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◆◆◆くじょうみやび日録第二期◆◆◆美しくみやびな日本語を使うための、雅語(歌語)シリーズ。◆あわゆき【沫雪】降ったばかりで泡のような感じの雪。降りしく、今降っている、新しい雪。→冬の歌沫雪のほどろほどろに降りしけば平城(なら)の都し思ほゆるかも(大伴旅人・万葉集巻八)本来は泡=あわ(「あは」ではない)だったということです。平安時代には「あはゆき」、春の淡い雪、降ってもすぐ消える雪=淡雪、の意味に変化していきました。はかなくてうはの空にぞ消えぬ
◆◆◆くじょうみやび日録第二期◆◆◆美しくみやびな日本語を使うための、雅語(歌語)シリーズ。◆あまのがは【天川・漢河】銀河。牽牛・織女の二星が年に一度逢う中国の「七夕伝説」によって知られる天上の川。日本では天平年間から年中行事となったそうです。中国の「烏鵲河ヲ填メテ橋ヲ成シ織女ヲ渡ス」(淮南子)が、日本の万葉集では牽牛が渡るようになっているとかで、面白いです。◆かささぎ【鵲】鵲という鳥が橋になって織女を渡してくれるのですね。(織女はふわりと軽そうな
「すめらぎ」とは大和言葉で天皇のことを言います。すめらぎの逸話で日本について知るきっかけを積み重ねることができたら幸いです。現代は一夫一婦制が当たり前ですが、昔は高貴な方や権力者には何人かの妻がいることが普通でした。しかしその場合も通常は正妻がいました。わかりやすくいうと、例えば徳川の将軍であれば、大奥での正妻は御台所です。そして天皇の場合それはお后様となります。お后様は通常お一人です。しかし、後宮争いが政策としてあった時代には二人のお后が立つこともありました。しかし、本来は同時に二人の
…宣旨を発したのは【78】後冷泉天皇である。後冷泉は第70代天皇。後朱雀天皇の第一皇子で、在位は寛徳2~治暦4年。
長元七年七月十八日(1034年)東宮敦良親王と三条天皇の皇女禎子内親王の間に尊仁親王が誕生しました。本日は旧暦の7月18日ですから、990年前の本日のことです。※単純に旧暦にあてはめています。時は後一条天皇の時代のこと。この2年後にその崩御により弟君の東宮が即位されました(後朱雀天皇)。その父帝が東宮になったいきさつには、後一条天皇の前の三条天皇が、藤原道長の圧力で後一条天皇へ譲位するにあたり、その皇子の敦明親王を東宮に立てていたのですが、三条上皇が崩御されると道長の圧力に屈して敦明親王が
八月三日です。日曜日。八月に入って初めての日曜日ですね。万寿二年(一〇二五)の今日、後冷泉天皇が誕生しました。第七十代目の天皇ですね。父は、敦良親王。後の後朱雀天皇です。その第一皇子として生誕しました。母は、藤原道長の娘・嬉子です。寛徳二年(一〇四五)一月十六日に即位しました。治歴四年(一〇六八)四月十九日、崩御。享年、四十四。御記として、『後冷泉院御記』十九巻があったと伝わりますが、現物は今に伝わりません。京都市右京区の円教寺の近くに陵墓があります。平成十八年(二〇〇六)の今日、
「3歴代ノ天皇(その70)」今日は、NHK街頭録音みなさん、おはようございます今日は笑って過ごしましょうありがとう五月、皐月サッソウと皐月、五月怠けるな五月ワッハッハー(笑)楽しく國史を学び家族のためご自身のためにお役に立てれば幸いですコメントお待ちしています!5月31日はGHQの命令でNHKは街頭録音を始めました太宰治は「妙なものが聞こえてきた」と批評します世論をつくっていたのです歴代ノ天皇(その70)~孫のマー
本日は祭日が3つ重なっています。御歴代の天皇の祭日は年間102日ありますが、御歴代天皇の代数に対して祭日日数が少ないのは、このように重なっている日があるからです。『年間102日ある稽古照今の第一歩』祭日は重要な祭祀を行う日のことをいい、天皇の祭日といった場合、この祭日は命日を表します。皇居内にある宮中祭祀が行われる宮中三殿は、賢所、皇霊殿、神殿の総称です…ameblo.jp★七十代後冷泉天皇は藤原氏全盛期最後の平安時代の天皇です。生年は万寿二年(1025年)。御名は親仁(ちかひと
5月22日が命日・忌日の有名人・著名人337年満65歳没(?)コンスタンティヌス1世さんローマ皇帝748年(天平20年4月21日)68歳崩御(?)元正天皇陛下第44代天皇草壁皇子の長女1068年(治暦4年4月19日)44歳崩御(?)後冷泉天皇陛下第70代天皇後朱雀天皇の第一皇子1885年満83歳没(肺炎)ヴィクトル・ユーゴーさん小説家『レ・ミゼラブル』⇒『ヴィクトル・ユーゴー(1802年2月26日生~1885年5月22日没、詩人、小説家、作家)』19
