ブログ記事41件
○ブログを振り返ってみると、昨年の12月27日に霧島山高千穂峰に登っている。したがって、約四か月振りの高千穂峰登山だった。昨年12月の登山については、次のブログに書いている。・テーマ「日向国の邪馬台国」:ブログ『高千穂峰登山』高千穂峰登山|古代文化研究所(ameblo.jp)○何故、そんなに霧島山高千穂峰に登るのかと言うと、それは霧島山高千穂峰が天孫降臨の世界山だからである。つまり、日本はここから始まった。少なくとも、日本最古の史書とされる「古事記」や「日本書紀」は、そのよう
○昨日は、2024年正月元旦で、それを祈念して、ブログ『日本人最初の言葉』を書いた。今どき、『日本人最初の言葉』を理解している人も少ないのではないか。○霧島山高千穂峰に、天孫降臨なさった彦火瓊々杵尊が、地上で最初に発なさった詔、此処は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此処は甚吉き地。が、『日本人最初の言葉』と言うことになる。○この言葉に、「韓国」と表記されていることから、それを朝鮮半島だと勘違いなさる。しかし、それはあり得ない。何故なら
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愛する豊かで幸せな貴方へ山梨県富士吉田市上吉田5558御祭神は、木花咲耶姫命様、彦火瓊々杵命様、大山祇神様です。景行天皇四十年(110)日本武尊が東方遠征の折に当地を御通過、大塚丘の上にて富士山を遥拝され、小祠を営んだ事を発祥とする。延暦七年(788)甲斐守紀豊庭により現在の位置に社殿を建立、以後逐次造営改築がなされ、現在の本殿は元和元年(1615)の建立である。隋神門(国の重要文化財)本殿(国の重要文化財)本殿の中のお写真は、マップに載ってたものを撮りました。手水舎(国の重要文
○テーマ名を「天草:海の民の島」から「海の民の肥国をさるく」に改めたのは良いけれど、いまだに、天草に関しても、五島列島に就いても、一回も書いていない。と言うのも、何故、天草や五島列島を訪問したのか。その話で、すでに23個ものブログを書いている。○こうなると、このテーマ「海の民の肥国をさるく」の話は、相当続くと思われる。幾ら何でも、そろそろ前置きはこれくらいにして、肝心の天草の話に戻りたい。○「天草:海の民の島」の旅に出たのは、2022年6月21日のことだった。天草が最近気になり出したのは、何
〇2022年6月21日から23日にかけて、熊本県天草を訪れて来た。それで、テーマを『天草:海の民の島』と題して、ブログを書くこととした。ところが、その後、7月8日から10日にかけて、長崎の五島列島へ行くこととなった。それで急遽、テーマを『海の民の肥国をさるく』に変更して、まとめて書くことにした。〇そうこうしているうちに、最初のブログ『くまもと地名』を7月1日に書いてから、昨日21日までに、21個のブログを書いている。だが、まだ一回も満足に天草や五島列島の話を書いていない。〇それは最初に、何故
○去年、2021年の初登山は正月16日、大隅半島の甫与志岳へ登っている。・テーマ「日向国の邪馬台国」:ブログ『2021年初登山:甫与志岳』2021年初登山:甫与志岳|古代文化研究所(ameblo.jp)○甫与志岳と言っても、ご存じ無い方が多いのではないか。しかし、日本の歴史上、甫与志岳は有名な山なのである。ただ、その事実がまるで確認されていないに過ぎない。地元の肝付町でも、甫与志岳は内之浦三岳として認識される程度でしかない。三岳登山国見・甫与志(ほよし)
○前回、ブログ『天孫降臨の尊、彦火瓊々杵尊が見た風景』を書き、前々回、ブログ『日本人最初の言葉』を書いて、天孫降臨の尊、彦火瓊々杵尊が高千穂峰山頂で発した、日本人最初の言葉、此処は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此処は甚吉き地。がどういう意味なのかを説明している。ただ、その説明が長くなって、今回もその続きとなる。それ程、この彦火瓊々杵尊の言葉の意味するところは大きいと言えよう。○整理すると、まず、韓国は「からくに」と訓んで、中国本土を意
