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今日は、幕末の志士にして明治維新以降は政治家・官吏として活躍、立法・行政・司法の三権分立を推進し〝近代日本司法制度の父〟と称される江藤新平の命日・没後150周年にあたります。新平は1834(天保5)年、佐賀藩士・江藤胤光の長男として佐賀城下八戸村で生まれました。12歳の時に藩校弘道館に入学した彼は人並みはずれた頭脳を持っていたものの、実家が貧しかったために学費が払えず、進学もままならなかったとか。1850年に枝吉神陽が結成した義祭同盟に参加して尊王思想など
ブログ村に参加しています。ぽちっと押していただけるとうれしいです。にほんブログ村サウスカロライナ州の予備選はトランプ氏が勝利を確実のものとしました。この世界一寸先は闇と言われますが、共和党内ではトランプ氏に勝てる人はいないようです。こんにちは!今回も国立公文書館へ行ったことについて書いてみます。↑は、1946年に自作農創設特別措置法を公布するとした文書です。という言うことで、今回は農地改革について書いてみます。明治時代の
ブログ村に参加しています。ぽちっと押していただけるとうれしいです。にほんブログ村2月ではありますが、少し暖かくなってきたように思います。しかし週の後半は寒くなる予報が出ています。寒いのもあと少しでしょう。こんにちは!今回も国立公文書館へ行ったことについて書いてみます。1945年12月衆議院議員選挙法が改正され、女性が選挙に参加することが認められました。あわせて、選挙権は20才以上、被選挙権に関しては25才以上に下げられました。
皆さま、こんにちはすごく久しぶりにSwitchのどうぶつの森をやりましたコロナの時期にお友達とハマって2年間くらいやっていたのですが、やり込みすぎてSwitchの方は飽きてしまい今は携帯のどうぶつの森をやってます端末は変わりましたが、どうぶつの森愛は変わってません(笑)😀お気に入りのゲームは、どうぶつの森と初音ミクの音ゲーです!!他のゲームもやってみたいのですが、ハマるととことんやってしまうのでなかなか他のものに手を出す余裕がありませんやり込み要素がなくて、でも楽しいゲームとかあ
すブログ村に参加しています。ぽちっと押していただけるとうれしいです。にほんブログ村先週の私のブログで雪が降るという予報が出ていますが、天気予報の精度はどれくらいでしょうか?といったことを書いたかと思いますが、見事に当たっていました。天気予報はなかなかのものです。こんにちは!今回も国立公文書館へ行ったことについて書いてみます。↑の写真の下方が国会開設の勅諭についての史料です。ということで、今回は国会開設の勅諭について書きます。国
意見の純粋さだけで、かれらは国家をふたつに割るほどの対立をしてしまったのである。■■転送歓迎■■No.3418■■R06.02.07■■4,183部■■■1.西郷の遠大な防衛構想■__________朝鮮国の暴慢無礼はもはや許し難いものがある。ただちに出兵すべきだ。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄明治6年6月12日の閣議で、参議・板垣退助が強硬論を吐いた。これが誕生したばかりの明治新政府をゆるがす征韓論の閣議における第一声であった。明治元年以来、新政府は朝鮮に国交回復を5年以
ブログ村に参加しています。ぽちっと押していただけるとうれしいです。にほんブログ村2月に入り関東地方は一段と寒くなってきたように思います。このブログを出す予定の2/5(月)は雪が降るとの予報も出ています。天気予報の精度は果たしてどれくらいなのでしょうか?こんにちは!今回も国立公文書館へ行ったことについて書いてみます。↑の写真の上方が民選議員設立建白書です。ということで今回は、民選議員設立建白書について書いてみます。民選議員
