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足利義満は治天の君である後円融上皇を自殺未遂まで追い込みました。後円融上皇も足利義満に必死に抵抗しましたが、孤立無援で、男として、人として、己の無力を思い知らされることになります。足利義満は後円融上皇の周辺の女性全てに手を付けるという、ややこしい方法で、追い詰めていくのですが、それ以上のことはやりません。これが日本的ですね。通常、中国やヨーロッパでは力の弱った君主や皇帝や王様はその場で殺して、自分がその地位につきます。足利義満のような回りくどいやり方はしません。武力でガツンです。足利義満も武士
1383年2月1日、三条公忠の娘で、後宮に入っていた厳子が後円融上皇に刀の峰で滅多打ちにされ、重傷を負うという事件が起きます。頭から血をだらだら流れるぐらい、したたかに打ち付けたようです。原因は出産後、里帰りから戻ってきたばかりの厳子が、支度が整わないことを理由に夜伽に応じなかったので、後円融上皇が逆上した為です。後円融上皇は足利義満との密通を疑いもしました。後円融上皇にしてみれば、厳子は妻のくせに、足利義満との密通を微塵も疑われないように振舞わないのか?上皇の怒りが爆発しました。話は
*4月27日付記事の続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回はEメールのやりとりで、テーマは中世の怪物・足利義満。本日は、室町殿君臨のおはなし。あんみつ“先生、永徳三年(1383)二月に後円融上皇が愛妾の三条厳子(たかこ)を刀の峰で滅多打ちにする事件が発生しました。父親の内大臣・三条公忠と後円融の母・崇賢門院がなんとかとりなして厳子を手当てし、院御所から逃げさせます”ぜんざい“騒ぎ
大御所・足利義満の強大な権力によって後円融上皇は天皇としての尊厳を徹底的に奪われたために心疲れ果て36歳の若さで崩御した。それから10年余りの歳月が過ぎた。この間、大御所・義満の自己顕示欲は増長していく。既に武家・公家より法皇として崇められていた彼は、自身の身近な人物達も「天皇家」として遇されることを望んだ。だが公家だけでなく一般庶民からの反発も必至であったため、大御所・義満は世論操作を行ったのである。ここで利用したのが「野馬台詩やまたいし)」という平安
大御所・義満の治世に朝廷で君臨した”治天(ちてん)の君”は、後円融(ごえんゆう)上皇であった。彼は義満と同い年であり、さらに彼らの母親が姉妹という従兄弟同士でもあった。後円融上皇が院政を始めた際、朝廷より政務補佐として二条良基(よしもと)が推挙されたが、これを上皇は拒否された。それは二条良基が大御所・義満派筆頭であったからと思われた。この事が大御所・義満を刺激した。大御所・義満は院政を支える廷臣に義満派の公家を次々と就かせたのである。