○前回、ブログ『日本人最初の言葉』の最後に、こう書いている。・高千穂峰山頂に立つと、天孫降臨の尊、彦火瓊々杵尊が発したと言われる詔、此処は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此処は甚吉き地。の風景がどんなものであったかが、よく判る。実は、その風景は現在でも見ることができる。・また、これが日本人が地上で最初に発した日本語であることを理解している人は、少ない。ただ、それを理解するためには、相応の奮闘努力が要求されるこ
○前々回、ブログ『大山祇神の故郷』で、鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島で邪馬台国三山を眺めている者が大山祇神である話をした。また、前回、ブログ『硫黄島が舎衞城であること』では、その硫黄島が舎衞城である話もした。併せて、前に、ブログ『出雲神の故郷』で、大物主大神の故郷が鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島だと言う話もしている。その大物主大神を斎き祀る社が大和国一宮である大神神社である。○2021年9月1日に、東京国立博物館へ、聖林寺十一面観音を見に出掛けて来た。この聖林寺十一面観音は、もともと、大神神社の神
○甑島には新田神社が二社存在する。一つは里の新田神社であり、もう一つが手打の新田神社になる。里の新田神社については、次のブログに書いている。・テーマ「甑島周遊」:ブログ『里八幡神社の大般若波羅蜜多経』里八幡神社の大般若波羅蜜多経|古代文化研究所(ameblo.jp)・テーマ「甑島周遊」:ブログ『里村郷土誌:里村新田八幡宮]』里村郷土誌:里村新田八幡宮|古代文化研究所(ameblo.jp)○また、新田神社そのものは薩摩川内市に鎮座まします大社である。当古代文化
○今年、2021年の初詣に、正月8日、薩摩川内市の新田神社へお参りして来た。新田神社のすぐ裏側に可愛山陵が存在する。それで、可愛山陵について、あれこれ、考えている。○現在、此処は宮内庁に拠って、可愛山陵として管理管轄されている。ウイキペディアフリー百科事典の可愛山陵項目を見ると、それがよく判る。可愛山陵可愛山陵(えのみささぎ)はニニギ(天津日高彦火瓊瓊杵尊)の陵。高屋山上陵、吾平山上陵とともに神代三山陵の一つ。明治政府により1874年(明治7年)、新田神社(現・鹿児島県薩摩川内
○今年、2021年の初詣に、正月8日、薩摩川内市の新田神社へお参りして来た。新田神社のすぐ裏側に可愛山陵が存在する。そういう意味では、新田神社へお参りすることは、畢竟、可愛山陵へ参詣することと同じであることが判る。○ここまで、ブログ『神代三山陵・可愛山陵』から始めて、『高千穂峰:天孫降臨の世界山』、『笠沙の御前』、『木花開耶姫が椿姫であること』、『三島神、大山祇神が卑弥呼であること』、『硫黄島の英雄、俊寛僧都』、『弁才天信仰と平家物語』と、書き続けている。○今回は、それに引き続き、『邪馬台国
○前回、ブログ『笠沙の御前』を書いて、その最後に次のように述べた。・では、何故、天孫降臨の尊、彦火瓊々杵尊は笠沙の御前を目指したのか?わざわざ此処に笠沙の御前と言う固有名詞を出すには、当然、それ相応の理由がある。それは此処に大山祇神が居たからである。その娘を木花開耶姫と申し上げる。それが笠沙の御前である。なかなか神話は面白い。したがって、今回は、その笠沙の御前の住人である大山祇神とその娘、木花開耶姫の話となる。○まず、笠沙の御前の再確認から。笠沙の御前が何処であるか。な
○笠沙の御前については、数日前に書いたばかりである。・テーマ「日向国の邪馬台国」:ブログ『邪馬台国サミット2021:笠沙の御前』邪馬台国サミット2021:笠沙の御前|古代文化研究所(ameblo.jp)○天孫降臨の世界山に降り立った後に、彦火瓊々杵尊が日本人として、最初に発した言葉が次の詔になる。此処は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此処は甚吉き地。○少なくとも、日本最初の史書とされる「古事記」には、そのように記されて
