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前回からの続きです本阿弥光悦京屋敷跡を少し歩くと、今出川通りへ出ますそこを右へ曲がると白峯神宮があります由緒こちらの御祭神は、崇徳天皇(第75代)、淳仁天皇(第47代)崇徳天皇は、保元の乱(1156年)で讃岐国へ配流となり崩御された天皇だそうです淳仁天皇は、弓削道鏡らの謀計により廃位となり、淡路島へ配流後、崩御。という不幸な境遇の天皇が祀られていますそう御霊信仰の一つの神社のようですそれも明治天皇が造営(1866(慶応2)年)されたというのですから、新しい神社です(由緒書き
★第八十代高倉天皇は平安時代末期の天皇です。一一六一年生。御名は憲仁(のりひと)。御父は後白河天皇、御母は平滋子皇太后(建春門院)。在位一一六八年から一一八十年。平滋子は、平清盛の妻の時子の異母妹で後白河上皇の別格の寵愛を受けました。「言葉にできぬほど美しく若々しい」と称えられた美貌で入内することになり、終生愛されたといいます。また、後白河上皇が不在の折りには代わりに奏聞を受けるなど政治的発言力も持っていたといいます。その血を受け継いだ憲仁親王も色白で美しい容姿だったといいます。
いつもブログにお越し頂きありがとうございます。シカゴはホワイトクリスマス。今夜はマイナス17度。サンタさんも凍ってる。一時帰国のつづきから・・。一人旅・・今日は京都を一人旅(京都の一人旅・・・)というわけには行かない・・?外国のお客様がいる。でも、便利な私の耳は英語をシャットアウトできる。なんにも聞こえない。京都駅につくと、英語が堪能な観光タクシーのドライバーさんが待っていてくれた。いってらっしゃ~い。手を振ってお客様を見送ると一人になれる。
治承2年11月12日、西暦では1178年12月22日839年前の本日、高倉天皇の第一皇子、言仁(ときひと)親王が誕生されました。時は平安末期、親王の母は平徳子(建礼門院)で外祖父は平清盛でしたから、平家待望の皇子誕生でした。徳子懐妊の際に行われた祈祷には、「変成男子の法」もあったといいます。また月が満ちるにつれ身体の苦しさを訴える徳子には、平氏に恨みを持つ生霊・死霊の物の怪が取り憑いているとされて鬼界ケ島の流人が許されました。この時僧俊寛を除く者だけだったため、その話が歌舞伎にもなって
瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふhttp://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2939.html?sp人気ブログランキングへ小倉百人一首の77番にある崇徳院の歌です。一般には、別れても好きな人、フラレたけれどまた逢いたい人を詠んだ歌など、恋歌として紹介されている歌ですけれど、実は全然違います。なぜなら崇徳院は、わざわざ「瀬をはやみ」「滝川」といった激しい表現を用いているからです。恋する人にまた逢いたいという思慕の歌なら
百人一首の一人として有名な歌人でもあり後世に名を残している平安の京の都の男女は三十一文字の和歌の文のやり取りで、逢うこともなく気持ちを伝えたという和歌をしたためた手紙の素材や色や墨の匂いにまで趣向を凝らして、五感に響くメールだったというこのような話は大人になってから雑学で知ったが、落語の演目だということは最近知った、上方落語が発祥で桂三枝も演じていたさんしの崇徳院は上方落語落語の世界は江戸時代、この時代も平安の当時のように若い男女は和歌の文で恋に落ちた噺現
源頼朝は、平治の乱で負けたときに殺されるはずだったのが、平清盛が義母から「私の死んだ息子に似ているから、助けてあげてください」といわれ、仕方なく流罪にした、という話が有名ですが。この義母が「池禅尼」、これは夫の忠盛が死んで出家したあとの名前で、本名は藤原宗子です。忠盛の後妻であり。清盛は先妻の子なので血のつながりはありません。この藤原宗子はかつて崇徳天皇や後白河天皇の母であった待賢門院(鳥羽法皇の妃)に仕えていました。なので、宗子は、後白河とのパイプが強い高級女官であり、忠盛にとっては典
京都・三嶋神社様の大放生祭鰻絵馬を私が担当、奉納させていただきました❣️✨こちら、皇子に恵まれた後白河天皇の名により、造宮された神社だそうです。そして、なんとなんとこちらの絵馬。。。。。。宮司様より、なんとなんと。。。秋篠宮殿下に御献上されました‼️‼️‼️‼️‼️✨✨✨大感激。。。。❣️見に余る大大光栄です😂😂😂こちら、小さい神社ながら、現在も皇室からの崇敬が篤く、秋篠宮殿下がこちらを祈願で2度御参拝されたそうで、絵馬も、殿下のお付きの方から、確かに殿下が受け
