません。観光寺社以外は、基本的にアポイントを取ったうえで、先方の御迷惑にならないよう自己責任でお参り下さい。
後白河上皇が住んでいたところが本では六条殿になっていて、ネット情報では三条殿になっています。後白河法皇になってからは法住寺のようです。いろいろ矛盾がありはて?です。保元の乱の四年後に元治の乱です。なかなか乱れていたようです。ややこしくてなかなか頭に入らず今まで調べるのを躊躇していました。簡単にいうと皇位と貴族の権力争いだとわかりました。
読書メーターで【レビュー投稿キャンペーン!BOOK☆WALKERコインのプレゼント】に当選し1000円分のコインを頂きました。実は応募していたことさえ忘れていたのですがBOOK☆WALKERというサイトで使えるとのことでさて・・どの本に使おうかと迷った末。林真理子さんが「平家物語」の本を出したということで読んでみたく図書館に予約をしていたのですがなかなか順番が来ずこちらで使わせて頂きました↓平家物語Amazon(アマゾン)BOOK☆WALKERは読メ
そろそろ目を覚ますときみなさん、おはようございます相撲の白鵬問題やっと浄化が始まりましたしっかりと最後まで詰めて欲しいですアリガトウ「3月13日」の國史です「後白河法皇、崩御」建久3年(1192年)後白河法皇は天皇の在位(77代)はわずか3年で第一皇子の二条天皇(78代)に譲位以後、30余年にわたり院政を行いました藤原氏、源氏、平氏との戦乱の中で強大な権力を築いたのです源頼朝は後白河法皇のことを「日本一の大天狗」と言ったほどの悪です頼朝
五条坂交差点から東大路を南下して新日吉神宮へ向かいました。交差点に看板が2つあったので、近くに「いまひえ神宮」という神社もあるならついでに寄ろうかなと思っていたら「新日吉神宮」を「いまひえ神宮」と読むのですね。日(ひ)しか読めんてば!滋賀の日吉大社はひよしたいしゃで東京のひえ神社は日枝神社なのにね。京都では新と書いて今と読むことを覚えないと。新日吉神宮はこのあたり東山七条に後白河法皇の御所法住寺殿があったので法皇の勧請で創建され明治期にここに移転されました。
永井路子さんの「絵巻」「炎環」自他ともに認める歴史ヲタクの私八木荘司さんの「古代からの伝言」や黒岩重吾さんの「古代史への旅」を軸にして歴史小説で日本史を古代から楽しんでいます軸にしている本や図書館で借りれない本はポチっとしてますが古代からの作品となると莫大な量になるので図書館で借りられるものはなるべく借りて読んでますいちおう読書記録もノートにとってますがもう一度読みたいなって思った時に手元にないのは非常に不便です図書館で予約したり…そして最近気づいたのですが…数年
2泊3日の播磨旅行初日。まず超ワル親父とモモママが向かったのは大好きな映画“ラストサムライ”のロケセットで使用された名刹《西国観音霊場第27番札所・書写山圓教寺》です。天台宗三大道場の1つでも在り、平安時代・康保3年(966年)性空承認が開いた歴史深い寺社。伽藍は山岳寺院の様相を呈し、その面積は33万㎡と広大なので、特別志納金1000円を払い、伽藍中央までマイクロバスで行きました。到着したのは《国指定重要文化財・摩尼殿(まにでん)》懸崖造り(舞台造り)で「これぞ荘厳!」
「日本国第一の大天狗」と評されたのは誰か?『梁塵秘抄(平安時代末期に後白河天皇(のち法皇)により編まれた歌謡(今様歌謡)集)』の編纂者は第77代天皇・後白河法皇で、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代30余年に渡り院政を行った。内乱が続き、源頼朝による武家政権の誕生と云う激動期に公家政権を維持した。権謀術策に長けたと云うより京都を戦乱に巻き込んだ新興武士層から都を守り政権維持の為に策を講じたと評価される。法皇自身は、歴代最多の熊野御幸や法住寺殿に蓮華王
・・・(1)の続きです・・・為光は985年7月に次女・忯子を亡くしますが、なんと前月に妻を亡くしたばかりでした妻と娘の菩提を弔うため為光は法住寺を建立(989)為光は僧侶よりも熱心な修行三昧の日々を送り建立後3年で没したそうです。。。実は斉信は次男で、長男は道長の後援を得て政治力をもつ斉信に圧倒され30代で亡くなりました(1001)兄弟仲はかなり悪かった様子(同腹兄弟です。。。)斉信と道長は老後までも仲が良かったそうですが。。。道長の子・長家と結婚した
