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これまた都心に出たついでにふいと立ち寄った高島屋史料館TOKYOのお話でありまして、「闇市と都市―BlackMarketsandtheReimaginingofTokyo」なる企画展が開催中でありましたよ。闇市とはまた戦後昭和史に繋がる言葉ですけれど、先日振り返りました日比谷図書文化館の展示といい、さらにその前に立ち寄った杉並区立郷土博物館の展示といい、昨2025年が昭和元年(1926年)から数えて100年目にあたることから「昭和100年」的なるイベントが展開されて、それが
中国新聞の特集「ヒロシマの記録——遺影は語る細工町」(2000.2.21)に掲載された細工町の住民一人ひとりの被爆死の記事から町全体の状況を知ることができる。森冨修一さんは原爆が投下された時鳥屋町の自宅にいたと見られているが、それは自分が経営する細工町の常友寝具店に行かなかったということだ。「遺影は語る」によれば、島病院南隣の原田撞球場から常友寝具店など本通り筋にかけての9世帯は7月末までに立ち退きを命じられていたから店を閉めていたのだろう。けれど、アメリカ空軍が撮影した7月25日の空中
今でこそ連日花よ、鳥よと浮かれて自然の中を歩き回っているawakinですが、写真にハマる前は趣味といえば読書くらいのフツーの勤め人でありました。ただリーマン時代から古いものに興味があって、古い絵葉書や古地図が販売される市が立つといそいそと出かけていき、いちどきに10冊も20冊も地元の郷土史などを買い求めたり仕事が引けると近くの古書店に毎日のように顔を出していたものです。そんな風にして買い集めた書籍はコロナの頃に一度整理したら軽く2,000冊を超えており、結果読みたい本があってもすぐに
「昭和期の京都」講座にご参加いただいてない皆さまには、なんで建物疎開なんやとお思いでしょう。が、現在の京都の町を考える上で、この建物疎開は重要なものと考えます、お付き合いくださいませ。今日は智恵光院通に出掛けました。先日のブログに、ちょっとおかしな場所に交番がありますとご紹介しています。右手が智恵光院通です。京都の地形を忘れて、丸太町通から智恵光院通を北へ進みました。これは大失敗(つд⊂)エーンやっぱり京都は北が高い、深泥池は〇寺の〇〇〇のてっぺんと同じ標高であることを実感しま
この数日、秋めいてきましたね。急な気候の変化で体調が・・・・とおしゃる方もあると思います、お大事になさってください。私も完全にストレス+夏バテ、一日中昼寝やっぱり少しボケ出したのかと思うことを・・・・。ヤスピーさんごめんなさい。あなたさまのメールを拝受し、コメント欄へと作業しているときに大失敗。メールがどこかへ消えてしまいました。いつも優しいコメントをくださり、心を和ませていただいています、ありがとうございます建物疎開のこと、先日の講座で少し触れました。受講生の方のご
「原爆はそんなもんじゃなかったろう、もっと正しく描かないと」という被爆者の声に突き動かされて生涯をかけて描いた丸木夫妻の原爆の絵を見にいきました。一歩も動けない!下敷きの人を助けようとするも・・・行きたままに炎に包まれるどの絵も圧倒される大作です。建物疎開で被爆した学生の図アトリエ跡岡山の自宅から5時間レプリカを作製して全国で特別展や企画展で多くの人に見てもらいたい。
人権教育啓発推進センターが発行する月刊誌「アイユ」7月号で、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の児玉三智子さんにインタビュー。戦後80年。戦いが終わったとしても失われた命は戻ってきませんし、人々が負った傷は一生消えることはありません。簡単に核武装や徴兵制を唱える政治家がいますが、差別や偏見に苦しみ今もなお痛みを抱えながら生きている人々の前でも同じことを言えるのか…。「語ることは被爆体験の再現になる」それでも児玉さんが語り続けるのは、戦争も原子爆弾も使ったら絶対に駄目だということを伝える使
