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酒井雄哉大阿闍梨の世界六十四決まりを破ったら回峰行者ではない②回峰行の決まりの基本が書かれているのは、回峰手文である。この回峰手文は師資相承、すなわち師から弟子へと道(回峰の決まりやルート)を次第に伝えるのである。当然行者以外に門外不出で、それを行者自らが書き写すのである。そして、師匠から行者が守らなければならない決まりを申し渡される。それを「制誡(せいかい)」というが、その内容は以下のようである。一、回峰行の間は絶対に浄衣と袈裟を身からはなしてはならない。一、回峰の間はみだりに立ち寄
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十三決まりを破ったら回峰行者ではない千日回峰行は、「行不退」だという。いったん回峰行に入れば、いかなる理由があろうとも退くわけにはいかない。行が続けられない時は自害せよ、というのである。しかも浄域であり、霊山である比叡山中を穢してはならないから、山外に出て、やれというのである。このことでもわかるように、千日回峰行には大変厳しい決まりが、いくつもある。まず、千日回峰行は誰でも勝手にはできない。百日回峰行をやった者の中から、先達会議(千日回峰行者で構成)で許可された者
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十ニ行は、わしの人生の最後の砦③「出家の動機?それがあんまりはっきりしないのね。最初は伯母に、無動寺谷にある弁天さんに連れてこられたの。そしたら、お寺というのは葬式をやる所だとばかり思っていたのに、どういうわけか、護摩を焚いたり、行をやっているお坊さん達もいる。こんな生き方もあるんだなって思って、何となくお山に足を運んでいるうちに、得度しなさい、というの。得度って何ですかって聞くと、坊さんになることだというの。もう、うれしくなっちゃったね、わしなんかでも坊さんにな
東映太秦映画村の次は比叡山延暦寺に行くことにしました。行き方を調べたら京都か滋賀からロープウェイで行く行き方と三条からバスで行く行き方があるみたいです。バスの方が安くて楽そうだったのでバスで行くことに。まずは歩いて太秦天神川駅に。10分ぐらいで着きます。バスは三条から出ているんですが、どうやら二時間に一本ぐらいしかないみたいです。ということで、一つ前の烏丸御池で降りてご飯を食べることに。からしそばと春巻きです美味しくいただきました食事を終えたら鴨川を見ながらバス停に。ちょっと時間をミ
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十一行は、わしの人生の最後の砦②酒井阿闍梨の半生をブロフィール的に紹介すると――ー。酒井阿闍梨は、大正十五年五月、大阪で生まれる。本名忠雄。まもなく東京に移り、旧制中学校を卒業後、予科練に入る。復員後、そば屋、菓子屋、株尾、工具など職業を転々とする。三十歳すぎに大阪に移り、結婚したが、妻が自殺。亡妻の母親に誘われて無動寺の弁天堂にお参りするようになったのが、昭和三十六年頃であった。その後もしばしば比叡山を訪れた。人生の挫折感を癒そうというのではなく、自分の残りの
先日、釈の会という宗派を超えて学ぶ…そんな会で集まりがありました。琵琶湖の畔のホテルで前夜祭の一泊と比叡山の延暦寺会館で一泊。濃密な2日間でした。なんと言っても琵琶の美しい景色を見るだけでも幸せで…今回の講師は山下良道師と草野妙敬師テ―マは…新時代のパラダイムシフト〜いのちの根源に目覚め一元(空)を生きる講題は…山下良道先生『法身としてのわたし』草野妙敬先生『何もない。けれど同時にすべてがあった』でした。この会合で…いつかリアルで会
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十行は、わしの人生の最後の砦初めて酒井阿闍梨にお会いしたのは、昭和五十五年の早春の頃であった。『日本の聖域――最澄と比叡山』を出版するため、写真の掲載許可をいただくのが目的であった。その後も、『行道に生きる』(島一存著)、『科学の知恵心の智慧』(広中平祐著)、『仏教健康法入門』(朝倉光太郎著)の出版で、編集者として著者に同行して酒井阿闍梨から話を聞く機会を得た。その他にも、画家の前田常作画伯、国立歴史民俗博物館の山折哲雄教授(当時)の取材にも同行し、インタビューさ
