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滝沢修(たきざわ・おさむ)本名滝沢脩別名義瀧澤修明治三十九年(1906年)十一月十三日生まれ。平成十二年(2000年)六月二十二日死去。九十三歳。滝沢修氏は演技に熱き情熱を燃やされた大名優です。昭和戦前は新劇の活動で当局に睨まれ、治安維持法によって逮捕・投獄されました。反骨の精神で平和の大切さを教えて下さった、演技者です。『綴方教室』『藤十郎の恋』の重厚な演技は圧巻です。戦後森雅之氏・宇野重吉氏らと劇団民藝を旗揚げされます。『王将』の関根金次郎役は坂田
数字を感じていますか?いつもありがとうございます上松皆江です6月の過ごし方はこちら先日は、数字道の平日コースを開催しておりました数字道では、感じたことをアウトプット自分で言えるという練習も含まれています今今今を生きるってことは今何思ってる!??って、聞かれたら即答できるはずそんなアウトプット自分の頭の中に浮かんだ事を言う中で三十三間堂と言う言葉が出てきましたそしたらその晩のNHKの番組「三十三間堂国宝大移
美しいピカピカな魂のみなさんへ♡今日は朝方から京都へ行くのですが、なぜか眠れず。。。たまたま録画されていた歴史的ヒストリアの三十三間堂の特集を見ていてまたメモしたので📝記録してみます♡笑激動の時代に建てられた祈りの空間・三十三間堂にある国宝が今回本来の位置に大移動されたそうです。そのきっかけになったのは、千手観音像の中に入っていた仏像の版画だったようで、千手観音の指示により動く風神雷神の位置も変わったそう後白河天皇三十三間堂を造られた後白河天皇は、1192年66歳で生涯を閉じる最後
昨日、三千院にご案内いたしました。とても珍しい場面に出くわしました『御懺法講(おせんぼうこう)』という法要です。約860年前に後白河天皇が宮中御懺法講として行われたのが始まりです。懺法とは、諸悪の行いを懺悔して、「むさぼり・怒り・愚痴」の三毒を取り除き、心を鎮め清らかにするという儀式だそうです三千院の門主様の後ろ姿を拝見いたしました。この法要は声明懺法といい、声明と雅楽が合わさり美しく奏でられます。古儀にのっとり宮中法会を再現されます。三千院では、最も重要な法要だ
こんにちは。お久しぶりでございます。愚痴聴きセラピストの真月です。インターネットが繋がらなくなって早一週間が過ぎ去りましたが全く進展がなく今日はWi-Fiのある喫茶店で書いています。パソコン💻では無いのでやりにくさはどうしようもありません。このところ真夏のような日が続き幸いにも私はエアコンの中で仕事をしていました。私はちょっと個性的なので暑い→真夏→怪談→祟り→菅原道真→崇徳天皇などという訳わからない連想が頭の中で駆け巡り平成から令和になって天皇も変わったので悲
ありがとうございます石浜地域の寺院縁起並びに石浜神社・石浜城についてその11そして「更に言えば鎌倉時代の建久三年(1192年)三月十六日後白河天皇が六条殿で亡くなり京都から鎌倉にその知らせが届くと幕府では後白河天皇の御仏事が行われました。この点については前科の浅草の歴史で見てきました。特に「吾妻鏡」に記されているように後白河天皇の四十九日の法要に際して鎌倉幕府は百僧供という法事を行うために当時の鎌倉をはじめ金国の武蔵・相模・伊豆の主たる寺社に招請する書状が発せられました。
これが今回旅行のメインイベント熊野川舟下りきっと後白河天皇もこの船で34回?熊野詣でした!午後から雨も上がりました