今週火曜日(1月23日)は、維新の英傑、西郷隆盛の生誕196年であった。没しては146年余。今も、鹿児島を中心に歴史好きの人たちから広く愛されている。明治4年の「御親兵」創設が維新後の功績しかし、僕は西郷をさほどかってはいない((18年6月10日付日記:「今夜はNHK大河ドラマ『西郷どん』、しかし西郷隆盛は本当に慈悲深い英雄だったのか、あえて異論」を参照)。もちろん倒幕と戊辰戦争への功績は大きく、その点では文句なく第一の功労者だろう。しかし明治維新後は、全く光芒を欠いていた。
冬に体験したいスポーツは?⛷️▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう•••••cut•••••・1874年(明治7年)1月12日、板垣退助らが愛国公党をつくる→明治政府の参議だった板垣退助は、征韓論に敗れたあと、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らと、愛国公党をつくります。日本で最初の政党ともいわれます•••••cut•••••
明治維新からの明治政府の国の運営は必ずしも、順調ではありませんでした。順調というよりも、産みの苦しみ、前途多難、苦難の連続でした。内政的にはごちゃごちゃで、一進一退を繰り返しながら、急激な国の発展をとげていたという状況です。結果的には上手くいったのですが、そのプロセスは常に苦難がつきまとういばらの道でした。そういう明治時代の中で、外交はどうだったのかというと、あの内政状態でよくやっているなという印象です。とにかく、朝鮮半島状況が本当にひどいので、頭が痛い状況ではありました。当時のお隣の国たちの
西郷隆盛は武力で朝鮮と戦うつもりではなかったという説を我々は知らない。西欧列強から非文明国扱いだった日本が文明国になるまでに何があったのか?征韓論と西郷隆盛の真相です。
或るときの顔かねもおんなも名誉も地位もなんにもいらねえような顔をするみつをお金も地位も、名誉も要らぬ。女と書いてあるから、男の場合だろう。「女」の部分は棚に上げ、お金、地位、名誉が要らない。この言葉に触れ、西郷隆盛さんを思い出した。西郷隆盛さんは、だから、始末に困ると言われた。お金も受け取らない、興味がない。地位も名誉も要らない。征韓論に敗れ、下野した人らしい。お金、地位、名誉、すべて要らない。
明治政府は武士の力で江戸幕府を倒した形になっていますが、その味方である武士の特権を廃止する改革を行っていきます。これは凄いことで、一旦、政権を獲れば、仲間を優遇し、汚職や特権をどんどん与えて、私腹を肥やすのが普通です。しかし、明治政府はそういうことと真逆の政策を行います。ここら辺の判断が奇跡なのです。だから成功したともいえると考えます。具体的にお話ししますと、武士階級の特権をはく奪します。1869年(明治2年)士農工商という身分制度を廃止します。華族・士族・平民という形にします。1871年(明
ある動画を観ていたら、日本は昔から外交が下手だったと言い切っていたコメンテーターがいました。こいつ、歴史を知らないな・・・と思いました。よくそんな不勉強で顔出しして、コメンテーターをしているなと呆れましたが、日本が外交下手になったのは第一次世界大戦以降のことです。それ以降はずっと下手くそで、戦後になるともっと酷くなり、土下座外交とか、謝罪外交だとか、大国に何も言えず、YESマンになり切っているさまは滑稽です。現在も、増税メガネは海外に行っては日本の評判を落とすことを繰り返しています。どうしてそ
さて、西郷隆盛の征韓論についてである。西郷は「私が使節として朝鮮に行けば必ずその地で殺される。そうすればそれが開戦理由になって好都合だ。(だから私を使節として朝鮮へ行かせてくれ)」という意味のことを言ったとされる。それはいいのだが、まず考えなければいけないのは、「西郷が殺される」というのは使節として行った場合の最悪のケースだということである。最悪のケースなんだから誰もそうなることを望んでないのである。西郷本人はそれを望んでたかのように伝えられてはいるが、では征韓論に賛成した留守政府の西郷以外の面
