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後白河天皇後白河天皇(ごしらかわてんのう・1127年9月11日~1192年3月13日)<第77代天皇>武士が台頭しつつあった平安末期に皇位にあった天皇です。源平の対立が深まる中、知略を尽くして皇権の存続をめざしました。源頼朝が征夷大将軍となり、武士が政治の実権を正式に握るのはその死後のことです。~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~≪Shikako(しかこ
平家文化と音楽ー栄華を彩る雅楽の魅力ー『安元御賀日記』(あんげんおんがのにっき)は、平安時代の歌人、藤原隆房による後白河法皇50歳の祝賀の儀の様子を記した日記。安元御賀記とも。この祝賀は、安元2年(1176年)3月に法住寺において行われた。(Wikipedia)
リハビリが早い時間に終わったので、東京都美術館へ🖼その前に腹ごしらえ🍴こちらもブロ友さんと同じ上野さくらテラス🌸ですが、お店は1階のLACOCORICOさん🐓お店の真ん中がオープンキッチンになっています。女子指数高めかな💁♀️肌寒い日で、両隣のお客さまがグラタンを頼んでいて惹かれたけど、お店のおすすめをオーダー🍴前菜の盛り合わせ、ロティサリーチキン4分の1カット、本日のパウンドケーキとコーヒー☕️どれも美味しくてコスパ満点💯お料理を運んで下さるお店の方がとても感じ良く🙆♀️また来ま
第七十九代六条天皇は平安時代末期の天皇です。御父は二条天皇、御母は伊岐致遠の娘、祖父は後白河院。長寛二年(1164年)誕生。諱、順仁(のぶひと)。在位、永万元年(1165年)から仁安三年(1168年)。五代に渡って院政を敷き、日本一の天狗と言われた後白河院が権勢を誇っている時代にその孫として生まれましたが、父と祖父は対立していました。二条天皇は、親政を行おうとして後白河天皇と対立し、また異母弟である憲仁親王(後の高倉天皇)の擁立を画策したと、憲仁親王の叔父である平時忠を流罪にし、平教
《新古今和歌集・巻第四・秋歌上》387題知らず従三位頼政今宵(こよひ)たれすず吹く風を身にしめて吉野の嶽(たけ)の月を見るらん☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆題知らず従三位頼政今夜は誰が、篠(しの)を吹く風を身にしみじみと感じて、吉野の岳の月を見ているのであろうか。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
落語はよく聞く、、主に江戸落語江戸っ子の気風の良い啖呵、、大好き!上方落語は、、米朝さんくらいしか聴かない関西人の、癖に、何か?関西弁の噺には、馴染めへんねん、、あの、もっちゃり、まったり感がね!笑笑とは言え、昨日、余り縁が無かった3代目の桂春蝶さんの、、コラム、、蝶々発し、、を目にして俄然、この青年の噺、、新作落語をじっくりと聴くべしやな!って【さらに!Yahoo!検索search.yahoo.co.jp彼の
《新古今和歌集・巻第四・秋歌上》376守覚法親王、五十首歌よませ侍りけるに藤原家隆朝臣有明(ありあけ)の月待つ宿(やど)の袖の上(うへ)に人だのめなる宵(よひ)の稲妻(いなづま)☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆守覚法親王が五十首の歌を詠ませました時に藤原家隆朝臣有明の月を待っている宿のわたしの袖の上に、光を投げかけて、月の光かとそら頼みさせる宵の稲妻よ。☆☆☆☆
これは京都の観光名所として有名な三十三間堂に伝わるお話です。三十三間堂は蓮華王院の本堂として、1164年に平清盛の寄進により、後白河上皇の法住寺殿内に離宮として建てられました。その後鎌倉時代に一度焼失してしまいましたが、十七年後に再建されました。三十三間堂の正式には「蓮華王院」と呼ばれ、なぜ三十三間堂と呼ばれるのかと言いますと、南北に120mに渡る本堂の内陣に「三十三の柱間」があることから三十三間堂と呼ばれるようになりました。また、三十三の数字にも理由があり、これは観音様が「三十三の姿に
第七四代鳥羽天皇は、平安時代後期の天皇です。安楽寿院に伝わるという鳥羽法皇像御父は堀河天皇、御母は藤原苡子。また祖父は、父の堀河天皇時代から次の崇徳天皇まで三代の長い院政を敷かれた白河天皇です。崇徳天皇は第一皇子、後白河天皇は第四皇子、近衛天皇は第九皇子です。康和五年(1103年)生。御名は宗仁。嘉承二年(1107年)~保安四年(1123年)。鳥羽天皇の時代には源氏物語絵巻が作成され、現存する絵巻の最古のものとなっています。源義親の乱の追討や当時多かった武装した僧兵の乱暴狼藉を鎮圧
