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【特別増刊・拡散希望】武人!今から120年前の昨日、1904年3月27日は、戦前は軍神として称えられた広瀬武夫の命日でした。https://profile.ameba.jp/ameba/warmheart2003アメブロのブロガー、ナベちゃんの徒然草さんが、昨日2024年3月27日14時14分14秒に投稿しました。ナベちゃんの徒然草さんが、記事で解説されていました。広瀬武夫について、ウィキペディアでは、このように!https://ja.wikipedia.org/wiki/%E
ナベちゃんさん、広瀬武夫中佐❗日本の歴史に名を遺す軍神在りますね、昔の日本人は、立派で在りましたよねぇ~❗現代社会の人々は恥ずかしいで在りますねぇ~❗合掌孤の仏教修験者鴉天狗👺より皆さん、どうぞ、ナベちゃんさんのブログをお読み下さい❗
今日は、かつて文部省唱歌にまでなったにもかかわらず、戦後教育では全く教科書に記載されなくなった大日本帝国海軍軍人、広瀬武夫中佐の命日・没後120周年にあたります。1868(慶応4)年に現在の大分県竹田市に武家の次男として生まれた武夫少年は、母と7歳の時に死別・・・祖母に厳しくサムライ教育を施されました。9歳の時に西南戦争で生家は消失し、かつて坂本龍馬と盟友であった父親が裁判官として単身赴任していた飛騨高山に転居。同地の小学校を卒業後そこで代用教員となり
どーもー。おはよーさんです。春月でス_(:⁍」)_✨✨✨昨日は会社の忘年会でしたー。やっと終わったか。。。て感じ。なんかさー。いっぱい食べな!ってゆーて。めっちゃ勝手にお皿に入れてくるタイプって嫌ー。ほんま。こっちのペースがあるのに。こーゆーのがあるから忘年会行きたくないー。忘年会嫌って人が増えるのわかるー。コミュニケーション取ることは大切ですが、こーゆーめんどくさいタイプがおばやんに多くいるからめんどーwwwwwしかもほろ酔いやけど、やっぱり酔っ払いは酔
極端な物言いをすれば、もしこの方なかりせば日本の領土・領海は今より狭くなっていたかもしれません。今日はかつて〝海軍の父〟といわれた大日本帝国海軍軍人にして、日清・日露戦争勝利の立役者といえるごんのひょうえ山本権兵衛大将の命日・没後90周年にあたります。山本大将は1852(嘉永5)年、薩摩藩(現・鹿児島県鹿児島市)に生まれました。薩摩藩士で右筆(ゆうひつ=秘書官・書道師範)にして槍術師範でもあった父に厳しい教育を受け、雑役ながら12
その日あったことをすぐに書けばいい物を、毎度遅れてすいません^_^;11月19日(金)の夕方から、両親と田舎へ帰りました💨田舎へ着くと寒く寒く{{(>_<)}}20日の朝は雪が降りももちろん寒か~🥶9時ぐらいに叔母が戻り11時に両親、叔母4人大分県竹田市へ出掛けました💨田舎から、車で40分程到着します💨まずは岡城跡へ春は桜の名所、秋は紅葉です早速、岡城跡へいざっヽ(`Д´)ノ石段を登りおおっ素晴らしい綺麗紅葉を堪能していたら戦国武将に出会いました(^^
おはようございます♫ボチボチ旅行記書いていかないと…忘れそうです(笑)備忘録になりますが、良かったらお付き合いください😊羽田空港発飛行機✈️は揺れ揺れwトリプルセブン777福岡便は満席でした。レンタカーで熊本入り。行き先知らないので(笑)🫅のナビで私が運転します。都市高速混んでいて…入口通行止め太宰府から九州道に乗りました。(下道もすっかり渋滞)高速道路よね?って思うぐらい車の間隔がないところに追い越しするトラックがいてビックリ!ブレーキランプも!あれで、あおり運転とかパッ
鹿屋・史料館➂2023年4月10日(火)の鹿屋史料館の見学記はこれでおしまいです。▲海軍精神海軍特攻部隊の展示の次は、帝国海軍創世記の展示が続きます。若い時、亡父からたびたび聞かされた言葉がこの中に詰まっています。例えば、指揮官先頭、5分前の精神、公平無私、負けじ魂などです。そして「スマートで目先が利いて几帳面、無負けじ魂これぞ海軍」と聞かされたものです。亡父の弟が帝国海軍少佐だったことが影響を及ぼしていると思います。▲東郷平八郎元帥の展示海軍関係の展示には