ありがとうございます石浜地域の寺院縁起並びに石浜神社・石浜城についてその10ところが、保元寺の場合、前記した通り「法源寺浄土宗芝増上寺末帰命山無量寿院と号す。開山大僧都智海法印大同元年(806年)三月十四日寂せり砂尾石浜道場開基と石火にあり、三世権大僧都恵海法印斉衡元年(854年)四月十五日寂す石碑当寺にあり云々」と記され下の石碑(現在は残されていません)がありました。しかしこの石碑を読んでも知られるように「由緒宝亀元年(770年)春貮間四面大日堂延暦三年(784年)秋
第七十七代後白河天皇は平安時代末期の天皇です。一一二七年生。御名は雅仁(まさひと)。御父は鳥羽天皇、御母は藤原璋子。在位一一五五年から一一五八年。雅仁親王は鳥羽天皇の第四皇子です。第一皇子の同母兄の崇徳上皇が譲位し、鳥羽法皇の寵愛する皇后美福門院から生まれた弟の近衛天皇が即位しましたので、皇位を継ぐとは誰からも思われていませんでした。しかも、父や兄からは、「即位の器量にあらず」「文にも武にもあらず、能もなく芸もなし」と言われていたのです。ところが近衛天皇は身体が弱く、十七歳の若さで皇
今日は第79番天皇寺と隣合せ崇徳上皇ゆかりの神社を訪ねます奈良の大神神社で代表される全国で三ヶ所しかない三輪鳥居の正面に拝殿が映ってるよ神社名;白峰宮(しらみねぐう)所在地;香川県坂出市西庄町1719【主祭神】崇徳天皇崇徳上皇は百人一首にも選ばれるほどの和歌の才能を持ちながら「鳴けば聞く聞けば都の恋しきにこの里過ぎよ山ほととぎす」平安時代末期の保元元年(1156年)後白河天皇方と権力の座を賭けた政争「保元の乱」に敗れ讃岐国(香川県)に流され
こんにちはスピリチュアルメッセンジャーの江利です花冷えが少し和らぎましたね福島県の旅の続きです会津若松のホテルで一泊して〜次の日は大内宿に行きました大内宿は、古い街道にあるかつての宿場町です宜しくお付き合いくださいねー【大内宿】福島県会津郡下郷大内山本大内宿パンフレット人気の観光地らしく、ピークの季節では渋滞も起こるほどだそうです。会津の方からは【大内宿こぶしライン・県道131号下郷会津本郷線】を使うと良いそうですそして大内宿には、宿場を守護する神社が有ります。大内宿全体
頭痛持ちの私…ありとあらゆる治療法に挑戦しています。先日は頭痛封じのお寺である三十三間堂(京都)に行ってみました。このお寺は、「頭痛持ちだった後白河上皇」が建てたそうです。実は、上の写真の千手観音像の中に…ドクロ💀が納められているそうです何でそうなったのかは、下の漫画で…ちょっと怖かったけど、「頭痛から解放されますように」と祈願しました。お守りも買ったし…ふむ…どうかなぁ…いや、ドクロ💀から、パワーを授かった気がする頭痛持ちの方で、京都に遊びに行く機会があれば、三十三間堂
<第77代後白河天皇>日本一の大天狗。長きにわたる院政〔二条天皇・六条天皇・高倉天皇〕。1156年保元の乱(源為朝伊豆大島・配流→琉球王説)。
<第74代鳥羽天皇>(皇子)第75代崇徳天皇。(皇子)第77代後白河天皇。(皇子)第76代近衛天皇。1118年最勝寺。「今昔物語集」「大鏡」鳥羽僧正覚猷「鳥獣戯画」
本日は旧暦では1月16日となりますが、康和5年1月16日(1103年2月24日)、堀河天皇の第一皇子宗仁(むねひと)親王が誕生されました。堀河天皇はその父君白河上皇が後に長く院政を敷かれたこともあり、後の世では白河上皇の影に隠れてしまっていますが、当時人望厚く「末代の賢王」といわれていたといいます。白河天皇には寵愛が深かった中宮賢子がおり、その中宮賢子が28歳で急死した時には悲嘆にくれその屍をいつまでも抱いていたと伝わります。その中宮賢子との皇子が後の堀河天皇であり、白河天皇
「遊びをせんとや生れけむ戯れせんとや生れけむ遊ぶ子供の声きけば我が身さえこそゆるがるれ」は、後白河法皇の歌謡集『梁塵秘抄』に載せられた歌です。その意味の解釈は多々あるようですが、一般的には、「遊ぶために生まれて来たのだろうか。戯れるために生まれて来たのだろうか。遊んでいる子どもの声を聞いていると、私の身体さえも動いてしまう」ということのようです。※「今様」とは、平安時代に流行した歌謡曲のこと。後白河法皇は、鳥羽天皇の第四皇子として誕生。母は待賢門院藤原璋子。諱は雅仁。青年
