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前の日曜に鶴岡公園から撮った致道博物館です致道博物館・・山形県鶴岡市にある山形県の登録博物館。名称は旧庄内藩の藩校「致道館」同藩校で使われた文物や用具、庄内地方の民俗資料が収蔵・展示されている(wikiより)桜の写真はまだあるけど、大体葉桜に変わってます(;´▽`A``さて今朝食べたのは・・・「たっぷりバニラ食べたいシフォンケーキ」ですでは早速・・・・開封し・・・少し割って・・・・大半の部分を焼いて比べるこ
皆様、ご機嫌YOです!戊辰戦争において不義の徒とも言うべき西軍は江戸を落とした後、奥州にその毒牙を露わにしました。それに対し奥羽越の諸藩は奥羽列藩同盟を組んでその野望に立ち向かうも、錦の御旗と物量作戦に勝てず、長いものに巻かれた裏切者まで出る始末でした。そんな中で西軍に戦術的には勝ち続け、奥州の意地を示したのが庄内藩です。そんな庄内藩の強さはいったいどこから生まれたのでしょうか?今回は庄内藩の強さの源を一緒に見ていきましょう。
鶏料理慶でラーメンを食べた後は爆弾低気圧の雲の切れ間なのか晴れてきました。街の至る所にある観光マップを見ながら辿り着いたのが鶴岡カトリック教会天主堂です。前日からうんざりするぐらいの雨と風に泣かされた中での束の間の晴れ間にホッとしました。西洋の城郭を連想させる天主堂。これまで国内、海外で教会を見てきましたが鮮やかな赤と白壁の天主堂に惹きつけられます。規模は大きくもなく小さくもなく丁度良い大きさ。天主堂、教会の建物は手入れが行き届いていて綺麗です。古い方が風情、建てられた当時の雰囲気が感じられ
先ほど東京の部屋に戻りました。鹿児島空港で「西郷どんの教え(せごどんのおしえ)」を購入して飛行機の中で読了。これは、西郷南洲翁遺訓(さいごうなんしゅうおういくん)を青少年向けに書いたものです。どの教えも素晴らしいのですが、いくつか心に残ったものがありました。それのひとつが「機会」についてです。世間でいう「機会」とは、チャンスに恵まれたり、運が良かったりすることですが、西郷さんが教えてくださる、本当に機会とは、人のためにつくし、今何が必要かを考えて動くことだと。人につくすことで貢献で
庄内藩校致道館へ行ってきました。致道館の名称は、「君子学ンデ以テソノ道ヲ致ス」から由来したもの酒井家9代忠徳(ただあり)が退廃した士風を刷新して藩政の振興をはかるために文化2年に創設した学校で駅前通りにあったそうです。文化13年10代忠器(ただかた)によって鶴ヶ岡城三の丸内に位置する現在地に移設されました。致道館の教育目的は、道徳を学び文武に務めて国家の御用に立つ人物を育成すること白梅や紅梅が満開な花を咲かせる。遺構部分(当時の間取りの平面表示)生徒の通用口東御門藩校
創設:1805年創設者:七代目藩主酒井忠徳所在地:鶴岡市馬場町11-45指定文化財:国史跡
荘内神社に飾ってある鎧兜徳川四天王酒井忠次の鎧兜らしい。徳川家と庄内藩は近い関係だったのですね。孫「金ピカだぁ~」バァ「あんた着ると似合うよ」孫「ハハハ~」遠く離れた孫とFBでの会話です。荘内神社から一直線にならぶ鳥居。その先の道羽黒山に向かっているように伸びています。「雪の降る町」の鶴岡市ですが今年は全くありません。このまま春を迎えるのでしょうか。
西郷南洲遺訓西郷隆盛がなぜ偉大なのかがわかる本釈迦と同じく周りの人間(庄内藩有志)が西郷さんの言った事を本にしてまとめたもの家を建てるのが得意な西郷隆盛家の中を使いやすくするのが得意な大久保利通最近、西郷隆盛の偉大さを知った
