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またあの日がやってきました今年も、あの日のことを記しておこうと思います昭和20年3月25日ここ熊本・建軍飛行場で兄弟最後の別れを惜しんだ廣森隊長は「あめ玉を頬張りながら」命令受領のため鹿児島・知覧へと飛びました第八飛行師団・山本師団長から命令が下ったのはその夜のこと䑓飛作戦命令甲第二百十三號其ノ二第八飛行師団命令三月二十五日二三〇〇䑓北誠第三十二…飛行隊沖縄(中又ハ北)…ニ前進シテ神参謀ノ指揮下ニ入ラシム神参謀ハ前項第二號部隊ヲ指
一応触れておきます昨晩伝わっているアメリカ・イランの交渉について真偽のほどはわかりませんが昨晩遅く、イランメディアMEHRが伝えたところによると🔴アメリカからイランへの交渉やメッセージは欺瞞的な策略であり、イランはこれらのメッセージを信用していない。🔴イランに対する敵の攻撃的な姿勢は変わっておらず、新たな欺瞞的行動や地上作戦の兆候が見られる。🔴トランプはパキスタンの仲介者を通じてイランの戦争停止意思を探ろうとしたが組織的かつ断固とした対応に直面した🔴トランプの
今回の松本の旅のメインは「あの部屋」に泊まること昭和20年2月22日、松本飛行場に降り立った誠第32飛行隊・武剋隊15名はすぐ浅間温泉へ向かいます彼と、少年飛行兵学校同期の3人はここ、梅の湯(彼はすぐ世田谷の東條英機のもとへ)中堅の軍曹6人は千代の湯現在は廃業して存在しませんがここがその場所そしてこの廣森隊長以下、将校5名と整備班長の伊東少尉はここ目之湯これら三つの宿に分かれ約1ヶ月間滞在しました今回私が宿泊したのは廣森隊長らが
満州から朝鮮半島、そして各務原を経て武剋隊15名がこの場所に降り立ったのは昭和20年2月22日それからひと月、操縦の隊員らは特攻の「突入訓練」にそして整備兵たちは「特攻用250キロ爆弾」装着のための機体整備に励みました現在の松本空港の東側を並行するように走るこの直線道路かつての陸軍松本飛行場・滑走路跡です前回訪れたときにはありませんでしたが現在はこの説明の碑が置かれていますこう書かれています陸軍飛行場が完成したのは昭和20年8月であるが滑走路は
昨日から松本に来ています特攻隊誠第三十二飛行隊・武剋隊が滞在していた松本・浅間温泉その足跡を辿る旅あの当時を知る人、その関係者の手がかりを探すために…昨晩は当時のまま残るこの旅館に詳しくはまた帰りましてからゆっくり書きますので今日の一日の様子を記しておきます名古屋を出て木曽福島そこから中山道・奈良井宿そこから松本そして...あの場所へ夕食のとき宿のご主人と話をさせていただいて少し手がかりが掴めたような気がします
81年前昭和20年2月18日彼を含む、廣森隊長以下、武尅隊15名と機付整備兵15名はこの場所に昨日この日に合わせて久しぶりに来てみました陸軍各務原飛行場現・航空自衛隊岐阜基地これは当時東西の滑走路を結んでいた誘導路のトンネル昭和20年2月11日満州・新京で出陣式を終えた武剋隊15名は一旦白城子・平台飛行場へと戻り新たに編成された整備班と合流2月14日に平台飛行場を出発新京〜平壌〜大邱を経て福岡・大刀洗に到着彼
昭和20年3月27日誠第32飛行隊・武剋隊先発隊9名が敵艦に突入それを率いた廣森達郎隊長の命日にあたり、昨日、墓参、そしてご遺族のもとにお伺いしました久しぶりに墓前にいつ訪れても綺麗な生花が供えられています墓参のあと、ご遺族宅にお邪魔しました「あとになってそんな立派なお役目果たしたって知ったんですよここの村では、話題にもなっとらんかったですから」特攻隊の隊長であったことや廣森隊長の活躍は後から知ったそうですお会いしたご遺族
80年前の今日昭和20年3月27日陸軍沖縄中飛行場(現・米軍嘉手納基地)武剋隊出撃のため前日から徹夜の機体整備作業が行われていました複座機銃と無線の取り外し前縁燃料補充、500キロ爆弾の取り付けとエンジン試運転整備が完了したのは午前4時中飛行場に構える独立飛行第46中隊の協力を得て整備兵たちが出発点に各機を並べ終わります特攻機を察知した敵艦からの砲弾が飛び交う中午前5時過ぎ整備の佐藤曹長が隊長らを迎えに駆け始めると向こうから日の丸鉢巻を締めた9人の姿
