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元永二年5月28日、1119年7月7日は鳥羽天皇の第一皇子、顕仁(あきひと)親王が誕生されました。後に悲劇の天皇とも呼ばれることになる顕仁親王はその御誕生からが悲劇でした。母である藤原璋子(待賢門院)は白河院(法王)ご寵愛の養女として白河院の孫である鳥羽天皇の中宮に入られましたが、顕仁親王は鳥羽天皇から(おじ子)として疎まれたと伝わるからです。つまり、白河院の御子だったのではないか?ということです。鳥羽天皇は白河院に譲位させられ5歳の顕仁親王が即位しました(崇徳天皇)。しかし白河
東福寺から歩いて10分。新熊野神社に到着。洛中熊野三山の一つです。前回の京都一人旅で残る二つは参拝しているので、洛中熊野三山は全て訪れたことになりました。熊野若王子神社熊野神社逆光で扁額がみえません。すみません。弁財天もいらっしゃいます。新熊野神社は熊野大好き後白河上皇により1160年に勧請されて造られました。本殿は1673年に造営されたものです。旅の無事をお祈りします。このくすのきは、京都市指定天然記念物です。
貞観五年(863)五月廿日朝廷は使を派遣して京都の神泉苑で御霊会を修した。六つの霊座を設けて僧侶が経を読み、舞楽を行い、都の人びとに参加することを許した。神泉苑いわゆる御霊とは、崇道天皇、伊豫親王、藤原夫人(吉子)、観察使*1、橘逸勢、文室宮田麻呂らこれなり。並びに事に坐して誅せられ、冤魂は厲となる。近代以来、疫病繁発し、死亡はなはだ衆し。天下おもえらく、この災いは御霊の生ずるところなりと。京畿よりはじまりてここに外国に及び、夏天秋節に至るごとに御霊会
後白河天皇が行った三千院の懺悔の法講むさぼり・怒り・愚痴の三毒えお取り除く心を清らかにする行いです30日は三千院に行きましょうお先に失礼します
智積院とか妙法院、三十三間堂辺りから参道を東へ進みました。この日も既に16時は過ぎていたと思うので結構な夕方でしたよ。途中で京都女子大の記念講堂か何かを見掛けました。そういえばこの付近の地理について擦れ違った女子大生にお伺いしたら本当に親切に教えて下さいました。きっと私のような観光客だけでなく外国人とかにも英語で質問されたりするんでしょうね。女子大生っぽい皆様が道すがら、咲き始めの桜を撮ろうとスマホを掲げていらっしゃいました。そういえばリクルートスーツの方も何
百人一首の中に七枚ある一枚札五枚目の札はこの歌です[さ][あまりにもさびしくてわが庵からでてあたりを眺めるとどこも皆同じだ秋の夕暮れの景色よ]【さびしさ+秋の夕暮れ】のモチーフの先鞭をつけた歌とか[ほ]ホトトギスは夏鳥で燕と同じく暖かくなると南からやってきて秋になると帰っていく渡り鳥初音をききたいばかりに今か今かと待っていてある明け方についに聞こえたその声に気がついて姿を探したがホトトギスは何処かに飛びさってしまった空にあるのは薄明かりの中に残
第七十七代後白河天皇は平安時代末期の天皇です。一一二七年生。御名は雅仁(まさひと)。御父は鳥羽天皇、御母は藤原璋子。在位一一五五年から一一五八年。雅仁親王は鳥羽天皇の第四皇子です。既に第一皇子の同母兄の崇徳上皇が譲位し、鳥羽法皇の寵愛する皇后美福門院から生まれた弟の近衛天皇が即位していましたので、皇位を継ぐとは誰からも思われていませんでした。しかも、父や兄からは、「即位の器量にあらず」「文にも武にもあらず、能もなく芸もなし」と言われていたのです。ところが近衛天皇は身体が弱く、十七歳の
第八十一代安徳天皇は平安時代末期の天皇です。御名は言仁(ときひと)。※仮名を間違えていましたので訂正しました。2018.9.18一一七八年生。御父は高倉天皇、御母は平清盛の娘徳子(高倉平中宮)。後白河天皇と平清盛の皇孫です。在位一一八十から一一八五年。高倉天皇の第一皇子として誕生された言仁親王は、生後間もなく親王宣下を受け立太子されました。そして二歳で高倉天皇の譲位を受けて即位されます。外祖父の地位を確保し、平氏一門の政治的基盤を確固たるものにするという平清盛の願いが叶った時です。こ
近代以前の日本ではLGBTは普通だった何度も書きますが、前田利家は織田信長の愛人で、本人もそのことを自慢していたぐらいでしたからね。男が男を好きになってなにが悪い❗身体は女でも心が男なヤツがいてなにが悪い❗というのが近代以前の日本人の「普通」の価値観だったんですよ。これが明治になって西洋のキリスト教的価値観が大々的に輸入されてLGBTは異常な存在という「差別」が生まれるようになってきたんです。例えば近代以前の西洋ではLGBTは問答無用で処刑されることも珍しくありませんでした。人