江戸薩摩藩邸の焼討事件-Wikipediaja.wikipedia.org1868年の今日は江戸の三田にある薩摩藩の江戸藩邸が江戸市中取締の庄内藩新徴組らによって襲撃され、放火により焼失した事件、通称・江戸薩摩藩邸焼討事件が起きた日です。この事件をきっかけに戊辰戦争が勃発、江戸幕府と徳川政権が事実上、終焉へと追い込まれることになりました。江戸薩摩藩邸焼討事件~挑発にのった幕府慶応3年12月25日、三田の薩摩藩江戸藩邸が庄内藩などによって焼き討ちされました。鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争の直
昨日は録画していた「英雄たちの選択」を2本見た。一つは「時代をひらいた博物大名たち」で、もう一つは「幕末最強庄内藩の戊辰戦争」と題してあるやつである。タイトルを見て、そんなに興味関心は引かなかった。大体すぐには消さず、頃合いを見て消去することが多い。以前のように何もかも好奇心に駆られて録画したものはすべて見るという姿勢は捨てた。1日24時間を自由にできるということで、何でもできるような気がしていたが、そんなことはなかった。一番大きいのは思うようには体が動かないということだった。「健康が一番大
歴史ってすごいと思いました。本日、テレビで、庄内藩の酒井忠次の子孫玄蕃が27歳で、リーダーとして、新政府軍と戦った話に、目からウロコ、新潟の河井継之助が、霞んで見えましたよ。連戦、全勝していたのには、驚きです。ここは、とても良い殿様で、天保の飢饉のときに、藩の米倉を、領民に分け与え、一人の餓死者も、出さなかったそうです。川越藩、長岡藩、庄内藩で、殿様の領地替えの話が出たときに、なんと、領民は、お上に直訴に、行った話は、感動しました。つまり、お上に直訴は、死罪となるからです。自分の命
*12月10日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君、今回は近現代史のしらたま教授との歴史トークで、テーマは幕末の庄内藩。本日がシリーズ最終回、庄内藩始末のおはなしです。あんみつ「しらたま先生、九月八日に改元が成され、慶応四年(1868)は明治元年になりました。仙台、米沢に続いて九月二十三日、会津藩降伏。これを受けて二十五日に庄内藩も停戦します。奥羽越列藩同盟の戊辰戦争は終結しました」しらたま「幕臣の抗戦は、
見た見た!『英雄たちの選択幕末最強!庄内藩の戊辰戦争』NHKオンデマンドで見た!こういうの、4Kとかで見ると素晴らしく感動するんだろうな〜が、うちにはそんな豪華な設備は無い・・・というわけで、今回はその感想です。連戦連勝!!幕末最強!!酒井玄蕃!!うおおかっちょええ!!破軍星旗グッズ欲しい〜(巷にあんまりない)冒頭、戊辰戦争の映像は鶴ヶ城ですか・・・いつ見ても痛々しいですゲストのお一人に佐藤賢一さんがいらしていて、初めて
おはようございます🎵昨夜8時よりBSで幕末最強!!庄内藩が放映されました📺今月20日BS8時より再放送される予定です✌️見逃した方はぜひっっご覧下さいね✨幕末最強!庄内藩の戊辰戦争〜徳川四天王・酒井忠次の遺伝子〜-英雄たちの選択幕末の戊辰戦争。奥羽越列藩同盟の中で唯一、新政府軍に勝ち続けた庄内藩。立役者となった二番大隊長・酒井玄蕃は徳川四天王・酒井忠次の末裔。その強さの秘密と選択とは?幕末の戊辰戦争。奥羽越列藩同盟の中で唯一、圧倒的な新政府軍を相手に一度も敗れることなかっ
*12月3日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君、今回は近現代史のしらたま教授との歴史トークで、テーマは幕末の庄内藩。本日は、北越の蒼龍立つのおはなしです。あんみつ「しらたま先生、慶応四年(1868,戊辰)、七月四日に秋田藩が奥羽越列藩同盟を脱退したことで庄内藩は会津援軍を断念しました。秋田での戦いは熾烈を極めます。新庄城は『猛火天ヲ焦サンバカリ』の砲撃で撃滅され、住民も巻き込まれて逃げ惑いました。戦争はいつでも