愛らしいお猿さんがお出迎えです。楼門内の建物群。■手水舎■京都市旧午砲の台座■蔵蔵北側背面。■蔵神楽殿西側正面。■神楽殿前狛犬■神楽殿拝殿、舞殿との表記も見られます。折上格子天井。神楽殿北西側。神楽殿北側。神楽殿東側。■社務所社務所の東側にある社殿。■社号標府社新日吉神社改称前の社号。南側石段。本殿南側に鎮座する三末社の正面石
【食育クイズ:Vol.1559】「京都府」の「延暦寺第5代、座主、円珍」おさらいクイズ!京都にある延暦寺、別院を訪ねた円珍を道案内した動物ゆかりの地名とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)大豆コーヒードリップパックAmazon(アマゾン)
・平山優著『真田信繁』と黒田基樹著『真田信之』があった書店で購入。・一読後、後白河院は政治的人間では無いと認識を改める。徳川家康以上の強運の人であり、それ以上でも以下でも無い人と言うべきか。・名君では無いけど暗君かと言うとそうでもない。後白河院が暗君だとしたら院政を始める前に失脚していると思う。・清盛と後白河院の他に清盛の子重盛や後白河院の近臣(藤原信頼や成親等)に興味を持つ。「安徳と時子は、降伏すれば身の安全は保証されたであろう。しかし、彼らを待ち構えているのは、敵意に満
平家物語Amazon(アマゾン)琵琶法師の物哀しいイメージがある平家物語。平氏の栄枯盛衰と朝廷の勢力争い。朝廷の争いは、どちらかというと恋の恨みのようで…。政の蚊帳の外に置かれていても、皇位に対する執着はあり、その優先性は親子の確執にも繋がっていて。親子の確執は、産みの母の出自にも関わっていて、見目麗しければ権力者の目に留まり国母となることも…。清盛と時子夫婦の間にも隙間風が吹き荒れていますが、娘を入内させるという目的によって時子が清盛と協力し合うさまは、耐え忍んでも正
今日は、過去拙ブログでも取り上げた源頼朝や義経(↓)と従兄弟にあたり、『鬼武者』今日のタイトルは、ある有名な武家の恐ろし気な幼名なのですが、誰のことかお分かりになるでしょうか?正解は、後に日本の歴史上初の武家政権を樹立した源頼朝…ameblo.jp『判官』日本の歴史には数多くの武将が登場しますが・・・最も人々に愛され、数多くの伝説を残した人物といえば、おそらく源九郎義経ではないでしょうか。今日は、彼…ameblo.jpともすると源氏一族の中では異端と言うか、
一旦4時に目覚め、またすぐ眠れて今朝は8時ちょっち前に起きた。朝食は昨夜スーパーで半額やったさつま芋の天麩羅。デザートは熊本産トマト2個。彩菜→菅原花月→橋爪あみ→小山郁美→林実里→寝占友梨絵→Wakasaと歌をユーチューブで聴いとったが、昼食に出遅れた。昼食に行ったのは東上野「ブラッスリールディック」で、頼んだんは鴨のハンバーグ。ライスが付き、スープとサラダがセルフの食べ放題で1200円也。追加でプリン300円を注文。13時以降入店したらコーヒーが付いた。満足して店を出て、郵便局で金
熊野若王子神社(くまのにゃくおうじじんじゃ)は、左京区若王子町にある神社。かつては禅林寺の鎮守社でした。哲学の道の南端にあたり通称は若王子神社。1160年に後白河法皇が禅林寺の鎮守として熊野権現を勧請したことに始まります。社名は天照皇大神の別名・若一王子から採られたものです。熊野詣を行うにあたり、修験者はまずここで身を浄めてから出発したといわれています。足利尊氏や足利義政がこの地で花見をし、宴を開きました。また、室町幕府や武家からの信仰を集めました。応仁の乱で荒廃しましたが、豊臣秀吉により再
カバーの写真は、今も変わらぬ壇ノ浦の美しい夕景だ。栄枯盛衰。滅びゆく者は美しいのか!?世界を見ると、あのローマ帝国があった。夢か幻かのようなこの平家の物語。安徳天皇母君、建礼門院徳子、平清盛、源義経、後白河法皇などの主な人物が章立てとなっていた。一の谷の合戦、鹿谷の謀議、壇ノ浦の戦い、大原御幸など、どの場面を切り取ってもストーリーとなる名場面が出てきた。自分がまさにそこにいて観ているかのようにそれぞれの情景描写が素晴らしくて緊張感がしっかりとこちらに伝わってきた。思うとおりに娘たちを天
…5代の天皇に渡り30数年間、院政を行ない、源頼朝に「日本一の大天狗」と言わしめたとも伝わる法皇は?「後白河法皇」である。第77代・後白河天皇は、鳥羽天皇の第4皇子で、母は待賢門院璋子(ショウシ)。久寿2年即位、保元3年譲位し、天皇5代・34年間、院政を行なった。在位中に「保元の乱」があり、平氏政権から鎌倉幕府確立に至る変動期にあって、朝廷の威信保持に努めた。仏教に深く帰依した他、今様を好んだ事でも知られる。『梁塵秘抄』を撰集した。