2019/03/03に公開<第77代後白河天皇>日本一の大天狗長きにわたる院政〔二条天皇・六条天皇・高倉天皇〕1156年保元の乱(源為朝伊豆大島・配流→琉球王説)
保元の乱開票結果を見ていかがでしょうか「自分で考え」「自己責任」で「変化」をしなければならなくなりました心の「余裕」をもちましょう!「保元の乱」保元元年(1156)「崇徳上皇」(75代)と弟の「後白河天皇」(77代)の戦いです崇徳上皇は「鳥羽天皇」(74代)の子ではなく祖父である白河天皇(72代)の子ですこのため「父」の天皇に嫌われ生まれたときから不幸でしたしかし弟とは仲良くしたかったのかもしれません「小倉百人一首」
むっちゃんおすすめの伊豆大島日本歴代天皇二千六百年史・第77代後白河天皇<第77代後白河天皇>日本一の大天狗。長きにわたる院政〔二条天皇・六条天皇・高倉天皇〕。1156年保元の乱(源為朝伊豆大島・配流→琉球王説)。【メルマガ好評配信中!】歴史を正しく認識することで現在を読み解き、未来を切り開く。皆さんと一緒に学び、語り合う「座談会」としての場としてメルマガを配信しています。質問、...youtu.be伊豆大島って、たしかに関東から近い島ですよね!椿の時期がおすすめで
2022年6月13日この日もひとり京都勉強会近鉄竹田駅を降りたココロは、てくてく歩いたこの日の目的地はふたつ。そのひとつは長年行きたいと思いながら、なかなか「ご縁」がなかった【城南宮】への参拝だ当然、その途中にある見どころも忘れずに巡ります………まず、最初に到着したのは………【近衛天皇安楽寿院南陵】京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町【近衛天皇(このえてんのう)】第76代天皇生来体が弱く政務を執ることなく崩御した天皇だ陵は珍しい多宝塔だココロは、2回目の訪問となる近衛天皇
さてさて…………【豊国廟】を出発し、【喫茶ぐるんぱ】で美味しいランチを頂いたココロは、この日計画していた最後の目的地へと到着した…………その目的地は、事前にこのエリアの地図を眺めていると目に飛び込んできたのだ到着したのは…………【法住寺(ほうじゅうじ)】京都府京都市東山区三十三間堂廻り町655平安時代中期に藤原為光によって創設され、その後院政期にはこの寺を中心に後白河天皇の御所『法住寺殿』が営まれた。法住寺殿が木曽義仲によって焼き討ちされ、数年を経て後白河天皇も崩御すると、【法住寺
本日は旧暦5月28日ですが、元永二年(1119年)五月二十八日は、鳥羽天皇の第一皇子、顕仁(あきひと)親王が誕生された日でもあります。3年前は生誕900年の年でした。※単純に旧暦にあてはめています。後に悲劇の天皇とも呼ばれることになる顕仁親王の母である藤原璋子(待賢門院)は白河院(法王)ご寵愛の養女として白河院の孫である鳥羽天皇の中宮に入られましたが、顕仁親王は出生の頃より鳥羽天皇自身が「叔父子」と呼んでおり、つまり白河院の子と公然と囁かれていたと伝わります。ただし、この噂は後に鳥羽上皇が寵
さてさて……………ココロは【豊国神社】を出発した………【京都国立博物館】の前を通過して………博物館の本館は片山東熊による設計で、煉瓦造平屋建て、フレンチルネサンス様式の建物である。向かうは【豊国廟】であるのだが………途中【豊国神社】の神職さんに、お勧め頂いた場所に立ち寄ることとした………到着したのは……………【新日吉(いまひえ)神宮】京都府京都市東山区東山七条東入る何も知らなければ「しんひよし神宮」と読んでしまいますね【狛犬】創建当時、神殿は七つの神座を備え、廻廊がめぐら
なんといっても怖すぎの千手観音さま。2019年8月。人で溢れかえる三十三間堂にははいらずに、向いにある後白河天皇陵へ参拝させていただいた話のつづきです。じつは三十三間堂にお詣りしなかったのは、混んでいるから・・というのは表向きの理由。本当の理由は観音様が怖いから。だったんですよ。ということで、そんなトラウマ話はこちら。↓『なんといっても怖すぎの千手観音さま。』鴨川から東のほうへと歩いて三十三間堂へ。しかし。怖さを覚えて矢印のとう
後白河天皇陵に参拝。人の気配のないなかおそるおそる進む参道[前回はこちら]。静寂のうちに参道に続く道を進むと、道は行止り、その右手方向に開けた長方形の場所があらわれた。その長方形の先端には御陵にかんする説明板がありその説明板の先の階段を駆け上がればそこに、後白河陵がありました。仏教を深く信仰された上皇であらせられ三十三間堂とも所縁深い方ということで、ご陵はもっと仏教仏教した施設ではなかろうかろうかなどと考えていたのですが、意外や陵墓全体の雰囲気は神