金田一耕助の最後の事件、『病院坂の首縊りの家』下巻です。『病院坂の首縊りの家(上)』タイトルからして不穏ですけど、金田一耕助シリーズの最後の事件だそうですよ。ひとまず上巻を読みましたが、長い長い物語です。正直、こんなに長くなくても良かった…ameblo.jp昭和28年の気持ち悪い生首風鈴事件がいったん終結してから時は経ち、舞台は昭和48年。金田一耕助のお友達である等々力警部はこの頃もう定年退職をしていて、なんと「等々力秘密探偵事務所」っていうのをやってるんです。同業者にな
*11月26日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君、今回は近現代史のしらたま教授との歴史トークで、テーマは幕末の庄内藩。本日は、東北戦線崩壊すのおはなしです。あんみつ「しらたま先生、慶応四年(1868)四月の開戦後、庄内藩は松平権十郎を総司令官として約1200人の兵力を四境に振り分けました。東境最上川筋は松平甚三郎、南境大網は酒井兵部、西境立谷沢は水野藤弥、北境吹浦は石原倉右衛門を守将に、本丸の鶴ヶ岡城は新徴組を控え
*11月19日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君、今回は近現代史のしらたま教授との歴史トークで、テーマは幕末の庄内藩。本日は、庄内藩燃ゆのおはなしです。あんみつ「しらたま先生、慶応四年(1868)五月三日、長岡藩の河井継之助が参加表明したことにより北越6藩も合流、《奥羽越列藩同盟》が結成されました。六月には上野戦争から逃れてきた輪王寺宮公現法親王が会津に入り盟主として戴きます。もはや戦争は不可避。ここに至るまで庄
お城巡りnoもう1つ楽しみ城下町さんぽ今なおお殿さまが住み続けている鶴岡の町を歩きますなにやら歴史的な建造物旧致道館東北地方唯一現存する藩校鶴ケ岡城旧本丸跡地にある荘内神社レトロな洋風建築大寶館
江戸時代庄内藩の藩庁となったお城鶴ケ岡城本丸を中心に土塁と堀をめぐらせた平城本丸・二の丸跡周辺・・・が鶴岡公園として整備されています堀の周辺には多くの桜の木日本桜名所100選に選ばれているそうです街並みもと〜っても素敵なのでお薦めです
*11月12日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君、今回は近現代史のしらたま教授との歴史トークで、テーマは幕末の庄内藩。本日は、奥羽越列藩同盟のおはなしです。あんみつ「しらたま先生、慶応四年(1868)四月十一日に江戸城が明け渡し。徳川慶喜は水戸に立ち退きましたが、水戸では天狗党を見捨てた慶喜への反感が強く、居心地の悪い思いをしていました。かつて無残に処刑した武田耕雲斎の孫・金次郎が報復のため乗り込むと息巻いていたの
*11月5日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君と、近現代史のしらたま教授の歴史トーク、今回のテーマは幕末の庄内藩。本日は、江戸開城のおはなしです。あんみつ「しらたま先生、慶応四年(1868)正月早々に鳥羽伏見の戦いが起き、前将軍・徳川慶喜は江戸に逃走しました。これをもって徳川幕府消滅の時と言えそうです。負けと言っても緒戦、全力の薩摩長州に対し、幕府は膨大な兵力を持ってたんですからじゅうぶん建て直せたはずなんですけど
*10月29日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君、今回は近現代史のしらたま教授との歴史トークで、テーマは幕末の庄内藩。本日は、薩摩藩邸焼き討ち事件のおはなしです。あんみつ「しらたま先生、元治(げんじ)元年(1864)の江戸では、水戸天狗党一派の騒乱を鎮め平穏を取り戻しました。庄内藩の持ち回りは品川・板橋・千住・新宿あたりだったので、それら区域の会所を廻って町役人と交流したりして治安情報を得ていたんですね。翌慶応元年