この辺の人間じゃあない誰かはわからんよそのナンバーの赤い車で来とるらしい熱心に達郎の墓に手を合わせとる、ってこの辺じゃちょっとした噂になっとるもしかして、あんたか?廣森隊長のご実家を訪ねた際ご遺族との話は、この会話から始まりました。以前、廣森隊長のご実家住所を調べて、行っては見たものの....同じ住所に何軒ものお宅が...それも全て「廣森」姓結局特定できずなんとかお墓だけは見つけたので、その後、出張の行き帰りに立ち寄っては「赤福」
80年前の昨日昭和20年2月20日満州から各務原を経て松本に到着した武尅隊15名は浅間温泉にある三軒の旅館に分宿しましたその一つで、現在も営業を続けておられるのが「目之湯旅館」浅間温泉目之湯旅館/信州松本の宿目の湯松本市浅間温泉にある、昔ながらの旅館、目之湯旅館です。www.menoyu.jpここに滞在したのは廣森隊長のほか各編隊長である林、清宗、小林、結城(金)、整備班長・伊東、計6名の将校ご主人のお話では、館内は「ほぼ当時のまま」部屋の前に掲げられ
第二章世田谷へ(3)【駒繋小学校】③松本市立菅野小学校グランド北東部に残る旧兵舎跡と思われる礎石彼はここで特攻のための訓練を積んだ中澤敬夫さんが書かれた「日本の子、小國民よ学童疎開父と子の便りの記録」。その一部ー武尅隊との交流の様子ーを抜粋してご紹介します。(手紙の文中、整備班長の名が「伊藤」となっていますが、正しくは「伊東」です。)●二十年三月十五日付敬夫→父(封書、便箋三枚表裏)お父さん、お元気ですか。僕たちも元気で勉強しています。(中略)
沖縄(6)4月3日18:20彼の突入日、突入時間、突入場所静かに手を合わせた米軍上陸の地碑...その場で一時間くらい過ごしたろうか、もう日は傾きかけて時計は18時近くなっている。丘を降り、対岸へと車を走らせる。河口付近の崖には、船を隠しておいたと思われる穴がいくつもあった。攻撃用の「震洋」だったのか…けれど上陸時に日本軍の抵抗を受けたと言う記録は残されていない。比謝川河口水上艇を隠したと思われる穴がいくつもあるかつて米軍が大挙して上陸した海
沖縄(5)沖縄へ...沖縄に到着したのは昼過ぎだった。沖縄の友人が勧めてくれた食堂で遅い昼食をとって、その足で読谷村に向かった。武尅隊の先発隊が出撃したのは中飛行場、今の米軍嘉手納基地で、その北側に位置するのが読谷村になる。沖縄に来る前、僕は読谷村に残る戦跡について調べておいたから、この二日間どこをどう回るかは決めておいたけれど、調べれば調べるほどあの戦いの悲惨さが身にしみる。読谷村は当時の住民の消息を徹底的に追って体験をつぶさに聞きとっている。おそらく全国広しと言え
沖縄(2)靖国靖国の境内、僕たち二人はあの木の下に立った。由季が目をつぶってじっと何かに耳を傾けている。何分くらいだろうか、目を開けると由季はこう話し始めた。「ちょっとあなたにとっては大変なことかも。あのね、説明してもわからないとは思うけど…。」めったに見ない由季の真剣な顔だった。「生まれ変わるんだって。だから、ここからいなくなる。」何を言っているのか意味がわからない。「ここにいる仲間と一緒にね、誰かのところで生まれ変わるらしいの。だからもうこの
沖縄(1)桜咲く靖国へ...「大事な話があるから二人で来てくれ、って。靖国…。」唐突に由季から電話があった。「慌てなくていいってよ。でも私も一緒に来てくれってことは、靖国で直接あなたに伝えたいことがあるんだと思う。結構重い話だな。きっと。」彼からの久しぶりの言葉だった。彼が歩いた場所はほぼ一通り訪れ、彼が僕に何をさせたいのかもおおよそ見当がついてきた。だから最近は以前のように次から次へと展開が変わっていくこともない。間違いなく言えることは、僕が考えを巡
