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祖先の旅#15最終章尾張へ。「すべてはDNA検査から始まった」一本の父系。Y染色体ハプログループO2a2b1a2a(F444)日本では資料がほとんど見つからない。だが、イリ・カザフ人を対象とした研究では、•全体の約20%弱•O系統内では25.9%という明確な頻度で確認されていた。出典:Y染色体の証拠により、新疆カザフ人の北東アジア起源と18世紀のケレイ氏族の拡大による遺伝的影響が確認された。Frontiers|Ychromo
特別編丹波から美濃へ第1章イリ王権とは何か「イリ王権」という言葉は、現代の日本史の教科書には存在しない。したがって、ここで扱うのは確定した歴史用語ではなく、仮説としての呼称である。だが、この仮説を置かない限り、丹波・美濃・尾張を貫く一連の動きは、どうしても断片的にしか説明できない。⸻イリという音が持つ意味まず注目すべきは、「イリ」という音である。ヒロシの祖先研究の中で、この音は何度も現れてきた。•中央アジア・イリ
祖先の旅・特別編ⅢDNAが示す渡来以前の弓月の民―卑弥呼と同時代、朝鮮半島北部その3(最終回)⸻第1節弓月の民の信仰と精神構造弓月の民を語るとき、避けて通れないのが「信仰」の問題である。ここでいう信仰とは、後世に体系化された宗教ではない。弓月の民の信仰には、•天•祖霊•火•境界を重んじる、極めて古層的な宗教性が見られる。それは仏教でもなく、イスラム教でも
祖先の旅・特別編ⅢDNAが示す渡来以前の弓月の民―卑弥呼と同時代、朝鮮半島北部その2⸻―前回までのお話前回(その1)では、Y染色体ハプログループO2a2b1a2a(F444)が、現代の漢民族主流とは異なる系統であることを確認した。F444は、中央アジア・イリ盆地に集中して残り、モンゴル高原のバヤンボラク遺跡でも確認されている。この系統は、中央アジアから東へと連なる一本の移動の流れを示していた。では、その流れは、海を渡る直前、どこ
祖先の旅・特別編ⅢDNAが示す渡来以前の弓月の民―卑弥呼と同時代、朝鮮半島北部その1⸻序章なぜ、渡来以前の弓月の民を描くのか日本古代史において、「渡来人」はしばしば海を渡った瞬間から語られてきた。百済から来た。新羅から来た。あるいは大陸のどこかから来た——。しかし、その人々が海を渡る直前に、どこで、どのように生きていたのかは、ほとんど語られてこなかった。理由は単純だ。日本列島には、この時代を記した文字資料が存在しない。一方で、大
p🌟特別編:絹がつないだ二つの大地――DNAが語り始めた、忘れられた民の旅――第一部|問いは、草井の土から始まったなぜ、尾張の草井には、あれほど上質なお蚕様が育っていたのだろうか。この問いは、長く答えを持たないまま、地域の記憶の奥に沈んでいた。草井では、かつて家の二階いっぱいに蚕棚を組み、家族総出で蚕を育てたという。昭和初期、丹羽郡では農家の75%が養蚕を営み、桑畑は畑地の69%を占めていた。出典:中部産業遺産研究会https://share.