○天孫降臨の尊が彦火瓊々杵尊である。彦火瓊々杵尊が天孫降臨した世界山が高千穂峰である。ここから、日本の歴史は始まったとする。それが「古事記」や「日本書紀」が記す日本の始まりであり、日向神話だと言うことになる。○したがって、まず第一に、天孫降臨した世界山、高千穂峰が何処に存在するか。それを追い求めることが肝要となる。ところが現在の日本では、その高千穂峰が何処に存在するかすら、確定していないのが実情である。●その点、わざわざ日向句を訪れ、丹念に探索して回った学者が二人居る。一人は安本美典で、もう
○2021年正月8日、所用で鹿児島県祁答院町へ行くことになった。それで少し足を延ばして薩摩川内市の新田神社へお参りして来た。ある意味、これが今年の初詣となった。○ウイキペディアフリー百科事典が案内する新田神社は、次の通り。新田神社(薩摩川内市)新田神社(にったじんじゃ/にいたじんじゃ)は、鹿児島県薩摩川内市宮内町にある神社。薩摩国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。かつては八幡五所別宮の一つとして八幡神を祀っていた為、別に「新田八幡宮」・「八幡新田宮」・「川内
○前々回、ブログ『邪馬台国サミット2021:日本人最初の言葉』を書いて、天孫降臨の世界山に降り立った、最初の日本人、彦火瓊々杵尊が地上で最初に発した言葉が次の詔だと言う話をした。此処は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此処は甚吉き地。○これがどういう風景を意味するか。日本の歴史学者先生や神話学者先生は、誰一人、説明なさらない。と言うか、説明できない。それはそうだろう。この言葉を説明するには、相当な労力と時間を要する。○当古代文化研究所では
○2021年元旦のNHKの特別番組『邪馬台国サミット2021』を見て、驚いた。いまどき、邪馬台国が畿内だとか北九州だと言うことを真面目に議論している。そんな人々は、考古学者先生以外に、誰も居ない。何とも時代遅れな話である。NHKの教養番組がこの程度のものであることに驚き、呆れた。○それで、『邪馬台国サミット2021』に関して、長々と書き綴っている。これまで『邪馬台国サミット2021:前半』から始めて、昨日の『邪馬台国サミット2021:仏様の来た道』までで、13回を数える。それ程、『邪馬台国サミ
○笠沙恵比寿のある野間池を訪れると、どうしても触れなくてはならないのは、笠沙地名についてである。と言うのは、日向国に於いて、笠沙地名は重要な地名なのである。その地名が何処であるかで、日向国がどういう国であったかが判断される。○ただ、野間半島の笠沙地名は、近代になって造作された新しい地名であることは、はっきりしている。例えば、ウイキペディアフリー百科事典の笠沙町項目には、次のように載せる。笠沙町笠沙町(かささちょう)は、鹿児島県川辺郡の南西にあった町である。町域は野間半島
○前回、ブログ『何故、日本は日向国から始まったのか』について、述べた。そのことを端的に表しているのが、天孫降臨なさった彦火瓊々杵尊が行った、日本人最初の次の一言である。此処は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此処は甚吉き地。○「此処」とは、もちろん、日向国を指す。「韓国」は中国本土の意。「笠沙の御前」とは、鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島のことである。これで、やっと、この詔を説明できる。つまり、日向国からは、硫黄島を経由して、中国本土へそのまま
○前回、ブログ『卑弥呼の肖像』の最後に、こう書いた。・したがって、卑弥呼は現代に於いても、日本中に斎き祀られている。それは神仏混淆・神仏習合の神様としてであり、仏様としてである。それが日本古来の神様であり、仏様なのである。私たちはそういう文化を是非とも回復したいものである。○この話は、日向国一宮である都農神社へ参詣したことから始めている。都農神社の御祭神は大己貴命と申し上げ、出雲神である。また、出雲国一宮、出雲大社の御祭神は大国主大神、大和国一宮、大神神社の御祭神は大物主大神
○前回の最後に、こう書いた。・結果、残るのは、卑弥呼は大山祇神だと言うことである。木花開耶姫は若いし、結婚し、子供まで儲けている。それでは卑弥呼ではない。そうすると、自ずから、卑弥呼の肖像が見えてくる。○したがって、今回は『卑弥呼の肖像』の話となる。まず、卑弥呼の肖像として描かれているのは、卑弥呼が大山祇神だと言うことである。つまり、山の神だと言うことだ。○「古事記」の記録では、大山祇神や木花開耶姫が居たのは『笠沙の御前』となっている。、『笠沙の御前』とは、硫黄島及び硫黄島が望見
