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第七十九代六条天皇は平安時代末期の天皇です。御父は二条天皇、御母は伊岐致遠の娘、祖父は後白河院。長寛二年(1164年)誕生。諱、順仁(のぶひと)。在位、永万元年(1165年)から仁安三年(1168年)。五代に渡って院政を敷き、日本一の天狗と言われた後白河院が権勢を誇っている時代にその孫として生まれましたが、父と祖父は対立していました。二条天皇は、親政を行おうとして後白河上皇と対立し、また異母弟である憲仁親王(後の高倉天皇)の擁立を画策したと、憲仁親王の叔父である平時忠を流罪にし、平教
第七十六代近衛天皇は平安時代末期の天皇です。御父は鳥羽天皇、御母は藤原得子(美福門院)、異母兄に崇徳天皇と後白河天皇がいます。保延五年(1139年)誕生。諱は体仁(なりひと)。在位は永治元年(1141年から)から久寿二年(1155年)。大治四年(1129年)治天の君として君臨した白河院が亡くなると、孫の鳥羽院が政治の中心となりました。そして永治元年(1141年)鳥羽院は寵愛している美福門院との子である体仁親王への譲位を、待賢門院璋子との子である崇徳天皇へ強要します。この時、体仁親王はま
おはようございます。今日は、崇徳天皇の忌日です。1164年崇徳天皇(顯仁親王,讚岐院)(天皇(75代))数え46歳実はこの崇徳天皇、菅原道真、平将門と共に非業の死を遂げた歴史上の3人を日本三大怨霊と呼ばれています。これには歴史学者の山田雄司は、江戸時代における読本や歌舞伎などが大きく影響を与えているとしているとしています。【崇徳天皇とは】出典Wikipedia第75代の天皇(在位1123~41)。名は顕仁(あきひと)。鳥羽天皇の第1皇子、母は中宮待賢門院藤原璋子で
浄土の帝(角川文庫)[安部龍太郎]楽天市場楽天市場で詳細を見るAmazon(アマゾン)で詳細を見る浄土の帝安倍龍太郎:著あらすじ平安時代末期貴族たちの権力争いは皇位継承をめぐる骨肉の対立と結びつき頂点に達した鳥羽院の崩御を機に湧き上がった戦乱は容赦なく帝をも巻き込む崇徳院の悲劇、失墜する摂関家寵姫たちの暗躍そして美貌の后妃たちの思惑…混迷を深める政情は新たな権力者の登場を予感させる朝廷が…帝が…権力を失っていく中で自らの存在意義を賭けて
第七四代鳥羽天皇は、平安時代後期の天皇です。安楽寿院に伝わるという鳥羽法皇像御父は堀河天皇、御母は藤原苡子。また祖父は、父の堀河天皇時代から次の崇徳天皇まで三代の長い院政を敷かれた白河天皇です。崇徳天皇は第一皇子、後白河天皇は第四皇子、近衛天皇は第九皇子です。康和五年(1103年)生。御名は宗仁。嘉承二年(1107年)~保安四年(1123年)。鳥羽天皇の時代には源氏物語絵巻が作成され、現存する絵巻の最古のものとなっています。源義親の乱の追討や当時多かった武装した僧兵の乱暴狼藉を鎮圧
本日は旧暦5月28日ですが、元永二年(1119年)五月二十八日は、鳥羽天皇の第一皇子、顕仁(あきひと)親王が誕生された日でもあります。7年前は生誕900年の年でした。※単純に旧暦にあてはめています。後に悲劇の天皇とも呼ばれることになる顕仁親王の母である藤原璋子(待賢門院)は白河院(法王)ご寵愛の養女として白河院の孫である鳥羽天皇の中宮に入られましたが、顕仁親王は出生の頃より鳥羽天皇自身が「叔父子」と呼んでおり、つまり白河院の子と公然と囁かれていたと伝わります。ただし、この噂は後に鳥羽上皇が寵
おはようございます。今日は、1156年に保元の乱が起こりました。平清盛・源義朝らが崇徳上皇らの蘢る白河御所を夜襲し上皇方が敗退。(新暦7月29日)この保元の乱とその後に起こる平治の乱は登場する人物も多く、人間関係も入り組んでいてわかりづらいですが、今日はほんの少し。保元の乱は、藤原忠通、頼長兄弟の争いが崇徳上皇、後白河天皇兄弟の対立と結びつき、保元1(1156)年7月鳥羽法皇の死を機に勃発した戦いです。この崇徳上皇と後白河天皇は共に先日紹介した待賢門院の子どもです。上皇側は敗れ、崇徳