🌕第9章:備前―火の山の里(ひのやまのさと)Ⅰ.由良川の別れ由良川の夜明けは、火が生まれる瞬間のようだった。ここは、今の京都府綾部市広瀬町。水面は淡い朱に染まり、谷を流れる風は昨夜の祭りの煙の匂いをまだ抱いている。舟が一艘、岸に繋がれていた。舟の中央には小さな火箱(ほばこ)が置かれ、その中では燈護(ひもり)の社から分けられた“火の種”が静かに揺れている。舟のそばに立つ男の指は、土と火に焼かれた職人の手だった。——伊里(いり)。
pp三千院から車を45分ほど走らせる。木嶋坐天照御魂神社(蚕ノ社)正式名称:木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)通称:「蚕ノ社(かいこのやしろ)」、「木嶋神社(このしまじんじゃ)」主祭神:天之御中主神、大国魂神など祭神の由緒:渡来人の「秦氏」が養蚕と織物の神を祀ったのが始まりと伝えらる。特徴的な境内三柱鳥居:日本でも珍しい、3つの鳥居を組み合わせたような造りの鳥居。元糺の池:かつては湧水が湧き、鳥居が水面に映り込む神秘的な光景が見られる。現在も土用の丑の日に
3連休は、どこか行きたいと嫁の要望から、弓月系の子孫として、秦氏ゆかりのホットスポットを巡ろうと考えていたところにバランスをとって、紅葉🍁スポットも入れてナビアプリにセットした。朝5時起きで6時出発。京都大原寂光院聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために、推古2年(594年)に建立。建礼門院との関連:源平合戦後に出家した建礼門院が、寂光院の傍らに庵を結び、平家一門と安徳天皇の菩提を弔って生涯を終えたと伝えらる。境内には建礼門院の庵跡や井戸、侍女たちのお墓とされる石碑などがある。
🌕第8章火の再生―燈護(ひもり)の社に宿る誓い⸻Ⅰ.燈護の火由良川の流れが、夕暮れの空を映して黄金に染まっていた。ここは、舞鶴にほど近い、今の京都府綾部市広瀬町。山と川が抱き合うこの盆地は、遠き弓月の民が倭の地に初めて腰を下ろした場所と伝わる。川のほとりの丘に、小さな社があった。人々はそれを「燈護(ひもり)の社」と呼んだ。火を灯し、民を護るという祈りがその名に込められている。大陸より渡り、この地に根を下ろした弓月の民は、その社に火を掲げ、祖の魂を慰め、倭の神々に祈りを
祖先の旅#8第7章海を渡る民Ⅰ.夜明けの出航東の空がわずかに白み始めた頃、弓月の人々は海岸に集まっていた。霧の奥に並ぶのは、新羅の造船工が仕立てた頑丈な船と、弓月の技師が補強した鉄の留め具荷には――鍛冶の道具、灌漑の設計図、そして誇りを失わぬためのわずかな鉄。誰もが震えていた。寒さだけが理由ではない。だが、弓月君は振り返らなかった。「ここは終わりの地ではなく、旅の途中であっただけだ」波の音が答える。水平線の向こうには、まだ見ぬ未来が広がっている。「祖父よ。
『祖先の旅特別編Ⅱ:データから読み解く弓月の記憶』2025年。一つの科学論文が発表された。それは「弓月」という言葉を一度も使っていない。だが、そのデータを読み解くうちに、ひとつの確信が芽生えた——**「これは、あの旅の続きを示している」**と。ストロンチウム同位体、DNAハプログループ、出土地点。一見冷たい数字と地名の羅列の中に、確かに人々の足跡と決断の痕跡があった。それは、イリ盆地から河西回廊、そして新羅を経て倭国へと至る技術者たちの軌跡——弓月の記憶が、
祖先の旅特別編:DNAと考古学が語る弓月の軌跡「モンゴルBBS遺跡出土O2a2b1a2a系Y染色体の考察―弓月系渡来説との遺伝的整合性」(英題:GeneticContinuityoftheO2a2b1a2aY-HaplogroupfromtheIliBasintoJapan:AHypothesisLinkingtheBBSFortressFindingsandtheYuzukiMigrationNarrative)①はじめに―
🏯第6章大陸との決別Ⅰ.不安の大地新羅の地に根を下ろして十余年。弓月の人々は宿舎を建て、川を引き、田を整え、ようやく人らしい暮らしを取り戻していた。赤土を踏み固めて築いた堤は今も健在で、春には麦が風に揺れ、秋には黄金の稲穂が垂れる。だが、心の安らぎは一度も訪れなかった。北からは高句麗の影が忍び寄り、王都では権力争いが絶えない。税は重く、穀物の半ばは上納され、残りを皆で分け合って日々を繋いでいた。風はまだ冷たく、戦火の匂いが遠くから運ばれてくる。>「我らの技は、いつまで人
第4章契約と東方への道漢武帝との契約乾いた風が吹き抜ける中、功満王は少数の供回りと長老を伴い、馬を駆って張掖に到着した。張掖の街は、すでに築城が終わった安定した要衝だった。宿舎や司令部だけが残り、他国の労働者たちはさらに東へと移動していた。張掖市山丹県の峡口古城。迎えたのは漢武帝の勅命を預かる役人だった。大広間には絹と黄金が積まれ、巻物と金印が机の上に置かれている。役人は深く一礼し、厳かな声で告げた。「河西の防衛線は完成した。次は東方、雲中・上谷方面の築
新説:弓月君と120県の民は、万里の長城建設の技術者集団だった!これまで、祖先の旅をDNA🧬から湧き出す勢いに任せて創作と投稿をしてきました。祖先の故郷のことや大移動を決断する理由などについての見直しと修正をしているところです。元々、弓月君について研究していたわけではないため少ない情報の点と点(私のY染色体ハプログループとイリ・カザフ人、イリ盆地と弓月君の渡来の記録)を線でつないで物語を創作してしまいました。イリ盆地を出て長安まで移動するところを描く際に途方もない距離を2万人
✨序章:DNA検査からはじまった旅自分の祖先は一体どこからやってきたんだろう?やってみたいと思っていたDNA検査。それまではドイツなど海外の会社であったため躊躇していたところ、日本の会社がサービスを開始して、しかもキャンペーン価格だ。海外のサイトよりも安心感があって結果も早そう。結果が届いた瞬間、画面に表示された父系Y染色体ハプログループ「O2a2b1a2a」という文字列。ちなみに、母系ミトコンドリアDNAハプログループは「A5a1a2a」だった。「え、これって何?