日本はこうして「征韓論」に至った明治の初め、日本の朝鮮への外交文書への朝鮮の対応は次のようなものでした。閔妃政権は、まず接見が先だとし、しかも、江戸時代以来の礼服着用を求めてきたのです。日本側は、洋式大礼服、つまり洋服のスーツが世界の常識だというわけです。当たり前です。日本は明治の世となり、文明開化の時代、世界の常識に習うことが現在でいうところの国際社会の常識でした。さらに日本側は、接見するなら宴饗大庁門の通行を接見の条件として主張しました。宴饗大庁門とは、
今日から2回に分けてどうして日本が韓国を併合したかについて、事実に基づいた確認をしていきたいと思います。日本が朝鮮を併合したとき、朝鮮の国号が「大韓帝国」だったので、韓国併合ということになっています。ここでは、「朝鮮」という国名を使わせていただきます。多くの教科書は、無理矢理併合=植民地にしたように読み取れる書き方をしています。軍を解散した…解散させた外交権を奪った…などです。無理矢理というのは、韓国(朝鮮)の人の意思に反してということです。私の見解は、というより事実
1日の終わりに哲学で運命愛を深めるひと時。令和哲学者Noh先生と5人の侍で開催している令和哲学カフェ、第757回。「韓関係のアモール・ファティ!〜日韓兄弟国家宣言でワンワールドになる〜」月曜日:長野広樹さん火曜日:黒田麻衣子さん水曜日:大川真さん木曜日:堀江直樹さん金曜日:長岡美妃さん古代~近代までの日韓の歴史に迫る。金曜日は1392年~1897年を担当。昨日は長岡さんより征韓論について超大作のお話がありました。世界は植民地支配の真っただ
19世紀後半の清国1871(明治4)年に日本は清と対等な日清修好条規を締結しました。しかし、清と朝鮮の関係は宗主国と属国との長い関係にありました。日本は、この事実が存在することを知ってか知らずか最初は、朝鮮に対等な関係を求めたはずです。しかし、門前払いにされて、その非礼な態度にそれが征韓論になったことは、前述したとおりです。そして、征韓論が現実になっていったというべきでしょう。教科書では、征韓論の西郷隆盛と国内整備優先主張の大久保利通が対立と記述してい
常に日の本を背負っていた西郷隆盛岩倉使節団が外遊をしている間、重要な決断はしないことになっていたようです。しかし、時代が時代であったし、この時代も急速に帝国主義が世界を覆っていきます。そもそも、江戸幕府が倒れたのも目的はどうあれ、岩倉使節団が約2年もかけて世界を回ることによるのも帝国主義によるものといってもよいはずです。留守番の責任者であった西郷隆盛たちは、なにもしないわけにはいかなかったでしょう。その一つがいわゆる「征韓論」です。外交に対する非礼以上に非情で暴
「征韓論」を再考していく意味満洲事変のその計画から実行までの張本人石原莞爾、戦後「東京裁判」で尋問されたことがあったそうです。石原莞爾は、検事に向かっていったそうです。「日本の近代史全部を裁くというなら、まずここにペリーを連れてくるのが先決だ」半藤一利著「あの戦争と日本人」(文春文庫)あの戦争と日本人(文春文庫)Amazon(アマゾン)結局石原莞爾は、戦犯として裁かれませんでした。石原莞爾を法廷に呼んだらアメリカ軍の企みすべてが暴かれただろうと書
弱虫大名『福島正則』豪傑は虚像秀吉九州征伐天正十四年十二月一日。秀吉は九州征伐の命を下した。そしてまず、日本名小西弥十郎の名をもつ朝鮮人金隆佐に云いつけ、釜山浦より朝鮮米五万石を買付けさせた。ついで石田三成らに集めさせ、先に兵庫尼ガ埼に積ませてあった五万石と共に、朝鮮の高麗船まで微発し、これを今の下関である当時の赤間関へと運ばせた。まだこの時は朝鮮征伐の五年前だが、秀吉はもう既に朝鮮を属国扱いにしていたものらしい。(秀吉の野望は明国の北京周辺を占領し、天皇を取り巻く公家集団を