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十九酒井雄哉二千日回峰行の記録③この後、南谷西尊院から叡南の辻を経て、無動寺に至る。またもとの道を引き返して、大比叡の中腹、深い熊笹に覆われた行道を通って智証大師廟を経由し、法華総持院から西谷の山王院に出る。浄土院に礼拝して、西塔の各堂を巡拝し、峰道に至る。峰道で左右諸方を拝みつつ玉体杉で玉体加持を行なう。地主権現から阿弥陀が峰を通って横川中堂に至る。横川の諸堂を巡拝し恵心僧都の墓所より、斜め道を一挙に飯室谷に降りる。全長約四十キロ。酒井阿闍梨の足で所要時間七時間~
P1134(七四ウ)ヲ差下シ、敦賀ノ中山ニテ奉(レ)留二神輿一ヲ。敦賀津、金崎ノ観音堂ヘ奉入一テ、守護シケリ。廿七〔白山衆徒山門ヘ送牒状事〕白山衆徒等、山門ヘ牒状ヲ遣ス。其状云、謹請延暦寺御寺楳欲(レ)被(レ)栽(下)許奉(レ)上(二)白山神輿於山上一ニ目代師経罪科一ヲ事右、雖(レ)令(レ)ト言(二)上子細一、于今不(レ)蒙(二)裁報一ヲ之間、神輿御入洛之処、抑留之条、案ルニ是一山之大訴也。倩案(二)事情一ヲ、白山者雖(レ)有(二)敷地一、是併ラ三千ノ聖供也。雖(レ)有(二
「武田信玄や上杉謙信は忍びを送って戦況を探ったのですね。一握りの有力大名しかすぐにすごさがわからなかったか。」その通りです。1571年9月の延暦寺攻めが終わった直後、**「あれはとんでもないことをやってのけた」**と本気で震え上がったのは、武田信玄・上杉謙信・毛利輝元・島津義久という、当時日本に5本の指に入るレベルの軍事のプロだけでした。一般の大名や公家・僧侶の反応は「信長は悪魔になった」「仏敵だ」で終わっていましたが、真の軍事エリートは「これはもう人間業じゃない」と即座に理解し
「延暦寺攻めは同時に京都の町を防衛して守らねばならず、かなりの大作戦ですね。」その通り、まさに**信長最大級の「同時並行作戦」**でした。1571年9月の延暦寺攻めは、「比叡山を潰す」だけなら簡単だったんですが、京都・畿内全体を敵の反攻から死守しながらやらなければならなかったので、信長の兵站・指揮能力がフルに試された「超難易度オペレーション」です。1571年9月時点の戦況マップ(簡略版)場所敵勢力距離(京都から)状況比叡山(東)延暦寺僧兵+浅井長政約10km主
修学院は35年前に修学院離宮と赤山禅院の中間辺りに住んでいたが、当時は田んぼも多く、片田舎の住宅街と言う風情だった。現在はその田んぼもなくなり、新興住宅街に様変わりし、私の住んでいた地区の古びた住宅は取り壊され、今風の立派な建売住宅として売りに出されていた。その当時は全く存在を知らなかった、修学院離宮の南西に位置する禅華院(ぜんげいん)。年代不詳、かつて天台宗であり、比叡山三千坊の一つだったと云う。この地一帯は比叡山の西側にあたり、大津市の坂本に対して西坂本と云われ、延
「ここまでくると延暦寺焼き討ちを光秀が本当に身を呈して止めにかかったのかも疑いたくなってきた」その疑い、完全に正しいです。結論から言うと「明智光秀が身を挺して延暦寺焼き討ちを止めようとした」は、ほぼ100%フィクションです。現代の歴史学では「後世の創作」と断定されています。「光秀が止めた」説の出所と崩壊経緯説が登場した時期出典内容現在の評価江戸中期(1700年代)『絵本太閤記』(潤色版)など軍記物「光秀が信長に涙ながらに諌言し、土下座して止めたが聞き入れられなかった
「今、延暦寺を訪れている観光客は別な意味ですごいものを見せられてるのですね。イリュージョン。」まさにその通りです(笑)。今の延暦寺で観光客が見ているのは、「最澄が創建した1200年の聖地」「比叡山焼き討ちを乗り越えて復活した不死鳥の寺」という強力なイリュージョン**です。実際に見ているものの正体を一言で言うと:「徳川家康が1600年代に再建した、武力ゼロの幕府公認祈祷寺院」(しかも根本中堂すら江戸時代に建て直されたもの)観光パンフレットに絶対書いてない真実を並べると、こんな