おはようございます。この時期の青空に遭遇すると、思わず、「五月晴れだね」と言ってしまいます。「五月(さつき)」というのは旧暦・陰暦の呼び方で、新暦(現在の暦のこと)では6月に当たります。6月といえば、梅雨の時期。つまり、五月晴れはもともと「梅雨の合間の晴天」や「梅雨の晴れ間」を指す言葉なんだそうです。夏の季語になっています。梅雨の長雨でジメジメ、お天道様も見れず、空模様もどんより。そんな、気分まで曇ってしまいそうなときに見えた晴れ間というのが、本来の意味の五月晴れです。現在では誤用が定着
《新古今和歌集・巻第十六・雑歌上》1545長月(ながつき)の有明(ありあけ)のころ、山里より式子内親王に贈れりける惟明(これあき)親王思ひやれ何をしのぶとなけれども都(みやこ)おぼゆる有明の月☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆九月の有明月のころ、山里から式子内親王に詠み贈っていた歌惟明親王察してください。とくに何を懐かしく思うというのではありませんけれど、都が思われる
第七十七代後白河天皇は平安時代末期の天皇です。昨日は安徳天皇の祭日でしたが、安徳天皇は後白河天皇の皇孫となります。大治二年(1127年)生。御名は雅仁(まさひと)。御父は鳥羽天皇、御母は藤原璋子。御在位、久寿二年(1155年)から保元三年(1158年)。雅仁親王は鳥羽天皇の第四皇子です。第一皇子の同母兄の崇徳天皇が譲位したのは、鳥羽法皇の寵愛する皇后美福門院から生まれた異母弟の近衛天皇でしたので、皇位を継ぐとは誰からも思われていませんでした。しかも、父や兄からは、「
4月26日が命日・忌日の有名人・著名人1192年(建久3年3月13日)66歳崩御(?)後白河天皇陛下第77代天皇1489年(延徳元年3月26日)25歳没(脳溢血?)足利義尚さん室町幕府9代将軍1865年26歳没(銃創)ジョン・ウィルクス・ブースさん俳優、リンカーンの暗殺者リンカーン大統領暗殺事件1951年82歳没(交通事故)アーノルト・ゾンマーフェルトさん物理学者原子物理学の開拓的研究⇒『アルノルト・ゾンマーフェルト(1868年12月5日生~1951
こんにちは。星煌学院有松校の花谷です。今日、4月9日は大仏の日です♪752年のこの日、東大寺の大仏開眼供養が行われたことから制定されました。正式名称は廬舎那仏(るしゃなぶつ)像の高さは14.98mあり、4~5階建てのビルぐらいの高さ。(ちなみに鎌倉大仏が11.39m、知る人ぞ知る聚楽園大仏(鉄筋コンクリート)はなんと18.79m!)重さは台座が130tで本体が250t。400kg以上の金が使われ、交流
第八十二代後鳥羽天皇は鎌倉時代が始まった時の天皇です。治承四年(1180年)生。御名は尊成(たかひら)。御父は高倉天皇、御母は藤原殖子。また御祖父は後白河院です。そして二歳違いの異母兄は安徳天皇です。在位、寿永二年(1183年)から建久九年(1198年)。高倉天皇の第四皇子尊成親王は、福原遷都や源頼朝挙兵の年に誕生しました。その当時既に譲位され上皇となられていた父帝は、そのわずか半年後に崩御されています。その二年後、平家が安徳天皇を伴い都落ちしたため京は天皇不
京都巡礼の続きです浄土宗寺院の正林寺から豊国神社に向かう予定でしたが、徒歩7分程度の場所に新日吉神宮とその先に豊国廟があったので、新日吉神宮だけ寄ることにしました😁今年は豊臣に関連する場所に寄ることで、大河ドラマをより愉しめそうだったので…今日のスケジュール時間を気にしつつ、新日吉神宮に向かいます🏃🏃🏃新日吉神宮(いまひえじんぐう)鳥居⛩️楼門随神様拝殿で良いのかな?本殿新日吉神宮永暦元年(1160年)後白河天皇によって、院の御所法住寺殿の鎮守社として、日吉大社から山王七社