新田原(10)彼の遺書を入れた封筒新田原から差し出されている15時40分、彼の出撃時間。飛び立って行った方角の空を見上げ、僕は手を合わせた...父母上様御別れ申上げます二十年の間色々御世話に相成りましたが四月三日愈々出陣です。勿論特攻隊ですから生きて再び皇土には歸りません精神だけは永久に止りて米英撃滅に努力します。待ちに待ったこの命よろこび御想像下さい。隊長殿はじめ戦友九神鷲はすでに紙上にある通り「武剋隊」大戦果です。残
新田原(9)昭和20年4月3日一五四〇彼はこの方向に向かって飛び立っていった掩体壕の上に座り込んで滑走路を眺める。昭和20年4月3日、あのときに戻ってこの場所にいるようだった。時間がすっかり止まっている。目の前を陸軍の飛行機が次から次へと往来しているような錯覚、不思議な感覚だった。どれくらいその場所でぼんやりしていたろうか、時計はもう15時を回っていた。そのまま滑走路脇の公園まで歩く。現在の滑走路と陸軍時代の滑走路との位置関係は参考館で頭に入れた
新田原(8)掩体壕基地南側に数箇所、綺麗な状態で残っている昼過ぎ、宮崎神宮を出た僕は、もう一度新田原基地に向かった。彼が出撃した時間まであと三時間ほど、八紘荘のあった場所から坂を降り、畑が広がる田舎道を散策してみる。あのときの彼らと同じように...隊員たちは途中赤い花を見つけて摘んだ、と福澤参謀は書いていたけれど、それらしいものは見当たらなかった。基地の外周の並ぶ桜の木からは、視界を塞ぐようなたくさんの花びらが海からの風とともに舞っている。彼は人生の最後に桜
新田原(7)宮崎神宮彼がいた場所に立つ...翌4月3日朝、僕は宮崎神宮に向かった。新田原飛行場から出撃の五部隊を指揮した福澤参謀は、蒼龍隊と武尅隊が新田原に到着してから出撃するまでの一連の行動を記録している。彼らは新田原に着くと、すぐこの場所で正式参拝を行っている。参拝後は、宮司のはからいで盛大な壮行会が催されたそうだ。当時特攻隊員は「軍神」「神鷲」と崇められた。旅館では宴席だけでなく、演劇などの慰問も行われている。前出の通り、慇懃無礼な振る舞いを
新田原(6)陸軍新田原飛行場参考館での資料探しまでずっと付き添ってくれた広報官に丁重にお礼を言って基地を出ると、僕は八紘荘のあった場所まで歩いた。70年前の手書きの見取り図どおりその場所にたどり着くのかどうか…。彼が人生最後の夜を過ごした場所・八紘荘○をつけたところがその場所だ手前は彼が飛び立った滑走路そう思ったけれど、正門から北に向かって伸びる細い道、その先から枝分かれしていくさまは、見取り図そのままだった。そしてその先にあったのは一軒の民家と一面に広がるお茶畑。
新田原(5)八紘荘彼が人生最後の夜を過ごした場所...基地見学ができたのは思わぬ収穫だったけど、ここに来たのはそれが目的じゃない。本当の目的は基地内にある「航空参考館」、そこを訪れること、そして彼の手がかりを探すことだった。事前に電話で問い合わせたとき、「わずかですけれども特攻隊関係の資料は航空参考館にあります。」と聞いていた。「お探しになっているものがあるかどうかわかりませんが…こちらです。」と案内された航空参考館は八畳間ほどの小さな部屋だった。壁
新田原(4)新田原基地・空挺歌碑もう一度彼の痕跡を求めて...僕は新田原を訪ねることにした。選んだのは彼の出撃の日。出撃時間に手を合わせられるようスケジュールを組んだ。彼が出撃した陸軍新田原飛行場は現在航空自衛隊新田原基地。事前に基地には見学申請を出しておいた。見学者は僕一人。門で出迎えてくれた広報官は、最初に「空挺歌碑」と書かれた大きな記念碑に僕を案内した。「特攻関係のことをお調べになりたい、ということですけれども、たしかにここは特攻隊が出て
