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今日は、かつて文部省唱歌にまでなったにもかかわらず、戦後教育では全く教科書に記載されなくなった大日本帝国海軍軍人、広瀬武夫中佐の命日にあたります。1868(慶応4)年に現在の大分県竹田市に武家の次男として生まれた武夫少年は、母と7歳の時に死別・・・祖母に厳しくサムライ教育を施されました。9歳の時に西南戦争で生家は消失し、かつて坂本龍馬と盟友であった父親が裁判官として単身赴任していた飛騨高山に転居。同地の小学校を卒業後そこで代用教員となりましたが、退職後
🇯🇵今日は、日本初の軍神「広瀬武夫中佐」のご命日です。旧日本海軍軍人の広瀬武夫大尉は、大分県竹田市のご出身の柔道家で、明治37年(1904年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事され、3月27日第2回の閉塞作戦において閉塞船「福井丸」を指揮していた時、敵駆逐艦の魚雷を受けました。撤退時に、自爆用の爆薬に点火するため船倉に行った部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)がそのまま戻ってこないことに気付いた広瀬は、杉野を助けるため一人沈み行く福井丸に戻り、船内を3度も捜索したが
2026年1月1日。(初)【住所】大分県竹田市竹田2020【最寄駅】豊後竹田駅(JR豊肥本線)【駐車場】なし※鳥居※門※手水舎※狛さんと門※由緒※拝殿※額※広瀬中佐【創建】昭和10年(1935年)【主祭神】広瀬武夫命【合祀】当地出身戦没者【社格】旧県社【神徳】平穏安寧、家内安全、諸願成就【境内社】なし【備考】広瀬武夫記念館岡城から少し下ったところ、トンネルの上にあります入浴中に時間潰しのために(何度も
日露戦争のときに旅順湾口にボロ汽船を沈めて、ロシア太平洋艦隊が外海に出られないようにしようという、虫の良い作戦がありました。旅順要塞に備え付けられている大砲に撃たれるに決まっていますからどう考えても成功しないものです。机上の空論に近い作戦ですが、日本海軍はこれを実行してしまいます。速力が遅く防弾設備も持たない老朽貨物船が砲弾にあたることなく、旅順湾口の最も狭い場所に行き自沈できるはずがなく、そこに行く前に沈められるに決まっています。戦闘をするわけではないので乗組員は船を動かすのに必要な
大連市街のホテルを出発して20分ほどすると、旅順へ向かうために造られたバイパスに出ます。写真のとおり海上を突っ切って一気に半島先端部まで向かうことができます。橋からは星海広場というアジア最大の公園が見えます。別の記事でも言及するとも思うので覚えといてください。そして最初に到着した東鶏冠山です。ロシア統治時代、1900年~4年にかけて要塞化させました。日露戦争における3次にわたる旅順総攻撃の最初の激戦地となりました。その歴史的経緯からして地元民・中国人観光客はあまりおらず、
坂の上の雲で、壮絶な最後を最後を迎えた広瀬武夫と兄勝比古の墓参りです。広瀬勝比古文久2年8月27日生まれ。広瀬武夫の兄。日清戦争で巡洋艦浪速の砲術長をつとめる。日露戦争で巡洋艦秋津洲艦長として日本海海戦に参加。のち戦艦富士・筑波の艦長をつとめ、明治44年海軍少将。大正9年10月20日死去。59歳。豊後出身。海軍兵学校卒。広瀬武夫明治24年海軍少尉となり、27年日清戦争には運送船監督、戦艦扶桑航海士として従軍。30年ロシアに留学、同駐在武官となり、英、独、仏などを視察
拙ブログでは、これまで山本権兵衛元首相、東郷平八郎元帥、山本五十六元帥、また初の〝軍神〟と崇められた広瀬武夫中佐など、学校ではまず教えてくれない多くの優秀な軍人について取り上げてきました。彼等の言動から指揮官の決断力や行動力・人心掌握術などを学んできた私ですが、今日はそんな嘗ての日本軍人の評価をまとめた著書をご紹介します。『昭和の名将と愚将』(文春文庫・刊)多くの歴史書を世に出してきた半藤一利・保坂正康両氏の対談形式で20名以上を俎上に上げたものですが、ご両人とも豊富な取材データを
