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令和8年5月6日(水・振休)今回は、四条烏丸から市バス91系統大覚寺行きに乗車し、大覚寺に行くことにした。大覚寺は代々法親王が住職となった門跡寺院である。御所風の雰囲気が漂い、御所跡地が国の史跡に指定されている。また、大覚寺は嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する持仏堂の五覚院を建て、修法を行ったのが大覚寺の起源であるといわれる。〈旧嵯峨御所大覚寺〉五大堂。写経道場ともなっている。五大明王が安置されている。大覚寺バス停。有料駐車場も兼ねている。市バスと京都バ
【食育クイズ:Vol.1924】「京都府」の「八坂塔(やさかのとう)」おさらいクイズ。「聖徳太子」が創建した「八坂塔」がある「寺院名」は?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞北海道大豆100%大豆ミートミンチタイプ200gAmazon(アマゾン)オーサワの国内産大豆ミート(バラ肉風)Amazon(アマゾン)【国産有機JAS取得】Mira
後二条天皇陛下後二条天皇(ごにじょうてんのう)旧字体:後二條天皇1285年3月9日〈弘安8年2月2日〉生まれ、1308年9月10日〈徳治3年8月25日〉、23歳崩御。日本の第94代天皇。在位7年:1301年3月2日〈正安3年1月21日〉~1308年9月10日〈徳治3年8月25日〉大覚寺統であり、後宇多天皇の第一皇子。母:堀川基子(太政大臣堀川基具の養女(実は孫)。称号:西華門院)後醍醐天皇の異母兄にあたる。後宇多天皇は、置文として、後醍醐天皇は中継ぎにすぎ
大覚寺近くの広沢池北方面に位置する後宇多天皇蓮華峯寺陵を訪れました。後宇多天皇は大覚寺で院政を執り行い崩御されました。亀山天皇皇后蓮華峯寺陵亀山天皇分骨所後宇多天皇皇后分骨所御二条天皇分骨所とも拝所の宮内庁の案内にありました。後宇多天皇は2度の元寇に直面して学問にも治世にも秀でた末代の英主と称えられた天皇です。天皇陵まで短い距離の参道です。後宇多天皇は2度の元寇に直面しました。元寇と云えば博多湾海岸に防塁を築いて鎌倉幕府は元
朝廷への諫暁弘安4年、日蓮は朝廷への諫暁を決意し、自ら朝廷に提出する申状(「園城寺申状」)を作成、日興を代理として朝廷に申状を提出させた。後宇多天皇は、その申状を園城寺の碩学に諮問した結果、賛辞を得たので、「朕、他日法華を持たば、必ず富士山麓に求めん」との下し文を日興に与えたという。この年、日蓮の庵室が老朽化して手狭になったため、10間四面の規模を持つ大坊が建設された。その建設は地頭・波木井実長の一族が中心となり、富木常忍ら他の門下の協力のもとに行われた入滅日蓮は、建治3年(12
本日は旧暦の12月1日ですが、鎌倉時代の文永四年十二月一日(1267年12月17日)は、亀山天皇の第二皇子世仁(よひと)親王が誕生された日です。世仁親王は祖父である後嵯峨上皇の意志により生後八ヶ月で立太子、数え歳の八歳で即位(後宇多天皇)され、父君の亀山上皇が院政を敷かれています。そしてその年元寇来襲がありました。この時亀山上皇が「我が身をもって国難に代えん」との宸筆の願分を石清水八幡宮や筑前筥崎八幡宮に納め祈願されたのは有名ですが、このような父君に幼いとはいえ八歳で天皇として祭祀に向き合われ
本日は旧暦11月2日となりますが、正王元年十一月二日、西暦では1288年11月26日、後宇多天皇に第二皇子の尊治(たかはる)親王が誕生しました。尊治親王とはその後即位された後醍醐天皇です。後醍醐天皇は、日本史で必ず教わる天皇の内でも有名な天皇です。私も歴史を再勉強するまで、ほんの数人しかちゃんと知らなかった天皇の内のお一人が後醍醐天皇でした。この当時の朝廷は大覚寺統(亀山天皇系)と持明院統(後深草天皇系)の二つに分かれていて、相互に天皇が即位されるという状況でした。祖父の亀山天
(みささぎのもみじしずかにみずかがみ)蓮華峯寺陵(れんげぶじのみささぎ)は、北嵯峨にある後宇多天皇・龜山天皇皇后佶子の御陵です。そして龜山天皇・後二条天皇・後宇多天皇皇后姈子内親王分骨所です。参道の両側に池があります。
