ブログ記事19件
2019/03/18配信<第93代後伏見天皇>1299年「一遍上人絵伝」
第九三代後伏見天皇は鎌倉時代末期、持明院統の天皇です。この当時、伏見天皇の父である後深草天皇とその同母の弟であった亀山天皇の時代に始まった皇位争いにより皇室は持明院統と大覚寺統に分かれていました。御名は胤仁(たねひと)。御父、伏見天皇の第一皇子、御母、藤原経子。花園天皇は異母弟。弘安十一年三月三日(1288年4月5日)誕生。伏見天皇の譲位により永仁六年(1298年)十歳で即位、伏見上皇が院政を執りました。しかし、正安三年(1301年)大覚寺統との対立により、在位僅か三年で大覚寺系の後二条
2019/03/18に公開<第93代後伏見天皇>1299年「一遍上人絵伝」
ベルベル(1847年3月3日~1922年8月2日・アメリカ)<発明家>電気的に音声を伝達する方法を考案し、磁石式電話機を発明しました。やがて設立されたベル電話会社は、現在の世界的情報通信会社・AT&Tの前身となっています。~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~≪Shikako(しかこ)☆のおまけ≫ベル氏以外で3月3日生まれの歴史上人物や有名人は…1288年
5月17日が命日・忌日の有名人・著名人1246年(寛元4年閏4月1日)23歳没(?)北条経時さん鎌倉幕府第4代執権北条泰時の嫡男1336年(正慶5年/延元元年4月6日)48歳崩御(?)後伏見天皇陛下第93代天皇伏見天皇の第一皇子1510年65歳没(?)サンドロ・ボッティチェッリさん画家1727年満43歳没(?)エカチェリーナ1世さんロマノフ朝第2代ロシア皇帝ピョートル1世の妃1868年(慶応4年4月25日)35歳没(斬首)近藤勇さん新選組局長193
第九三代後伏見天皇は鎌倉時代末期、持明院統の天皇です。御名は胤仁(たねひと)。御父、伏見天皇の第一皇子、御母、藤原経子。花園天皇は異母弟。弘安十一年三月三日(1288年4月5日)誕生。伏見天皇の譲位により永仁六年(1298年)十歳で即位、伏見上皇が院政を執りました。しかし、正安三年(1301年)大覚寺統との対立により、在位僅か三年で大覚寺系の後二条天皇に譲位させられます。その後、後二条天皇の崩御に伴い延慶元年(1308年)異母弟の花園天皇が即位してしばらく後、伏見上皇が院政を停止されま
本日は旧暦の4月23日ですが、文永2年4月23日(1265年5月10日)は、後深草天皇の第二皇子熈仁親王が誕生された日です。後の伏見天皇です。(単純に旧暦にあてはめています。)この頃、後深草天皇(持明院統)と同母弟で次の天皇になられた亀山天皇(大覚寺統)は、その父君の後嵯峨天皇崩御の後、治天の君を巡って争われ鎌倉幕府の仲介により交代で天皇を出すこととなっておりました。熈仁親王は亀山上皇の猶子となって親王宣下し、その皇子である後宇多天皇の皇太子となって、後宇多天皇の譲位により即位され
93rdEmperor"Go-Fushimi"第93代後伏見天皇○両統迭立之儀NorthernandSouthernCourts(北條)貞時、議定して、御深草・龜山二帝の後を迭立せしめ、限るに十年を以ってす(水戸藩「大日本史」より)。Name御名:Emperor"Go-Fushimi"後伏見天皇Go-FushimiIn後伏見院PersonalName御諱:Tanehito胤仁Father御父:Emperor"Fushimi"伏見天皇Mo
【祝・即位礼】天皇陛下へお菓子を献上している老舗おすすめお取り寄せ3選BIGLOBEニュース山口県の錦帯橋近くで創業から約80年、こだわりのシンプルな材料と手間暇を惜しまない製法で洋菓子と和菓子を作り続けている「風月堂」の、天皇陛下献上...【語り継ぎたい天皇の和歌】民を案じる深くて豊かな心ZAKZAK第93代後伏見天皇の皇子であった光厳天皇は、南北朝時代の北朝初代天皇として知られています。鎌倉幕府の滅亡、室町幕府誕生の端境期に、足利尊氏...「即位の礼」から「祝賀パレー