26日(土)臼杵に蓮🪷を見に行きました。今年はちょっと遅くなったけどどうかな〜。この日は雨が降ったり止んだり。9時すぎに着きましたよ。やっぱりもうずいぶん散ってますね💧でもピンク色が綺麗です😊蓮畑を歩くときには雨が止んでいたのでよかった。満月寺さんで御朱印をいただき、今年は来るのが遅かったからか、蓮のがくはありませんでした。売店で、臼杵せんべいの割れせんや、お線香、ほっとさんのステッカーなど購入。来るたびにほっとさんグッズが増えていてやばいです笑そして三重の道の駅でブルー
軍神だけじゃない!広瀬武夫という男の「国際派エリート人生」こんにちは!今回は、明治という激動の時代を駆け抜け、戦前日本では「軍神」とまで称えられた男――**広瀬武夫(ひろせ・たけお)**に注目してみましょう。「軍神」と聞くと、ちょっと堅苦しい印象を受けるかもしれませんが、彼の人生をひもとくと、実に多才で人間味あふれる国際派エリートだったことが見えてきます!■幼少期〜海軍兵学校へ:火災も戦乱も乗り越えた少年1868年(慶応4年)、幕末の豊後国竹田(現在の大分県竹田市)に旧藩士の家に生
木口小平(きぐちこへい)のラッパのお話(1894)死んでもラッパを離さなかった木口小平のお話。日清戦争(1894年)のときの逸話である。朝鮮半島の中央部、現在のソウル郊外の天安市(チョナンシ)付近で日本軍と清軍は対峙した成歓の戦いで戦死。軍部による創作説が根強い。この木口の話は物悲しい。当初は全く別の人名が伝えられ、のちに訂正されたが生前の写真も判明しない。階級として陸軍二等兵であるからもっとも下級の兵隊であるが、この武功が全国に広められたあとも、死後の特昇などの扱いを受けていない。これらは
軍神広瀬中佐歌詞一、轟く砲音飛来る弾丸荒波洗うデッキの上に闇を貫く中佐の叫び「杉野は何処杉野は居ずや。」二、船内隈なく尋ぬる三度呼べど答えずさがせど見えず船は次第に波間に沈み敵弾いよいよあたりに繁し三、今はとボートに移れる中佐飛びくる弾丸に忽ち失せて旅順港外恨みぞ深き軍神広瀬とその名残れど広瀬武夫中佐軍神として祀られました。その神社は広瀬神社大分県竹田市大字竹田2020主祭神は、広瀬武夫命(ひろせたけおのみこと)です。
2023/9/29~10/1投稿『広瀬武夫』と書かれた銅像がありました。広瀬武夫(ひろせたけお、旧字体:廣瀨武夫、1868年7月16日(慶応4年5月27日)-1904年(明治37年)3月27日)は、日本の海軍軍人、柔道家。(*^^*)日露戦争でのエピソード(後述)で知られており、特に戦前は軍神として神格化された。(^^)兄の勝比古も海軍軍人である。(=^・^=)長い石の階段がありました。何があるのかな?鳥居があって、神社っぽいですね。(=^・^=)ここは『広瀬神社』と
アリアズナというロシア人女性をご存知ですか?「坂の上の雲」が今、NHKで再放送されているので、ご存知の方も多いかと思います。今回ご紹介するのは、日露戦争で“軍神”と称えられた広瀬武夫と、彼が愛したロシア人女性アリアズナ・チェルヌィショワの物語です。二人の愛は、国境や文化を超えたロマンチックなエピソードとして語り継がれています。しかし、この愛は時代の荒波に飲み込まれてしまいました。このエピソード、あなたはどこまでご存知ですか?広瀬とアリアズナの出会い広瀬武夫がロシアに留学していた
司馬遼太郎の歴史小説のファンて意外に多いと思います。おそらく、単にストーリーが面白いというよりはそのストーリーの背景を誤解されたくない、というかその背景があっての登場人物の言動に重きがあるので(史実かどうかは別として)ストーリーを追ううちに読者がどんどん博識になっていく、、という点で物語自体にものすごく深みが出てくるからのように感じます。と、、よい具合に男女の切ない話も(当然の様に)あってそれがまた、なかなかにきちんと純愛と性愛が分けられていて誰しも覚えのある切