新田原(3)彼の出撃地・新田原へ...写真はこの基地から飛び立った38機のうちの1機彼なのか、他の隊員なのか...(これは航空自衛隊新田原基地の資料館に残されていたもの)元旦、一年の計はここにあるというけれど、タカさんを見つけ出し、松本を訪れ、隊長も加わって、いよいよ彼の言う「遺志」が何なのかを突き止めないといけない時期に来ていた。この元旦にもう一度戦争というものの愚かさを考えたということは、あの戦争は何だったのかを紐解いて考えよ、ということかもしれない。彼の人
掲載忘れの写真廣森隊長のご遺族宅を訪ねた記事のとき載せようとしてた写真がどうしても見つからなくて...ない...格納したはずのフォルダをいくら探してもない...ないはずはないけどないものはない…ハードディスクの中をもっと整理しておけばよかった💦で、不思議なもんで今朝...あれれ💦???こんなところにあるじゃん...隊長が「ほれ!」って差し出してきたような...なので載せます元第八飛行師団長・山本健兒中将直筆の「故・廣森少佐血戦記」出撃命
新田原(1)彼の出撃地・新田原基地脇に広がるのどかな風景彼ら後続隊6人は出撃前、この付近を散歩したとされる暮れも押し迫ったころ、由季がこんなことを口にした。「行くって、正月。あんたん家。伝えてくれってさ。」「あ、そう…わかった。正月だからおせち用意するかね。ところで、一人で来るの?」「全部で6人だって。団体様だよね。それと…金柑の入った飲み物が飲みたいんだって。何のことやらわからないし聞きもしなかったけど。」こうした出来事は初めてじゃない。あの
ご遺族からの便り廣森隊長のご実家を訪ねてから数日後、ご遺族から便りが届きました。今日はその内容をご紹介したいと思います。実際…彼の妹・英子さんを訪ねたときと同様、何の縁もない私から突然「会いたい」と言われても、しかも70年以上の前のことについて話を聞きたいと言われても無条件に「どうぞどうぞ」と歓迎してくれるわけではありませんでした。当時、月に一度は仕事で大阪に出かけていましたから、その都度温かいお茶と赤福を買って墓前に供えていましたがそのことが集落の話題になっていた
亀山(9)功三級金鵄勲章「このへんの人間じゃない。誰かはわからん。名古屋ナンバーの赤い車が止まっているって。いつも達郎の墓に向かって一生懸命手を合わせている人間がいる、って聞かされた。この周りじゃ有名な話でね。あんた、知らんか?」僕のことだった。「それ、僕です。」とご夫婦に伝えた。墓地の墓碑はほとんど廣森のものだった。この中のどれかが、隊長の直系の家族のものなのは間違いないし、兄の小三次さんの墓を探せばなにか見つかるだろうと思ってい
亀山(8)基地脇の道の駅から撮影した嘉手納基地かつての沖縄中飛行場隊長ら武尅隊9機はここから飛び立ったいよいよ出撃の朝、隊長が乗り込み隊長機付の佐藤曹長(今野さん)が「ご成功を祈ります。」と言うと隊長は「帰りの小遣いに使ってくれ。」とポケットから財布を取り出して財布を渡した。清宗少尉(特攻戦死後大尉)も「頼むよ」とただ一言だけ残して財布を渡した。「どうしようもなく涙が止まらなかった。」と今野さん(佐藤曹長)は回顧している。
亀山(7)現在の嘉手納基地近く比謝川にかかる久得橋沖縄中飛行場で神参謀から命令を受領した後、隊長は8人を集めこう命令をした。・突入は明朝0600・一編隊三機は南側から侵入しおとりになって敵をおびき寄せ、その間に二編隊機は北側から攻撃をかける・整備班は速やかに後続の部隊に合流し、あとに続くよう伝えることこのとき、整備班長だった名取の今野さん(当時は旧姓・佐藤曹長)は整備兵を集めて相談し、「平台からこの沖縄まで、各機に乗り込んで隊員と寝食共に行動してきた。今
亀山(6)昭和20年4月2日付朝日新聞武尅隊の戦果を伝える記事が見える彼は隊長ら先発部隊から数日遅れて松本を出発、各務原を経て新田原に到着したのは3月30日頃。彼はきっと隊長と行動を共にしたかったんだと思う。出撃前夜に遺した遺書に、彼はこうも記している。「隊長殿はじめ戦友九神鷲はすでに紙上にある通り『武剋隊』大戦果です。残った吾等が隊長殿はじめの弔合戦です」武尅隊先発隊の戦果はラジオで大々的に報じられたほか、新聞でもトップで隊員一人一人の名が紹介されている。きっ