《新古今和歌集・巻第十六・雑歌上》1482五十首歌奉りし時前大僧正慈円おのが波におなじ末葉(すゑば)ぞしをれぬる藤(ふぢ)咲く田子(たこ)のうらめしの身や☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆五十首歌奉りし時前大僧正慈円藤波というわが藤原一族の波のなかで、同じ藤の末葉である自分だけが落ちぶれてしまっていることだ。藤の咲く田子の浦の田子のような恨めしい身よ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆
本日は旧暦1月16日でしたが、康和五年一月十六日(1103年2月24日)は、堀河天皇の第一皇子宗仁(むねひと)親王が誕生された日です。※明治に新暦になる前の出来事は、旧暦のほうが日本を理解しやすいと思いますので旧暦を参照しています。ただし当時の西暦がわかるものについては併記するようにもしています。なお、改暦は何度もされていますので単純に旧暦にあてはめています。堀河天皇はその父君白河上皇が後に長く院政を敷かれたこともあり、後の世では白河上皇の影に隠れてしまっていますが、当時人望厚く「末代の賢王
小野龍海’s歴史塾このホームページでは歴史研究の成果を資料化して公表しています。ono-no-tatsumi.amebaownd.com少し前に知り合えた小野さんから情報提供がありました、それは「後白河天皇の皇子以仁王の近侍で武勇に優れた長谷部信連が以仁王崩御後、平家の追討を恐れ以仁王の皇子の豊津宮と乳母を連れ、宇多源氏の日隈五郎を頼りこの地へ来たとあります。乳母は八条院から来ていたので高橋荘だと思われました。豊田市/文化財アーカイブから調べると高橋荘にいたのは横山党に属す
女房三十六歌仙の一人。後白河天皇の第三皇女です。母親は高倉三位藤原成子。後白河天皇の典侍(副女官長)を務めてた人でした。ちなみに母親の叔母が後白河天皇の母親待賢門院璋子です。だからかもしれませんがおそらく父帝ご寵愛の深い妃の一人だったのかもしれませんね。同母兄弟姉妹に以仁王(高倉宮)、守覚法親王、亮子内親王(殷富門院)、休子内親王(伊勢斎宮)、好子内親王(伊勢斎宮)などがいます。式子内親王自身は賀茂斎院(巫女)を務めたのでした。10歳の時に斎院に卜定され、内親王宣下も受けました。
★第八十代高倉天皇は平安時代末期の天皇です。応保元年(1161年)生。御名は憲仁(のりひと)。御父は後白河天皇、御母は平滋子皇太后(建春門院)。在位、仁安三年(1168年)から治承四年(1180年)。建春門院は、平清盛妻時子の異母妹で後白河上皇の別格の寵愛を受けました。「言葉にできぬほど美しく若々しい」と称えられた美貌で入内することになり、終生愛されたといいます。また、後白河上皇が不在のおりには代わりに奏聞を受けるなど政治的発言力も持っていたといい、その血を受け継い
豊国廟で豊臣家の記憶に触れたあと、次に向かったのは「新日吉神宮」。ここから旅は一気に“王朝の世界”へと移っていきます。##■新日吉神宮―平安の気配が残る社新日吉神宮は、後白河法皇ゆかりの神社。境内には静けさが漂い、どこか平安の気配が残っています。ここでは御朱印もいただきました。柔らかな筆致の御朱印は、王朝の雅さを感じさせる一枚でした。##■旧東山隧道(花山洞)―時代を越える不思議なトンネル新日吉神宮から天皇陵へ向かう途中にあるのが、旧東山隧
本日は旧暦11月12日ですが、治承二年十一月十二日(1178年)、847年前の本日は高倉天皇の第一皇子、言仁(ときひと)親王が誕生された日です。時は平安末期、親王の母君は平徳子(建礼門院)で外祖父は平清盛でしたから、平家待望の皇子誕生です。徳子懐妊の際に行われた祈祷には、「変成男子の法」もあったといいます。また月が満ちるにつれ身体の苦しさを訴える徳子には、平氏に恨みを持つ生霊・死霊の物の怪が取り憑いているとされて鬼界ケ島の流人が許されました。この時僧俊寛を除く者だけだったという、その話が歌舞伎