今日は博多に来ている。筑紫野市文化会館で催された紺野美沙子さんの朗読会「星は見ている」を見て、聴くためだ。原爆で我が子を亡くしたお母さんの手記を紺野美沙子さんが朗読する。映像と塩入俊哉さんのピアノの演奏が加わる。8月6日の朝、広島市では多くの中学1年生が建物疎開と言って、爆撃で火災が起こった時に延焼をふせぐために、建物を間引きして、取り壊す作業に動員されていた。藤野博久君もその一人。その博久君のお母さん、藤野としえさんの慟哭の手記である。としえさんは「追憶にふけるときが私の一番幸福なとき
広島平和記念資料館の調査では、8月6日に建物疎開作業に動員された生徒約8,200人のうち約5,900人が亡くなっている(広島平和記念資料館企画展「動員学徒—失われた子どもの明日—」2004)。被害にあった場所は主に現在の平和大通りのあたり。密集する木造建築を取り壊して広島市を南北に分ける広い防火帯を作る作業が行われた。そして役所や軍の重要施設周辺の家々も延焼防止のため強制撤去されている。広島市造船工業学校や広島二中の慰霊碑があるのは広島国際会議場の西側、本川の川土手だ。造船工業学校の生徒は
8時15分ヒロシマ父から娘へ2021年7月31日公開広島に投下された原子爆弾によって被爆した父の体験を、娘の美甘章子さんがつづったノンフィクション小説「8時15分ヒロシマで生きぬいて許す心」を映画化。あらすじ1945年8月6日。いつもと変わらぬ朝を迎えた広島。19歳の美甘進示は、父の福一と共に建物疎開の準備をしていた。自宅の屋根に上って瓦を剥がしていたところ、激しい閃光に襲われる。投下された原子爆弾は広島中を焼き尽くし、瞬く間に7万人以上の命を奪った。福一と進示はひどく焼けただれた身
2020年にNHKで放送された同名ドラマをドラマ版とは異なる視点で描いた劇場版第二次世界大戦末期に日本でも原子爆弾開発が行われていたという事実を知る純粋故に研究に没頭し、やがて常軌を逸する行動に出る兄役柳楽優弥特攻隊員を演じた、本作が遺作となる弟役三浦春馬手を取り未来を見据える女性を演じた、幼馴染役有村架純三者三様に素晴らしい演技を魅せる再び戦場へ戻る弟へ比叡山へ登る兄へと母(田中裕子)から手渡されるおにぎり食べた時の気持ちは、兄はその後の行動でわかるが弟はどの
No.0362(酬恩庵一休寺)今日のテーマは『道路しか無い町!』今の日本は、少子高齢化が進み、地方都会に関わらず、人口減少に歯止めがかからない状況です。(⌯·̫⌯ก)今日はそうではなくて、現在、元々人が住んでなくて、道路しか無い町がありますので紹介したいと思います。(ᴖ·̫ᴖ)仕事柄よく行くところなんです。٩(=∀=)ว)))上の地図をご覧ください。京都市中央区桑原町(赤のマーキング)です。南側に京都地方裁判所と簡易裁判所がありますよね。実はこの町は住民がひ
今日は、「広島原爆を知る」の続きでその3です。人の頭の上に、故意に原爆を落とされた国は、私たちが住む日本だけです。原爆については、修学旅行で行ったことがあるくらいで、それ以上とくに知ろうとしてきませんでした。でも、自分が知ろうと思えば知ることができる、という、当たり前のことを想うと、日本人としてちゃんと知りたいと思い、撮影旅をすることにしました。撮影は2019年ですが、今の解釈で現像しています。今回の写真は7枚です。よろしければ写真での旅をご一緒いただけ
とりあえず、こんばんわ。局長です。一昨日は扁桃炎によって熱出して半ば死にかけていましたが、病院で点滴を打って処方された薬を飲んだら見る見るうちに快方に向かって行ったので素晴らしいですナ。というわけで、前回の続きでも。原爆資料館へと入った局長、長い通路を抜けた先には原爆の被害で傷ついた少女の写真が展示されておりやはり思う事は『戦争はやったらアカンな』という事ですかね。そんでもって、8月6日の広島のところにおいてはカメラマンですらシャッターを押すのを躊躇ってようやく撮れた1枚
畑俊六は、天皇に最も信頼されていた将軍だった。20年の4月になって、西日本を統括する第二総軍司令官に任命されたのも、広島に原爆が落とされることを知っての上でのことだった。—もうすぐタイムリミットです真実を知って(@shinejay)2012年8月23日8月14日、昭和天皇が畑、永野(修身)、杉山、三人の元帥に「皇室の安泰について敵側もこれを確約しあり」と語ったことが、畑俊六『元帥畑俊六獄中獄外の日誌』(1992年)にある。つまり、事前に天皇は助かることを知っていたと言
