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1日に京都へ行きました。叔母さんの墓が東山に在り、随分行っていなかったからです。この墓の鍵は、私に託されたのです。その墓は、私に縁があるかのように、前の記事で書いた九十四露神社が在った場所と、豊臣秀吉の墓に挟まれています。京都に着き、一番に叔母さんの墓へお参りに行きました。その後、どうするか妻に聞くと、「三十三間堂」へ行きたいと言って来たので行く事にしました。妻との旅行では、私が行きたい所は、妻が怖がるから封印して、妻主導のスケジュールにしていますが、それが、私の不思議探求に見事には
寛弘五年九月十一日(1008年)、一条天皇の皇子だった敦成親王が誕生されました。本日は旧暦の9月11日ですから、1017年前の本日のことです。敦成親王の母である中宮彰子には紫式部が仕えており、その出産の様子が『紫式部日記』に残されています。※単純に旧暦にあてはめています。八月二十日過ぎから中宮の関係者はみな土御門殿(彰子の父、藤原道長の邸。彰子は出産に備えて七月十六日から退出中だった。)に宿直し、とりとめのない管絃遊びに夜を明かしていたとして「琴、笛などの演奏に未熟な若者達が、読経の声や
三十三間堂向かいの法住寺で今様合わせが行われましたうちの娘2人は舞人と諸役として参加しました後白河院ゆかりの法住寺寺域はもともと広大で南は八条通まで伸びていたと言いますいまある三十三間堂や今熊野神社は法住寺の塔頭の一つという認識だったらしく後白河院の権勢がうかがえます後白河院は今様(当時の流行歌)を編纂した『梁塵秘抄』をのこしていますこの法住寺は木曽義仲に攻められその時には後白河院をかばった天台座主明雲が亡くなっていますそんな中をよく三十三間堂は兵火を免れたもの
★第五十八代光孝(こうこう)天皇は平安時代の天皇です。御父仁明天皇の第三皇子、御母は藤原澤子(たくし)。先帝陽成天皇の祖父文徳天皇の弟。天長七年(830年)生。御名は時康。在位、元慶八年(884年)~仁和三年(887年)。第五十七代陽成天皇は乱行・奇行があり群臣を悩ましたため、何度も退位を迫られ、手続き的には十七歳で譲位の形をとって退位させられたといいます。そしてこの時、譲位されたのが時康親王でした(光孝天皇)。次の天皇を決めるため太政大臣であった藤原基経が何人もの親王を訪ねるとど
⚔️保元の乱(1156年)―武士の世のはじまり1.どうして起きたの?保元の乱は、皇室×藤原氏×武士の三つ巴の争いが重なって爆発しました。👑皇室の争い兄・崇徳上皇vs弟・後白河天皇背景には「崇徳は本当は鳥羽法皇の子じゃない」という噂もあり、父・鳥羽法皇から冷遇されていました。🎩藤原氏の争い兄・藤原忠通(関白)vs弟・藤原頼長(悪左府)国家の中心を担うポストをめぐる兄弟ゲンカが、大事件に。🗡️武士の関与崇徳・頼長サイド→源為義、平忠正後白河・
第七十八代二条天皇は平安時代末期の天皇です。御父後白河天皇の第一皇子、御母は藤原師実の三男で大炊御門家の祖、経実の娘・源懿子(よしこ/いし)。高倉天皇は異母弟です。康治二年(1143年)誕生。諱は守仁(もりひと)。在位は保元三年(1158年)から永万元年(1165年)。生母が守仁親王誕生直後急死したため、祖父の鳥羽法皇に引き取られ、美福門院(藤原得子)の養子となって育てられました。既に近衛天皇の時代であり、同じく美福門院の養子には崇徳上皇の第一皇子の重仁親王がいらっしゃったので、
第七十九代六条天皇は平安時代末期の天皇です。御父は二条天皇、御母は伊岐致遠の娘、祖父は後白河院。長寛二年(1164年)誕生。諱、順仁(のぶひと)。在位、永万元年(1165年)から仁安三年(1168年)。五代に渡って院政を敷き、日本一の天狗と言われた後白河院が権勢を誇っている時代にその孫として生まれましたが、父と祖父は対立していました。二条天皇は、親政を行おうとして後白河上皇と対立し、また異母弟である憲仁親王(後の高倉天皇)の擁立を画策したと、憲仁親王の叔父である平時忠を流罪にし、平教