6月に行って来た奈良博の『超国宝』展ミュージアムショップの購入品の紹介をすっかり忘れていました⚪︎一筆箋七支刀(石上神宮・4世紀)金象嵌の銘文に東晋の太和4年(西暦369年)と刻まれ、「日本書記」神功皇后52年にある百済から贈られたななつさやのたち(七支刀)に比定されている。⚪︎ポストカード天人(法隆寺・7世紀)・金堂天蓋付属(縦笛・琵琶)細やかで綺麗な細工が好み八幡三神坐像(薬師寺・9世紀)・仲津姫命(応神天皇・皇后)・僧形八幡神(第15代・応神天
先月、仕事で京都入りする機会があった。その日は仕事の前泊だったので、東京を午前中に発って、前から気になっていた太秦あたりを散歩することにした。秦氏は、『日本書紀』によれば、283年頃、百済から120県(1万人くらい?)を率いて日本に帰化した弓月君(漢民族や朝鮮人ではない中国の西方由来の人たち)を祖先としているという。養蚕、酒造り、騎馬などを日本に導入し、これらの経済活動によって財をなした。その後も百済の滅亡に際して多くの渡来人が日本に渡来した。秦氏は機織りや酒造などの経済活動により、葛
上野からスカイライナーで成田空港へ🛬成田で2泊しました旅の目的・その2はユダヤ人埴輪降臨の儀国造と古代人殿塚・姫塚(芝山古墳群)千葉県山武郡芝山町は、隣接して多古町(旧・多胡藩)がありますが・多胡=多様な出身地の外国人が多く住むという意味・胡=中国の北西方にある国や異民族の意味ユダヤ人埴輪の正体は秦氏ではないでしょうか秦氏の祖・秦の始皇帝は金髪碧眼だったと言われており始皇帝の実父・呂不韋はユダヤ人の隊商だったそうですまた弓月君の出身地・
ご訪問ありがとうございます。前回は、源九郎とよさんの龍族としての覚醒の手助けをした斑鳩町のHさんは、実は「秦氏」の末裔であり、その秦氏の正体とは何か?についてお話をしました。前回の話の中で、秦氏がユダヤ人である可能性が高いということにも触れました。それについては、いくつかの古文書や文献等で記載されているものもありますが、もっとわかりやすいところでは秦氏がユダヤ人であったと思われる証拠が日本の各地に残されているので、それについてご紹介するのと、それに関連して
ご訪問ありがとうございます。前回は、私達シャーマンの間で伝わっている稲荷神イコール、龍神なのかという理由についてお話をしました。その中で「秦氏」がキーワードであることをお伝えしましたが、この秦氏の末裔に当たる人が、源九郎とよさんと深いつながりがありますので、もう少し秦氏についてお話したいと思います。以前、お話した中で、源九郎とよさんが警察官をしていた頃、奈良県の斑鳩町法隆寺で勤務することとなった際に、Hさんという地域の役員さんにとても気にいられて、宗教的なこ
『土佐国風土記』1「土佐とさ」は「遠宇佐とおとうさ」川崎一水はじめに土佐国は、もとは土左国とも書かれ、古くから「とさ」と呼ばれていた。「とさ」とはどういう意味なのか?―それは「遠宇佐とおとうさ」であった。都から近い海は「近江おうみ」と呼ばれ、遠い海は「遠江とおとうみ」と呼ばれるが、「遠宇佐とおとうさ」が「遠江」と同様に名づけられたわけではない。なぜなら「近宇佐おうさ」はないからである。ただ単に「遠い宇佐」と名づけられた。ーなぜ?ーそれはおい