広瀬武夫という名前を聞いたことがありますか?明治時代の日本海軍の将校であり、日露戦争での壮絶な戦死によって「軍神」とまで称えられた人物です。彼の人生には、戦争の激しさの中でも消えることのない友情と、異国の地での温かな絆が刻まれています。広瀬がロシアへ留学した際、彼が築いた人間関係は単なる外交の一環ではありませんでした。彼はロシア海軍の少将コバレフスキーの家族と心を通わせ、その次女アリアズナに「日本人の心の美しさ」を伝えました。この時、広瀬が話した「力は強い、しかし心は優しく、美しい──
神田•秋葉原散歩〘2024.10.31〙その10JR神田万世橋ビル説明板遠景『筋違門(江戸時代)』『旧万世橋駅(明治•大正時代)』『交通博物館(昭和•平成時代)』2024.10.31(木)撮影こちらが、JR神田万世橋ビルの正面玄関先に設置されております、説明板となります。この場所の、時代別風景写真と説明が展示されていました。説明板の上には、植物が置かれています。JR神田万世橋ビルの正面玄関先には、西暦が刻印された曲線が同心円状に配置されています。夜間には、
日露戦争で活躍した海軍軍人広瀬武夫像です大分県の山の中、竹田市という風情ある街が出身地です、広瀬を祀る広瀬神社の入口にありました。坂の上の雲にも登場する私の大好きな方です!戦前は軍神として祀られてました、駐在武官としてロシアにいる時にロシア貴族の娘アリアズナと恋に落ちたそうです。柔道では、嘉納治五郎に見込まれ、殿堂入りしてます。清水の次郎長とも仲が良かったとか、豪快だけど繊細な気遣いができる人だったのだろうと思ってます。手には、アリアズナが贈った懐中時計を持ってます。旅順港閉
広瀬武夫さんのことは、「坂の上の雲」で初めて知りました。IcametoknowaboutthemanHiroseTakeointhenovelI'mreadingnow.あまりにもかっこいいので、ここに書きたくなりました。HeissocoolthatIwanttointroducehiminthispost.日露戦争の始まりの頃、AtthebeginningofthewaragainstRussia,港を閉塞する作戦の指揮
ススキど〜んの竹田市へ、のブログを読んで😊つい想い出して。実は廣瀬神社へむかし、行っているのね。なんで行ったのかは覚えていないが。写真には2010年ってあるからまだ北九州に居た頃で。14年前北九州市から竹田市だからそう遠くはない。たぶん原付バイク?ススキどんの見た?逆パターンから?のショット笑⤵あの頃僕は若かった・・・
【特別増刊・拡散希望】武人!今から120年前の昨日、1904年3月27日は、戦前は軍神として称えられた広瀬武夫の命日でした。https://profile.ameba.jp/ameba/warmheart2003アメブロのブロガー、ナベちゃんの徒然草さんが、昨日2024年3月27日14時14分14秒に投稿しました。ナベちゃんの徒然草さんが、記事で解説されていました。広瀬武夫について、ウィキペディアでは、このように!https://ja.wikipedia.org/wiki/%E
ナベちゃんさん、広瀬武夫中佐❗日本の歴史に名を遺す軍神在りますね、昔の日本人は、立派で在りましたよねぇ~❗現代社会の人々は恥ずかしいで在りますねぇ~❗合掌孤の仏教修験者鴉天狗👺より皆さん、どうぞ、ナベちゃんさんのブログをお読み下さい❗
今日は、かつて文部省唱歌にまでなったにもかかわらず、戦後教育では全く教科書に記載されなくなった大日本帝国海軍軍人、広瀬武夫中佐の命日・没後120周年にあたります。1868(慶応4)年に現在の大分県竹田市に武家の次男として生まれた武夫少年は、母と7歳の時に死別・・・祖母に厳しくサムライ教育を施されました。9歳の時に西南戦争で生家は消失し、かつて坂本龍馬と盟友であった父親が裁判官として単身赴任していた飛騨高山に転居。同地の小学校を卒業後そこで代用教員となり
