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2019/03/28配信<第103代後土御門天皇>(将軍)足利義政1467~1477年応仁の乱〔東軍〕細川勝元VS山名宗全〔西軍・西陣〕戦国時代に突入1485年山城国一揆〔国人〕1488年加賀一向一揆〔100年〕吉田神社大元宮(千首和歌)「ともすれば道にまよへる位山うへなる身こそくるしかりけり」
第一〇三代後土御門天皇は、室町時代の天皇です。御父は後花園天皇、御母は藤原信子。御名は、成仁(ふさひと)。嘉吉二年(1442年)生。在位は、寛正五年(1464年)から明応九年(1500年)。文正元年(1466年)に大嘗祭が執行されましたが、翌年応仁元年に応仁の乱が起き、以降九代二二一年にわたり大嘗祭は中断しました。応仁の乱は、八代将軍足利義政の弟義視と、義政の子義尚が次の将軍の座をめぐって対立したのが発端の乱です。京都を主戦場に約十年に及んだため、後花園院と後土御門天皇は、義政の室町
10月21日が命日・忌日の有名人・著名人1500年(明応9年9月28日)58歳崩御(?)後土御門天皇陛下第103代天皇後花園天皇の第一皇子1971年満88歳没(肺炎と老衰)志賀直哉さん小説家『暗夜行路』1973年満64歳没(?)小田基義さん映画監督『幽霊男』『透明人間』『ゴジラの逆襲』1980年満77歳没(心不全?)嵐寛寿郎さん映画俳優『鞍馬天狗』シリーズ1984年満52歳没(脳腫瘍)フランソワ・トリュフォーさん映画監督『大人は判ってくれない』
本日は旧暦6月18日ですが、応永二十六年六月十八日(1419年)は、伏見宮貞成(さだふさ)親王の第一王子として彦仁(ひこひと)王が誕生された日です。伏見宮家は崇光天皇の第一皇子、栄仁親王を祖とする持明院統の嫡流に当たる世襲親王家で彦仁王は崇光天皇の曾孫にあたります。第百一代称光天皇の御世でしたが、天皇には皇子がなく弟も薨去されていたので、天皇が崩御されると後小松上皇は彦仁王を猶子に迎え皇位につけました(後花園天皇)。貞成親王は伏見宮家の二代目当主でしたから、宮家の役目を果たしたこと
本日は旧暦の五月二十五日ですが、この日は二つの天長節が重なる日です。後土御門天皇と霊元天皇です。戦国の世となり、後土御門天皇の即位時に行われたのを最後に大嘗祭が途絶えてしまいましたが、それを簡略化ながらも復活させたのが霊元天皇です。★嘉吉2年(1442年)のこの日、後花園天皇の第一皇子成仁(ふさひと)親王が誕生されました。この頃は室町幕府の時代で、騒乱が続いている時であり、後花園天皇はそうした中で政治に無関心だった足利義政に戒めの詩を送った話が残されているような頃のことです。そうし
2019/03/28に公開<第103代後土御門天皇>(将軍)足利義政1467~1477年応仁の乱〔東軍〕細川勝元VS山名宗全〔西軍・西陣〕戦国時代に突入1485年山城国一揆〔国人〕1488年加賀一向一揆〔100年〕吉田神社大元宮(千首和歌)「ともすれば道にまよへる位山うへなる身こそくるしかりけり」
エマーソンエマーソン(1803年5月25日~1882年2月27日・アメリカ)<哲学者、詩人>想像や変化を重視する楽観主義的な思想を説き、アメリカ哲学に大きな影響を与えました。代表作に『自然論』や『代表的人物』などがあります。~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~≪Shikako(しかこ)☆のおまけ≫エマーソン氏以外で5月25日生まれの歴史上人物及び有名人は…1464年後土御門天皇<第103代天
本日は旧暦6月18日ですが、応永二十六年六月十八日(1419年)は、伏見宮貞成(さだふさ)親王の第一王子として彦仁(ひこひと)王が誕生された日です。伏見宮家は崇光天皇の第一王、栄仁親王を祖とする持明院統の嫡流に当たる世襲親王家で彦仁王は崇光天皇の曾孫にあたります。第百一代称光天皇の御世でしたが、天皇には皇子がなく弟も薨去されていたので、天皇が崩御されると後小松上皇は彦仁王を猶子に迎え皇位につけました(後花園天皇)。貞成親王は伏見宮家の二代目当主でしたから、宮家の役目を果たしたことに