皆様、如何お過ごしですかさて、山に喚ばれてる今日此の頃ですが🗻戌年としてはふと氣になりまして。山の神、狼は神の使いとされています。ニホンオオカミは、明治維新以降に絶滅。まぁ明治維新は、お米からパンとなったり一気に西洋文化が入って来た時代です。氣と言う字もアメリカ(米)に取られ気になり日本人は腑抜け状態にされました。狼は、月に吠えますね。きっと月と交信をしてたのだと私は思います。そして月は、弓月君ツクヨミ族は秦氏です。秦氏と言えば稲荷神社。狐は元々狼です。ホロスコープの月
日本人のルーツについて、もはや縄文人、弥生人だけではなく、というかそれどころかゲノム(生物細胞)データによれば、6割ほどが古墳人[東アジア由来]なのだという研究結果がでているようだ。金沢大学人間社会研究域附属古代文明・文化資源学研究センターを中心とする国際共同研究グループは,日本列島の遺跡出土した縄文人・弥生人・古墳時代人の人骨のパレオゲノミクス(※)解析を行い,現代における日本人集団のゲノムが3つの祖先集団で構成されていることを世界で初めて明らかにした。その結果,縄文人の祖先集団はお
さてさて、いつも通り思いついたことを適当につぶやき続けております弓月君が別名「融通王」とも書かれていたので検索すると、こういう言い伝えがウィキです。秦永原(はたのながはら、弘仁10年(819年)-寛平4年12月18日(893年1月9日))は、平安時代前期の貴族。氏姓は秦宿禰のち惟宗朝臣。官位は従五位下・下野権介。(中略)元慶7年(883年)永原以下一族の明法博士・秦直宗や音博士・秦永宗ら一族合わせて19名が秦宿禰から惟宗朝臣に改姓した。なお、改姓に当たって
続き、最後に名草厳島神社の鳥居の脇にある日光神社へ⛩中は、社は壊れていました。名草厳島神社は日光の二荒山神社と同じ親子三神なんだそうです。日光は、若子神社が行きたい神社です。日光とは縁があるみたいなので。名草厳島神社にもっと居たい位でしたが、名残惜しくタクシーで折角なので織姫神社へ私は、織姫神社より裏の山に登った所にある大山阿夫利神社と古墳に惹かれました。山の神様ですね。機神山山頂古墳は、写真が撮れなかっので、サ
カザフ人と日本人はよく似ている!紀元前3世紀と紀元後3〜7世紀に日本へ大量に移住して来た秦氏のルーツは中央アジアの弓月国(今のカザフスタン辺り)と言う説がある!https://bizconsul.net/2023/09/01/126898/【タブー】カザフ人と日本人はよく似ている!紀元前3世紀と紀元後3〜7世紀に日本へ大量に移住して来た秦氏のルーツは中央アジアの弓月国(今のカザフスタン辺り)と言う説がある!|BIZCONSULOFFICEbizconsul.net◼️下記の写真を
愛知県豊川市にある菟足神社に祀られている兎上足尼命(うなかみすくねのみこと)葛城襲津彦の四世孫葛城襲津彦は武内宿禰の子武内宿禰の宿禰は【足尼】とも書く【宇治】は【菟道】と書かれていたりしますが関係あるのかしら?葛城襲津彦は弓月君を救援しに新羅へ行きやんややんやと時間が過ぎても帰ってこないので襲津彦の息子が二人応援に行きましてやっとこさ弓月君は日本に来られたそうなやっとこさ来れたんだけど来るときに百済の120県の人民を率いてきましたそしてその後帰
…新技術を伝えた氏族は?秦氏は日本古代に於ける最大の渡来系氏族。その一族は全国各地に分布していた。平安初期に編纂された『新撰姓氏録(シンセンショウジロク)』では、秦氏は自らの租を中国・秦の始皇帝の子孫の「融通王」であるとしている。又、『日本書紀』応神天皇14年条は「弓月君(ユヅキノキミ)が百済から120県の人を率いて帰化した」との記事があり、後にはこの「弓月君」が「融通王」と同一視される事となった。弓月君雄略天皇山背国(山城国)葛