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上野公園の西郷像の後ろに、ひっそりと残された彰義隊の墓です。三ノ輪の円通寺に小さな彰義隊の墓地がありますが、上野公園には、この1基があるのみ。司馬さんの「花神」から。上野の寛永寺は将軍家の旦那寺で、家康の謀僧の天海が開いた。・・・・・・徳川家は代々京から幼少の宮をひとり貰い受け、寛永寺に座らしめ、「日光輪王寺宮」と称して、家康以来代々の将軍の霊を祭祀せしめていた。この幕末にも、日光輪王寺宮が上野にいた。・・・北白川宮能久(よしひさ)親王である。・・・・・・「寛永寺は金貸しなので
上野公園、不忍池の近くにある五條天神社です。景行天皇の御代、日本武尊さんが、このあたりをお通りになられたときに、大己貴命、少彦名命にご加護に感謝し、この地に両神をおまつりしました。上野公園は、ヤマトタケさんの時代からはじまって、王仁博士、天海僧正、江戸幕府、明治維新、彰義隊、西郷さん、関東大震災から現代まで、歴史を俯瞰できます。
おはようございます。今日は、天候が良くない朝になりました。このところの天候で、家族全員喉が痛いとのことで、私も少しガラガラしています。のど飴は、必須になり、土曜・日曜は自宅での静養になる予定です。熱さえなければいいですけど。今日のスカイツリーは、雲に霞んだ様子で1枚、足立市場前はつくばエクスプレスの通過が撮れました。このところつくばエクスプレスが多く撮れます。週末、お出かけ予定の方、私の分まで楽しんでください。おまけ、先週、上野公園を歩いている時に、ある事を
上野公園には、彰義隊の墓がある。彰義隊は、将軍・徳川慶喜さんの警護を目的に結成され幕府の命で、江戸の治安維持を行い、上野戦争で、明治新政府軍に敗れた。鳥羽・伏見の戦いのあと、徳川慶喜さんは、江戸へ移り、新政府に恭順し上野の寛永寺に蟄居した。さらに、江戸城を、無血開城し、水戸へ退いた。しかし、彰義隊は、寛永寺に残り続けた。勝海舟は、武力衝突を懸念し、彰義隊に解散を促したが、新政府への敵対姿勢が改まらなかった。ついに、新政府軍は、寛永寺の彰義隊を包囲し、攻
今日は移動図書館が頼んだ本を1冊持ってきてくれました。返却もあったのですが、「レッドオクトーバーを追え」は延長してもらいました。本を読むのが遅くなっている気がする。でもこれは、読んでる途中でネット見たりしてサボるからだな。前にこの本が来た時、下巻は比較的きれい(古い割に)だけど、上巻はよれよれと書きました。なんかね、上巻でめげる人がいるのが分かる気がする。始めの方が、戦艦や潜水艦の型式や状態なんかがズラズラあって、そういうのがよく分からない私はちょっと退屈でした。で、読み飛ばし気味に
明治の絵師から見た「人斬り半次郎」小林秀雄は「歴史の魂」と題した講演で、晩年に多くの歴史小説を遺した森鴎外に触れながらこう言う。「歴史の本当の魂は、僕らの解釈だとか、批判だとかそういうようなものを拒絶するところにある。そういう風にあの人は考えたに違いない。」異論はない。しかし歴史を叙述しようとする時にはある程度、小林の言に背を向ける必要がありはしないか。過去の出来事を叙述することは多分に物語り行為であり、物語り行為は「語り手」という「視座」を得て初めて成り立つものだと
雪マークになってましたが雨で良かった、、、と言いたいところですがみぞれっぽい雨メチャクチャ寒いです◆アメブロで何かとお世話になっております“なお”さんのお気に入り彰義隊ですいやーちょいと男前じゃ~あ~りませんか渋沢平九郎悲しきかな若干、20才で自決幕末のイケメン!渋沢平九郎はなぜ20歳で自決したのか?その人生を解説!|和樂web美の国ニッポンをもっと知る!和樂webのTwitterでは最近、イケメン級国宝なんてあそびが流行っていて、イケメンな国宝を勝手に選んだりし
京都で読み終えてました。これで十分なのに、上野まで幕末熱の勢いに任せて読み始めたのが、想像もしてなかったよい巡り合わせで終えられました。満を持して「花神」ここに完!下巻は長州藩は、各戦線において勝った。で始まる四境戦争の総括から。その後、上野戦争(彰義隊討伐)でもうひと盛り上がりと思っていたら、それは巻末の方で、その間最後(最期)に向けての西郷隆盛との関係、比較を中心とした解説風が延々と。物語としては面白くないけど、大村益次郎の最後(最期)、更には維新とは何だったのかが語ら