第九十四代後二条天皇は鎌倉時代の大覚寺統の天皇です。御父後宇多天皇の第一皇子、御母は源基子。祖父は大覚寺統の祖である亀山天皇。また異母弟は後醍醐天皇。諱は邦治(くにはる)。弘安八年(1285年)生。正安三年(1301年)から徳治三年(1308年)。朝廷が持明院統と大覚寺統に分裂していた当時、持明院統が二代続いた後に邦治親王が即位したので、亀山・後宇多両上皇はじめ大覚寺統の喜びは大きいものでした。これは亀山法王が持明院統の天皇が二代続いたため、後嵯峨上皇の遺詔に反すると鎌倉幕府に申し立て
第九一代後宇多(ごうだ)天皇は、鎌倉時代、持明院統と大覚寺統に分かれた頃の大覚寺統の天皇です。日本史上未曾有の元冦が在位中二度も来た時代でした。文永四年(1267年)誕生。御父は亀山天皇、御母は洞院佶子。第一皇子は二条天皇、第二皇子は後醍醐天皇。御名は世仁(よひと)。在位は文永十一年(1274年)~弘安十年(1287年)。祖父である後嵯峨天皇は四歳で即位した後深草天皇よりその同母の弟の亀山天皇をかわいがり、後深草天皇が十七歳になった時には譲位を強いて亀山天皇を即位させました。しかも亀山
「3歴代ノ天皇(その91)」今日は、畠山重忠みなさん、おはようございます昨日の夏至はいい天気に恵まれました素敵な写真を送っていただきありがとうございました田んぼに張った水に映る太陽日本の御姿を見ることができましたさあ冬至へのスタートです見極める水無月、六月深く向き合う(笑)楽しく國史を学びご家族のためご自身のためにお役に立てれば幸いですコメントお待ちしています!6月21日は鵯越の逆落とし畠山重忠が亡くなりました馬に怪
語り部アロマが紡ぐ「やまと語り十五」聞いていかれませんか。鎌倉幕府が開かれた頃、朝鮮には高麗という国があり、満州・北支那には金という国があり中・南支那には宗という国がありました。わが国とこれらの国々との間に、表向き使節の往来はありませんでしたが、商人や僧たちの中には高麗や宗と盛んに行き来するものがありました。ところで、第83代土御門‐つちみかど‐天皇のころ、金の治めている蒙古からテムジンという者が出て蒙古地方を統一し、ジンギスカンと名乗りました。以後50年ばかりの間に、蒙古は優れ
前回からの続き(令和6年12月7日のこと)です直指庵の紅葉を見たため、これはこの辺りの紅葉も見てみようとなりました基本、人の多いとこへは近寄らなかったので、市内の桜や紅葉は行かなかったんです😅が、やはり市内巡りしてたらそれも見ておこうと思うようになり、桜から攻めていたのに紅葉が加えられたという次第ですそんな紅葉を見に行く途中に御陵があるようだったので行ってみました道沿いに道標後宇多天皇皇后今林陵参拝道横には嵯峨帝陵後宇多帝陵北十三町もしかしたら影で隠れてるとこにも文字があっ
本日正午の富士山🗻とSurferさん富士山は頂上付近が雲の中気温は低いが海水温は気温よりも高いらしい糖尿病代謝内科外来受診いつもどおり0600発ロマンスカーで新宿へ病院着0740検査終了0820診察開始0920糖尿病科の主治医はY先生、温厚な説明もわかりやすくでも簡潔2ヶ月間の血糖値データを確認しながらの診察。低血糖症状が2度あり、食事のカロリーによりインシュリン単位を減らして💉する指導を受けた低血糖症状は気持ちが悪い。視野が狭まり、手が震える。インシュリン単位に注意するこ
上野東照宮様のお詣りを終えた私は、次にトーハク、東京国立博物館へと向かいましたお目当てはもちろん大覚寺展です❗️区の互助会で大覚寺展の割引拝観券の斡旋があったので既に申し込み済なのですが、なぜか届く予定が2月中旬でかなり遅いのですもう待っていられないので割引券は後期展示でまた使う事にして、前期展示を見に行ってきましたキティちゃん展が一番人気のようで、平日にもかかわらず相変わらず行列していましたユリノキさんもいつもと変わらず素敵です💓キティちゃん
本日は旧暦11月2日となりますが、正王元年十一月二日、西暦では1288年11月26日、後宇多天皇に第二皇子の尊治(たかはる)親王が誕生しました。尊治親王とはその後即位され後醍醐天皇となられる方です。後醍醐天皇は、日本史で必ず教わる天皇の内でも有名な天皇です。私も歴史を再勉強するまで、ほんの数人しか知らなかった天皇の内のお一人が後醍醐天皇でした。この当時の朝廷は大覚寺統(亀山天皇系)と持明院統(後深草天皇系)の二つに分かれていて、相互に天皇が即位されるという状況でした。祖父の亀山