京都府の南山城村に鎮座する恋志谷神社へ。恋愛成就や縁結びなど、女性の守り神として有名。神社へ向けてかかる恋路橋を歩いて渡ると願いがよく叶うとだそうです。祭神は、後醍醐帝の妃・恋志谷姫。元弘元年、後醍醐帝が笠置で挙兵された時、持病の療養の為に伊勢にいた姫は、病身でありながら笠置に駆け付けましたが、既に笠置城は陥落、帝は笠置を後にしており、会う事が叶わなかったとか。元々、病身であった姫はこの地に辿りつきましたが長旅の疲れから持病が悪化、病床で「帝が恋しい」と
新天皇が即位されいよいよ今日から新しい時代の始まりです。ところで日本の歴史の中で天皇に即位したにも関わらずその事実を抹殺されてしまった天皇がいるんですね。それがここ京北にある常照皇寺を開山した光厳天皇です。この光厳天皇は天皇と言う呼称こそ与えられてますが実は歴代天皇125代(今日から126代)の中には含まれていないんですね。その理由には鎌倉時代末期から南北朝時代の争乱のいざこざに巻き込まれた悲運の時代背景があるのです。光厳天皇が即位した西暦1331年という時代は両統迭立と呼
<第93代後伏見天皇>1299年「一遍上人絵伝」。
第90代天皇亀山(かめやま)天皇在位期間1260年1月(旧暦11月)~1274年なお、「㉗」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系27代遡る」という意味です。恒仁(つねひと)親王。大覚寺統。後嵯峨天皇㉗の第7皇子。宗尊親王(鎌倉幕府第6代将軍)の異母弟、後深草天皇㉖の同母弟。後宇多天皇の父。源頼朝の同母妹・坊門姫の子孫。1249年生まれ。両親から寵愛され、兄からの譲位を受ける形で10歳(旧暦での数え11歳)で即位。父上皇は亀山天皇の子(後宇多天皇)を皇太子にして次の「治天の君」を定
北朝第一代光厳(こうごん)天皇は鎌倉幕府末期の天皇で、南北朝時代の北朝初代天皇です。御父は後伏見天皇、御母は西園寺寧子。諱、量仁(かずひと)一三一三年生。在位は一三三一年から一三三三年。朝廷が持明院統と大覚寺統に分裂していた鎌倉時代末期、両統から順番に天皇を出す両統送立(りょうとうてつりつ)が幕府主導で行われていました。その持明院統の後伏見天皇の第三皇子として量仁皇子は誕生します。元徳元年(一三二六年)七月、大覚寺統の後醍醐天皇の皇太子になられます。そして量仁親王の
祭日とは天皇が崩御された日のことです。第九三代後伏見天皇は鎌倉時代末期、持明院統の天皇です。御名は胤仁(たねひと)。御父、伏見天皇の第一皇子、御母、藤原経子。弘安十一年三月三日(一二八八年四月五日)誕生。伏見天皇の譲位により一二九八年十歳で即位、伏見天皇が院政を執りました。しかし、一三〇一年大覚寺統との対立により、在位僅か三年で大覚寺系の後二条天皇に譲位させられます。その後、後二条天皇の崩御に伴い一三〇八年に異母弟の花園天皇が即位してしばらく後、伏見天皇が院政を停止されましたので、こ
大河内山荘荘園を出て、嵐山公園に戻りました。広場付近に、後伏見天皇(第93代。在位1298-1301)、後嵯峨天皇(第88代。在位1242-1246)、亀山天皇(第90代。在位1260-1274)の火葬塚があるそうです。3人とも鎌倉時代後期の天皇で、後嵯峨天皇の後、後深草天皇(第89代)から始まる「持明院統」と、亀山天皇から始まる「大覚寺統」に分かれました。後伏見天皇は持明院統の流れを継ぐ天皇です。(火葬場の写真は借りました。)日没が近く、街灯が点き始めました。
