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広島郵便局陸軍病院三滝分病室内分室の消印です。ちょっとかかり方が頼りない印影ですがA欄分室名二行表記で局名が読めるのであればとりあえず拾っておかないといけません。下記沿革から察するに昭和15年4月の消印でしょう。局名改称後も旧名称の活字をそのまま使うことはままあったらしいですが、それを考慮しても昭和17年ということはさすがにないだろうと思います。広島郵便局陸軍病院三滝分病室内分室の沿革・昭和14年9月11日(設置);広島郵便局陸軍病院三滝分病室内分室・昭和15年4月11
中国新聞の「ヒロシマの記録-遺影は語る広島郵便局」(2008.1.3)を見ると、被爆当時郵便局にいた職員で自宅にたどり着いたことが分かっているのは志森博登さん一人。瓦礫の下から這い出して川に飛び込み焼死は免れた。しかし、家に帰るとすぐに血を吐き始め9日に亡くなっている。また15歳の廣澤ミキヱさんは相生橋のたもとに倒れていて、通りがかりの人に自分の名前を告げ家族に知らせてほしいと頼んで息絶えた。顔の形もわからないほど焼けただれていたという。そして他のほとんどの人たちは、「遺骨は不明」だ。当
道路右側に島内科医院。左側に広島郵便局があった島病院の道路の反対側には広島郵便局(本局)があった。地上3階、地下1階の木造一部レンガ造りで3階の大きな時計がランドマークとなっていた。2000年に中国新聞は特集記事「遺影は語る」を連載し、広島郵便局については、亡くなった人のうち遺族や関係者から当時の状況を聞き取ることのできた232人について報じている。その中には動員された祇園高等女学校や本川国民学校高等科の生徒も含まれ、また、局舎内の育児室に預けられていた幼児8人が亡くなったこともわかった
島医院の前で(2016)リニューアルされた広島平和記念資料館の評判はかなり良いようで何よりである。けれど原爆とは何かを伝えるにしても資料館にすべてお任せではいけないだろう。資料館から外に出ても、平和公園から外に出ても、原爆について、戦争と平和について学べる場所はいくらでもある。広島市は平和記念資料館と国立の原爆死没者追悼平和祈念館の連携に取り組むようだが、祈念館だけでなく、多くの施設や遺跡等とのネットワークをぜひとも構築してほしい。原爆ドームからちょっと東に歩けば爆心地がある。広島市細工
建立年月日1976年8月6日所在地中区東白島町19番8号(日本郵政グループ広島ビル前庭)碑文、追悼歌慰霊のことば昭和20年8月6日午前8時15分、世界最初の原子爆弾が広島の地に投下され、一瞬にして街は焦土と化し、20数万の尊い生命が失われました。焦げ付く太陽の下、炎に追われながら水を求めてさまよい歩く被災者は数知れず、また、焼けただれた遺体が至る所にころがり折り重なって、まさに焦熱地獄の惨状を呈したといわれております。郵政部内においても、当時の広島郵便局の2