今回は歴史連載物語『天狗将軍』のこぼれ話です。その①『天狗将軍』の目次はこちら⬇️目次細川政元(ほそかわまさもと)の生きた時代、天皇は2代と続きました。現在の京都御所最初は後土御門天皇(ごつちみかどてんこう)。在位中に応仁の乱(おうにんのらん)が起きた。後土御門天皇は乱を避難するため、当時の室町幕府将軍、足利義政(あしかがよしまさ)の室町第に避難し10年間、そこで過ごしたのです。室町第(通称、花の御所)政元が起こした明応の政変(めいおうのせいへん)に憤慨し譲位を決意するが、臣
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。足利義尹(あしかがよしただ)や畠山尚順(はたけやまひさのぶ)の上洛を阻み、幕府を牛耳る細川政元(ほそかわまさもと)は周りから『半将軍』と呼ばれるほど強い権力を持った。細川政元将軍・足利義高(あしかがよしたか)さんは政元によって将軍になれた言わば傀儡将軍だったんだよね権力を握った政元であったが、修験道を極めるために相変わらず鞍馬山で修行を行なっていた。現在の鞍馬山明応9年(150
道灌は悲運な最期を遂げた。その死があまりに惜しかったのか、道灌にまつわる逸話や伝説が多い。後世の民草たちにとって、逸話や伝説の中で、いまも道灌は生きている。そのようにして、憂き世のわずかばかりの慰めにしていたのではなかろうか。道灌の父は、道真(資清)といい、道灌よりも長く生きて、1488(長享2)年に亡くなっている。道真も扇谷上杉家の家老として名高い武将で、そのうえ連歌の達者としても知られていた。44歳で家督を道灌に譲り、隠居後も道灌を助け、武蔵国越生(埼玉県越生町)の龍穏
本日は旧暦6月18日の立秋ですが、応永二十六年六月十八日(1419年)は、伏見宮貞成(さだふさ)親王の第一王子として彦仁(ひこひと)王が誕生された日です。伏見宮家は崇光天皇の第一王、栄仁親王を祖とする持明院統の嫡流に当たる世襲親王家で彦仁王は崇光天皇の曾孫にあたります。第百一代称光天皇の御世でしたが、天皇には皇子がなく弟も薨去されていたので、天皇が崩御されると後小松上皇は彦仁王を猶子に迎え皇位につけました(後花園天皇)。貞成親王は伏見宮家の二代目当主でしたから、宮家の役目を果たしたこと
新型コロナウイルスのニュースが連日のようにテレビから流れてくる。感染者数の動向を見て、ある知事がいう。人の行き来が盛んな首都圏4都県が一体となった取り組みを強化し、封じ込めに注力する構えだ。首都圏4都県とは、東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県。多くが平野で占めるこの地方は、人や物の流れが一体然としていて、疫病さえも人を介してこの平野を還流している。4都県とは、旧分国でいうと、武蔵、相模、上総、下総、安房の五カ国。さらに、それらの北に接する上野、下野、常陸の三カ国を合わせて、
DuringtheŌninWar(応仁の乱),Emperorhasastrongwilltoregainthepoliticalpower!まつりごとMatsurigotoその古にSonoInishieniのこりなくNokorinakuたちこそかへれTachikosokaere百敷のうちMomoshikinoUchi<歌意>(応仁の大乱から戦国時代まで武家が政権を恣にしているが、)朕は必ず(古来からの旧法の様に)政権を朝廷
前回からの続きです山門の手前の右の道を行くと、山国陵があり光厳天皇らが葬られています参道常照皇寺の横を通って行きますこの手前から、庭園を抜けてもここへ出られます上がったとこ光厳天皇山国陵・後花園天皇後山国陵・後土御門天皇分骨所住所・京都市右京区京北井戸町丸山14後花園天皇102代天皇1419~1470年在位1428~1464年室町の動乱期に生きた天皇一揆、乱、飢饉などが相次ぐ贅沢三昧の生活を続ける8代将軍・足利義政に、漢詩に託して行状を諫めたこともある天皇だったそう
