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こんにちは!聞いてない!タイミングの降雨だった福岡田園です。時間はとても短いけど粒がでかかったな。ご近所の庭や公園でいろいろな花が咲いてるんでしょうね。外気にあたると青臭さを含んだ甘い香りがします。学習カリキュラムとしては、高校日本史の鎌倉時代までのとものすけです。受験は世界史でしたw今年の大河視聴の影響か”王朝美”に目が留まり。借り出しました。したら、思いのほか良かったのです。塀や堀がなく町民や農民も出入り自由。比叡山を背に棚田を見渡す限りドバ
【食育クイズ:Vol.1620】「京都府」の「圓通寺、庭園」おさらいクイズ!後水尾天皇が作庭した「圓通寺、庭園」が借景とする山とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)大豆コーヒードリップパックAmazon(アマゾン)たねす
後水尾天皇が江戸幕府と戦った天皇として取り上げられていました。原因として天皇として耐え忍ぶ出来事が4つあったとのこと①禁中並び公家諸法度皇室は基本的には法律で縛られないのが初めて規制がかけられる。天皇の仕事は学問であると書かれ政治にはタッチしないことが書かれている。そして人事にまで幕府が介入する。圧力がかけられる。②紫衣事件天皇が一番位の高い紫の衣を、僧に与えるというものがあったが、幕府が勝手に与えてはいけないと規制をかけられる。屈辱的なことだった。③秀忠の娘で
本日は、退位と譲位の逸話が有名な天皇の祭日が重なっています。★第六十五代花山(かざん)天皇は、平安時代の天皇です。御名は師貞(もろさだ)。安和元年(968年)生。御父は冷泉天皇、御母は藤原懐子(かいし/かねこ)。在位、永観二年(984年)から寛和二年(986年)。冷泉天皇の第一皇子である師貞親王は、叔父円融天皇の即位と共に生後十ヶ月足らずで皇太子になりました。これは、外祖父の藤原伊尹が摂政だったからです。しかし藤原伊尹は、師貞親王が十七歳で円融天皇の譲位により即位し
後水尾天皇の二条城行幸でふるわれた料理が、たまごふわふわ。出汁汁に、醤油、塩、酒を加えて卵を入れかき混ぜ、鍋に流し込んで火にかけた料理。なぜ、玉子料理なのか?それは江戸時代になるまでたまご料理はそんなに一般的ではなかったからだそうです。栄養価が高いので、ある種のご馳走として卵を料理で出したと考えられてます。↓押してくれたら嬉しいです↓にほんブログ村
後光明帝の即位について、北小路功光氏が解説しておられ興味深いです。宗旦と親交のあった和子、東福門院は男子を産めなかった。徳川家は、天皇の外戚になる事が夢だったが残念ながら出来ず、仕方なく、後水尾天皇の後宮が産んだ子を後光明帝として天皇にすることに同意した。ただしそれまでの間には、後宮の子が天皇になる可能性を排除する為、後宮が懐妊すると全“水に流させていた”。などなど。徳川方として天皇家と交渉役に春日局が二度上洛している。徳川方も相当強引な事をしてますね。尚、朝廷と徳川幕府の間には、京
大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを只今進行中。途中約1ケ月の中断があり2024年に突入していますが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。<「家康」等の出来事>「家康」は、1603年2月に「征夷大将軍」に就任します。その際に「後陽成天皇」からの宣下を受けたのが「伏見城」でした。宣下を受けた翌3月に、「二条城」において「本丸」(
