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★第二十七代安閑天皇は奈良時代の天皇です。御名は勾大兄尊(まがりのおおえのみこと)、広国押武金日尊(ひろくにおしたけかなひのみこと)。御父は継体天皇、御母は尾張連草香の娘、目子媛(めのこひめ)。継体天皇には皇后との皇子、天国排開広庭尊(あめくにおしはるきひろにわのみこと)、後の欽明天皇がいましたがまだ幼く、長子である兄の勾大兄尊が皇太子となり即位されました。勾大兄尊は幼いときより器量が優れ、寛大で人君にふさわしい人柄であったといいます。皇太子の時も天皇をよく補佐されました。
★第二十七代安閑天皇は奈良時代の天皇です。御名は勾大兄尊(まがりのおおえのみこと)、広国押武金日尊(ひろくにおしたけかなひのみこと)。御父は継体天皇、御母は尾張連草香の娘、目子媛(めのこひめ)。継体天皇には皇后との皇子、天国排開広庭尊(あめくにおしはるきひろにわのみこと)のちの欽明天皇がいましたがまだ幼く、長子である兄の勾大兄尊が皇太子となり即位されました。勾大兄尊は幼いときより器量が優れ、寛大で人君にふさわしい人柄であったといいます。皇太子の時も天皇をよく補佐されました。
本日は旧暦6月18日の立秋ですが、応永二十六年六月十八日(1419年)は、伏見宮貞成(さだふさ)親王の第一王子として彦仁(ひこひと)王が誕生された日です。伏見宮家は崇光天皇の第一王、栄仁親王を祖とする持明院統の嫡流に当たる世襲親王家で彦仁王は崇光天皇の曾孫にあたります。第百一代称光天皇の御世でしたが、天皇には皇子がなく弟も薨去されていたので、天皇が崩御されると後小松上皇は彦仁王を猶子に迎え皇位につけました(後花園天皇)。貞成親王は伏見宮家の二代目当主でしたから、宮家の役目を果たしたこと
★第二十七代安閑天皇は奈良時代の天皇です。御名は勾大兄尊(まがりのおおえのみこと)、広国押武金日尊(ひろくにおしたけかなひのみこと)。御父は継体天皇、御母は尾張連草香の娘、目子媛(めのこひめ)。継体天皇には皇后との皇子、天国排開広庭尊(あめくにおしはるきひろにわのみこと)のちの欽明天皇がいましたがまだ幼く、長子である兄の勾大兄尊が皇太子となり即位されました。勾大兄尊は幼いときより器量が優れ、寛大で人君にふさわしい人柄であったといいます。皇太子の時も天皇をよく補佐されました。安閑
応永二十六年六月十八日、1419年7月10日、伏見宮貞成(さだふさ)親王の第一王子として彦仁(ひこひと)王が誕生されました。伏見宮家は崇光天皇の第一王、栄仁親王を祖とする持明院統の嫡流に当たる世襲親王家で彦仁王は崇光天皇の曾孫にあたります。第百一代称光天皇の御世でしたが、天皇には皇子がなく弟も薨去されていたので、天皇が崩御されると後小松上皇は彦仁王を猶子に迎え皇位につけました(後花園天皇)。貞成親王は伏見宮家の二代目当主でしたから、宮家の役目を果たしたことになります。称光天皇ま
【平成29年7月15日(土)参拝】後小松帝灰塚の後は6度目の深草北陵へ称光(しょうこう)天皇陵御陵名:深草北陵陵形:方形堂所在地:京都府京都市伏見区深草坊町称光天皇(しょうこうてんのう、応永8年3月29日(1401年5月12日)-正長元年7月20日(1428年8月30日)は、室町時代の
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。重い病の後小松上皇様の仙洞御所に一休様が現れました。私は一休様が来ると確信がありました。一休様は上皇様の御落胤と噂があり、病の上皇様に参内するであろうと思ったのです。一休さんのお母さんは南朝方の娘で命の危険を感じ、一休さんがお腹にいる時に御所から出ていったらしいんだよ。私は一休様が仙洞御所から出てくるのを待ちました。一休様と会うのは8年ぶりのこととなります。しばらくして仙洞御所から一休様が出てきました。私「一休様!」一休「!!
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。延暦寺の僧らによる園城寺焼き討ちに兄・義教は怒り心頭で延暦寺のある比叡山を包囲しました。どうも。比叡山です。義教は自らも兵を率いて園城寺の僧らと共に出陣したのです。義教「延暦寺め!わしを軽くみるとどうなるか教えてやるわ!」私も延暦寺の様子を見に行きました。しかし、延暦寺側は義教の出陣を見て降伏してきたのです。まさか将軍直々に出てくるとは思わなかったのでしょう。ここで幕府と延暦寺は和睦となりました。和睦とはなったけど…これで延
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。関東へ来た私は金沢文庫で関東管領・上杉憲実殿に会いました。憲実殿は鎌倉公方・足利持氏殿に呼ばれ鎌倉へ向かい、私も間者の小百合と合流して鎌倉へ行きました。憲実殿は鎌倉公方邸に入りました。鎌倉公方邸は足利氏第2代当主・足利義兼さんの時代に建てられたんだよ。でも1454年に起こった享徳の乱で焼失したんだ。鎌倉公方邸です。私と小百合は居館に忍び込みます。そこで大きな声が聞こえてきました。「なぜ使わねばならん⁉︎」声の持ち主は持氏
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。兄・義宣は官位も付いたにも関わらず将軍宣下はありませんでした。私はあきらかに後小松上皇の嫌がらせとしか思えぬ朝廷の動きと考えます。私は密かに朝廷内部を間者の小百合に調べさせましたが、驚くべき報せが入ってきました。私「小百合、それは誠ですか?」小百合「はい。かなりの数の医師と祈祷する僧が出入りしています。」私は直ちに義宣の元に行きました。私「兄上、称光天皇様が重い病に伏せっておりまする。」義宣「何⁈それは一大事ではないか!」
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。亡き義持の後継ぎが義円に決定し、ようやく義持の葬儀が行われました。私は義持に心で語りかけていました。「兄上の言いつけどおりに義円兄に後を継いでもらいました。私は影から支えます。」しかし、一抹の不安が過ぎります。その不安は現実のものとして現れてきます。葬儀には朝廷に仕える公家も参列していましたが…この公家たちが後小松上皇様から参内を拒否され、さらに籠居を命じられました。籠居って自宅謹慎のことだね。あきらかに幕府に対する嫌がらせで
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。私と満済殿は兄・義持の死後、後継ぎを要請された同じく兄の義円を説得しています。義円は私や満済殿が仕組んだくじ引きの本意を見抜き、後継ぎは義持の意向であることを知って考え込んでいました。義円「……満済殿、私が足利将軍家の後を継ぎ将軍となれば守護大名らは従うのか?」満済「守護大名、皆で義円様を盛り上げていくことでしょう。」義円「私が将軍になれば私の姿勢を突き通すぞ。」満済「義持様の意向と仕組んだとはいえ、くじ引きとはいえ神意でござい