<今日のあらすじ>天皇と上皇の争いは源氏と平氏を巻き込んだものになりました。そこからの最近の政治とSMAPと二項対立の話。さて、昨日院政について書きました。院政が始まったのは「藤原家とは離れたい=摂関とかもうやめたい」という意志の表れだったのですが、重宝していた源氏が藤原家と手を結ぼうとし始めます。面倒だと思い始めた白河上皇は、別に使えそうな武士を探します。待ってました。それが、平氏でした1108年、平正盛は、源氏を討伐し、源
前回のブログ『天神さん信仰のはじまり♪(文子天満宮♪)』のつづき♪七条を東へ歩いて、間ノ町通を北上♪たまたま通りかかった文子天満宮へ♪再び、間ノ町通を北上♪六条に出たトコで、東の方にお寺を見つけて…着いた♪長講堂♪皇室伝来の所領『長講堂領』で有名やね♪正式な名前…『法華長講弥陀三昧堂』てゆうんやて♪長い名前やね…(((^^;)法華経の講義をして阿弥陀仏を念じるためのお堂てイミの名前で、ココは後白河上皇(77代)が自身が住んだ六条院に建てた長講堂やけど、他の人が建て
青蓮院門跡を後にして、向かったのは聖護院門跡。青蓮院門跡の真ん前の道を北へ。平安神宮の横をさらに北へ。歩いて20分くらいで聖護院門跡に到着。江戸時代後期に二度仮皇居となるなど皇室との関係が深いそうです。日本の修験道の本山派の中心寺院。後白河天皇の子が宮門跡として入寺してから、代々法親王が入寺する門跡寺院として高い格式を誇ったそうです。拝観料はありません。自由に入ることができます。一階の寺務所で御朱印をお願いします。本堂は二階。不動明王がいらっ
昨日は義母の13回忌で、京都へーー。専定寺(烏寺)というお寺で、豊国神社すくそば。入り口入ると、お花が目につきなんと!!椿の花の、原木だそうです花びらの中の花弁がとってもゴージャス今まで何年も通ったのに、昨日は時間もゆっくりあってお寺の住職のお母さまが、何故かお話しが始まりお寺に飾ってある由緒ある大仏や、お地蔵様や、兜、瓦、茶釜、ドラ、などなど。。。。一つ一つ説明して下さり。本堂の大仏様は、菊の御紋付きの後白河法皇の念持仏だそうで、大仏様の台座も金の柱に囲まれ、それは
天皇は、血統最優先ですから、子供でも病人でも、ときには女性でも構いません。しかし、摂政・関白は「天皇の親代わり」であり、天皇に代わって政治を仕切れなければ話になりません。つまり摂関は、親から子へと世襲できません。息子が幼かったり器量がなかったりすれば、兄弟や叔父、従兄弟に地位を譲ることになるし、そうなれば戻ってくることは期待できません。藤原道長と甥の伊周のケースのように。「摂関家」である以上、平和で安泰な長子相続というのは無理なんです。つねに、兄弟・分家が熾烈な競争するのが宿命です。「
この記事は、今年2018年(平成30年)の干支戊戌について書いてます。そして最近では、今年2018年の干支である戊戌の年は歴史的にどんな年だったのか?を確認していく記事を書いてきました。↓1958年について1958年について21898年について1838年について1778年について1718年について1658年について1598年について1538年について1478年について1418年について1358年について1298年について1238年、1178年について1118年に
この記事は、今年2018年(平成30年)の干支戊戌について書いてます。干支というのは60年周期なんで、60年ごとに同じ干支が巡ってきますよね。つまり干支は60パターンあります。「あれ?」「干支って十二支のことだよね?」「12個しかないんじゃないの?60年周期?なんでやねん?」という人はこちら↓をご覧ください。干支とは何か。その0干支とは何か?その1干支とは何か?その2↑これらの記事を読むことで干支の概要はわかってもらえると思います。ちなみに「戊戌」という干支がそもそも理論的に
康和5年1月16日、西暦では1103年2月24日、堀河天皇の第一皇子宗仁(むねひと)親王が誕生されました。堀河天皇はその父君白河上皇が院政を敷いていた時代でもあり、後の世では長い院政を敷かれた白河上皇の影に隠れてしまっていますが、当時人望厚く「末代の賢王」といわれていたといいます。白河天皇には寵愛が深かった中宮賢子がおり、その中宮賢子が28歳で急死した時には悲嘆にくれその屍をいつまでも抱いていたと伝わります。その中宮賢子との皇子が堀河天皇であり、白河天皇は父君後三条天皇の遺命