先日のこと。待ちかねた雪山を見る日がやって来た。日本一の紙の街四国中央市に住む同胞から標高889.7mの「翠波峰」に雪が降った」とのメール。ときを置かず、法皇山脈の一角を占める翠波峰に向かう。▼法皇山脈は、石鎚山脈の支脈にあたる。その名の由来は、後白河法皇の三十三間堂建立時に使われた木材が優秀であったことから、その産地である山に法皇の名
おはようございます。今日から七十二候が移ります。【鱖魚群(さけのうおむらがる)】鱖魚は鮭のことです。鮭が群がって川を上る頃。川で生まれた鮭は、海を回遊し故郷の川へ帰ります。関東以北では、「しゃけ」と呼ぶことが多いですが、これは「さけ」が訛ったものです。アイヌの人にとって鮭はカムイチェプ(神の魚)と呼ばれ、貴重な食料とされていました。川の下流に住む人は、漁をするときに上流の人の分を残しておいたそうです。分け合うことや産卵期に獲り尽くさず、来年以降に命をつなげることもしていたと言わ
「建礼門院徳子」子供は半分になったのに大学は2倍はおかしくないかみなさん、おはようございます今日から寒くなるようです寒さ対策をしっかりしましょう40年前と比べて子供の数は半分になっています一方で大学の数は約2倍になっています大学の無償化は少子化対策というよりも大学の存続対策といったほうが的確でしょう効果的な少子化対策は減税かもしれませんさあ、今日「12月13日」の國史を学びましょう「建礼門院徳子、没」建保元年(1213年)建礼門院徳子は、平清盛の娘であ
京都おひとり様の旅ラスト今回の旅は京の空海さんに会いいく旅でした今熊野観音寺から始まり今熊野神社でもご縁がありました西国十五番霊場|今熊野観音寺四季折々に自然の美しい営みが見られる幽寂なる空間、熊野権現示現の伝説の聖地今熊野観音寺です。www.kannon.jp今熊野神社は後白河法皇が熊野から神さまを持ってきた経緯がありますまた後白河法皇は大変な頭痛持ちでしたが、観音さまの御加護で完治したと言われています枕元にたった観音さまが癒しパワーを送ったとされていますその御加護があ
長谷川久蔵(1568-1593)《大原御幸図屏風》安土桃山時代16世紀東京国立博物館蔵今日の一枚のアート。長谷川久蔵は、安土桃山時代の有名画家、長谷川等伯の息子さんですね。将来を嘱望された画家でしたが、父に先立ちわずか26歳で亡くなってしまいました。一説には、長谷川等伯のライバルである狩野派が、その才能を恐れて毒殺したという話もあるほどの能力の持ち主でした。若くして亡くなってしまったので、本人の絵と特定できるものはとても少ないらしいです。智
今熊野神社参詣が終わり境内をでた。風が吹いて何か足元に当たった見上げると、楠の巨木まるで「拾え!」って言われてるようで、やむ無く持ち帰った(道端だったので)調べたら楠に違いないみたいこの楠は今熊野神社の御神木で、「後白河法皇」のお手植えなんだってちょっと、さっきは今熊野観音寺で後白河法皇の頭痛の話を聞いたばかり…嗚呼好かれたらしいです#今熊野神社◾️出演予定『2023年11月出演予定/タロットリーディング講座、波動スプレー、いろいろ』……………………
1週間ちょっと前、友達の案内で書写山圓教寺(えんぎょうじ)へ。ロープウェイで書写山山頂へ。●仁王門江戸時代圓教寺は966年(平安時代中期)に性空上人によって開山・創建されました。紫雲に書写山へと導かれた性空が、崖の桜の幹に観音像を刻み、建てたお堂が如意輪堂(今の摩尼殿)であると伝わります。性空は皇族や貴族からの崇敬が篤く、天皇や法皇が播磨(兵庫県姫路市)まで行幸しました。特に花山法皇は、退位直後と16年後の二度行幸して性空に教えを請い、圓教寺の勅号を与えています。途絶えてい
「百寺巡礼」の第147番は圓成寺です。圓成寺は奈良市の柳生街道沿いにある寺院で、真言宗御室派に属しています。寺伝によれば、命禅上人が、1026年にこの地に十一面観音像を安置したのが始まりとされています。その後、1112年に経源が阿弥陀堂を建て、1153年に仁和寺の寛遍上人によって真言宗御室派寺院となりました。最初の写真は東門です。次の3枚は楼門前に広がる紅葉が美しい庭園で、平安時代末期に作庭されたと推定され、浄土式庭園として、国の名勝に指定