先日蔵六さん(大村益次郎)を巡る京都旅をしたばかりですが、改めてこうして上野にまで来ることができるとは!「花神」で蔵六さんが如何に火災を起こすことなく彰義隊を攻略するか、西郷を筆頭とする薩摩勢との軋轢含め腐心するのが下巻クライマックスなのです。ということで、上野巡りの締めくくりです。西郷隆盛像(それにつけてもいい青天)西郷さんの後ろ側に彰義隊の墓明治政府をはばかってあからさまにお祀りできなかったそうですが、こうして後年その場所にしっかり顕彰されて良かった。上野駅へ帰る方
派閥の解体そんな話を聞いてちょっと驚く裏金問題というのが政治家にとってそこまで大きな問題だったのか、、と辞職する人もいたりちょっと意外な感じがする昔からの慣習のようなものでもありだからこそ今までそれが当たり前のように守られてきて記載しないのがルールみたいになっていたのだとしたらそれが発覚することによってこうまでいろんな問題になってしまういくつもあるような党が、本当に消えるとしたら今回この問題を明らかにしてくれた人は大手柄なのか
徳川義軍波渕砦『別名』なし『所在地』千葉県市原市五井4912付近『城主』彰義隊『遺構』なし『城郭形態』砦『駐車場』なし『歴史』徳川義軍波渕砦は慶応4(1868)に新政府軍(薩摩藩・長州藩・佐賀藩・熊本藩・鳥取藩・佐土原藩・大村藩・岡山藩・久留米藩・津藩・尾張藩・福岡藩)と旧幕府軍(彰義隊)の間で起きた戊辰戦争の一つ『上野戦争』で敗退した彰義隊が陣を構えた場所だと言われています。徳川義軍波渕砦跡地
本日は上野寛永寺です!明治維新の戊辰戦争に江戸で抗戦した佐幕派の隊。鳥羽・伏見の戦に敗れた徳川慶喜は江戸へ帰り,上野寛永寺に謹慎して恭順の意を示したが,慶喜側近の旧幕臣らを中心とする強硬派約800人は官軍に対して徹底抗戦を唱え,尊王恭順有志会に集まり,やがて1868年3月16日,彰義隊を結成した彼らは,頭取に慶喜側近の旧幕臣渋沢成一郎,副頭取に天野八郎をえらび,浅草本願寺を屯所とし,慶喜護衛を唱えて江戸市中巡邏(じゆんら)に当たった旗本や諸藩浪士の隊中に投ずる者が多く,
カテゴリー「読書2024」を作りました。第一号は梶よう子さんの「雨露」先月の後半に借りて、ん?梶さんのものは新刊が出たらともかく読もうと思ってどんな話かも知らずに借りたけれど、彰義隊かあ、負け戦の話は辛いしなあ、どうしようかなあと直ぐには読まず、先にお産婆さんの話や付喪神の話、猫と話ができるようになっちゃう話やらを読んで図書館はまだ年末年始休みだし、読むものなくなっちゃったから読んでみようかなと、手に取りました。深く考えてのことではないけれど、幕末のあれこれは割と徳川贔屓なんですよ。
上野公園の西郷さん。この角度からスカイツリーも見えます。上野公園と言えば犬を連れた西郷さんですね。西郷さんの像の後ろには彰義隊戦死者碑が。薩長軍を相手にたたかった彰義隊です。
〇山岡鉄舟1836-1888〇旧旗本。剣術家。江戸開城の交渉者として西郷隆盛と交渉する。維新後西郷の懇請で明治15年まで明治天皇侍従となる。座禅をよくし全生庵を創建する。〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇輪王寺宮の側近覚王院気義観との交渉の記録です。彰義隊の上野戦争で登場する人物ですが、詳しく出ている史料は珍しいと思います。〇原題は「慶応戊辰四月東叡山に屯集する彰義隊及諸隊を解散せしむべき
図書館システム更新の為今日から来月14日まで休館となってます。図書館が休みなのはちょっと寂しい・・。でも、休館明けにはきっと使い勝手が良くなっていると期待したいです。今回読了したこの本は彰義隊に焦点を当てた作品で幕末に起こった悲惨なこの出来事は小説として読んだことがなかったな~と予約していて図書館の休館前に読めて良かったです。雨露Amazon(アマゾン)こういうのってトップの人物の生きざまを描きがちですが今回は川越藩右筆の父を持ち次男として生ま
〇山岡鉄舟1836-1888〇旧旗本。剣術家。江戸開城の交渉者として西郷隆盛と交渉する。維新後西郷の懇請で明治15年まで明治天皇侍従となる。座禅をよくし全生庵を創建する。〇大正8年全生庵発行。これは昭和38年に復刻されたものです。大正8年当時には山岡にかかわった人たちも多数存命の時期で貴重な文献です。〇輪王寺宮の側近覚王院気義観との交渉の記録です。彰義隊の上の戦争で登場する人物ですが、詳しく出ている史料は珍しいと思います。〇原題は「慶応戊辰四月東叡山に屯集する彰義隊及諸隊を解散せしむべき