第122回日本の心を学ぶ会明治三傑の外交政策と岸田政権【お知らせ!】熱血硬派のぼるくん公式ツイッターができました!フォローよろしくお願いいたします。https://twitter.com/noborukunch------------------------------------【SNSのフォローもお願いします!】ブログ「一介の素浪人」http://blog.li...www.youtube.com東京都内にて日本の心を学ぶ会(渡邊昇代表)「明治三傑の外交政策と岸田政権」お話し致し
さて、旅行最終日。晴れではなかったけれど、雨は上がってくれました。ホテルからは昨日は見えなかった桜島がちゃんとくっきり見えたよ〜✨このあと周遊バスに乗り、西郷南州顕彰館へ向かいました。うちのパパは結婚前から西郷さんの大ファンで、鹿児島に行ったら絶対行きたかったらしい。途中、バスのアナウンスで、「左手に見えます塀には西南戦争のときの銃弾のあとが多数残されています」ってたしかに穴がほげてますよね💦しかし、寂れた古い資料館でうちの家族以外誰一人いなかった💧街中には新しく維新館が建てら
今回は、明治の政治家・軍人の板垣退助の墓参りです。品川神社の境内裏に、墓地はあります。元々は、高源寺に墓地があったが関東大震災で被害を受け世田谷区北烏山に移転し墓はそのままになったそうです。板垣退助とは天保8(1837)年に土佐藩士300石の家に生まれた。旧姓は乾。戊辰戦争の功績によって土佐藩の家老格に出世し、明治新政府では参議となったが、明治6(1873)年に西郷隆盛らと征韓論を主張して破れ、翌7年には土佐に帰り、同志と共に立志社を創立して自由民権運動を展開した。立志社を中心とした
つい大人買いしたお菓子は?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう・1877年(明治10年)2月15日、西郷隆盛が政府に兵を挙げる→征韓論に敗れ、薩摩(鹿児島)に帰っていた西郷隆盛。自分がつくった私学校の生徒が政府の火薬庫を襲い、政府ににらまれると、ついに兵を挙げます(西南戦争)。
・昔、週刊誌に連載中に一部読んだ記憶がある。・特に関心のある明治維新のあたりについて読むか・・と「22」巻目を手に取った。このあたりは司馬遼太郎さんの「翔ぶが如く」がカバーしている時期で、新生「日本」が全速力をあげ、離陸中で、失速の恐れはないのか?とハラハラしながら読んだものだ・。・士族の扱いが大問題で、中央で活躍していたが、郷里での士族たちの乱に「巻き込まれた」江藤新平、西郷隆盛に大きくページが割かれている。・第3章「明治6年の政変劇」の「征韓論とは何だったのか?」、「日
(2023年1月25日朝7時の気温はマイナス1.4℃)「何十年に一度」という大寒波が東京にやってきた。幸い杉並の我が家ではこれといった影響もなく、せいぜい北側の外水栓が凍結してしまった程度である。(蛇口が全く動かない地味な絵ヅラでど~もすみません)そうは言ってもウォーキングをしていると寒さが身にしみる。八ヶ岳南麓ではマイナス5℃でも「あ、そうなの」というだけだが、東京だとやたら寒く感じてしまう。慣れというものは恐ろしいものだ。東京の過去最低気温は今から147
知人某が訥庵の書幅を入手した。蜻洲呑尽又征韓蜻洲呑み尽して又た韓を征し欲混八紘為一丸八紘を混ぜて一丸と為さんと欲す休道英雄徒黷武道ふを休めよ英雄徒だ武を黷すのみと蠻夷今日膽猶寒蠻夷今日膽猶ほ寒し訥庵学人と読んだ。詠史詩、豊臣秀吉が題材である。まさに尊王攘夷の詩だ。後の征韓論や八紘一宇といった覇権主義の考え方が、幕末の尊攘思想家から出ていたことを如実に示すという意味で、貴重な書幅である。アジア侵略の萌芽は幕末にあり、やがて国
東京が一番寒かった日というのは、1876(明治9)年1月13日のことで、この日東京は氷点下9度2分を記録したという。誰か寒いギャグでも言ってしまったのだろうか。きっと路面が凍結して、大いにスベったことだろう。おっと、明日から大学入学共通テストだというのに、「今日は○○の日」の誘導に乗って、口を滑らしてしまった。明治六年の政変(1873年)により、西郷隆盛をはじめとする参議の半数が辞職したのみならず、軍人、官僚約600人が職を辞することとなった。ということは、明治9年にせごどんはかごんま