「93第九十一代後宇多天皇」今日は、正中の変みなさん、おはようございます9月19日は正中の変後醍醐天皇は鎌倉幕府の討滅を企てますがバレて失敗に終わりました第九十一代後宇多天皇亀山天皇(九十代)の皇子大覚寺統=南朝です1274年、即位されます亀山上皇による院政です1281年、弘安の役元寇、モンゴル軍が攻めて来ました1283年、無住(むじゅう)が沙石集(させきしゅう)を書きます仏教の説話集、エッセイです最後までお読みいただきありがと
富小路通夷川上るにある大炊御門万里小路殿碑です。平安京左京二条四坊十一町にあった邸宅。平安時代、但馬守源高房が所有。延久5年(1073年)、後三条天皇は方違えに来てここで崩。その後、源能俊が所有し、白河上皇の院御所となりました。広大な平安宮大内裏は維持が困難となり、貴族の邸宅を皇居とする里内裏へ以降。平安時代末期から鎌倉時代中期にかけて約90年間里内裏であった閑院内裏は、正元元年(1259年)の焼失以降再建されず、後深草天皇は外祖父西園寺実氏の邸の一つ冷泉富小路殿に入って里内裏とし
さてさて…………………【嵯峨天皇陵】から徒歩10分程で、次の目的地が近づいてきた………………道中には、こんな無人野菜販売機がありました見通しが良く、気持ち良くてくてくと歩いて…………雰囲気あるなあ到着したのは………………【後宇多天皇蓮華峯寺陵】京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町天気の良さももちろんあるが、とても清々しい空気に身体が浄化されるココロ通算114陵目(124陵分の)の『天皇陵』となる【後宇多天皇(ごうだてんのう)】1267年ー1324年日本の第91代天皇。亀山
こんにちは、元気ですか(・・?関ヶ原の戦いの時、徳川家康は、せがれがおればこんな状況にならなかったのになと、つぶやいた。すると、側に仕えていた者が、もうすぐ嫡男秀忠さまが、到着なさるでしょうと答えた。すると、家康は、その息子のことではないはといって、その後口をつむいだ。本当の関ヶ原の戦いの首謀者は、一体だれか(・・?さて、誰の息子のことをいっていたんでしょうかね。さらに、徳川家康は、純金と金銀合金の小判を江戸幕府を開くにあたり、通貨制度構想を持っていたと言われている。しかし、こ
儒教では、武力による治世を「覇道」と呼びますが、ここは「制覇の道」という勝手な意味で使ってます。そんな「制覇の道」・・・天皇陵を中心に皇族の陵墓をできるだけ回ってみる天皇陵編も実施中です。(ちなみに皇室の場合、「覇道」ではなく「王道」の象徴のような存在ですので、天皇陵編のタイトルは<王道の男>です)5月14日(日)~16日(火)、京都へ旅してきました。二日目に大覚寺を回った後、その裏手にある嵯峨天皇嵯峨山上陵をご参拝。その後、そこからから歩いて行ける別な御陵・・・
嵯峨の大きな戸建て住宅が並ぶ奥に弘法大師空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派本山「旧嵯峨御所大本山大覚寺」はありましたもともとは嵯峨天皇と檀凛皇后の離宮嵯峨院嵯峨天皇と弘法大師空海は教王護国寺(東寺)を給預、高野山を下賜するなど信頼関係で結ばれていました大沢池から流れる小川をこえて表門へ貞観18年(876)嵯峨上皇の長女で淳和天皇皇后であった正子内親王が淳和天皇第2皇子の恒寂入道親王を開山として開創いけばな発祥の花の寺であり「いけば
Lesanctuaireshinto"Gosho-hachiman-gū"àKyoto.----------2022年11月11日撮影。京都の近代的な街並みの中にある御所八幡宮(ごしょはちまんぐう)。帰り道に通ったので、ここも参拝。元は公家の中院家(なかのいんけ)が祀っていた石清水八幡宮から勧請(かんじょう)した若宮社(わかみややしろ)だそうです。勧請とは、離れた場所におられる神仏に対し、こちらの方へ来てくれと祈り願うこと。若宮とは、本宮から祭神を勧請してその分霊を祀った