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ある方から紹介されたブログを途中までですが一気に読みました。とっても、とっても、心に沁みる言葉に涙しました。もし本当にこの世界に全知全能の神がいるなら,死ぬ前の一日,たった一日で良いので,私を,あの人生で一番幸せだった1990年代後半に戻してもらいたいです。そして,朝起きて,愛する兄弟たちと数時間奉仕して,洞察の本をまた1,2時間研究して感動し,どこかの公園で大好きなK姉妹の手を握ってただ彼女の目を見つめて,夜は尊敬しあっていたT兄弟と笑いながら酒を飲んで,そして死んで
もちろん楽しいことばかりではありません。建設奉仕の間は仕事を休みますので、その間の給料は出ません。逆に、ガソリン代や移動中の食費、滞在中のちょっとした出費は自分で出します。道具も自分で揃えなくてはいけません。現場では暑い夏も、寒い冬もありました。冗談を言いながらのときもありましたし、工程に少し遅れが出て急いで仕上げないといけないこともありました。現場仕事なので危険とも隣り合わせです。でも、充実していました。喜んでエホバにお仕えしているという満たされた気持ちがありました。
生い立ち編でも書いたように、建設奉仕に携わっていたころが、私のJW人生の中で一番輝いていた時だと思います。もともと建設奉仕に興味を持ったのは、地元で王国会館建設があったからでした。正確には隣の会衆だったのですが、近隣会衆として自発奉仕の要請がいろいろありました。私はまだ子どもだったので参加できませんでしたが、母が何度か行っていました。でも、王国会館が完成して初めての集会には行かせてもらえました。まだ椅子がなくてカーペットに直に座って、すし詰め状態でした。いつかは自分たちも王国
あまり間を空けず、某販売店のホームページ管理の仕事がきまりました。奉仕活動をするために、週3日だけのパートタイムです。収入は安定していましたが、貯金できるほどはありませんでした。当たり前ですが、社会保険もついていました。そのころには目標の一つが叶っていました。実際に王国会館を建てる建設奉仕に参加できていたのです。エホバの証人の集会所「王国会館」は自分たちで建てます。直接カナヅチとノコギリを使う仕事もありますが、事務的な仕事、食事のお世話、警備などすべて無給の自発奉仕者が集め
半沢直樹は面白いがあり得ないと、嘆かれるJW関連のみなさまこんにちは。深わかりみの爺いです。今日は何と私達の日です‼️中学生で献身し、まさか私が敬老の日に孫から、お祝いを貰う日が来るとは、涙も枯れて果てますね〜‼️統計に寄りますと日本にはまだ、私の先輩達が多勢生存されていて、たいへん励まされます。(←久しぶりに使うさてキムマイキーさんのYouTubeを見ていてハタと気づいたのですが、彼らも私も永年開拓者だったのです。なんで自分がその道に入ったのか暫し考えました。そしてハ
奉仕者として現場に来る兄弟姉妹の中には、建設にまったく縁のない素人がたくさんいて技術を持つ兄弟たちの下で奉仕して覚えていった人が何人もいる。そして休憩時間や食事時には軽い合コン状態…新たなクリスチャン同士の結婚相手探しの場になっていった。私は一つの建設プロジェクトに参加するとトータル10〜15日くらい滞在していたので、その地域の兄弟姉妹たちとも親しくなれて地元の美味しいもの、温泉を楽しみながら充実した建設ライフを送った。残り半月は世俗の仕事で生活費を稼ぎまくって悠々自適な生活を送ることができ
ぬ文字通りの建てる業は1980年代からJWの中心的な奉仕の分野だった。支部の建設、海老名大会ホールの建設から始まった。私も支部の建設奉仕でベテルに招待されて今の6階建ての工場棟を建てました。鉄筋部門でしたので建物の躯体の重要な作業分野で働きました。あっ、少額の手当だけでの過労奉仕でしたけどね…ここで組織の闇の部分を一つ工場棟を建てていた時のこと。型枠を立てて鉄筋を組みコンクリートを流し込んでまたその上に型枠を立てていくのだが、コンクリート床には上と繋いでいくための鉄筋が出ている。(差し筋と呼
MTS一期生といえば、オール英語プログラム。教訓者はもちろん、米国の名だたる兄弟たちでした。英語に堪能で有能な兄弟たちが、地元の会衆から多数集められていました。その中には、藤岡兄弟、平出兄弟、柴山兄弟、会田兄弟などなど、誰もが知っている兄弟たちばかりいました。彼らは、皆の憧れの兄弟たちで、とりわけ群衆の中にあって眩しく、光り輝く存在だったのです。ですから、海老名ベテルでもかなり名を馳せていたのです。そんな藤岡兄弟とは、海老名ベテルの宿舎棟の増設工事の時に、接点がありました。彼は、海外か