天皇陛下即位をお祝い純米大吟醸「玉葉南殿の桜・橘」本数限定でJ-CASTニュース400年近くの歴史を持つ金沢の酒蔵「福光屋」が、新天皇陛下の即位をお祝いする純米大吟醸「玉葉南殿の桜」と「玉葉南殿の橘」を2019年10月8日、各3000本...[大弦小弦]万歳三唱、国民主権と象徴天皇制に矛盾沖縄タイムス戦前にタイムスリップしたかのようだった。6年前、主権回復の日の政府式典を取材し、そう思った。壇上の安倍晋三首相ら三権の長が天皇皇后両陛下を向いて...天皇のお言葉を検
千佳今日はお休みなんで、来ちゃいました。長戸よく来るなあ、お前友達いないのか。(バキッ!長戸負傷)千佳あんただってよく来てるでしょ!荀攸おいおい、騒々しいと思ったら何だよ。荀攸で、今日は何で祝日かわかっているよね。千佳「即位礼正殿の儀」が行われるからです。長戸皇位の敬称を内外に示す最高の皇室行事、って聞いているが。荀攸それで正しい。まあ言うなれば「私は天皇になりました」って内外にお披露目する日だね。千佳お披露目する日、ってそれまではどうなんです?荀攸
<第103代後土御門天皇>(将軍)足利義政。1467~1477年応仁の乱〔東軍〕細川勝元VS山名宗全〔西軍・西陣〕戦国時代に突入。1485年山城国一揆〔国人〕。1488年加賀一向一揆〔100年〕。吉田神社大元宮。(千首和歌)「ともすれば道にまよへる位山うへなる身こそくるしかりけり」
(ポルトガルのリスボンにある、発見のモニュメント。大航海時代を記念したモニュメントで、この中にはマゼランやバスコ・ダ・ガマやザビエルの像もある)第103代天皇後土御門(ごつちみかど)天皇⑱在位期間1464年~1500年なお、「⑱」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系18代遡る」という意味です。成仁(ふさひと)親王。後花園天皇⑲の第1皇子。後柏原天皇⑰の父。1442年生まれ。22歳(数え23歳)で即位。後花園上皇の院政下にあり、上皇は1471年に崩御。1467年、応仁の乱(~14
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」であり「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。さあ、お待たせしました。昨日の続きです。河内国、山城国の南を制圧した畠山義就。まだまだ、義就の攻撃の勢いが止まりません。次なる動きは・・・【十七箇所の戦い】文明15年8月22日、畠山義就は畠山政長を追い詰めるべく更なる攻勢に出るのである。実質的な支配となった河内国を更に固めるべく河内十七箇所を攻めたのである。十七箇所とは、幕府の御料所だったとこ
第一〇三代後土御門天皇は、室町時代の天皇です。御父は後花園天皇、御母は藤原信子。御名は、成仁(ふさひと)。一四四二年生。在位は、一四六四年から一五〇〇年。一四六六年(文正元年)に大嘗祭が執行されましたが、翌年応仁元年に応仁の乱が起き、以降九代二二一年にわたり中断しました。応仁の乱は、八代将軍足利義政の弟義視と、義政の子義尚が次の将軍の座をめぐって対立したのが発端の乱です。京都を主戦場に約十年に及んだため、後花園院と後土御門天皇は、義政の室町邸を仮宮として10年近くを過ごし、その後も北
嘉吉2年5月25日(1442年7月3日)、後花園天皇の第一皇子成仁(ふさひと)親王が誕生されました。この頃は、室町幕府の時代で、騒乱が続いている時代で、後花園天皇はそうした中で政治に無関心だった足利義政に戒めの詩を送った話が残されています。そうした中で成長された成仁親王は満年齢15歳で親王宣下を受け、22歳で後花園天皇の譲位により即位されました(後土御門天皇)。文正元年(1466年)に大嘗祭が執行されましたが、翌年応仁元年に応仁の乱が起き、以降九代二二一年にわたり大嘗祭は中