現調で行った南千住の続きみたいなもんです。上野の黒門円通寺というお寺が南千住にあります。その境内には上野寛永寺から移築された黒門が残っています。1868年5月15日上野寛永寺元々は上野に塀居した徳川慶喜の警護として結成された「彰義隊」2千あまりと、新政府軍一万五千との激しい戦闘がありました。数と新型兵器に勝る新政府軍に、刀や旧式銃で対抗する彰義隊は敵うはずもなく、約半日の戦闘で死者二百名以上を出し敗北します。野ざらしとなった彰義隊の遺体を、当時の円通寺住職たちが弔
寛永寺両大師(開山堂)にて参拝の後鐘楼脇の小さな門より、隣の寛永寺輪王殿へこの門、谷中にあった幸田露伴旧宅の門を移築したものだとかちなみに露伴の小説『五重塔』の主人公は根本中堂を手掛けた大工の棟梁がモデルなのだとか輪王殿前に立つのが、寛永寺旧本坊表門表から見ると徳川将軍家の菩提寺として、天海が創建した寛永寺寛永2年(1625年)、3代将軍・徳川家光の時代に貫主の住坊となる本坊が建てられました本坊があったのは現在の東京国立博物館のあたりしかし慶応4年5月
こんばんは~先日からお伝えしている上野公園の続きです。11月28日に行ってきました。東叡山寛永寺の子院である「清水観音堂」にお参りした後は、こちらもお参りしました。「彰義隊のお墓」↑わたしの本格的な歴史好きは新撰組から始まったので。彰義隊にも敬意を払っておりますなので、上野公園へ来た時はなるべく(ひとりの時は必ず)お参りするようにしています。秋の盛りに来たのは初めてかも。廻りに銀杏がたくさんあって、みんなキレイに黄葉していてステキこの方の周囲に、まるで装飾のようにキレイに
こんばんは~昨日の続きです。「不忍池辧天堂」へお参りした後は、「清水観音堂」へお参りしました。この二つのお堂は、道路や階段を挟んで向かい合っていて、近いのですが。お手洗いに寄った関係で大回りになり、京成上野の裏、交番横の入口から、公園内に戻りました。わたし、なんかこの交差点が好きなんですよ広小路の雰囲気が残っているようで。幕末、上野の山が戦場となった時、この辺りに幕府方の兵たちが集っていたのかな?(ビミョーな傾斜で横に広いから、迎え撃つ感あり)新政府軍は、松坂屋の辺りに陣取って
こんばんは~今日は上野の森美術館へ行ってきました「モネ展」ホントは先月に行く予定だったのですが、インフルエンザになって行けなくなってしまい、今回リベンジ急に思い立ったので、入場予約が午前中に取れなくて午後14:30~だったので、午前中はどこか、紅葉がキレイなところへ行こうと思い、調べた結果、こちらへ立ち寄りました東京大学本郷キャンパスご存知こちらは赤門↑↓以前に来たときは、脇の小さな扉が開いていて通れたのだけど、今日は閉まっていました。以前の記事はこちら↓『東大散策①』先日人
慶応三年(1867)十月に新選組に逮捕されながら、十二月に解放された工藤剛太郎は、明けて慶応四年(1868)一月、鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、御所日ノ御門の警護にあたりました。のちに主君稲田邦植への出兵命令を伝えるため、勅書を奉じて淡路島へと向かいましたが、伏見方面は兵乱が未だ収まっていなかったので、嵐山から丹波へと迂回して帰国したといいます。そして稲田邦植に従い西宮出兵、更に高松藩征討に参加したのち、稲田勢は東征大総督有栖川宮熾仁親王に従い江戸へと進軍します。ちなみにこれらの稲田家
毎度~と言うことで、補給に行った呑兵衛そーいやあのお店、期間限定まだやっとるのかな「良記餃子」へ今だけと言ってるがもう3ヶ月位やっとらんか大盤振舞しすぎ~んじゃ、遠慮無く「レモンサワー」を自販機の水より安いん?水分補給じゃないアルコール補給ww勿論、水の補給もしましたよ。冷奴(中華タレ)。この他餃子もオーダー。2杯目。この強炭酸が素敵これで99円とは献血前のチェック用注射あと。アルコールが回ってきたか、痛みが和らぐ(笑)折角なので千住宿を散歩しましょうか…千
薩摩の戦国武将・島津義弘(1535‐1619)は関ヶ原の戦いにおける「敵中突破」の退却行で有名ですが、その島津義弘が関ヶ原の戦いで着用していた甲冑に関して、興味深い話を見つけました。島津義弘の甲冑ですが、実は幕末期の幕臣・窪田治部右衛門(鎮勝。浪士組取締役)が所持していたというのです。これは窪田と交遊があり、お互いの屋敷をたびたび訪問し合っていたという西村茂樹(佐野藩士。のち貴族院議員)が語っているのですが、曰く余、一日その家を訪(と)いし、床の間に一領の具足を置く。草摺二枚