ロシアと戦い、散った軍神・広瀬武夫はロシアの人々に敬愛されていた■■転送歓迎■■No.3358■■R05.04.07■■4,078部■■【ブログ版】http://jog-memo.seesaa.net/article/498580945.html■目次■1.「ヒロセ君に乾杯」■2.恋する女性の直観■3.日露の緊張■4.武人の本分■5.運命の予感■6.不幸にもあなたの国と戦うことになった■7.広瀬武夫の最期■8.ロシアからの哀悼の手紙
下記の商品は本日入荷したホンの一部です。『広瀬武夫全集(全2巻揃)』昭和58年、講談社刊売価3,500円『世紀の自決-日本帝国の終焉に散った人びと-』(額田坦編、序文/安岡正篤、岡潔)昭和43年、芙蓉書房刊売価3,500円『碧巌録解釈(全2冊揃)』(谷口雅春)平成4年、日本教文社刊売価5,000円店頭販売もしておりますが、インターネット「日本の古本屋」で御注文いただけます。http://www.kosho.or.jp/でご注文ください
今日は、かつて文部省唱歌にまでなったにもかかわらず、戦後教育では全く教科書に記載されなくなった大日本帝国海軍軍人、広瀬武夫中佐の命日にあたります。1868(慶応4)年に現在の大分県竹田市に武家の次男として生まれた武夫少年は、母と7歳の時に死別・・・祖母に厳しくサムライ教育を施されました。9歳の時に西南戦争で生家は消失し、かつて坂本龍馬と盟友であった父親が裁判官として単身赴任していた飛騨高山に転居。同地の小学校を卒業後そこで代用教員となりましたが、退職後
幕末岡藩勤王の志士、広瀬重武の次男として竹田茶屋の辻で誕生し、日露戦争の旅順戦で戦死した軍人広瀬武夫を顕彰するために昭和10(1935)年に広瀬神社が建立されました。広瀬武夫命を主祭神とし、旧直入郡(現在はほぼ全域が竹田市内)内の戦歿者の霊1400余柱を合祀しています。岡城跡のすぐ近くに鎮座され、静かに佇んでいます。静かな雰囲気の神社さんです。岡城跡とセットで行けるのが良いですね♪
岡城から竹田市にある、軍神、広瀬武夫を祀る、広瀬神社に行く。広瀬武夫海軍軍人。大分県出身。1889年(明治22)海軍兵学校卒業。1897年ロシア留学、1899年ロシア駐在武官となり、1902年(明治35)戦艦「朝日」の水雷長となる。日露戦争開戦後の1904年3月、ロシア海軍の根拠地旅順(りょじゅん)港の汽船による閉塞(へいそく)戦に参加して戦死し、中佐に進級。その最期は文部省唱歌『広瀬中佐』により歌い広められ、国定教科書にも登場するなど軍神として聖化され、軍国主義イデオロギー鼓吹のためのかっ
102号が佐伯に入港し、大入島守後浦の岸壁近くに投錨したのは6月のはじめ。山本の家は投錨地点のすぐ近くにあった。出口さんと同僚の伊藤さんは、その日のうちに山本家を訪ね、いちにち交代での下宿を申し込んだ。山本の家を選んだのは、ふねからとにかく近い家であるということ。この家は投錨地点から二軒目の家だった。いちばん近い家は牛を飼っていて臭かったwそしておそらく風呂があったことが、選ばれた理由だと思う。もっとも、大入島ではどの家にもたいてい風呂があった。昭
昨日の記事に、ハッシュタグに広瀬武夫と入れたら、他に52記事も【#広瀬武夫】の記事があったんです。あれれ?広瀬武夫って、そんなに有名な人なの?と。僕なんかは、単なる武術好きなのでしかないので、読んでいる雑誌は、月刊秘伝とGスピリッツのみ。恥ずかしながら、広瀬武夫のことを、白ブリーフ姿の写真が残るロシアの地で柔道を初めて披露した人という認識していなかったのです…。で、アメブロの色んな方の記事を読んでいると、広瀬武夫が一般的な歴史において、どういう人物なのかを知ることができました。今回は
