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さて、今度の27日(日)の「敬天愛人フォーラム銀座」は「西南戦争」についてです。なぜ、西南戦争が起こったのか?西郷隆盛は戦う気があったのか?西郷さんは明治6年に下野してから何も語らなかった為、謎の多い人物となっており、考察が沢山あります。流れは、明治6年の政変(征韓論)からの西南戦争ですので、西南戦争の話に入る前に、まず「征韓論」について、私が短くまとめてお話します。ビックリ!"ビ!"の字の征韓論ですのでご期待下さいませ
サー・ハリー・パークス(英国公使)からサー・D・ブルック・ロバートスンへ江戸1874年(明治7年)4月14日日本人は自分について人から言われたことを全部鵜呑みにして想像力でそれをふくらませるという誤りを犯し、その結果自分たちの島国は日本人を収容するには狭すぎると思いこんだ。今度の馬鹿げた台湾遠征を見ても分かる通り、これは比喩的ばかりでなく、文字通りに受け取られる。台湾問題では日本人は自負心に迷わされたのであり、その自負心にすっかり迎合した勧告に迷わされたのです。主としてそんな勧告をした
薩摩藩士、桐野利秋(人斬り半次郎)を感じたくて「旧岩崎邸庭園」に行ってみました。西郷さんが参議を辞職して、鹿児島に帰るという時、「桐野利秋」は、与えられた地位も財産もあっさり捨てて、この「旧岩崎邸庭園」を去り、西郷さんについて帰郷しました。ここ「旧岩崎邸庭園」は、越後高田藩の江戸藩邸だったところで、維新後、戊辰戦争の戦功が認められ陸軍少将の地位についた「桐野利秋」の東京での居宅として払い下げられました。今では敷地も狭くなっていますが、それでも今も広大な敷
2020年8月15日に「終戦記念日特集」として、太平洋戦争の敗戦の原因について当ブログサイトでアップした記事があります。(下記のリブログ記事)終戦を決定づけた天皇の「玉音放送」の内容を検証しています。さらに、韓国を日本が植民地化したきっかけとなった「征韓論」についても論評しています。要点は以下の通りです:ペリー来航後に、韓国を日本の配下にしようと言い出したのはだれか。例の「征韓論」の言い出しっぺは誰かだ。ほとんどの日本人は、「征韓論」という説を西郷隆盛が推進
♪おはようございます~~MIGAKIYA夢工房大嶋です。「虫よ虫よ五ふし草の根を絶つな」毎週月曜幕末志士から気合をいただいておりますZOOM交流会開催中です。今回は、西郷隆盛、西郷は、2度死ぬ、薩摩藩加治屋町生まれの西郷は、貧しい下級武士、初めてつかえた、上司からもらった書を生涯懐に入れていたという、それが、「虫よ虫よ五ふし草の根を絶つな」だ、幕末史上最高の将とされる島津斉彬に見いだされ、重用、その斉彬の死に絶望した月照和尚とともに自殺、生かされた西郷に大島への島流
ロシアは、側近がゼントカンのように、プーチンを射殺する!もしくは、400人と言われる暗殺部隊が、ゼレンスキーを葬るか!(これは多くには望まれてイナイ))これが早期解決の道。長期戦になれば、(そこまでゼレンスキーの命がもつか?)プーチンが不利、クーデーターか革命の危惧が拡大する!!(長期的には解決するのはロシア国民)ロシア国民が冬将軍!!!その場合、脅しの一発!プーチンが核を使う危惧が十分ある。これは、第三帝国の対ソ戦と酷似、(バルバ
大久保利通と内務省大久保利通と西郷隆盛内務省を作ったのは大久保利通国を経営するのに国を引っ張るという作用は絶対にいるが国内法に基づいて引っ張るのか国内法の上位概念の機関があってそこが引っ張るのかでは法的意味は違うと思う・・・戦前の内務省と、現在の総務省国内法の下の省庁中国共産党と言う任意団体が国家を領導する体制国内法に縛られないは違う概念とも言える・・・西郷隆盛と大久保利通が決別した本当の理由|リ