北小路功光氏曰く宗旦が爪紅及第子を贈ったと言われ親交の有った東福門院は家康の天皇家の外戚になるという企みの一つしかし、和子の子供は女子しか成人しなかった為、苦し紛れに和子の次女を女帝明正天皇にせざるを得なかった。しかし、女帝は一代限りで次の天皇は早くも徳川の血筋では無くなった(明正天皇の次は後水尾天皇が側室に産ませた子が天皇になった)。萬世一系は侵せざる事と言うべきで面白いですね。天皇家の血筋以外の男子の血が入ったら「国」がまとまりません!萬世一系は理屈では無く日本の心です。表千家
Bf:スーパーのエクレア&TheCoffeeQuickLunch:HCLサンドとPEPSI*食事をさっさとすませて、今年も節分のお参りに”吉田さん”(吉田神社)へ出かけました。道順:加茂街道から出雲路橋を渡って御影通の下鴨神社参道前を通り、高野川に架かる御影橋、大文字が正面です。叡電の踏切を越え、元田中から東山通を右折、百万遍「知恩寺」の境内臨時駐車場に車を停めました。鐘撞堂横のgoodplace(まだ
…修学院離宮を造営した江戸初期の天皇は誰か?「後水尾天皇」である。第108代天皇で、後陽成天皇の第3皇子、母は近衛前子(サキコ・中和門院)。慶長16年、16歳で即位した。徳川秀忠の娘・和子を女御に迎え、3皇女・2皇子を設けた。「禁中並公家諸法度」の制定・「紫衣(シエ)事件」など幕府の朝廷に対する圧迫への不満や腫物のため、中宮和子・所生の明正天皇に譲位。以後、明生・後光明・後西・霊元天皇の4代に渡り院政を執る。宮廷文化や朝儀の復
洛中の東北方向に位置する黄檗宗寺院・閑臥庵(かんがあん)。道から見える龍宮造りの山門が特徴的な寺院です。このお寺ですが黄檗宗伝来の普茶料理も京懐石風に、庭園を眺めながら個室でいただくことが可能なので、寺院と言うよりも食事ができる場所として紹介されることが多いと思います。<閑臥庵の変遷>◎後水尾法皇が御信仰篤く、もと梶井常修院の宮の院邸を献上されたもの。初代隠元禅師から六代目の黄檗山萬福寺管長千呆禅師を招いて1671年に開山。◎後水尾法皇より「閑臥庵」の勅号を賜り御所の勅願所とされた。
冬野菜といえば大根か白菜と私は思い浮かべるのですが、田舎では冬になると近所から出来過ぎた大根をもらうことが多く、以前実家に帰った時山のようにもらい物の大根があったのに遊びに来た友人が大根を持参してきて笑ってしまったものです。田舎あるあるかもしれません。白菜といえば私にとっては柚子付けで冬の定番の塩味の漬物ですが、大根の漬物といえばタクアンが定番です。白菜の漬物は、漬物屋さんでも色がそのままのものが多いので塩漬けが日本では一般的なんだと思います。一方で、大根は色んな漬物があります。なので、人
スタッフのはるみんです。初詣に「泉涌寺」へ行ってきました。お天気が良かったので、ありがたかったです。ここのお寺は、皇室との関わりが深い御寺「みてら」です。御朱印を頂きましたが、菊の紋が入ります。力強い字が素晴らしい江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇、そしてその皇后は、すべて泉涌寺の月輪陵(もしくは後月輪陵)埋葬されています。写真は撮れませんでしたが、たいへん見応えのある美しい仏様がたくさんおられます。暖かくなったら、また行きたいで
#茶庭#修学院離宮#日本庭園#京都観光#後水尾天皇
京都市街地の最北部に岩倉という地域があります。ここには超オススメというほどではないですが、わりといいお庭がいくつかあります。2022年9月、小雨の降る庭園日和にこの地を訪ねましたので、まとめてご紹介します。なおご紹介はオススメ順です。①圓通寺通常公開。後水尾上皇の庭。借景で知られていますが、庭の石組みもかなりオシャレで見どころです。地面に長い棒のような石が敷かれていますが、これはたぶん橋です。滝添え石らしきものもちゃんとあります。向こうの山(比叡山)から水が流れ落ちてきて、橋をくぐって大海