第七十六代近衛天皇は平安時代末期の天皇です。御父は鳥羽天皇、御母は藤原得子(美福門院)、異母兄に崇徳天皇と後白河天皇がいます。保延五年(1139年)誕生。諱は体仁(なりひと)。在位は永治元年(1141年から)から久寿二年(1155年)。大治四年(1129年)治天の君として君臨した白河院が亡くなると、孫の鳥羽院が政治の中心となりました。そして永治元年(1141年)鳥羽院は寵愛している美福門院との子である体仁親王への譲位を、待賢門院璋子との子である崇徳天皇へ強要します。この時、体仁親王はま
第七四代鳥羽天皇は、平安時代後期の天皇です。安楽寿院に伝わるという鳥羽法皇像御父は堀河天皇、御母は藤原苡子。また祖父は、父の堀河天皇時代から次の崇徳天皇まで三代の長い院政を敷かれた白河天皇です。崇徳天皇は第一皇子、後白河天皇は第四皇子、近衛天皇は第九皇子です。康和五年(1103年)生。御名は宗仁。嘉承二年(1107年)~保安四年(1123年)。鳥羽天皇の時代には源氏物語絵巻が作成され、現存する絵巻の最古のものとなっています。源義親の乱の追討や当時多かった武装した僧兵の乱暴狼藉を鎮圧
七月二十三日です。水曜日。今日は二つ。・近衛天皇。・増山城。【近衛天皇。】久寿二年(一一五五)の今日、近衛天皇が崩御されました。第七十六代目の天皇ですね。保延五年(一一三九)五月十八日に鳥羽上皇の第九皇子として誕生。同年七月には親王となり、翌月には皇太弟となっています。永治元年(一一四一)、崇徳天皇の譲位を受けて即位しました。久寿二年(一一五五)七月二十三日に崩御。享年、十七。若い死です。この後に即位したのが、後白河天皇です。保元の乱や平治の乱がすぐ目の前に差し迫ってますね
本日発売の週刊大衆。歴史偉人「裏素顔」は、平安時代末期の天皇後白河天皇の特集です。原作/跡部蛮イラスト/萩山明日香次回掲載は7月25日です。歴史偉人「裏素顔」をよろしくお願い致します。
おはようございます。昨日は西日本は猛烈な暑さとなりました。東北や首都圏では線状降水帯が発生して、あちこちで豪雨となり、東北新幹線も運転見合わせが行われました。今日も西日本では猛暑が続きますが、東京では、予想祭気温が急降下する予報が出ています。体調管理をしっかりしていきましょう。出典日本気象協会*************************************************************************************************
当寺は、役小角(634〜701年)の開創と伝わり、本尊不動明王(伝運慶作)鎮守五所権現を安置する。文亀元年(1501年)真言宗大本山紀州根来寺より覚遍上人この地に留まり、真言宗新義の教風を宣し復興されたものである。又、大永元年(1521年)卍字定紋の袈裟を残し上人は後生不滅に至る。尚その印として醍醐寺定紋となる。一山内に四十九坊を有した、由緒ある真言宗の寺院で、現在塔中玉泉寺が西隣にあり、又近世迄岩本寺が南隣にあって現在収蔵庫として残っている。元醍醐寺本堂は、現本堂の約二百米北の本堂山中腹に
本日は旧暦5月28日ですが、元永二年(1119年)五月二十八日は、鳥羽天皇の第一皇子、顕仁(あきひと)親王が誕生された日でもあります。6年前は生誕900年の年でした。※単純に旧暦にあてはめています。後に悲劇の天皇とも呼ばれることになる顕仁親王の母である藤原璋子(待賢門院)は白河院(法王)ご寵愛の養女として白河院の孫である鳥羽天皇の中宮に入られましたが、顕仁親王は出生の頃より鳥羽天皇自身が「叔父子」と呼んでおり、つまり白河院の子と公然と囁かれていたと伝わります。ただし、この噂は後に鳥羽上皇が寵
まだまだある、過去記事のまとめ。今回は、暑い夏にいった思い出の会津!2019か2018年か・・・もう思いだせません。会津へいくと、いつも山が奥深いな~と感心します。下野街道を発見。ちょっと拝見。会津から江戸に通じているこの道を、人々が歩いてきたのですね。当時の夏はこんなに気温が高くなかったので、森の中は涼しかったと思います。ところで、会津は人が入っていない手つかずの森の面積は、白神山地よりも広いのです。まだまだ未知な森が、広大にあることを