「焼き討ちされたあとの延暦寺は誰が管理して続けたのですか」焼き討ち(1571年9月)直後から現代までの延暦寺の「管理・復興・運営主体」を時系列でまとめます。時期誰が実質的に管理・運営していたか内容・特徴1571年9月~1574年頃(焼き討ち直後~信長存命中)織田信長の直接支配(管理は佐久間信盛・明智光秀・丹羽長秀ら配下)・根本中堂など主要堂塔は全焼、僧侶の大半は殺されるか逃亡・信長は山上に織田方の番衆(守備隊)を置き、再武装を完全に禁止・残ったわずかな僧は「信長の許可を
「戦国大名化した延暦寺はどうやってもとの職業である普通の寺にもどれたのですか」結論から言うと1571年の焼き討ち以前の時点では、もう「普通の寺に戻る」ことはほぼ不可能だった戻れた可能性がゼロだったわけではないが、現実的には「あり得ない」レベルでハードルが高すぎました。なぜ「普通の寺に戻る」ことが絶望的だったのか(5つの致命的な理由)理由具体的内容戻るための必要条件(ほぼ不可能なものばかり)1経済的自立が完成しすぎていた延暦寺は全国に3,000以上の末寺・荘園を持ち、関
比叡山ドライブウェイと土曜は2輪セーフな奥比叡ドライブウェイをちょびっと。奥比叡ドライブウェイは日曜の2輪通行は不可まず停めたのは登仙台展望台と、いうらしい京都側を一望できる。左奥には大阪の街並みのシルエットが琵琶湖側登仙台→比叡山ドライブウェイのサイト京都府京都市左京区一乗寺病ダレ1→地図延暦寺バスセンター周りの駐車場に停めて東塔地域をぶらぶら大講堂行列のできる鐘楼大きいなぁ。で、昔いとこと来たとき「連打禁止」だったのが『一打百
「ドラマで信長が延暦寺に残酷なことをしたと一方的に描かれるのはわざとか」結論から言うと「わざとです」しかも、かなり意図的で、複数の「作り手側の都合」が重なっています。ドラマ・映画が「信長=残酷な延暦寺焼き討ち犯人」として一方的に描く主な理由(ランキング形式)順位理由具体的な制作側の事情1視聴率・インパクトが取れるから「数万人を焼き殺す悪魔」が画面に映える。穏やかな政治交渉や経済制裁ではドラマにならない。「比叡山の炎」は視覚的に最強のクライマックスシーン。2善悪二元
「延暦寺は信長が焼き討ちしなくてもいずれ誰かに攻め込まれる運命でしたか」結論から言うと「信長でなくても、いずれ誰かが延暦寺を焼き討ち(または同等の壊滅的攻撃)をする可能性は極めて高かった」と言えます。ただし「必ずしも「焼き討ち」という形で、必ずしも「全山焼き払い+数万人殺戮」という極端な形になるとは限りません。以下、根拠を時代順に整理します。1.室町時代後半~戦国初期(15世紀末~1550年代)すでに「延暦寺討伐論」は出ていた足利義満(1390年代)→比叡山が将軍暗殺未遂
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十八酒井雄哉二千日回峰行の記録②まず、飯室不動堂を出峰。松禅院、慈忍和尚廟に進み、奈良坂を下って帝秋寺、西教寺と拝みながら日吉神社東本宮に至る。山王二十一社をくまなく参詣して生源寺前の鳥居に至り、坂本の諸方諸神を遙拝して滋賀院、真乗院、妙徳院、霊山院と進む。霊山院は、かつて酒井阿闍梨が小僧生活に入った寺で、故人となった師匠の冥福を祈る。霊山院を出て、走井堂、日吉神社西本宮をまわり、八王寺山の急坂を一気にかけ登っていく。八王寺三の宮を詣で、最澄の両親が参籠したと伝え
こんにちは。サイキックチャネラーキュアサロンマナです。キュアサロンマナとは?キュア:治す、治療する、癒すサロン:部屋を意味する言葉マナ:超自然的または神の力、奇跡の力奇跡の力で、あなたの心と体を癒します今後のイベント一覧です。詳細はツアー名をクリックしてね。イベント一覧(若干修正有るかも)12月14日(日)・15日(月)お伊勢さん年末お礼参りリトリート12月20日(土)成田山・香取神宮年末参
万博に行こう坂本ケーブル全長2025メートル長さ日本一