🍀✨「岩屋梓梁」❓「易断政府」❓初めて目にした言葉に❓❓❓読んで❓❓❓❓❓(´⊙ω⊙`)!でも気になって検索して読み進むと?壮大な目眩く歴史ロマンの渦にヾ(*’O’*)/⊙﹏⊙( ̄ヘ ̄;)(。ŏ﹏ŏ)学校で学んだ歴史も科学もDSによって嘘で塗り替えられて我々は「まやかしの世界」で搾取されて生かされてる奴隷だったと昨年ようやくお花畑の眠りから目覚めかけたのですがコレまた日本の歴史から消し去られたという「岩屋梓梁」なる人物とは?どえらい人だったようで「波乱万丈
オイラの辛気臭いネタをご覧いただき、ありがとうございます。さて、またまた「ムンムンの切り札@チョンさん」でありますw韓国・外務大臣「約束を守れと日本がムチャを言い続けているので、両国関係は悪化している」韓国のチョン・ウィヨン(鄭義溶)外相は29日、ソウルでことし1年の外交を振り返る記者会見を開きました。ソース:https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211229/k10013409031000.html...fxya.blog129.fc2
娘に「西郷隆盛ってさ、勝海舟に争い事をするのは良くないってことを教えてもらったのに、何で西南戦争してり、征韓論を主張するの❓」と質問されました💦「ママ、正直あんまり歴史得意じゃないからよくわかんないなぁ…とにかく政府に不満があったんじゃないの❓」と当たり障りのない回答をしたところ学習効果ないね‼️へっ⁉️あなた西郷隆盛にも上から目線なのね😅きっと西郷隆盛もお前もな‼️って言ってると思うよー🤣
気にかかった文章】なぜ日本が、しかる道を辿ったかと言えば、それは、世界特に東亜の客観情勢から言っても、当時における日本国民の自覚から言っても、前述のごとく東亜の安定を確保することは日本を守ることであり、日本を守ることは東亜を護ることであって、大和民族の興廃、存亡と、東亜民族のそれとは完全に一致していたからである。大西郷の巨眼は~極東平和永遠の政策の為には、国内の物情なお騒然たるの状態にもかかわらず、敢然として征韓の帥を出さんとした処にこそ、実に大義の前には怖れを知らざる興
板垣退助~自由民権運動に火をつけた男~相原尚褧(しょうけい)・・・・オレはあいつを襲撃した男さ。「板垣死すとも自由は死せず」と言ったかって?オレの耳には聞えなかったよ。でもな、その後のあいつの言動を見ると、襲うまでもなかったかな。板垣がいようがいまいが、自由はしなないさ。板垣・・・・なぜ、政府から金をもらって外国旅行へ出かけたかって。いや、それは、あの、海外のこともしらなければ、議会政治は、、、。板垣退助のプロフィール征韓論をめぐる政争に敗れて政府を去り、民撰議院設
日本人が知っているようで知らない歴史西鄕さんだけが征韓論だったわけではない②西鄕隆盛の征韓論には、様々な説があり、「最初から武力攻撃を想定していた」、いや「交渉だけで、命や武力は関係ない」などいろいろです。わたし流にいえば、「死に場所」を求めていたのではないかということです。西鄕は、月照との入水自殺に失敗して自分だけ生き残りました。元々自分を認めてくれた島津斉彬がなくなった時点でもすでに命を捨てているかもしれません。さらに、折りが合わない島津久光に切腹を命じられたものの、
日本人が知っているようで知らない歴史西鄕さんだけが征韓論だったわけではないこれだけは、いえると思います。日本人は,世界の中で仲よく暮らしたい。古来ほとんどそう思ってきたと思います。近代になってからは,特にそうです。ただ、帝国主義の時代がそれを許してくれなかったことは確かです。仲良く暮らしたいが、身の危険が迫ったら普通自分で身を守ります。江戸幕府という地方分権政権では、こうした時代を乗り切れないと思った日本は、かつて日本をまとめていた天皇を中心に中央集権のしくみに体質改善して