1日に京都へ行きました。叔母さんの墓が東山に在り、随分行っていなかったからです。この墓の鍵は、私に託されたのです。その墓は、私に縁があるかのように、前の記事で書いた九十四露神社が在った場所と、豊臣秀吉の墓に挟まれています。京都に着き、一番に叔母さんの墓へお参りに行きました。その後、どうするか妻に聞くと、「三十三間堂」へ行きたいと言って来たので行く事にしました。妻との旅行では、私が行きたい所は、妻が怖がるから封印して、妻主導のスケジュールにしていますが、それが、私の不思議探求に見事には
寛弘五年九月十一日(1008年)、一条天皇の皇子だった敦成親王が誕生されました。本日は旧暦の9月11日ですから、1017年前の本日のことです。敦成親王の母である中宮彰子には紫式部が仕えており、その出産の様子が『紫式部日記』に残されています。※単純に旧暦にあてはめています。八月二十日過ぎから中宮の関係者はみな土御門殿(彰子の父、藤原道長の邸。彰子は出産に備えて七月十六日から退出中だった。)に宿直し、とりとめのない管絃遊びに夜を明かしていたとして「琴、笛などの演奏に未熟な若者達が、読経の声や
三十三間堂向かいの法住寺で今様合わせが行われましたうちの娘2人は舞人と諸役として参加しました後白河院ゆかりの法住寺寺域はもともと広大で南は八条通まで伸びていたと言いますいまある三十三間堂や今熊野神社は法住寺の塔頭の一つという認識だったらしく後白河院の権勢がうかがえます後白河院は今様(当時の流行歌)を編纂した『梁塵秘抄』をのこしていますこの法住寺は木曽義仲に攻められその時には後白河院をかばった天台座主明雲が亡くなっていますそんな中をよく三十三間堂は兵火を免れたもの
★第五十八代光孝(こうこう)天皇は平安時代の天皇です。御父仁明天皇の第三皇子、御母は藤原澤子(たくし)。先帝陽成天皇の祖父文徳天皇の弟。天長七年(830年)生。御名は時康。在位、元慶八年(884年)~仁和三年(887年)。第五十七代陽成天皇は乱行・奇行があり群臣を悩ましたため、何度も退位を迫られ、手続き的には十七歳で譲位の形をとって退位させられたといいます。そしてこの時、譲位されたのが時康親王でした(光孝天皇)。次の天皇を決めるため太政大臣であった藤原基経が何人もの親王を訪ねるとど
⚔️保元の乱(1156年)―武士の世のはじまり1.どうして起きたの?保元の乱は、皇室×藤原氏×武士の三つ巴の争いが重なって爆発しました。👑皇室の争い兄・崇徳上皇vs弟・後白河天皇背景には「崇徳は本当は鳥羽法皇の子じゃない」という噂もあり、父・鳥羽法皇から冷遇されていました。🎩藤原氏の争い兄・藤原忠通(関白)vs弟・藤原頼長(悪左府)国家の中心を担うポストをめぐる兄弟ゲンカが、大事件に。🗡️武士の関与崇徳・頼長サイド→源為義、平忠正後白河・
第七十八代二条天皇は平安時代末期の天皇です。御父後白河天皇の第一皇子、御母は藤原師実の三男で大炊御門家の祖、経実の娘・源懿子(よしこ/いし)。高倉天皇は異母弟です。康治二年(1143年)誕生。諱は守仁(もりひと)。在位は保元三年(1158年)から永万元年(1165年)。生母が守仁親王誕生直後急死したため、祖父の鳥羽法皇に引き取られ、美福門院(藤原得子)の養子となって育てられました。既に近衛天皇の時代であり、同じく美福門院の養子には崇徳上皇の第一皇子の重仁親王がいらっしゃったので、
鳥羽離宮の東の部分には安楽寿院があり、東殿御堂とも云われた建物が鳥羽上皇によって造られ、1139年には納骨所として三重塔が建てられた。当時この塔のことを本御塔といい、これが安楽寿院陵なのである。鳥羽上皇は皇后の美福門院・得子のために安楽寿院のなかにもうひとつの塔である新御塔を建てた。しかし思いもよらずに鳥羽上皇や美福門院よりも早くに息子の近衛天皇が17歳で崩御したために、近衛天皇は新御塔に葬られた。この陵は現在安楽寿院南陵といわれている。尚、近衛天皇の死が藤原頼長が愛宕山で天狗の目