近頃、京都での取材などがあり・・・・下準備として日本の平安時代の歴史などを調べながらある人物のことがとても気になっていた。もともと世界史を選択、日本史とは疎遠な感じだったが、クリスチャンになってから、日本でのキリスト教の歴史を辿るうち、日本史がよく見えるようになり、興味深いものになった。更に、ロック音楽好きなせいか、型破りな人物に惹かれてしまう。歴史の中で、重要な役割を果たしたと考えられる人物は、多かれ少なかれ、新し物好き(好奇心旺盛)で、奇人とか変人とか言わ
第235話こんにちは菊水千鳳です今回は崇徳天皇さまが何故、怨霊となってしまったのかご存知の方も多いと思いますが、その謎に迫るため生い立ち、並びに生涯についてサクッと紹介します。**この内容は霊視によるものではまだありません。なので、将来的に霊視した場合の結果とは多少異なる内容であるかと思います。ご了承下さい。**将来的に霊視する場合は、崇徳天皇さまご本人に、お越ししていただいて伺う場合もあると思います。崇徳天皇さまからの直接のメッセージは『崇徳天皇さ
鑑定を待ってもらってる人が何人もいてこういうのが予約が取れないということやなと思う鑑定は出来るけど1日の時間が短いから他に大事な時間もあるから親友と話したりする時間三十三間堂にみんなと行ってまた波が変わった時間の波も自分の発する波も変わったたまたまマヤでいう波も変わる日にいったんだけども遊ぶということ(というても霊視はした瞑想誘導もして宇宙に上げるのもした好きだから)みんなで贅沢な時間を過ごすことこれをやってみて突き抜けたな三十三間堂は建立されたときに
こんにちは。前回の崇徳上皇に続いて、今回はその上皇方で戦った源為朝の登場です。源為朝月岡芳年画為朝は、鎌倉時代に活躍する頼朝や義経たちの父・義朝の弟で、外見的に大きな特徴をもっていました。身長がなんと2mを超す大男だったと言われており、真偽の程はともかく背丈は相当大きかったのでしょう。顔立ちは「切れ上がった目の男」だったといいますから、まさに鬼のような顔だちだったのでしょうかね・・・戦場でも大いに目立っていたと思います。そして為朝がなぜ後世まで名を残し、我々の知るところとなっ
こんにちは。今回は、前回までの保元の乱の番外編となるのてすが、敗れはしたものの、しかしながら後世まで伝説として、あるいは悲劇のヒーローとして名を残した人物の登場です。崇徳上皇です。讃岐に流された崇徳上皇歌川国芳画この方は「菅原道真」や「平将門」といった方々と、日本の三大怨霊として非常に有名であり、非業なる死から「何か祟りがあるにのではないか?」と何かと脚色された感じがあります。今回の崇徳天皇は、死ぬ直前に「我、日本国の大魔王となり、天皇家を呪う」と宣言!「日本最大の怨霊」と呼ば
こんにちは。前回からの続きですが、後白河天皇側の挑発とは何か・・・?まずは後白河天皇の近臣・信西が、「三条東殿という所に崇徳上皇方が集まり、内裏を襲おうとしている」と言いがかりをつけます。そして検非違使(けびいし)ー非違(非法、違法)を検察する天皇の使者をもって三条東殿を襲い、邸宅や家財を没収してしまい、崇徳上皇方が蜂起した際に、拠点となる場所を奪いました。さらに信西は、「没収した文書の中に頼長によるクーデター計画が記されていた」と、これまた言いがかりをつけ、藤原頼長の配流を決めます
こんにちは。今回は古代史・・・と言っても平安時代の内乱のお話です。応仁の乱、関ヶ原の戦い、戊辰戦争に続く内乱シリーズの第4弾になります。いつの間にかシリーズかしていましたが、今回お話しする内容は平安時代・・・まだまだ貴族たちが政治の実権を握っていた時代です。後、源頼朝による鎌倉幕府以降、江戸幕府の崩壊まで、その実権は武士の手に委ねられるのですが、この内乱ー保元の乱は武士政権が誕生するきっかけとなったとも言われています。保元・平治の乱合戦図屏風絵そもそも保元の乱とは、一体何が原因な
第七十八代二条天皇は平安時代末期の天皇です。御父後白河天皇の第一皇子、御母は藤原師実の三男で大炊御門家の祖、経実の娘・源懿子(よしこ/いし)。諱は守仁(もりひと)。一一四三年生。在位は一一五八年から一一六五年。生母が守仁親王誕生直後急死したため、祖父の鳥羽法皇に引き取られ、美福門院(藤原得子)の養子となって育てられました。既に近衛天皇がおられ、同じく美福門院の養子には崇徳上皇の第一皇子の重仁親王がいらっしゃったので、皇位継承はないものとされ僧となるべく覚性法親王(鳥羽天皇の第五皇子)の