三十三間堂の向いの後白河天皇陵。大河ドラマ『鎌倉殿・・』では西田敏行さんが演じられている後白河天皇。自分の別ブログの、その御陵に2019年8月に参拝したときの回ですが、よろしかったら。ちなみに自分としては『平清盛』でやはり後白河天皇を演じていた松田翔太さんをイメージしてお参りしてましたが、ドラマの影響って大きなものですよねー、ほんとに。ちなみにやはり大河ドラマ関係として安徳天皇のおはなしはこちら。↓『三十三間堂の向いの後白河天皇陵。』三十三間堂と道路を挟んだ法住寺の
鎌倉殿の13人第22回は、再び謀反の兆しが…日本中が源氏の名の下に平定妻八重を失った義時水難事故で落命した八重。義時は、金剛に鶴丸を恨むなと諭す。義時の、言葉を聞いていた鶴丸。頼朝が大軍を率いて上洛した。後白河法皇は、傲った武士は滅んだ。頼朝は、確かに。新しい世のため朝廷は欠かせない。力を貸して欲しいと願い出る。義時は和田、三浦、畠山たちと飲んでいた。畠山が義時に、再び謀反の疑いがあると伝える。三浦義澄、岡崎義実、千葉常胤、土肥実平、比企能員は源範頼を囲んで飲んでいた。
法住寺殿は、1161年(永暦2年)に建てられた後白河法皇の院御所。広大な敷地に北殿上御所、北殿下御所、南殿の三御所が建てられ、1163年(長寛元年)には、平清盛に資材協力を命じて南殿の北側に蓮華王院(三十三間堂)が建立されました。※南殿が法皇の住居だったようです。しかし、1183年(寿永2年)11月19日、法皇と対立した木曽義仲が南殿に放火して押し入ったことにより、法皇は六条西洞院の長講堂に移っています。ただ、1191年(建久2年)10月1日の『吾妻鏡』には、木曽義仲の反乱軍が法住寺殿
《新古今和歌集・巻第四・秋歌上》320七夕の歌とてよみ侍りける皇太后宮大夫俊成七夕の門渡(とわた)る舟の梶(かぢ)の葉にいく秋書きつ露のたまづさ☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆七夕の歌として詠みました歌皇太后宮大夫俊成彦星が天の川の川門を渡る舟の梶、その梶と同じ名の梶の木の葉に、わたしは、幾秋書き続けたことであろうか。露で綴ったはかない手紙を。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
今年は「後白河天皇の系図」に関して検索して来られる方が結構多いのです。当ブログの検索アクセスの3分の1ほどが、この関連になっています。これはやはり、『鎌倉殿の13人』やアニメ『平家物語』、そして『平清盛』配信スタートが関係あるんでしょうか。ご訪問ありがとうございます!お暇な時にでも読んでやってくださいね♪で、ご到着されるページが、こちらになっているわけなんですが…。系図で見てみよう(天皇家/後白河帝以降)(再掲)https://ameblo.jp/gonch
前回、室町時代をはじめとした中世の京都についてブログ記事を今後アップしていく旨をお話ししましたが、、、後白河法皇の御所の変遷についても触れておきたい、と思い立ちました。早速寄り道、、、というか書き忘れですね。後白河法皇(天子摂関御影:宮内庁三の丸尚蔵館)こちらの人物、院政期のキーパーソンのひとりだったのですが、白河法皇や鳥羽法皇が建てた豪華な御所や寺院の話を書いた手前、後白河院の御所についても地図で追っておきたくなったのです。『平安京
皆さま!どもです(人*´∀`)。*゚+さてさて。今回はじめた「鎌倉時代」ってテーマですが。ゆるぅ〜く書いてくつもりですので。「大河ドラマ」について考察とか。歴史との相違とか。ガッツリ調べて書くつもりは全くありませんので。そういうご希望の方は読まないでくださいね。さて。「後白河法皇(西田敏行)」イイっす!頼朝の下に現れるとか!西田さんの飄々とした雰囲気がいいなぁ。後白河法皇は。元々「待賢門院」を母として生まれ。皇位とは関係ないとされていた人物で。それこそ「日本一の大天狗」に
🌸保元の乱☆国の権力闘争が初めて武士同士の戦いで決まる⛳平安時代の保元の乱☆後三条天皇の代になると天皇の権力が復活*白河、鳥羽天皇も親政を敷く*譲位したあとも政治を行う院政を開始した☆鳥羽上皇*子の崇徳・近衛天皇に代わって政務を執り続けた☆父に不満を抱く崇徳上皇*関白・藤原忠通と対立していた弟の頼長が接近*忠通は後白河天皇と結んだ☆近衛天皇が崩御*崇徳の子ではなく、弟の後白河が天皇に即位した☆上皇と天皇の対立は激化*各々の味方となる平
清盛と、二条天皇親政派の貴族らの工作により、内裏に軟禁されていた天皇と上皇が解放されました。この事実を二条親政派が言いふらしまくったため、公卿たちが続々と、二条天皇が行幸されている六波羅に移動し、六波羅が実質上の内裏となりました。これにより、信頼と義朝はクーデターの名分を失い・・・・・・というより、いつの間にか天皇の敵側(賊軍)に自分が入れ替わってます。清盛側からの要請で、信頼・義朝の追討令が出されます。はい、敵認定。