【食育クイズ:Vol.1503】「京都府」の「修学院離宮」おさらいクイズ!修学院離宮にある茶室で最も高台にあるものは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)大豆コーヒードリップパックAmazon(アマゾン)∞∞∞∞∞∞
12月22日[出来事]1629年(寛永6年11月8日)-紫衣事件で後水尾天皇が明正(めいしょう)天皇に譲位。称徳天皇以来859年ぶりの女性天皇が誕生。→江戸幕府二代将軍徳川秀忠と正室お江与の孫にあたる紫衣事件は江戸時代初期における朝幕関係上、最大の不和確執とみなされる事件。[誕生日]1178年(治承2年11月12日)-安徳天皇、第81代天皇1546年(天文15年11月29日)-黒田孝高(よしたか)戦国武将→通称の官兵衛や隠居号の如水の方が諱より有名なのかも竹中半
第百九代明正天皇は、江戸時代の天皇、女帝です。御父は後水尾天皇、御母は徳川和子(まさこ)、徳川秀忠と織田信長の妹お市の娘お江の子です。つまり、徳川家康の曾孫で、三代将軍家光の姪でもあり、織田信長の家系の血と信長に滅ぼされた浅井家の血も引いています。御名は、興子、女一宮。元和九年(1623年)生。在位、寛永六年(1629年)から寛永二十年(1643年)。後水尾天皇は第三皇子でしたが、徳川幕府の後押しがあり天皇に即位されたといいます。和子の入内はその家系や、不遇な時代の
2019/04/04配信<第108代後水尾天皇>第56代清和天皇=水尾天皇(別名)〔仙道〕(弟・関白)近衛信尋→(弟・関白)一条昭良1614年大坂冬の陣1615年大坂夏の陣「真田日本一!」豊臣氏滅亡〔元和偃武〕(禁教令)伊達政宗〔支倉常長・欧州〕禁中並公家諸法度武家諸法度紫衣事件・沢庵和尚
【食育クイズ:Vol.1480】「京都府」の「幡枝(はたえだ)離宮」おさらいクイズ!後水尾上皇が造影した比叡山を拝借する庭園がある寺院とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}大豆コーヒードリッ
今日は東福寺の紅葉と、後水尾天皇の眠る月輪陵へお墓参りに行きます。さらに足を伸ばして深草のお寺の紅葉も見に行きます。東福寺は大変な混雑が見込まれるので、朝一番に向かいます。阪急河原町スタートです。高瀬川を見て鴨川東岸を五条まで下ります。凄く沢山の鳥!白いのはサギで、黒いのは鵜でしょうか?小魚の群れを追いかけているようです。遊歩道の紅葉も素晴らしい!五条で左折して、伏見街道へ。伏見街道を少し行くと撮り鉄スポットのJR東山陸橋。京都駅に向かう新幹線と京都タワー。すぐに瀧尾神社。そして東
「後水尾天皇」冬が来る「11月8日」「後水尾天皇」冬が来るみなさん、おはようございます立冬です冬がやってきました信州(神州)の友人はストーブ、湯たんぽ冬支度に余念がありませんさあ、今日「11月8日」の國史を学びましょう「後水尾天皇、退位」寛永6年(1629年)家光の時代になり幕府は朝廷をもコントロールしようとしました禁中並公家諸法度で紫衣(しえ)を僧侶に授ける時は幕府に相談するよう定めます紫衣は、長い修行を経て徳を身に着けた僧侶に朝廷か