こんにちは!!シンギングボウルヒーラー&ラータロットリーダーの京一倫です!!今年も新熊野神社の猿楽の奉納神事に、参加させていただきますっ!!こちら、昨年の奉納神事の様子私は、昨年に引き続き・・・『白髭』の中にでてくる「ワキ」の役天皇の勅使を琵琶の国白髭の大明神に、授けに持ってくるというお役です!!この勅使のお役で、一番、心にぐっとくる台詞があります!!『神を敬い君を仰ぐ心あらばなどか恵みに、預からざらん』というこのお言葉!!『神様を敬って、天皇を仰ぐ心を持ってい
第七十六代近衛天皇は平安時代末期の天皇です。御父は鳥羽天皇、御母は藤原得子(美福門院)、異母兄に崇徳天皇と後白河天皇がいます。諱は体仁(なりひと)。在位は一一四一年から一一五六年。大治四年(一一二九年)、治天の君として君臨した白河院が亡くなると、孫の鳥羽院が政治の中心となりました。そして永治元年(一一四一年)鳥羽院は寵愛している美福門院との子である体仁親王への譲位を、待賢門院璋子との子である崇徳天皇へ強要します。この時体仁親王はまだ二歳で即位されたのです(近衛天皇)。当然、治世中は鳥羽上
こんばんわーいつも訪問頂き、いいねして頂き、コメントまで頂戴して、本当にありがとうございます。本当に嬉しいんです。還暦を過ぎてのひとり暮らし…決して寂しいなんて思ってはいないんですが、こうして繋がって頂けると大変嬉しく心癒されます…なーんて急にシリアスな話って(゜゜;)\(--;)コラさぁー、初夏の京都旅先ずは散々な方から(ノ_<。)6時01分発の電車に乗るため、前日にタクシーを予約。直江津駅到着寸前に小銭をテーブルに置き忘れて来たことに気が付いた(*_*)ウ~ン更に・・・封筒
坂を下り、四条に向かうつもりでしたが…三十三間堂まで、徒歩8分の看板を見つけてしまいました。向かう途中で…。こちらの前で、信号が変わり…坂を登り、こちらに来ました。新日吉神宮です。分かりにくいですが…こちらの、御祭神は、後白河天皇です。鳥居から近い、山口稲荷神社を参拝して、境内五社の御朱印を、見ながら~こちらを通り、こちらも、忘れずに…側に、ありました。大砲跡?の様です。前日でしたが…くぐりました。このあと、参拝します。
鹿狼山を下山中に数人が上を見上げて何かをストックで指していたので、近づいて見るとテイカカズラの花でした。小高いところにある杉の木に張り付いて白い花を沢山、咲かせています。花はプロペラの形をしていて、ジャスミンに似た香りがするので、人気があり、通販や園芸店でも苗を販売しているようです。■テイカカズラの花名前の由来は百人一首で知られる藤原定家が後白河天皇の第3皇女に恋をし、彼女の死後に悲しみに暮れたあまり、定家の霊が蔓となって彼女の墓に絡み付いたという伝説のある植物です。全草に
本日は旧暦では5月28日ですが、元永二年(1119年)の5月28日は、後に崇徳天皇となる鳥羽天皇の第一皇子、顕仁(あきひと)親王が誕生された日です。後に悲劇の天皇とも呼ばれることになる顕仁親王はその御誕生からが悲劇でした。母である藤原璋子(待賢門院)は白河院(法王)ご寵愛の養女として白河院の孫である鳥羽天皇の中宮に入られましたが、顕仁親王は鳥羽天皇から(おじ子)として疎まれたと伝わるからです。つまり、白河院の御子だったのではないか?ということです。鳥羽天皇は白河院に譲位させられ5歳の顕仁親
第七十七代後白河天皇は平安時代末期の天皇です。一一二七年生。御名は雅仁(まさひと)。御父は鳥羽天皇、御母は藤原璋子。在位一一五五年から一一五八年。雅仁親王は鳥羽天皇の第四皇子です。既に第一皇子の同母兄の崇徳上皇が退位し、鳥羽法皇の寵愛する皇后美福門院から生まれた弟の近衛天皇が即位していましたので、皇位を継ぐとは誰からも思われていませんでした。しかも、父や兄からは、「即位の器量にあらず」「文にも武にもあらず、能もなく芸もなし」と言われていたのです。ところが近衛天皇は身体が弱く、十七歳の
後白河天皇と秀吉の壮大な“わがまま”を観るフィールドワークいよいよ、明日となりました京都東山区、快晴最高気温26度初夏の陽気となりそうですUVケア、万全でお越し下さい当たり前と思っている事柄にアーティスト関本徹生が独自解釈とイマジネーションで探るフィールドワーク8回目明日何も予定無いわ〜お天気だしお出かけしたいな〜とお考えの方✨飛び込み参加、若干名様歓迎いたします既に、ブログからお申し込みの方明日大丈夫でしょうか?コメントか下のフォームにメッセージを入れて
第40番醍醐寺米原市創建は後白河天皇の時代第38番孤篷庵長浜市江戸時代の作庭そのまま白州正子氏が訪ねた寺(近江山河抄)地域の健康センターのレストランで昼食私は味噌かつ丼