小倉城の大太鼓のことを調べるために古書店巡りをしていた際、武術のムック本を見つけたので購入しました。1997年発行。月刊空手道別冊『極意』。情報自体は全く知らないような新しい情報ではないのですが、僕の中では「こんな記事があったんだ!」と驚いたので、それをまとめます。この貴重な記事が載ってあったので買いました。ロシアの国技・サンボの発祥について。サンボ発祥におけるソビエト連邦の公式ストーリーとしては、建国時にハルラミピエフなるスポーツ省の人物が、ロシア各地方に伝わる土着格闘技を融合し完成
『司馬遼太郎への手紙』ー安野光雅●旅順港の閉塞(広瀬小佐)について🔯一昨年のこと、パリで「旅順港の写っている写真集」を見つけて買った。司馬さんに見せたいと切に思ったが、時すでに遅く、司馬さんは亡くなった後だった。その中の一枚は、203高地から、旅順港を見下ろしたもので、港の入口には、閉塞隊のあの広瀬武夫たちが沈めた船がはるかに見えるのである。舞台は『坂の上の雲』そのものなので、司馬さんにはさぞ興味があるだろうと思ったのだが、しかし自慢げに見せたら恥をかくところだった。きっと司馬さんは見て
2022年7月第3週7/10(日)23km18:41スタート30℃南風強ジョグ1.4km→ペーラン20km→ジョグ1.6kmペースラン20km設定4:30~4:45/km計測avg4:38/km(1:32:39)1-10km4:37-4:37-4:40-4:40-4:37-4:38-4:39-4:29-4:31-4:3711-20km4:42-4:43-4:40-4:41-4:38-4:42-4:35-4:41-4:34-4:31久しぶりに運動公園に行ったもう+10
広瀬武夫「ひろせたけお、旧字体:廣瀨武夫」(1868年7月16日(慶応4年5月27日)1904年(明治37年)3月27日)は、日本の海軍軍人、柔道家。日露戦争でのエピソードで知られており、特に戦前は軍神として神格化された。兄の勝比古も海軍軍人である。広瀬武夫-Wikipediaja.wikipedia.org英霊に感謝し日本の未来を考える会|FacebookFacebookにログイン
6月4日竹田商工会議所にて3年ぶりに廣瀬武夫を学ぶ会が開かれました。講師は廣瀬武夫研究家の笹本玲央奈先生です。上智大学、東京大学大学院で日本近代文学を専攻され、現在はフェリス女学院中等・高等学校で国語科の講師をされています。今回は今の豊後大野市朝地町出身の日本を代表する彫塑家である朝倉文夫と渡邊長男兄弟と廣瀬中佐の関わりについてのお話でした。朝倉文夫?渡邊長男?って誰かしらんという人はこれは知っていますか?東京のど真ん中・日本橋の獅子麒麟像や明治天皇像の作者
岡城址を下って竹田市街地の入口に当たる場所にある広瀬神社に向かいます。そこの本殿でお参りし、境内にある謎にお祀りされている石を拝見します。説明書が無ければ「???」としか思えないのも無理ありません。実はコレ、日露戦争で旅順港閉塞作戦(失敗しましたが)で使用された艦船の一部。そう「広瀬」とは後に軍神とされた広瀬武夫を祀ったことからの命名です。あの石は日露戦争後に引き上げられたモノです。広瀬武夫は戦前は軍神として高い知名度がありましたが、大戦後はGHQにより戦意高揚教育が否定された
ナベちゃんの徒然草より、『武人』をリブログさせていただきました。広瀬武夫中佐の写真を見てハッとしました。大分県竹田市にゆかりのある広瀬武夫と瀧廉太郎。誇り高き日本人だと思います。瀧廉太郎と広瀬武夫広瀬武夫がロシア駐在武官としてサンクト・ペテルブルグに留学していた時のことである。ドイツ留学中の瀧廉太郎より「荒城の月」の楽譜が送られてきた。武夫は早速その楽譜を携えてロシア人の友人宅を訪れ、ピアノで旋律を弾いてもらった。すると、そこに居合わせた人々は曲の素晴らしさに
今日は、嘗て文部省唱歌にまでなったにもかかわらず、戦後教育では全く教科書に記載されなくなった大日本帝国海軍軍人、広瀬武夫中佐の命日にあたります。1868(慶応4)年に現在の大分県竹田市に武家の次男として生まれた武夫少年は、母と7歳の時に死別・・・祖母に厳しくサムライ教育を施されました。9歳の時に西南戦争で生家は消失、嘗て坂本龍馬と盟友であった父親が裁判官として単身赴任していた飛騨高山に転居。同地の小学校を卒業後そこで代用教員となりましたが、退職後海