西郷隆盛を「日本帝国主義」の先導者のように見なす歴史観の是正が始まっている。■転送歓迎■R03.08.29■40,512Copies■7,547,301Views■無料購読申込・取消:http://blog.jog-net.jp/■1.「日本の三大悪人」韓国では、西郷隆盛は征韓論の主張者として、朝鮮征伐の豊臣秀吉、日韓併合の伊藤博文と並んで「日本の三大悪人」という憎悪の対象になっているようです。[北、299]我が国の通説でも、明治6(1873)年の征韓論は、日本が朝
『歴史のなかの邂逅3』ー司馬遼太郎●維新のあと始末ー⑥✪彼は征韓論の巨魁でしたが、朝鮮に出兵しようとは思っていないんですよ。朝鮮を日本と同じレベルに参加せしめて、同じ歩調でやろうと考えていた。彼は大使として漢城(はんそん)、北京に行きたいと身近な者に漏らしていたそうです。ですから勝海舟の三国同盟という構想は西郷の頭にあったわけです。ただそうすると、ロシアと必ず衝突する---これもやっぱり覚悟しているんです。ロシアと衝突したら、負けるか、負けないかどうかわからないけれども、他国を引き
今回は「西郷隆盛」や「大久保一蔵」、「岩倉具視」についてです。7月22日(木)の記事(大河ドラマ青天を衝け第二十三回「篤太夫と最後の将軍」)で、まとめきれなかったところをまとめていきます。西郷隆盛(1827~77)は、薩摩藩士です。下級武士として尊皇攘夷運動に活躍、薩長同盟(連合)を結びました。戊辰戦争では参謀を務め、1870年に参議となって廃藩置県に尽力します。しかし、征韓論によって下野、1877年には西南戦争を起こして敗北、自刃したとされています
日本史で学んだ事柄にその後の歴史研究で史実が覆されていることがある。「征韓論」もその一つであった。「征韓論」とは文字通りに読めば「韓国を征伐する」であり、武力で朝鮮を支配しようとする主張のことである。この論を唱えた主役は、西郷隆盛とされている。日本史では、確かにそう習った覚えがある。しかし、このころの文献、史料のどこにも、西郷がこれほどはっきり「征韓」を唱えたという記録はないという。では、西郷の考える「征韓論」とはどのようなものだったのだろうか。検証を加えたい。明治政府が次第
*6月7日付記事の続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君は、今回は近現代史のしらたま教授との歴史トークで、テーマは大久保利通です。本日は、明治六年政変のおはなし。あんみつ「しらたま先生、岩倉使節団に同行し、ベルリンでビスマルク首相に歓待された直後の1873年3月19日、大久保利通は木戸孝允ともども、本国からの帰国命令を受けました。留守政府が難題山積ということで大久保・木戸が必要になったということですけど、使節団一行が外遊のあいだ、留守
○中央公論社刊1990年復刊原本武侠世界社大正元年刊○岡本柳之助嘉永五年生まれ。和歌山藩士。津田出に引き立てられ、新政府の軍人となる。陸奥宗光と同世代の人。竹橋事件に連座し官職を退く。浪人となり、アジア主義・国権主義に傾注し朝鮮や支那の封建制打倒の運動に参加した。明治四十五年上海で客死した。●岡本柳之助風雲回顧録大院君という人①頑迷の人○竹橋事件で免官になった岡本は、朝鮮の封建制を改革し、近代化の道を求めて朝鮮と日本の連携の実現に努めていた。金玉均の死後、支那は袁世凱
2021-02-2704:59:21|日記第31話征韓論岩倉使節団の洋行中、西郷、板垣たちの留守部隊は次々と新たな国造り施策を実行してきた。彼らの仕事は国内政策に留まらず、列強諸国との外交諸般の他、近隣諸国との新たな条約締結にも及んだ。そこで、まず最初に取り組まなければならない国。それが隣国『李氏朝鮮』である。当時李氏朝鮮は、摂政の興宣大院君が極端で過激な鎖国・攘夷政策を取っていた。好むと好まざるとにかかわらず、一番厄介で縁
○中央公論社刊1990年復刊原本武侠世界社大正元年刊○岡本柳之助嘉永五年生まれ。和歌山藩士。津田出に引き立てられ、新政府の軍人となる。陸奥宗光と同世代の人。竹橋事件に連座し官職を退く。浪人となり、アジア主義・国権主義に傾注し朝鮮や支那の封建制打倒の運動に参加した。明治四十五年上海で客死した。●鳥尾小弥太と西南の役の回顧④篠原国幹との初見●初対面の挨拶をすませて、灯下に対座して色々征韓についての話をした。篠原は髭のない肉付きのよい大男で、粗末な薩摩飛白の羽織に袴を着けて座