○前回のブログ『卑弥呼の登場』の最後に、こう書いた。・もうお判りだろう。卑弥呼が誰であるかは。卑弥呼が居た場所こそ、『笠沙の御前』なのである。『笠沙の御前』の住人と言えば、大山祇神であり木花開耶姫である。こういうふうに、「魏志倭人伝」の記録と「古事記」「日本書紀」の記述とは、見事に一致する。それが日向国の歴史である。○今回は、その続きで、卑弥呼が何者であるかと言う話をしたい。卑弥呼が『笠沙の御前』の住人である以上、考えられるのは、大山祇神か木花開耶姫である可能性が高い。○し
○ここまで、ブログ『彦火瓊々杵尊と木花開耶姫』から『木花開耶姫が阿多鹿籠津姫であること』、『木花開耶姫が椿姫であること』、『大山津見神・大山祇神』、『大山祇神の故郷』と見て来た。今回は『大山祇神と木花開耶姫』親子について、考えてみたい。○まず、大山祇神がどういう神様であるかについて。このことは、すでにブログ『大山津見神・大山祇神』で詳細に検証済みである。大山祇神は山の神なのである。したがって、大山祇神は女神とするしかない。それに、大山祇神は本来、海の民の信奉する神でもあった。仏教とも深く関係し
○ブログ『彦火瓊々杵尊と木花開耶姫』の最後に、・もう一つ、注意すべきは、『父の大山津見神』と言う表現である。日本で、大山津見神を一宮として斎き祀る国が二つある。そんな話をしたいのだが、字数が尽きた。続きは次回に繋げるしかない。と書いて、ブログ『大山津見神・大山祇神』について書こうとしたのだが、書いているうちに話がズレてしまっって、結局、ブログ名を『木花開耶姫が阿多鹿籠津姫であること』に改めた。○それは木花開耶姫がどういうお姫様であるかを案内する上で必要だと判断した結果である。ブ
○前々回にも前回の最後にも、次回こそ、大山津見神・大山祇神について書きたいと記している。しかし、ブログ『木花開耶姫が阿多鹿籠津姫であること』を読み直してみると、その前に『木花開耶姫が椿姫であること』を済ませるべきだと判断した。それで、今回は『木花開耶姫が椿姫であること』の話になる。○当古代文化研究所で、『木花開耶姫が椿姫であること』を思い付いたのは、2008年5月末のことだから、もう12年も昔のことになる。最初に書いたブログは、次のブログになる。・テーマ「無題」:ブログ『椿姫』~2008
○天孫降臨した彦火瓊々杵尊は、その後、『笠沙の岬』へと向かい、そこで木花開耶姫と出逢い、結婚している。彦火瓊々杵尊は天孫降臨した際にも、此処は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此処は甚吉き地。と『笠沙の岬』について言及している。彦火瓊々杵尊にとって、『笠沙の岬』はそれ程、大事な地名であったことが判る。○その『笠沙の岬』が硫黄島に関連する地名であることは間違いない。硫黄島で岬と言えば、永良部岬しか考えられない。また硫黄島を望遠する岬であれば
○前回、ブログ『大物主大神と彦火瓊々杵尊』で、「古事記」や「日本書紀」が記録しているのは、あくまで彦火瓊々杵尊を筆頭に、天皇家の歴史であると述べた。したがって、出雲神である大物主大神の記録はほとんど無いに等しいとも書いた。○しかし、出雲神話はある意味、「古事記」や「日本書紀」が記録する日本神話の中で、結構大きい部分を担っている。そのことを見逃してはなるまい。ただ、問題は、そういう出雲神が歴史上、それ以上に進展しない点になる。日本の歴史では、ただ、天皇家の活躍が語られるだけである。○そういう意
○前回、ブログ『大和三山は何処から眺めるのが正しい?』を書いた。そこで案内したのは、大和三山は三輪山山頂から眺めるのが正しいと言うことであった。眺めるのも、誰でも良いわけではない。それも大物主大神と決まっている。もちろん、大物主大神が三輪山を御神体として斎き祀る大和国一宮大神神社の御祭神であることは言うまでもない。○その大物主大神が出雲神であることの意義は大きい。大和国を領知している神は天皇家の神では無くて、出雲神だと言うことである。そういうことについて、大神神社はもちろんのこと、誰も発言しな