三島由紀夫の名著、『鏡子の家』に不思議な一説がある。登場人物の清一郎が、同僚の佐伯と昼休みに宮城外苑へ入った時のエピソードである。そこに鎮座していた楠木正成像について思いを馳せる場面である。「こんな古い忠君愛国の銅像が、あの占領時代をとおして、無事に生き抜いてきたのはふしぎに思われる。楠公よりも、馬があんまりよく出来ているので、馬のおかげで目こぼしこぼしをしてもらったのかとも思われる」(『鏡子の家』昭和39年10月5日刊新潮文庫所収)この楠木正成像について一般財団法人国民公園協会のホームペ
ランクAの下明治維新から、日本海軍がいかに誕生し、発展し日清、日露に勝利し、太平洋戦争で崩壊したかを描いたドキュメントです。日本海軍史がよく分かる名著です。ミリオタ必読の書です。時代順に、海軍を描かず日露戦争・日本海海戦→日清戦争→太平洋戦争の順に記述されているのは、日本海軍がピークだった日本海海戦を知ることからいかに明治人が海軍を作っていた苦労を辿り日本海海戦後に、昭
おはようございます。2021年5月27日(木)今日は百人一首の日、小松菜の日、日本海海戦の日です。http://isshokenmeihajimekun.at.webry.info/201501/article_148.html※百人一首の日文暦2/嘉禎元(1235)年のこの日、藤原定家によって小倉百人一首が完成された。藤原定家の「明月記」の文暦2年5月27日の項に、定家が親友の宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めに応じて書写した和歌百首が嵯峨の小倉山荘(嵯峨中院山荘)の障子に貼られたとの
今日は、かつて文部省唱歌にまでなったにもかかわらず、戦後教育では全く教科書に記載されなくなった大日本帝国海軍軍人、広瀬武夫中佐の命日にあたります。1868(慶応4)年に現在の大分県竹田市に武家の次男として生まれた武夫少年は、母と7歳の時に死別・・・祖母に厳しくサムライ教育を施されました。9歳の時に西南戦争で生家は消失し、かつて坂本龍馬と盟友であった父親が裁判官として単身赴任していた飛騨高山に転居。同地の小学校を卒業後そこで代用教員となりましたが、退
今年もあと僅かです。コロナのせいか、早く時間が過ぎたと、感じました。ちょっと、話は遡りますが、11月に大分県竹田市へ仕事へ行きました。武家屋敷廣瀬武夫中佐と廣瀬神社曲の「荒城の月」のモデルになった岡城春~♪高楼の~♪花の宴(*´∀`)♪\(^^;)石垣が崩れるから、やめなさい作詞、作曲の滝廉太郎像岡城から見た景色仕事で竹田市内を回りましたが、竹田は「たけだ」でなく、「たけた」と、読むそうです。自分は大分と、縁があり、本名は明かせませんが、名字は熊本では珍しいですが、大分に多
「神戸ニニンガ日誌」(第2,462号)◎山本夏彦『世間知らずの高枕』の「インテリ男はセクシーじゃない」という項。塩野七生『男たちよ』にそのように書いてある、と。◎夏彦翁はそれに輪をかけて「日本の男ぜんぶに魅力がない」と断ずる。そういえば後藤久美子も仏人に寝取られたし、中村江里子も武田久美子も異人さんに連れられて行っちゃった。◎夏彦翁は「男らしい男」「魅力ある日本男児」として、海軍少佐の広瀬武夫を挙げる。社交家でダンスを能くし、漢文の素養があり、ロシヤの少年から慕われ、その姉妹に惚れ
バックナンバー一二三四五六七八三巻感想ロシアとの開戦に向けて外交面での緊張が高まって行く。そんな中で正岡子規が亡くなる。山本権兵衛。日露戦争の10年前からそれを予想して準備を重ねて来た。ごんべえではなく「ごんのひょうえ」海戦の立役者としては真之が目立っているが、真の主役はこの人だろう。外交の行き詰まりを経て開戦に至る道程も、かなり読み応えがあった。日英同盟の締結は日本にとって朗報。日本側の最終交渉をロシアが蹴り、開戦となった。旅順口での閉塞作戦により命を落とした広