語り部アロマが紡ぐ「やまと語り十三」聞いていかれませんか。第77代後白河‐ごしらかわ‐天皇の御代に、保元の乱が起こると源氏は武運拙く為義・為朝を失って、忠盛の子平清盛の率いる平家が、源氏を凌ぐ勢となりました。さらに第78代二条‐にじょう‐天皇の御代に起こった平治の乱で、源氏は平家の為に一族の要であった源義朝を失い、ちりぢりになってしまいました。こうして平家はその全盛期を迎えたのです。平清盛は朝廷に重く用いられて第79代六条‐ろくじょう‐天皇の御代には、太政大臣に進み、平家一族
25.05/10sat.07:30-17:10(西梅田-たかのこのホテル)岩屋寺45番の駐車場から下って国道手前を左折44番菅生山大寳寺駐車場から坂道折り返しに、地蔵堂蛇・蛙・ナメクジの三すくみ石像を基礎に大寳寺仁王門最大級のわらじ右に折れての坂道に、不動明王像左に折れての坂道から石段を本堂本尊十一面観世音菩薩に納経右となりに、大師堂南無大師遍照金剛…大師堂の右となりに興教大師(覚鑁)高野山を降りて根来寺開山、新義真言宗紀州征伐で長谷寺、智積
第七十七代後白河天皇は平安時代末期の天皇です。昨日は安徳天皇の祭日でしたが、安徳天皇は後白河天皇の皇孫となります。大治二年(1127年)生。御名は雅仁(まさひと)。御父は鳥羽天皇、御母は藤原璋子。御在位、久寿二年(1155年)から保元三年(1158年)。雅仁親王は鳥羽天皇の第四皇子です。第一皇子の同母兄の崇徳天皇が譲位したのは、鳥羽法皇の寵愛する皇后美福門院から生まれた異母弟の近衛天皇でしたので、皇位を継ぐとは誰からも思われていませんでした。しかも、父や兄からは、「
御本尊:阿弥陀如来2023年9月30日に参拝しました。大善寺は、京都市伏見区に位置する浄土宗の寺院で、京都の伝統行事である「六地蔵巡り」の第一番札所として知られています。平安時代に小野篁(おののたかむら)が一本の桜の木から六体の地蔵菩薩を刻んだという伝説があり、その一体が大善寺に祀られています(重要文化財)。境内には御本尊である阿弥陀如来をお祀りする本堂があり、静かで落ち着いた雰囲気の中で参拝することができます。お留守でしたので、御朱印は頂けませんでした。またあらためて参拝に伺います。
4月26日が命日・忌日の有名人・著名人1192年(建久3年3月13日)66歳崩御(?)後白河天皇陛下第77代天皇1489年(延徳元年3月26日)25歳没(脳溢血?)足利義尚さん室町幕府9代将軍1865年26歳没(銃創)ジョン・ウィルクス・ブースさん俳優、リンカーンの暗殺者リンカーン大統領暗殺事件1951年82歳没(交通事故)アーノルト・ゾンマーフェルトさん物理学者原子物理学の開拓的研究⇒『アルノルト・ゾンマーフェルト(1868年12月5日生~1951
「武者の世の始まり」とされる、保元の乱は、日本の権力闘争の構造を根本的に変えた。藤原忠実、頼長と藤原忠通の政治的暗闘は、27年間続いたが、保元の乱の武力衝突により、一夜にして、決着したてしまったのである。更に、藤原信西は、薬子の変以来、平安時代を通じて、死刑を復活させ、源為義、平忠平等の武士を処刑した。平安時代の日本は、朝廷の公卿達が、政治を司り、権力の座を巡り、数々の陰謀を企て、政敵を陥れたが、武力を使うことはなかった。藤原北家を筆頭とする、公卿の政治抗争は、陰湿ではあったが
上皇と天皇、摂関家、源氏、平氏の各家の骨肉の争いは、崇徳上皇派が、藤原頼長及び、源為義、伊勢平氏の平忠正であった。後白河天皇派は、藤原忠通、源為義の長男、源義朝、伊勢平氏の嫡流で、平忠正の甥の平清盛であった。藤原頼長は、挙兵の正当性を得るため、崇徳上皇を擁立し、白河北殿に立て籠ったのである。1156年(保元元年)7月11日未明、平清盛の率いる、300余騎が二条大路を、源義朝の率いる、200余騎が大炊御門大路を、足利義康の率いる100余騎が近衛大路を東に向かい、午前4時頃、崇徳上皇派
こんにちは。星煌学院有松校の花谷です。今日、4月9日は大仏の日です♪752年のこの日、東大寺の大仏開眼供養が行われたことから制定されました。正式名称は廬舎那仏(るしゃなぶつ)像の高さは14.98mあり、4~5階建てのビルぐらいの高さ。(ちなみに鎌倉大仏が11.39m、知る人ぞ知る聚楽園大仏(鉄筋コンクリート)はなんと18.79m!)重さは台座が130tで本体が250t。400kg以上の金が使われ、交流