第76代天皇近衛(このえ)天皇在位期間1142年1月(旧暦12月)~1155年なお、「㉜」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系32代遡る」という意味です。体仁(なりひと。旧字体で躰仁)親王。鳥羽天皇㉜の第9皇子。母は寵妃・得子(なりこ。美福門院[びふくもんいん])。崇徳天皇&後白河天皇㉛の異母弟。1139年生まれ。鳥羽法皇の力で2歳(旧暦での数え3歳)で即位。皇子女に恵まれず在位のまま16歳(数え17歳)で崩御。◆1154年イングランドでヘンリー2世が即位しプランタジネット朝が
こんばんは京都より御所前にある護王神社はイノシシが祀られています干支で縁起がいいのと別名、足腰神社と言われてますので「足腰強くなあれ」の願いを込めてお参りをしてきましたそして初詣のはしごは続きます今回は何となく新熊野神社へ⛩到着すると小正月に行われる左義長神事という大祭が始まるとのことでなんてタイムリーなんでしようこれが平安時代から続く素晴らしい儀式でして無病息災開運と何となく直感で導かれて行ったものの今日一番のミラクルになりました山伏の
年明け早々から住吉大社というワードが訴えかけてきていた住吉大社住吉大社と、うるさかった講座で須磨明石澪標の巻を読んでいるからそのせいかと思って無視してたらなんとその昔後白河の勅により勧進された大阪の住吉がその後俊成により屋敷の中に祀られその後いまの場所に移転したというちいさなちいさな住吉社が行動範囲にあることまでわかり行けってことなの。。。?と???射手座木星期の今年は混乱動乱浄化の年になる今年も世界的に大変な年になることはすでに感じている住吉
崇徳院の記事続きまする〜父である鳥羽上皇に騙された形で政治の世界から追放されてしまった崇徳上皇。1155年に近衛天皇が眼病により17歳の若さで崩御したことにより、再びチャンスが到来します。崇徳上皇の第一皇子である重仁親王に天皇即位の可能性が巡ってきたからです。しかし。。。鳥羽上皇と藤原得子の策略により、崇徳上皇の同母弟である雅仁親王が後白河天皇として即位します。後白河天皇は藤原璋子の子なので、藤原得子にとっては微妙なところですが…藤原得子は後白河天皇の息子(後の二条天皇)を養子として
今日は午前中宅配便待ちで出かけられないのでブログを読んだり母の電話帳でまだ連絡していなかったお知り合いに連絡してみたり思わずコメントさせていただいた✨おもしろきこともなき世をおもしろくそうだったよね人生は〜🎶(浪花節!?)そうしたらタイムリーにこれが届く!歴オタですが、古典文学にはさほど興味が向かずしかしふと読んでみようかなと思い立って注文していたのです。「梁塵秘抄」後白河天皇は平安時代末期の第77代天皇。1127年〜1192年(在位:1155年8月23日(久寿2
おはようございます。三連休最終日です。この三連休はお天気にも恵まれ、紅葉も見頃で、京都の街はものすごい混雑していたようです。三連休最終日、どのようにお過ごしになられますか?さて、今日は1181年高倉天皇の中宮・平徳子が院号宣下され建礼門院になった日です。建礼門院といって、なにを連想されるでしょうか?【建礼門院とは】建礼門院像安楽寺蔵平徳子(たいらのとくし/とくこ/のりこ)久寿2年(1155年)-建保元年12月13日(1214年1月25日))は、高倉天皇の皇后(号は中宮