1020年(寛仁四年)3月、御堂の落慶法要が行われ、藤原道長の娘達の三后、太皇太后の彰子、皇太后の妍子、皇后の威子の行啓を伴う、盛大な儀式であった。2年後の1022年(治安2年)7月には金堂の供養が行われ、三后に加え、後一条天皇と皇太子の敦良親王が、行啓している。藤原道長は、造営した、法成寺に居住した。1025年(万寿二年)~1027年(万寿二年)の間に、藤原道長は、敦明親王の女御、三女の寛子、敦良親王の妃、六女の嬉子、三男の顕信、そして、皇太后で、次女の妍子と、四人の子供達に次々
「72第七十代後冷泉天皇」今日は大伴家持みなさん、おはようございます8月27日は奈良時代の歌の名手大伴家持が亡くなられました第七十代後冷泉天皇後朱雀天皇(六十九代)の第一皇子母は藤原道長の娘の嬉子です関白は藤原頼通1052年、末法到来釈迦の滅後正法、像法を経て末法=この世の終わりに入ったとされました1053年、宇治平等院鳳凰堂建立阿弥陀堂はあたかも極楽浄土を現出しました10円玉の表です因みに100円玉の表は桜です最後までお
《新古今和歌集・巻第十・羈旅歌》922後冷泉院御時、上(うへ)のをのこども旅の歌よみ侍りけるに左近中将隆綱(たかつな)蘆(あし)の葉(は)を刈(か)り葺(ふ)く賤(しづ)の山里に衣片敷(ころもかたし)き旅寝をぞする☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆後冷泉院の御代、殿上人たちが旅の歌を詠みました時に左近中将隆綱葦の葉を刈って屋根を葺いた賤の山里の家で、衣の片袖を敷いて、独り
…第70代【42】後冷泉天皇は、母は藤原嬉子(キシ)、紫式部の娘・大弐三位(ダイニノサンミ)が乳母を務めた。母・嬉子の兄で関白・藤原頼通が権力を持った時代で、外戚としての地位を保とうと、同時期に3人の皇后が立ち三后並立となった。しかし皇子に恵まれず、天皇の崩御後には藤原氏を直接に外戚としない後三条天皇が即位した。その帝の治世中の永承7年、末法の時代を迎える。この年に頼通は平等院を建立し、各地で仏塔や仏像が盛んに造立された。摂関政治に取っては
◆◆◆くじょうみやび日録第二期◆◆◆第一期から断続的に楽しんでいる「女房気分de書写」。現在は『栄花物語』を読み、巻一から順にひとつずつ好きな場面を書写という形で一人密かに進行中です。本日は、巻三十六をご紹介いたします。先日ご紹介したように、すでに全巻書写を終えて製本までしているので、これからあと最後の四十巻まで、毎週金曜日にUPする予定です。◆巻三十六「根あはせ」:みやびな帝・後冷泉天皇の華やかな後宮寛徳2年(1045)正月~康平4年(1061)ころ。後朱
さてさて………………【龍安寺(りょうあんじ)】京都府京都市右京区龍安寺御陵下町13有名な【石庭】を見ることも【龍安寺】に入山した目的であったが、ココロにはまだ他に大切な目的があった。それは、【庫裡】の横をすり抜けていくような場所にあった………………前回、受付まで来た際に個人タクシーのドライバーさんに『天皇陵は【龍安寺】に入山しないと参拝出来ないですか』って質問したが………『う〜ん、ちょっと分からないです💦』って答えだった『皇陵墳墓の参拝以外通行禁止龍安寺宮内庁』さっきまで、多
こんばんは~しつこく平安時代の官職について調べております。ブロ友様よりお教え頂いたのですが、「内大臣」も「令外官」なんですってね。そして調べてみたら、「内覧」も「令外官」らしいですよえ、「内覧」って、太政官から奏上される公文書を天皇に先んじて内見すること、という”行為”じゃないの?!と、混乱要は「内覧」とは上記のような行為と、その行為を行う役職と、両方を指す言葉らしいですそんなの、知らんっつーの「内覧」の宣旨は、摂政・関白だけでなく、大臣や大納言へも下されることが
突然ですが今上天皇の諱(いみな=お名前)をご存知でしょうか?そう、「徳仁」(なるひと)様とおっしゃいます。<以下敬称略>今上天皇は第126代天皇。その前の上皇様は「明仁」(あきひと)。昭和天皇は「裕仁」(ひろひと)。大正天皇は「嘉仁」(よしひと)。明治天皇は「睦仁」(むつひと)・・・あ~もうええわ!とにかく皇室男子の諱(いみな)にはやたらと「仁」の字がつく。今上天皇の弟・秋篠宮皇嗣殿下だって「文仁」(ふみひと)だしね。