藤原忠通は、既に、36歳になっていたが、男子が、生まれない事を危惧した、忠実は、忠通に、23歳年下で、13歳の異母弟、頼長を養子にするように勧め、1125年(天治二年)、藤原頼長は、兄の藤原忠通の養子となった。しかし、1143年(康治二年)、藤原忠通に実子の藤原基実が、生まれると、忠通は、摂関の地位を自身の子孫に継承させることを望んだ。そのため、藤原忠通は、異母弟の藤原頼長との養子縁組を破棄する。1150年(久安六年)正月に藤原頼長が、藤原公能の娘、多子を養女に迎え、近衛天皇に入内
第八十二代後鳥羽天皇は鎌倉時代が始まった時の天皇です。治承四年(1180年)生。御名は尊成(たかひら)。御父は高倉天皇、御母は藤原殖子。また御祖父は後白河院です。そして二歳違いの異母兄は安徳天皇です。在位、寿永二年(1183年)から建久九年(1198年)。高倉天皇の第四皇子尊成親王は、福原遷都や源頼朝挙兵の年に誕生しました。その当時既に譲位され上皇となられていた父帝は、そのわずか半年後に崩御されています。その二年後、平家が安徳天皇を伴い都落ちしたため京は天皇不
「暴れん坊を頼れ」の目次はこちら⬇️『暴れん坊を頼れ・目次』歴史連載物語『暴れん坊を頼れ』各話をクリックすると、そのページが開くよ雪降る鎌倉より第1話荒れる源氏第2話為義腐る第3話夜空の遊女第4話八郎誕生第5話…ameblo.jp私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。保元の乱で為朝は流罪になりましたが、その後、京はどうなったのでしょう?保元の乱で勝者となった後白河天皇(ごしらかわてんのう)派は政を行います。後に譲位、出家し後白河法皇となりますその政の中心に
前回からの続き(令和6年11月10日のこと)です駐車場へ戻る途中に天皇陵があるようだったので寄ってみることにしました上立売通りを東へ向かい、佐井通りで下り(南下し)ますすると、道路沿いに生垣がただGoogleマップのデフォルトじゃどこが正面か分からない🤣沿っていきます佐井西通りを歩いていると、ここか?柵がある!横でしたで次の通り(名前は不明)を左折して行くと、左手に参道がありました二條天皇香隆寺陵住所・京都市北区平野八丁柳町陵形円丘御陵印(御陵印は陵墓監区事務所で
僕が愛してやまない武将が、木曾義仲(源義仲)1154年〜1184年ですが、頼朝が鎌倉幕府を開く以前に、京都の後白河法王から、征夷大将軍に任ぜられています。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』は、頼朝寄りの記述で書かれており、義仲の評価が低いのはそのせいです。皮肉にも義仲を一番評価したのが、平家でした。尊敬を込めて、義仲を朝日将軍と呼んでいます。さらに歴史書としては、『玉葉』という後白河法皇の側近が書いたもので、義仲像を一番正しく記述しているようです。上は義仲とその妻巴御前像です。右は埴生(はにゅう
昨日は旧暦1月16日でしたが、康和五年一月十六日(1103年2月24日)は、堀河天皇の第一皇子宗仁(むねひと)親王が誕生された日です。※明治に新暦になる前の出来事は、旧暦のほうが日本を理解しやすいと思いますので旧暦を参照しています。ただし当時の西暦がわかるものについては併記するようにもしています。なお、改暦は何度もされていますので単純に旧暦にあてはめています。堀河天皇はその父君白河上皇が後に長く院政を敷かれたこともあり、後の世では白河上皇の影に隠れてしまっていますが、当時人望厚く「末代の賢王
★第八十代高倉天皇は平安時代末期の天皇です。応保元年(1161年)生。御名は憲仁(のりひと)。御父は後白河天皇、御母は平滋子皇太后(建春門院)。在位、仁安三年(1168年)から治承四年(1180年)。建春門院は、平清盛妻時子の異母妹で後白河上皇の別格の寵愛を受けました。「言葉にできぬほど美しく若々しい」と称えられた美貌で入内することになり、終生愛されたといいます。また、後白河上皇が不在のおりには代わりに奏聞を受けるなど政治的発言力も持っていたといい、その血を受け継い