昨日は日野町の【法輪山正明寺】さんの◆特別大開帳◆に行ってきました日野市街北方の丘陵地にあり、創建は古く千年ほどの歴史を持つ黄檗宗のお寺です。正明寺は聖徳太子の創建と伝えられており、その昔比叡山延暦寺系の地方大寺として栄えていましたが、戦国時代の戦火を受けて消失しました。江戸時代に入り再興された時は、永源寺の高僧一絲文守大和尚の尽力によって後水尾天皇の勅建寺となり、黄檗禅の中本山としての寺格を備え、数多くの名僧をこのお寺から輩出しました。このお寺の本堂は、後水尾天
第百十代後光明天皇は江戸時代初期の天皇です。御父は後水尾天皇、御母は園光子、また異母姉は明正天皇であり、当時の将軍徳川家光の姪で家康の曽孫でした。寛永十年(1633年)生。御名は、紹仁(つぐひと)。在位は、寛永二十年(1643年)から承応三年(1654年)。徳川家光から家綱の時代にあたります。後水尾上皇は第四皇子の紹仁親王が十一才になると、明正天皇に譲位させました(後光明天皇)。東福門院(徳川和子)が養母となっていたため、徳川幕府は外戚の立場を保ち、後水尾上皇が引続き院政を敷きました。
岩倉山実相院門跡②天台宗系単立令和4年12月13日参拝御朱印『忍』(後水尾天皇御宸翰複製色紙)※「御朱印」とはちょっと違いますが「朱色の寺印」が捺してあるので一応ご紹介。実相院門跡「こころのお庭」実相院門跡①『梵字カーン(不動明王)』実相院門跡③『梵字カーン【観光列車「ひえい」】』(京都洛北社寺&えいでん・令和5年初春の特別御朱印めぐり)御朱印ランキング※掲出の御朱印はこの日この時頂いた「一期一会の御縁」で、今現在も頂けるとは限りません。観光寺社以外は、基本的にアポイントを
10月9日【鳴く虫の】鳴く虫のこゑも哀れやつくすらむ暮れ行く秋のけふをかぎりに後水尾天皇ーーーーー鳴いている虫の鳴き声も哀れだ暮れていく秋の今日限りで鳴き声も命も尽きていく#和歌#鳴く虫の#後水尾天皇
…立華を大成したのは誰か?「二代池坊専好」は、寛永元年より禁裏の花会に参加し、公家に技法を教えたり、作品に順位をつけたりするなどした。寛永6年に後水尾天皇が退位した後は、上皇の仙洞御所で開かれた花会に引き続き参加し、長く立華の指導者として活躍した。作品図も『立華の次第九十三瓶有』(重文・華道家元池坊総務所蔵)をはじめ多く残っている。
社務所受付を向けると朱塗りの大きな門が見えてきました。2階建ての久能山東照宮楼門の前で、夫婦写真を撮りました。軒下中央に第108代後水尾天皇の宸筆「東照大権現」の扁額が掲げてある為、「勅額御門」とも言われているそうです。中央の蟇股に、鉄や銅を食料とすることから平和の象徴とされる獏の彫刻があり、表側左右の格子戸内に随身、裏側左右の金剛柵内に狛犬が据えられていました。
修学院離宮の上離宮にもう1棟ある、窮邃亭へ。窮邃亭は浴龍池の中の小島にあるので、高台の見晴らし抜群の隣雲亭から下って行きます。その道がまた滝あり橋ありで楽しいんです。次々変わる絶景にワクワクします!隣雲亭の裏庭はちょっと無いような美しい苔の庭で、横を通るだけで入れませんが雰囲気は充分伝わります。そして庭を過ぎると迫力のある滝が現れて、浴龍池に流れ込んで行きます。静かな中で水音が響きます。浴龍池に出ました。蓮の花が咲いていたんですね!夏に来ていれば見れてましたね!残念。窮邃亭のある島に渡る楓
今日は久しぶりに修学院離宮へ行きます。久しぶりと言ってもだいたい毎月行っていますが、8月はやめたので約2ヶ月ぶりです。修学院離宮は御水尾上皇が63歳前後の時に完成し、84歳で亡くなられるまで約20年で70回程御幸されたと言われています。年に3、4回行かれている計算になり、シーズンに1回くらいでしょうか。当時、御所からどのルートで御幸されたんだろう?どんな行列だったのか?と興味津々で色々調べると、有りました!御水尾上皇より100年ほど後の幕末の「光格上皇修学院御幸儀仗図」が徳島県立大学デジタルア