《新古今和歌集・巻第七・賀歌》749永承(えいしよう)元年、大嘗会(だいじやうゑ)悠紀方(ゆきがたの)屏風、近江国(あふみのくに)守山(もりやま)をよめる式部大輔資業(しきぶのたいふすけなり)すべらぎをときはかきはに守(も)る山の山人(やまびと)ならし山かづらせり☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆永承元年、大嘗会悠紀方の屏風、「近江国守山」を詠んだ歌式部大輔資業天皇を永久に
《新古今和歌集・巻第七・賀歌》727後冷泉院をさなくおはしましける時、卯杖(うづゑ)の松を人の子に賜はせけるに、よみ侍りける大弐三位(だいにのさんみ)相生(あひおひ)の小塩(をしほ)の山の小松原(こまつばら)今より千代(ちよ)の陰(かげ)を待たなん☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆後冷泉院が幼くていらっしゃった時、卯杖の松を人の子にくださった折に、詠みました歌大弐三位いっしょ
《新古今和歌集・巻第七・賀歌》725天喜(てんぎ)四年、皇后宮の歌合に、祝(いはひ)の心をよみ侍りける前大納言隆国住江(すみのえ)に生(お)ひ添(そ)ふ松の枝(えだ)ごとに君が千年(ちとせ)の数ぞこもれる☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆天喜四年、皇后宮の歌合に、「祝い」の趣を詠みました歌前大納言隆国住江に生え加わる松の枝ごとに、君の長久の年数がこもっていることだ。☆☆
《新古今和歌集・巻第七・賀歌》723永承(えいしよう)四年内裏歌合に、池水(いけのみづ)といふ心を伊勢大輔池水(いけみづ)の代々(よよ)に久しく澄みぬれば底の玉藻(たまも)も光見えけり☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆永承四年の内裏の歌合に、「池の水」という趣を伊勢大輔池の水が世世にわたって久しく澄んでいるので、池の底の玉藻までも、光が見えることだ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
さてさて………………【建勲神社】の初参拝を終えたココロは【船岡山】を下山する…………ココロ愛読の観光マップ本を見て、次の目的地とした。【船岡山】を下山して、少〜し歩くとその目的地に到着した………………その目的地は『火葬塚』と書かれてあった。『火葬塚』『火葬塚』とは………………火葬場所を記念して設けた施設。火葬骨を納める『火葬墓』とは性格を異とする。古代・中世において、火葬場所を『火葬塚』とし、遺骨を別の墳墓に納める方式は、最も格式の高い葬法であり、公式にこれを行えるのは天皇とそ
《新古今和歌集・巻第六・冬歌》628東(あづま)に侍りける時、都(みやこ)の人に遣はしける康資王母(やすすけわうのはは)東路(あづまぢ)の道の冬草(ふゆくさ)茂りあひて跡(あと)だに見えぬ忘水(わすれみづ)かな☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆東国にいました時、都の人に贈りました歌康資王母東国の道の冬草が茂りあって、人の足跡さえ見えない忘れ水であることよ。☆☆☆☆
長元七年七月十八日(1034年)東宮敦良親王と三条天皇の皇女禎子内親王の間に尊仁親王が誕生しました。本日は旧暦の7月18日ですから、989年前の本日のことです。※単純に旧暦にあてはめています。時は後一条天皇の時代のこと。この2年後にその崩御により弟君の東宮が即位されました(後朱雀天皇)。その父帝が東宮になったいきさつには、後一条天皇の前の三条天皇が、藤原道長の圧力で後一条天皇へ譲位するにあたり、その皇子の敦明親王を東宮に立てていたのですが、三条上皇が崩御されると道長の圧力に屈して敦明親王が
70さびしさに宿を立ち出(いで)て眺むればいづこも同じ秋の夕暮良暹法師(りょうぜんほうし)【出典】『後拾遺集』巻四・秋上・333「題しらず」++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++寂しさに耐えかねて家を出てあたりを眺めると、どこも同じように寂しい秋の夕暮れだよ。++++++++++++++++++++++++++++□□□□□□□【和歌コードで読み解いた新訳】□□□□□□□(※『和歌暗号(わかコード)』とは、