儒教では、武力による治世を「覇道」と呼びますが、ここは「制覇の道」という勝手な意味で使ってます。そんな「制覇の道」・・・天皇陵をできるだけ回ってみる天皇陵編も実施中です。(ちなみに皇室の場合、「覇道」ではなく「王道」の象徴のような存在ですので、天皇陵編のタイトルは<王道の男>です)7月初めに土・日で京都観光したことを何回かに分けて記事を書きましたが・・・今回、嵐山で天皇陵と天皇火葬塚をちょっと回りまして・・・ここで改めてアップしようと思います。まずは、天龍寺内に
祭日とは天皇が崩御された日のことです。第九三代後伏見天皇は鎌倉時代末期、持明院統の天皇です。御名は胤仁(たねひと)。御父、伏見天皇の第一皇子、御母、藤原経子。弘安十一年三月三日(一二八八年四月五日)誕生。伏見天皇の譲位により一二九八年即位十歳で即位、伏見天皇が院政を執りました。しかし、一三〇一年大覚寺統との対立により、在位僅か三年で大覚寺系の後二条天皇に譲位させられます。その後、後二条天皇の崩御に伴い一三〇八年に異母弟の花園天皇が即位してしばらく後、伏見天皇が院政を停止されましたので
【任助法親王】任助(にんにょ)親王は、後伏見天皇の八世皇孫にあたります。真言宗御室派の総本山「仁和寺」の第20世門跡(皇族の住職)となり「厳島御室」と称されました「宮島」の「大聖院」に数年間滞在して布教活動をされている途中に薨去されております。天正12年(1584年)のことで、享年60才。そのお墓を訪ねてきました*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆【お墓】JR宮島口から線路沿いに200メータぐらい(西に)行った所にあります門扉は閉まっていますが
南北朝時代(日本)Ⅰ【序再】目次天皇南北朝の天皇暦南朝北朝95花園天皇(1308-1318)文保2年(1318年)2月26日96後醍醐天皇(1318-1331)元徳3年(1331年)9月20日[1]北1光厳天皇(1331-1333)正慶2年(1333年)5月25日建武3年(1336年)南1後醍醐天皇(1336年12月-1339)北2光明天皇(1336年8月-1348)延元4年(1339年)8月15日南2(97)後村上天皇(
【平成29年5月12日(金)参拝】後伏見天皇火葬塚所在地:京都市右京区嵯峨亀ノ尾町(嵐山公園亀山地区内)4月25日以来、三度目の嵐山公園です。南朝系の亀山帝と北朝系の後伏見帝が同じ火葬塚ってのが興味深い。
【平成29年5月11日(木)参拝】引き続き、深草北陵後伏見(ごふしみ)天皇陵御陵名:深草北陵陵形:方形堂所在地:京都市伏見区深草坊町後伏見天皇(ごふしみてんのう、弘安11年3月3日(1288年4月5日)-延元元年4月6日(1336年5月17日))は、鎌倉時代の第93代天皇(在位:永仁6年7月22日(1298年8月30日)-正
【平成29年4月25日(火)参拝】亀山陵のあとは、ふたたび嵐山公園内の火葬塚へ亀山天皇火葬塚所在地:京都市右京区嵯峨亀ノ尾町(嵐山公園亀山地区内)
【平成29年4月4日(火)参拝】後嵯峨陵参拝のあとは、火葬塚が近くにあるので寄って来ました。後嵯峨天皇火葬塚所在地:京都市右京区嵯峨亀ノ尾町(嵐山公園亀山地区内)渡月橋北詰を川沿いに西に行き嵐山公園亀山地区方面へ途中に小督塚発見。(小督局稿で追記)案内図横の階段を登っていきます。
任助法親王陵墓入口任助法親王陵墓(線路を挟んだ道路側から撮影)任助法親王念持仏が祀られた阿弥陀堂(大聖院境内)世界遺産「厳島神社」がある宮島へと渡るフェリー乗場近くにあるJR宮島駅の西側の踏切付近に任助法親王の陵墓があります。法親王(ほっしんのう)とは、男子皇族が出家し僧籍に入った後に、親王宣下を受けた場合の称号です。任助親王は伏見宮貞敦親王の第四子で大永5年(1525)に生まれます。第93代後伏見天皇の8代後の子孫で、後に奈良天皇の御猶子となっています。