崇徳・後白河天皇の母が「待賢門院得子」。保元の乱のキーパーソンです。鳥羽天皇の祖父・白河天皇のお気に入りがったのが、孫に「譲られ」て、そのあと崇徳天皇を生みます。そのため、崇徳は鳥羽の実子ではない、と疑い「叔父子」と呼んで忌避した。それが保元の乱の遠因。って、いい夫婦の日にする話じゃないな。というわけで、大河「平清盛」では、待賢門院が壇れい、鳥羽上皇が三上博史でした。ところで、ドラマでは、鳥羽上皇がまだ生きているのに、「待賢門院」って呼ばれてたけど。これは、正しいのか?それともドラマ
独特の精神世界を刺激的に展開する女流作家・田口ランディさんの短編小説『縁切り神社』。この物語は、京都を旅するひとりの女性が偶然、ある神社に迷い込むところから始まります。このある神社というのが、京都で最強の縁切り神社と言われている「安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)」です。京都東山、建仁寺の東に位置する安井金比羅宮。その歴史は古く、日本初のクーデターといわれる「大化の改新」を起こした中心人物とされる藤原鎌足(ふじわらのかまたり)がこの地に藤を植え、藤原家の隆盛と子孫繁栄を願って「藤寺(ふじ
はい。こんにちは。今回は保元の乱・平治の乱を講義します。保元の乱は簡単に言えば天皇家内の内紛から起きた戦いのことです。鳥羽法皇は近衛天皇が病のため崩御(天皇や上皇、法皇が亡くなること)した後、崇徳上皇の子ども重仁親王を皇位つけないで、雅仁親王を天皇にしました。雅仁親王は後白河天皇と名乗りました。鳥羽法皇は崇徳上皇を嫌っていたのです。まもなく鳥羽法皇は崩御しました。すると、重仁親王を天皇にして自ら院政(天皇に代わって行政すること)をしようと、崇徳上皇が反乱を
平岡八幡宮の花の天井絵公開があり伺いました今回2回目の参拝です前回は椿の花を今回は花の天井絵です平岡八幡宮は梅ヶ畑八幡宮とも呼ばれ、応神天皇が御祭神大同4年(809)に神護寺の鎮守として弘法大師が自ら描いた僧形八幡神像を御神体として創建された山城国最古の八幡宮らしい。本殿は室町時代に焼失しましたが、足利義満により再建され、現建物は文政9年に修復されました。本殿天井には極彩色の花卉図が44面描
寛弘5年9月11日、1008年10月12日、つまり1010年前の本日は、一条天皇の皇子だった後一条天皇が誕生された日です。後一条天皇の母である中宮彰子には紫式部が仕えており、その出産の様子が「紫式部日記」に残されています。8月20日過ぎから中宮の関係者はみな土御門殿(彰子の父、藤原道長の邸。彰子は出産に備えて7月16日から退出中だった。)に宿直し、とりとめのない管絃遊びに夜を明かしていたとして「琴、笛などの演奏に未熟な若者達が、読経の声や節回しの良さを競うのや今様を競うのも面白かった」と書
職場の友人が今年は三十三間堂をお参りすると良い…と教えてくれたのでお参りです良いと言われると何でもやりたい❗️笑娘がこの10月に新しい職場に変わるとの事で受け入れていただけるようお参りです幾つになっても心配してる…笑笑1164年(長寛2)後白河上皇が発願し、平清盛が寄進して創建。清盛ゆかりのお寺です三十三間堂と言えばなんと言っても御堂に並ぶ1001体の千手観音像圧巻と言うか…言葉が出ない
『平家物語を読む』シリーズ、第2回です。読んでいる最中の岩波文庫の平家物語の本には、ダイソーさんで昔買った、このカバーをつけてます。***前回の第1回の記事はこちらになります↓***『平家物語』の本文に入る前に、軽く舞台となった時代の歴史を確認しています。お勉強に使うのは、これです。高校生用の日本史の参考書です。山川出版社の『詳説日本史研究』です。ちょっと調べ物をするのに便利な本ですよ。高校生だけでなく、大人の読書家にも役に立つ本だと思います。西暦850年から1300年く