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日本統治時代の台湾の教育機関は、日本人は小学校、台湾人は公学校と分けられていました。台北には小学校が8校ありました。樺山小学校建成小学校旭小学校寿小学校南門小学校幸小学校錦小学校付属小学校創立年月日は樺山小学校は明治44年2月、建成小学校は大正8年4月。生徒数は両校とも1700〜1800人もいるマンモス校でした。私の父は日本人なので建成小学校に通っていました。ほとんどは日本人の子弟ですが、50人ほど居たクラスに5〜6人の台湾人の子弟がいました。この数人の台湾人の
父が通っていた台北の建成小学校の同窓会組織の建成会と言うものがあります。現在はコロナ禍の為、活動を休止していますが、コロナ禍前までは東京で建成小学校を卒業されたOBOGの方のお話会や日本統治時代や湾生に関心がある方達が集まって湾生の方と交流を深めていらっしゃいました。この建成会の活動は活発にされていて、4年に一度台湾ツアーが開催され、母校の建成小学校を訪問したり、総督府や観光地などを訪問したりしていました。その都度母校の生徒さんや台湾の方に大歓迎を受け1年に一回建成会会報も
台北市内には、8つの小学校があったそうです。日本人の子弟は小学校で、台湾人の子弟は公学校でした。以前の記事にも書きましたが、建成小学校には台湾人の子弟もひとクラスに5、6人いたそうです。(他の小学校もそうだと思います)台湾人の子弟が日本人の小学校に入学するには厳しい審査があり、まず成績優秀である事、そして家庭が裕福である事が入学の条件だったそうです。父の記録より台北市内の小学校名アイウエオ順旭小学校樺山小学校建成小学校寿小学校幸小学校南門小学校錦小学校付属小学
2019年5月建成小学校創立100周年イベントの翌日講堂で、湾生の卒業生による日本統治時代のお話会が行われました。一般の台湾在住の日本人の方や、台湾の方など沢山参加されていました。20人弱程の湾生と台湾の方の卒業生の内、数人が代表で前に出て、小学校時代のお話をされました。司会と聞き出し役は、台湾在住作家の片倉佳史さんでした。湾生の皆さんは、80年前後前の思い出なのに、素晴らしい記憶力でした。やはり楽しかった思い出は、ずっと心に残るのですね!台湾神社⛩に続く明治橋台湾神社
建成小学校は児童数約2000人のマンモス校。コの字になっていた校舎の真ん中は、広い校庭になっていたそうです。運動会の様子かな?人文字が見えますね。相撲の土俵もあったそうです。(父の卒業アルバムより)現在の建成國中学の校庭はこんな感じです。中庭緑が多くて、校舎には見えないぐらいお洒落な造りでしょう!これは裏門の方です。右手の黄色いところはプールがあるところだそうです。そういえば、父が校舎の角にプールがあったと言っていました。門を出て外側から校舎を撮りました。なんか素敵!
湾生の父は昭和10年4月に台北の建成尋常小学校に入学。当時は、小学校は主に日本人の子弟が通い、ひとクラスに数名の台湾人の子弟がいました。公学校は台湾人の子弟が通っていました。この学校は1919年(大正8年)に創立され、2019年には創立100周年を迎えました。柿内校長と校舎父の卒業アルバムより。建成小学校の建物は今も現存しており、現在校舎の正面は臺北當代藝術館として、後の校舎は建成國中学校として活用されています。100年以上前に建てられたとは思えないぐらい煉瓦造りの
以前の記事でも書きましたが、父が通っていた建成小学校はマンモス校で全校生徒は約2000人程!1919年(大正8年)建築です。創立100周年の2019年に父の母校を訪れた時の写真大きく立派な学校だったので、感動しました!少し修復はされてるようですが、当時のまま残されています。現在は建成國民中学校です。正面の建物は臺北當代藝術館片倉佳史さんのご著書「台北・歴史建築探訪日本が遺した建築遺産を歩く」P212〜P213にも載っています!(画像お借りしました)煉瓦造り
「台北州七星郡士林大宮町」父はここで生まれました。昔あった台湾神社の近くです。それから5年程経った時には、台北州士林街南雅字徳行と言うところに移り住みました。そこは士林駅から3〜4キロ北東に行ったところで、家の前には淡水線の軌道線路が道路を挟んで走っており、すぐ下に外雙渓が流れていました。芝山厳神社⛩が近くにあり、小学生の頃は時々神社で遊んだそうです。父が通っていた建成小学校までは、自宅から徒歩で士林駅まで行き、駅からガソリンカーに乗って学校ま
私の父は7人兄弟(4男3女)の末っ子。父は昭和3年(1928年)生まれ。末っ子の父以外はみんな大正生まれだ。そんな兄弟は全員台北の建成小学校に通っていた。注日本統治時代は台北を「タイペイ」ではなく、「たいほく」と言っていた。この小学校は、日本人の子弟の学校で、2000人程の児童がいたマンモス学校だった。ひとクラスに約60人。5クラスあり、父のクラスは男女混合だったが、他の4クラスは、男子のみ、女子のみだった。2000人もいたマンモス学校だったので、校庭も校舎も広大だ。
2019.5.24.Fri.臺北市建成國中台湾生まれの日本人「湾生」の集いに行って来ました。今は中学校になっている、建成小学校の卒業生が母校に大集合。前回出席したのが2016年なのですが、皆様変わらずお元気で再会出来たのが嬉しかったです。それから、世界は狭いなあ、という事もまたここでも感じました。日本人、台湾人、あの業界、この業界、微妙にシンクロして、あの人とこの人がこういう風に繋がっていたんだな、と。今回はそういう意味でも、個人的に感慨深いものがありました。
台北での旧建成小学校再生利用について、前回の続きです。元々コの字型に建っていた校舎群のうち、南校舎は台北當代藝術館として再生されました。それについては前回紹介済みです。あと、東校舎、西校舎については、北校舎を新築して連結し、そこに台北市立建成國民中学を移転しました。この学校はここから少し離れた華陰街というところにあったのですが、校地は狭く、施設も老朽化していたそうです。國民中学というのは日本の中学校と同じ3年間の義務教育学校です。元々「建成」という名前だったのか、建成小学校跡
台湾のアート情報シリーズ3回目です。取材2日目の朝、台北市内中心部にある台北當代藝術館に行ってきました。台北當代藝術館(MOCA=MuseumofContemporaryArt,Taipei)は、日本統治下の1919年、建成小学校として作られたレンガ造りの建物をリノベーションして2001年に美術館としてオープンしたもの。正面玄関などは特にいい表情をしてると思いませんか?一時は台北市の庁舎として使用されていた事もある由緒正しい建物で、1994年には古跡(日本の文化財のようなも