私の母校である広島市立観音中学校の前身は、広島第二高等小学校です。広島上空で原爆が炸裂した瞬間、建物疎開のため爆心地にいた生徒のほぼ全員が即死であったと聞いています。中国新聞社前に建立された慰霊碑の前では、毎年観音中学校の生徒が慰霊祭を行います。花と千羽鶴を捧げ、生徒代表が追悼の言葉を述べました。一瞬にして奪われた多くの命を思うと、胸が張り裂けそうになります。かろうじて福島町辺りまでたどりついた数名しか身元がわからなかったそうです。
先日、NHKの放送で広島原爆投下と数千人の中学生が亡くなったことを放送していました。広島で空襲による木造建物の延焼被害対策として建物疎開をすることになったのですが、若い男性は兵隊や軍需工場にいき、高等女学生は軍需工場での勤労奉仕。そのため人手がたりなく、軍隊の幹部から、13才の少年少女を動員して建物疎開をしようとしたのですが、いつ空襲の被害にあうかわからない危険な状態なので、中学校の教員などから反対の意見があがりました。でも軍隊の幹部は、恫喝し教員の反対をつぶしました。その結果、建物疎
5年前の今ごろ書いた記事です。この頃は「戦争と京都」というテーマで連載していて、この「建物疎開」についても「その1」から「その6」まで記しています。詳しくはリブログ記事を読んでいただきたいですが、「建物疎開」というのは空襲に備えて防火帯を作るために道路を拡幅したり、延焼を防ぐため重要な軍需工場や避難所になる学校などの周辺の民家を破壊し撤去した事業をそのように呼んだのです。京都では戦争末期の昭和19~20年に第一次~第四次まで実施され、1万数千戸もの家屋が破壊されました。よく「京
平和記念資料館の南側が市女の作業現場山崎益太郎さんのように6日昼過ぎには我が子を見つけた親も中にはいたが、自分も家の下敷きになったり、家族が何人も行方不明になったりとかで、すぐには探しに出られなかった親も多い。中には一家全滅のところもあっただろう。1年5組杉山美子さんの兄で崇徳中学3年の武郎さんは7日朝になって市女の作業現場にたどり着いた。武郎さんは、「相生橋を抜けて今の平和記念公園にたどり着きました。るいるいたる死体の中、女学生らしい顔をのぞき込んだり、起こしたりしました。しかし、顔形
前記事の続きの転載です。-------------------------------老兵は死せず、とは進駐軍総司令官マッカーサー元帥が、日本を去るにのぞんで残した言葉で有名である。これより数年前の45年八月、広島市の建て物とり壊しのため、県内から四十才台の補充兵が動員された。当時はすでに若者は出尽くしてしまい、残っていた者は兵隊仲間では老兵に属する者ばかりであったから。その召集風景を「くすの木」の歌から拾ってみょう。壮行の辞を述べた当時の収入役兼重堤二さん(65)は「戦争に行
「一握之灰」の内容の中で前置きが長くなりますので、先に「甲神部隊」とは何だったかについて転載します。-----------------------------------この緊迫した状勢の中で、軍都ひろしまをB29から守るために執られた策が家屋疎開であった。その作業ははじめ、市民の外中学校や高等女学校の動員学徒、次に周辺町村からの応援隊の手によって進められたが、そこは中国一の都会のこと、遅々として捗らず、遂に県内都市単位で、補充兵を動員することとなった。建物疎開取り壊して延焼を阻止
『絵で読む広島の原爆』を開くと、国民服姿の少年が9人、整列したまま空を見上げている。顔は少し左に、ぐっと上を向いて。中の一人が「あれ見ろよ」と言っているようだ。青空に光るのはB-29の機体。見上げているのは広島二中(県立広島第二中学校)の1年生だ。広島テレビ放送が1969年に放送したドキュメンタリー番組「碑」の草稿に加筆して出版した『いしぶみ広島二中一年生全滅の記録』には、河本聿美(かわもといつよし)君の日記が紹介されている。4月4日に憧れの広島二中に入学した河本君たちだったが
動員学徒の犠牲戦争末期になると労働力の不足を補うために今でいう中学生以上の勤労奉仕が強制されました。広島でも被爆当日、建物疎開作業を行っていた約8400人のうち約6300人が犠牲となりました。他にも工場作業等に携わっていた多くの学徒が犠牲者となりました。私の親戚もその一人です。慰霊塔は原爆ドームのすぐ南隣に建てられている。出身校は北は青森県からはじまり(現在の中国の)大連、新京まで広範囲にわたっています。ゲートパーク3/31にオープンしました。その後の様子をうかがいに