昨日の夜明けに撮った「致道博物館」です致道博物館・・・山形県鶴岡市にある登録博物館。名称は旧庄内藩の藩校「致道館」同藩校で使用されていた文物や庄内地方の民俗資料が収蔵・展示されている(WIKIより)さて・・・少し前ですが今年2度目のあじまんを購入しました(`・ω・´)ゞ最近食べ物が続いてますね(;´▽`A``今回は家族の分を含め大量買いです。(^-^)あじまんといえば定番の餡子と・・・カスタードクリームなんだな(*^▽^*
鶴岡市まで、クルマで戻ったあとレンタカー返却まで時間あったので庄内藩主をおまつりする荘内神社大正(むずかしい「しょう」)館からずずいと入っていくと駐車場あった縁花手水好きローカル神社のほっこり感が好きよく手入れされてて、地元に愛されて神社を大切にしているまちはステキ刀剣乱舞(一瞬、まほよめのチセちゃんかと思ったよ)
*10月22日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君、今回は近現代史のしらたま教授との歴史トークで、テーマは幕末の庄内藩です。本日は、庄内藩江戸警備を命じらるのおはなし。🥐あんみつ「しらたま先生、文久三年(1863)四月十五日...清河八郎が幕府に暗殺された二日後に、庄内藩が新徴組の支配を委任されます。組の浪士のあいだで信任篤かったのは山岡鉄舟と高橋泥舟ですけど、清河と親交が深かったため外されました」しらたま
皆さん、こんばんは♪どうする家康第39話「太閤、くたばる」では秀吉の死とともに徳川四天王筆頭の酒井忠次の死も描かれていましたね!家康が、息子の秀忠と一緒に結婚の報告に忠次に会いに行きそのとき、みんなで「えびすくい」を踊ったというドラマの設定にいたく感動しました♪秀忠が、その生涯ただ一度の浮気で生まれた、私が歴史上最強のNO2だと思っている「保科正之」そして、正之の信念を江戸時代を通じて継承し続けた会津藩。酒井
*10月8日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君、今回は近現代史のしらたま教授との歴史トークで、テーマは幕末の庄内藩。本日は、庄内浪人・清河八郎策動すのおはなし。🍟あんみつ「しらたま先生、酒井家の庄内藩14万石が豪商本間家の資本バックアップもあり、他藩より豊かで教育にも熱心だったとわかりました。領内には長者が多く、彼らは学問好きで風流人。画家や俳人など旅の文化人が訪ねてくると快く歓待しました」しらたま「酒田
R大学文学部史学科の院生・あんみつ君は、夏休み明けからしらたま教授の修士課程・近現代史演習後期講座のお手伝いをしています。さて、今回はどんなテーマが飛び出すのでしょうか...|д゚)あんみつ「しらたま先生、こんにちは~、おじゃまします。図書館の古書資料室から史料をお借りしてきました......あっ、串団子がたくさんある。こしあんとみたらしだけじゃなく、変わったのもありますねぇ」しらたま「お~、おつかれちゃん。あぁ、この赤いのはいちごソースのわ
母と参加した山形ツアーの第二弾私は山形は初めてで知らないことばかり山形の庄内藩と鹿児島の薩摩藩は幕末から深い関係だったことも知りませんでした会津藩は白虎隊など幕末に最後まで新政府軍に抵抗し、戦ったのは知っていましたが庄内藩も最後の最後で降伏したそうで・・・ただ、降伏後のお沙汰は会津藩と庄内藩とでは雲泥の差だったそうです。なぜそんなに違ったのかは私も勉強不足でよくわかりませんが、西郷隆盛が関係しているらしいです。想像以上に庄内藩には寛大なお沙汰だったためその真偽を確かめる