歴史書には、敗者の真意は容易にうかがい知れない敗軍の将は兵を語らず🍀ではないけれど男が愚痴っぽく話すのは聞いてて楽しいものではないでも、歴史の多くは失敗から学ぶ別にスキャンダルを追いかけてるわけではないが本人にも遺族にも触れられたくない部分はあろうと思われるが毛利の知恵袋小早川隆景は何を考えていたのだろう天海和尚は何を考えていたのだろう西郷隆盛の征韓論は教科書では当時西郷が主戦論を唱えたかのように記憶しているが実は後日、政府主導で征韓⁉️が為された歴史の中
どうも。「征韓論」ですな、近代日本史で暗記した人もいるかもしれないですね。西郷隆盛は対李氏朝鮮外交については語っていますが、「征韓論」は一度も話してません。日本が新たな政治体制になったので、外交を新たにしようとしたときに遣わした外交官たちが李氏朝鮮側の非礼に怒って言い出したものが「征韓論」なのであって、西郷の言ったことは『自分があらためて談判しにいく』というものでしかない。でも、李氏朝鮮側の対応からいくと西郷が行ったところで『それならば、はい』と言うものではない・・・つまり、
147年前の今日征韓論政変が発生したそうです朝鮮半島をめぐって西郷隆盛ら征韓派と大久保利通ら反対派が対立し西郷は政府を辞任し板垣退助らは翌日に辞任しましたその後西郷は政府に不満を持っていた武士(士族)を率いて西南戦争を起こし自刃しました大久保は西南戦争後不平士族によって暗殺され板垣は自由民権運動を指導し自由党を結成しましたこの政変は後の日本に大きな影響を与えました西郷が死に大久保が死に木戸
「晋どん。もうここいらでよか・・・」西郷隆盛は征韓論に敗れ、明治政府を追われた。西南戦争を仕掛けたが、当初から勝つ見込みのない戦いだつた。政府軍に攻められ、もうはやこれまでというとき、側近の別府晋介にこう言った。これが西郷隆盛の最後の言葉と伝えられている。明治維新の立役者の一人である西郷隆盛が悲運の死を遂げたのはあまりにも悲しく、日本国は偉大過ぎる人を失った。徳川幕府に江戸城を明け渡しさせ、江戸が戦火となることを回避した。これは幕府役人の勝海舟の功績とも言えるが、西郷隆盛だからこ
西郷南洲手抄言志録を最近読んで理解できるようになりました。それは毎年年末に日本テレビ系列で放送されている年末時代劇「田原坂」を見てからでした。私は高校の日本史で征韓論は、明治維新の諸改革による不平士族の不満を抑えるための朝鮮征服論だと教えられてきました。しかし、その後歴史は薩長と土肥の権力闘争だとしました。「敬天愛人」を生涯に渡り座右の銘とした西郷隆盛の人間的器量は2度の遠島特に沖永良部島での読書に明け暮れた頃からだということでした。佐藤一斎の言志四録を持ち込んでいたことが記録に残っ
こんにちはこがみのりです(=゚ω゚)ノ昨日は中森護さんとむすび大学の収録でした西郷隆盛は死んでいなかった!?という話はよく聞きますがじゃああ、死なずに、その後の人生どうしていたのか?というところが気になりますよね(笑)よく言われるのは、台湾に渡った説ですが今回の中森さんが語るワンワールド史観で見る西郷さんは台湾どころか●●●に行った!!という、考えもしないようなお話しでしたがそれでも、スゴク納得のいくお話しでした(笑)これ
鎖国から近代化に舵を切り、世界大戦の幕開けとなる明治の歴史。金本位制って、資本統制という概念からすれば一見正しい考え方のようだけど、家計でいえば「収入が増えない限り消費出来ない」と同一なんだろうな。借金してでも将来のため、という信用と借出しがなければ社会経済が発展するわけないってことですかな。さて、この時代もロシアは暴力団で中国は泥棒うそつき国家、挟み撃ちされた朝鮮半島はどっちつかずのチンピラ(口だけ番長)だったと。特に朝鮮族はやっかいな連中で、征韓論の本当の意味がよくわかった