なぜ東京は大空襲を受け、あれ程の犠牲者を生んだのだろうか。以前聞いた話では、様々な軍事物資の生産を下町の民間工場、その内職を民家が担っていたそうだ。米軍にとっては軍需工場を爆撃対象にした、という理由がつくということだろうか。それでも焼夷弾で焼き尽くすのは、常軌を逸している。日本の指導部の姿勢も奇妙だ。関東大震災があったにも関わらず、中心区域の外は木造密集地域が拡大するに任せた。民間人の防災は後回しである。建物疎開で強引に空地帯をつくったが、これも大火災に見舞われた街区から隣接する街区へ
現在平和大通りと寺町通りが交差する小網町交差点が爆心地からの距離わずか840m。当時崇徳中学3年で小網町に建物疎開に出た大前民生さんは奇跡的に即死を免れた一人だ。八月六日、私は朝七時頃に寄宿舎を出発し、八時前に現地に到着しました。そして同級生百二十人余りとともに、家屋の大きな柱にロープを掛けて引っ張り、家を壊す作業を開始しました。そのとき、サイレンが鳴り、雲ひとつない澄み切った上空にB29が飛んでいるのを見ました。はっきりと飛行機が見えたのは覚えていますが、その瞬間、青白いものすごい閃
戸田五郎先生の手記『ピカドン』によれば、8月5日の日曜日は自分の子どもを連れて泳ぎに行っているので、2年生の生徒に6日は自宅修練、要するに休みだと告げたのは4日の夕刻ということになる。生徒に告げる時にも戸田先生はしばらく悩んだのだが、生徒は無邪気に喜んだ。それにしても戸田先生の『ピカドン』には、先生が手にしたビラに「8月6日」と書いてあったとは記されていない。「巷の噂」も耳にしたというから、6日が危ないと知ったのはそれだろうか。私の父も、下級生が「6日にはB29が広島へ空襲に行くゆうてビラ
崇徳中学の3年生1クラス約60名は、第20製作所の隣にあった油谷重工から建物疎開作業に出ている。油谷重工は本社が大阪にあり、広島市祇園町公民館の『原爆と祇園町』によれば、祇園の工場は呉と広の海軍工廠の250キロ爆弾などを月産3000、それに戦時標準船の揚錨機を製造していた。それで正規の従業員は陸軍から兵隊に引っ張られないように全員が海軍の徴用工という身分になっていた。広島市の北隣にあっても、呉の海軍と強く繋がっていた工場だということになる。油谷重工の国民義勇隊は8月初めから市内中心部の
1945年当時、第20製作所にどれだけの生徒が動員されていたのか、『広島原爆戦災史』にも記載がなく、よくわからない。『崇徳学園百二十年史』によると、崇徳中学3年生の他、広島高等師範学校附属中学、可部高等女学校、祇園高等女学校の生徒が動員されていたとある。でもそれだけでなく、祇園国民学校高等科の生徒も動員されたことが輝本親孝さんの手記で確認できる。今で言えば中学2年生が朝から晩まで工場で働いたのだ。当時は祇園国民学校(小学校)高等科2年生でしたが、この年の4月から学徒動員で東洋機械製
西川利江さんは当時17歳、東洋工業で経理の仕事をしていた。しかし1945年8月6日からの3日間は朝から晩まで原爆の負傷者の看護に追われることになる。運び込まれる負傷者はあまりにも多く、医務室にあった薬や包帯はすぐに底をついた。西川さんは6日の夕方からは男子寮で朝鮮人徴用工の看護にあたった。薬がないので近くの農家の人が持ってきてくれたジャガイモをすって傷口に塗った。でも翌日には傷口にウジがいっぱいわいていて、それを取り除くのが大変だったという。朝鮮から連れてこられた徴用工の人たちのこ
当時15歳の田川俊夫さんは、8月6日に東洋工業の第4工場から建物疎開作業に出た45名の中の一人だった。朝の7時ごろに府中町の工場を出発し、1時間ぐらい歩いて鶴見橋の西、数百メートルあたりに到着した。爆心地からの距離は1.2kmぐらいか。すぐに点呼が始まったが、「あ、飛行機雲だ」の声に顔を上げると、落下傘がすうっと降りて来るのが見えた。「あれはなんだ」と云っているうちに私の目の間近なところで稲光のような閃光に思わず両手で顔を覆った。と同時に腹に響くような爆発音がし、次の瞬間凄まじい勢