どーもー。おはよーさんです。春月でス_(:⁍」)_✨✨✨昨日は会社の忘年会でしたー。やっと終わったか。。。て感じ。なんかさー。いっぱい食べな!ってゆーて。めっちゃ勝手にお皿に入れてくるタイプって嫌ー。ほんま。こっちのペースがあるのに。こーゆーのがあるから忘年会行きたくないー。忘年会嫌って人が増えるのわかるー。コミュニケーション取ることは大切ですが、こーゆーめんどくさいタイプがおばやんに多くいるからめんどーwwwwwしかもほろ酔いやけど、やっぱり酔っ払いは酔
極端な物言いをすれば、もしこの方なかりせば日本の領土・領海は今より狭くなっていたかもしれません。今日はかつて〝海軍の父〟といわれた大日本帝国海軍軍人にして、日清・日露戦争勝利の立役者といえるごんのひょうえ山本権兵衛大将の命日・没後90周年にあたります。山本大将は1852(嘉永5)年、薩摩藩(現・鹿児島県鹿児島市)に生まれました。薩摩藩士で右筆(ゆうひつ=秘書官・書道師範)にして槍術師範でもあった父に厳しい教育を受け、雑役ながら12
その日あったことをすぐに書けばいい物を、毎度遅れてすいません^_^;11月19日(金)の夕方から、両親と田舎へ帰りました💨田舎へ着くと寒く寒く{{(>_<)}}20日の朝は雪が降りももちろん寒か~🥶9時ぐらいに叔母が戻り11時に両親、叔母4人大分県竹田市へ出掛けました💨田舎から、車で40分程到着します💨まずは岡城跡へ春は桜の名所、秋は紅葉です早速、岡城跡へいざっヽ(`Д´)ノ石段を登りおおっ素晴らしい綺麗紅葉を堪能していたら戦国武将に出会いました(^^
おはようございます♫ボチボチ旅行記書いていかないと…忘れそうです(笑)備忘録になりますが、良かったらお付き合いください😊羽田空港発飛行機✈️は揺れ揺れwトリプルセブン777福岡便は満席でした。レンタカーで熊本入り。行き先知らないので(笑)🫅のナビで私が運転します。都市高速混んでいて…入口通行止め太宰府から九州道に乗りました。(下道もすっかり渋滞)高速道路よね?って思うぐらい車の間隔がないところに追い越しするトラックがいてビックリ!ブレーキランプも!あれで、あおり運転とかパッ
鹿屋・史料館➂2023年4月10日(火)の鹿屋史料館の見学記はこれでおしまいです。▲海軍精神海軍特攻部隊の展示の次は、帝国海軍創世記の展示が続きます。若い時、亡父からたびたび聞かされた言葉がこの中に詰まっています。例えば、指揮官先頭、5分前の精神、公平無私、負けじ魂などです。そして「スマートで目先が利いて几帳面、無負けじ魂これぞ海軍」と聞かされたものです。亡父の弟が帝国海軍少佐だったことが影響を及ぼしていると思います。▲東郷平八郎元帥の展示海軍関係の展示には
ロシアと戦い、散った軍神・広瀬武夫はロシアの人々に敬愛されていた■■転送歓迎■■No.3358■■R05.04.07■■4,078部■■【ブログ版】http://jog-memo.seesaa.net/article/498580945.html■目次■1.「ヒロセ君に乾杯」■2.恋する女性の直観■3.日露の緊張■4.武人の本分■5.運命の予感■6.不幸にもあなたの国と戦うことになった■7.広瀬武夫の最期■8.ロシアからの哀悼の手紙
下記の商品は本日入荷したホンの一部です。『広瀬武夫全集(全2巻揃)』昭和58年、講談社刊売価3,500円『世紀の自決-日本帝国の終焉に散った人びと-』(額田坦編、序文/安岡正篤、岡潔)昭和43年、芙蓉書房刊売価3,500円『碧巌録解釈(全2冊揃)』(谷口雅春)平成4年、日本教文社刊売価5,000円店頭販売もしておりますが、インターネット「日本の古本屋」で御注文いただけます。http://www.kosho.or.jp/でご注文ください