前回からの続きです本阿弥光悦京屋敷跡を少し歩くと、今出川通りへ出ますそこを右へ曲がると白峯神宮があります由緒こちらの御祭神は、崇徳天皇(第75代)、淳仁天皇(第47代)崇徳天皇は、保元の乱(1156年)で讃岐国へ配流となり崩御された天皇だそうです淳仁天皇は、弓削道鏡らの謀計により廃位となり、淡路島へ配流後、崩御。という不幸な境遇の天皇が祀られていますそう御霊信仰の一つの神社のようですそれも明治天皇が造営(1866(慶応2)年)されたというのですから、新しい神社です(由緒書き
★第八十代高倉天皇は平安時代末期の天皇です。一一六一年生。御名は憲仁(のりひと)。御父は後白河天皇、御母は平滋子皇太后(建春門院)。在位一一六八年から一一八十年。平滋子は、平清盛の妻の時子の異母妹で後白河上皇の別格の寵愛を受けました。「言葉にできぬほど美しく若々しい」と称えられた美貌で入内することになり、終生愛されたといいます。また、後白河上皇が不在の折りには代わりに奏聞を受けるなど政治的発言力も持っていたといいます。その血を受け継いだ憲仁親王も色白で美しい容姿だったといいます。
いつもブログにお越し頂きありがとうございます。シカゴはホワイトクリスマス。今夜はマイナス17度。サンタさんも凍ってる。一時帰国のつづきから・・。一人旅・・今日は京都を一人旅(京都の一人旅・・・)というわけには行かない・・?外国のお客様がいる。でも、便利な私の耳は英語をシャットアウトできる。なんにも聞こえない。京都駅につくと、英語が堪能な観光タクシーのドライバーさんが待っていてくれた。いってらっしゃ~い。手を振ってお客様を見送ると一人になれる。
治承2年11月12日、西暦では1178年12月22日839年前の本日、高倉天皇の第一皇子、言仁(ときひと)親王が誕生されました。時は平安末期、親王の母は平徳子(建礼門院)で外祖父は平清盛でしたから、平家待望の皇子誕生でした。徳子懐妊の際に行われた祈祷には、「変成男子の法」もあったといいます。また月が満ちるにつれ身体の苦しさを訴える徳子には、平氏に恨みを持つ生霊・死霊の物の怪が取り憑いているとされて鬼界ケ島の流人が許されました。この時僧俊寛を除く者だけだったため、その話が歌舞伎にもなって
瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふhttp://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2939.html?sp人気ブログランキングへ小倉百人一首の77番にある崇徳院の歌です。一般には、別れても好きな人、フラレたけれどまた逢いたい人を詠んだ歌など、恋歌として紹介されている歌ですけれど、実は全然違います。なぜなら崇徳院は、わざわざ「瀬をはやみ」「滝川」といった激しい表現を用いているからです。恋する人にまた逢いたいという思慕の歌なら
百人一首の一人として有名な歌人でもあり後世に名を残している平安の京の都の男女は三十一文字の和歌の文のやり取りで、逢うこともなく気持ちを伝えたという和歌をしたためた手紙の素材や色や墨の匂いにまで趣向を凝らして、五感に響くメールだったというこのような話は大人になってから雑学で知ったが、落語の演目だということは最近知った、上方落語が発祥で桂三枝も演じていたさんしの崇徳院は上方落語落語の世界は江戸時代、この時代も平安の当時のように若い男女は和歌の文で恋に落ちた噺現
源頼朝は、平治の乱で負けたときに殺されるはずだったのが、平清盛が義母から「私の死んだ息子に似ているから、助けてあげてください」といわれ、仕方なく流罪にした、という話が有名ですが。この義母が「池禅尼」、これは夫の忠盛が死んで出家したあとの名前で、本名は藤原宗子です。忠盛の後妻であり。清盛は先妻の子なので血のつながりはありません。この藤原宗子はかつて崇徳天皇や後白河天皇の母であった待賢門院(鳥羽法皇の妃)に仕えていました。なので、宗子は、後白河とのパイプが強い高級女官であり、忠盛にとっては典
京都・三嶋神社様の大放生祭鰻絵馬を私が担当、奉納させていただきました❣️✨こちら、皇子に恵まれた後白河天皇の名により、造宮された神社だそうです。そして、なんとなんとこちらの絵馬。。。。。。宮司様より、なんとなんと。。。秋篠宮殿下に御献上されました‼️‼️‼️‼️‼️✨✨✨大感激。。。。❣️見に余る大大光栄です😂😂😂こちら、小さい神社ながら、現在も皇室からの崇敬が篤く、秋篠宮殿下がこちらを祈願で2度御参拝されたそうで、絵馬も、殿下のお付きの方から、確かに殿下が受け