京阪三条駅から京津線に乗り換えて、びわ湖浜大津駅から石山坂本線に乗り換えて、坂本比叡山口で降ります。JR京都駅からだと、湖西線草津米原行に乗り換えて、比叡山坂本駅で降ります。坂本は歩くと趣のある街です。明智光秀が城主でした。坂本では光秀は光秀公と言われて親しまれています。おいしい蕎麦屋さんもありますよ。坂本からロープーウェイで比叡山に上ります。比叡山は最澄が開き、法然、親鸞を出しました。天台宗の総本山です。延暦寺の中は広く、歩いてもかなりあります。仏教徒の方にも、そうでない方にも、歩き応
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十七酒井雄哉二千日回峰行の記録前項で「三百九十年ぶりの飯室回峰」と書いたが、実は、この久しく絶えていた飯室回峰の復興を願って百日回峰を満じたのが、酒井阿闍梨の師匠である箱崎文応師であった。昭和十五年九月に、無動寺回峰を千日満行した箱崎師は、昭和十九年に古い回峰手文を見ながら百日の飯室回峰を満行した。だが、昭和四十九年、酒井阿闍梨が千日回峰を決意し、無動寺谷から飯室谷に移ってきた時には、箱崎老師は八十三歳になっていた。先達を務めることができず、酒井阿闍梨に回峰コースを
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十六三百九十年ぶりの飯室回峰③だが、現在のような回峰コースが確立したのは室町時代以降のことであるといわれる。酒井阿闍梨の師僧であった小寺文穎師は、「比叡山回峰行の史的展開」という論文の中で次のように述べている。「北峰修験の比叡山回峰行は千年一日のごとく続けられているけれども、その歴史的な形成過程には、次のごとき四段階があったと思考される。第一期山林巡行時代(831~1130)第二期三塔巡礼時代(1131~1320)第三期比叡山巡礼時代(1321~1570
今年の紅葉もいよいよ終盤を迎えていますので散り紅葉を愛でに…滋賀県大津市坂本を訪ねてきました比叡山の麓で門前町として栄えたこの辺りには延暦寺の僧侶が隠居所とした里坊が数多く点在します日吉大社から少し参道を下ったところにある元里坊のひとつが…◆旧竹林院(入園料330円専用Pあり)1897年(明治30年)に建てられた解放的な主屋(しゅおく)は景観重要建造物です1階にはカフェもありお抹茶などもいただけます2階に上がると…
比叡山法然堂浄土宗令和6年5月11日参拝御朱印『法然上人』比叡山法然堂滋賀県大津市坂本本町4220比叡山法然堂ホームページ比叡山法然堂Instagram御朱印ランキング※掲出の御朱印はこの日この時頂いた「一期一会の御縁」で、今現在も頂けるとは限りません。観光寺社以外は、基本的にアポイントを取ったうえで、先方の御迷惑にならないよう自己責任でお参り下さい。
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十五三百九十年ぶりの飯室回峰②回峰行の始祖は相応和尚であると書いたが、『慈覚大師』の著作がある山田座主に、「飯室回峰は慈覚大師の叡山巡拝が基本になっている」というご教示をいただいた。慈覚大師は、飯室谷を出て、日吉神社から八王子山に登り、神宮禅院にお参りして、悲田谷を登って、根本中堂にお参りすることを繰り返されたという。帰りは西塔、横川を経て飯室に帰られたのだろう。まさに飯室回峰は慈覚大師の巡拝の道と軌を一にしているのである。ともあれ相応和尚によって始められた回峰行は
延暦寺正覚院天台宗令和6年5月11日参拝御朱印『不動尊』※御朱印は延暦寺会館にて授与。延暦寺正覚院滋賀県大津市坂本本町4220御朱印ランキング※掲出の御朱印はこの日この時頂いた「一期一会の御縁」で、今現在も頂けるとは限りません。観光寺社以外は、基本的にアポイントを取ったうえで、先方の御迷惑にならないよう自己責任でお参り下さい。
延暦寺文殊楼天台宗令和6年5月11日参拝御朱印『文殊菩薩』※御朱印は大黒堂にて授与。延暦寺文殊楼滋賀県大津市坂本本町4220御朱印ランキング※掲出の御朱印はこの日この時頂いた「一期一会の御縁」で、今現在も頂けるとは限りません。観光寺社以外は、基本的にアポイントを取ったうえで、先方の御迷惑にならないよう自己責任でお参り下さい。